9. 振り返るのは悔やんだ気持ち
「卒業パーティーの日…、腹の底が熱さでぐちゃぐちゃにかき回されるようなのに、頭はとにかく冷え込んで…、悔やむというのはこれほどのものなんだと初めて分かった」
「エクトル様?」
独白するエクトルが力なく笑いかける。
「一年次はただサラといることが幸せで。これまでは剣のことばかりで婚約というものを意識したことがなかったから、婚約を申し入れようという考えが生まれて来なかった。それに…」
「それに?」
「…サラは俺が近衛騎士を目指すと言っても無理だと笑うこともなく、それどころか夢があってそれを目指しているなんて素晴らしいと誉めてくれただろう?」
言われて私も一年次のエクトルと過ごしていた日々を思い返した。
将来の夢というものを持つことが出来ずにいた私にとって、目指すものがしっかりとあるエクトルはとても眩しかった。
夢見たところで、それは断たれてしまうのではないかと恐れるよりは、夢を見ないことの方がずっと簡単で。だからこそ夢の見方も分からなくなっていた私に、その輝きの一端に触れたような気分にさせてくれた。
「サラが心から目標を目指していることに敬意を示してくれたからこそ、その目標が変わってしまっただなんて言いづらくてな」
「あ…それであんなことを?」
もしもエクトルルートのシナリオ通りだったとしたら、騎士の誓いをヒロインが捧げられるはずのイベント。だけどエクトルは私に誓いを捧げてはくれなかった。
「俺が近衛騎士を目指すのを辞めてしまったら失望されるのではないかと怖かった」
あの日もそんなことを言っていたなと思ったら、私はくすりと笑いを溢してしまった。
そんな私にエクトルが眉を寄せ、そして苦笑した。
「いいんだ。それでも傍にいてくれると言ってくれたんだから」
「…あ、え?…もしかして、あの、傍にいて欲しいって…」
私はあの時、友人として、のつもりでいたけれど、エクトルは違っていたのだろうか。
今更ながらに思い当たって慌ててしまった私に、エクトルが目を眇める。
「はぁ…幼い頃から女には縁がなかったから上手く言えてなかったんだな…。求婚してもいいかという確認のつもりだったんだがなあ。いや、そりゃあ、求婚なわけじゃないし、伝える許可ももらってなかったわけだから、それでいいのかもしれないが」
私はエクトルの言葉に瞬いた。
「え…でも、求婚は卒業パーティーでするのが騎士科の伝統なんですよね。先ほどはもっと早くに求婚していればとおっしゃいましたけれど、あんなこと予測出来ませんでしたし、それならむしろ早過ぎませんか?」
「いや…違う」
「違う?」
何が違うんだろうと首を傾げる私にエクトルが一瞬視線を揺らした。
「つまり、あの後、行動が遅いと父に怒られた」
「え?」
「相手が決まっているなら直ぐに求婚の許可を取れと、父からアルノー子爵に直ぐに申し入れをして求婚の許可をもらった」
「え、え?」
てっきり騎士科の生徒は卒業パーティーに求婚するものだと考えていた私は、確かに騎士科は忙しくって求婚している余裕はないだろうなと納得してしまっていたのだ。
だからエクトルに求婚の意思があったとしても、それは卒業パーティーでの求婚を想定していて、だからこそそんなにも早くに家同士で話していたなどと考えてもいなかった。
「あ…もしかしてお養父様が夏にこちらに来ていたのは…」
「そう、あの時許可をもらって、だけどアルノー子爵から卒業パーティーでのサラのエスコートは義弟殿がしたいと言っていると連絡が来て…」
「あー…」
エクトルは溜息を吐いて続けた。
「せめてエスコートだけでも休みの前に申し入れておくべきだったとどれほど悔やんだか」
「それは、その…」
「いや、もちろん申し込むのが遅かった俺が悪い。…子爵は義弟殿を諦めさせるのも吝かではないとは言ってくれたしな。だけど、サラが義弟殿にエスコートされるのを楽しみにしているようだったから、言い出せなかった」
「……あ、りがとうございます?」
なんと返したら良いのか分からなくなり、思わすそう返すとエクトルがふっと笑った。
「その後もなあ。騎士科が忙し過ぎて会えないのにサラはアセルマン侯爵令嬢とばかり仲良くしているし…。ようやく剣術大会になってサラに会えるかと思えば、侯爵令嬢に警戒されて傍に寄らせて貰えなかったしなあ。挙句に…」
呑み込んだ言葉は眉間の皺を見なくても分かった。
「今となれば、サラを守ろうとしてくれたアセルマン侯爵令嬢に感謝する気持ちもないではないが…何より何も出来ずにいた自分が情けない」
「え?」
エクトルの言葉に私は驚いた。
驚いてしまってから、控え室で私の話に黙って耳を傾けていたエクトルの姿が脳裏に蘇った。
あれは、もしかして、私の心配だけではなくて、自分が何も知らずにいたことを悔やんでもいたのだろうか。
「…とはいえ、分かってるんだ。話を聞く余裕はなかったと思うし、迂闊に話せることではなかっただろうと。だけど…力のない自分が悔しくて」
「…!」
エクトルにあの時に、話すことは出来なかった。それはその通りだ。
それでも少しも知らずにいた後悔をエクトルは抱えているのだと知って、私はするりと言葉を溢した。
「これからは何でも相談します」
「サラ…」
シナリオとか余計なことを気にする必要はもうないのだ。
だから私はようやくただエクトルと向き合うことが出来る。
にこりと微笑んだ私を見て、エクトルは眩しそうに目を細め、
それから私にもやわらかい微笑みを返してくれた。