10. 求知心のはじまり
「え…と、それだと…まるで他国のことを学ぶために殿下と婚約したように聞こえますが…」
王太子に近づくことへの嫌悪から、ヒロインを虐めるはずの悪役令嬢が、王太子との婚約を、まるで学ぶための環境を手に入れる手段のように言うはずがない。
私はおずおずと確認の言葉をフォスティーヌに掛けたのだけれど、フォスティーヌからはただ肯定の言葉が返ってきた。
「その通りよ」
「ぇ…」
「もっとも侯爵家で殿下と年齢が近い女性は私しかいないのだから、あの時受け入れなかったとしても、時間を置いてそのうちまた話は来たでしょうけれどね」
「そう、なんですか…?」
「そう。せっかく同じ年に侯爵家の娘がいるのだから、婚約したらどうかという話が出るのは当然でしょうね。ただ、まあ婚約するのは早すぎるのではないかという意見もあったから、私が承諾したらということになっていたみたい。
幼くても第一王子の婚約者になれば礼儀作法も勉強も厳しくなるから遊んでいる暇などなくなってしまうと心配する口調で随分脅されたわ」
「おどされ…!?」
「保守派の侯爵家の娘である私が第一王子と婚約すれば、当然、保守派は第一王子を立太子しようと動くもの。それで、保守派の後ろ盾のある王太子が出来上がるというわけ」
「なる、ほど…」
フォスティーヌは自分の婚約の話しだというのに、まるで他人事のように話す。
「婚約を先送りにして、革新派か中立派の伯爵家の令嬢をあわよくば婚約者にしたいと思って私に婚約を拒絶して欲しかったのでしょうけれど、勉強しなくてはならないことの中に周辺国についての歴史や慣習があると聞いて、私は飛びついてしまったのよ」
飛びつく…。その当時の幼いフォスティーヌを想像すると、微笑ましい気もする。
「何歳くらいだったのですか?」
「10歳ね。まだ殿下にもお会いしたことがなかったのに、婚約の話が来たのよ」
「え?」
フォスティーヌは婚約をおまけのように語ったけれど、それでも王太子のことを好ましくも思っていたのだろうと予想したのに、それすらも否定するようなことをフォスティーヌは言う。
「王子殿下に面会するためには、礼儀作法が足りなくて、必要な礼儀作法を学ぶには王城で勉強しなくてはならなくて、その勉強は王子の婚約者にならないとすることが出来ないのですって」
おかしいでしょう?とフォスティーヌは笑うけれど、つまりそれだけ彼女を婚約者に据えたくない人がいたということだろう。
「ティーヌ様は、なんで…そんなに…」
他国のことを学びたかったのか、と問おうか、婚約者になりたかったのか、と問おうか悩んで私は少し口篭った。
そんな私にフォスティーヌは軽く頷いた。
「サラは商家で働くことが決まったお祝いで?ーーだったかしらーー、絵本をもらったから他国語を学ぼうと思ったのよね」
「え、は、はい」私は少しだけ考えた。
「絵本をもらって、読めるようにならなくちゃと思ったのは確かにありました。それに…」
私はロワンの街を懐かしむように脳裏に思い浮かべた。
「それが、私がロワンにいた証みたいに思っていたのかもしれません」
今の私に不満があるわけではないけれど、あの頃の私も大切にしていたくって、そうするための方法の一つがきっと絵本の翻訳だったのだろうと思う。
フォスティーヌは私の言葉を聞いて、絵本に目を遣った。
それは絵本を通してロワンを見ようとしているような視線に思えた。
しばらく絵本を見ていたフォスティーヌは、私に視線を戻した。
「私が幼い頃に、アスカム帝国からお客様が見えたの」
「アスカム帝国から?」
「ええ。詳しい事情は私は聞かされなかったけれど、お客様の中に私と同じ年頃の女の子がいて、彼女の遊び相手として私は王城へ行くことになったの」
フォスティーヌは懐かしむように少し目を細めた。
「王城で女の子に会う前に、私は彼女の国のーーと言うより地域といった方がいいかしらーー習慣を教え込まれたわ」
「習慣?」
「ええ。色々あったけれど…そうね、一番してはならないことは、彼女の髪に触れることだと言われたわ」
「髪に触れる?」
「そう。アスカム帝国全体では違うのだけれど、彼女の住む地域では髪は神聖なもので、髪に触れるということは特別な意味を持つ行為になるの」
「え?」
「髪を切ったりもしないし、洗うのも結い上げるのも自分でするのよ」
フォスティーヌは自分の髪に手を当てて、「私には無理だわ」と少し笑った。
「この国とは違う価値観の国があるのが不思議だったし、詳しくは教えてもらえなかったけれど、そういった習慣が出来るに至った歴史や文化に興味が湧いたわ」
フォスティーヌは少し寂しそうな顔をした。
「彼女は少しだけパジェス語を話せたけれど、私は彼女の言葉は分からなかった。だから手紙を書くことも出来なかったわ」
もっともアスカム語が書けたとしても手紙を届けてもらえたかどうかは分からないけれど。フォスティーヌはそう続けた。
「だから他国のことを学びたかったのですか?」
「ええ。彼女の住んでいる地域はアスカム帝国の中でも端の方だと聞いたし、帝国は国によって慣習も違うらしいのよ。
もっと彼女と話せればと思ったし、パジェス王国と違う価値観があるということが新鮮だった。
でも…彼女たちが帰ってしまったら、私はアスカム帝国のことも、他の国のことも学ぶことは出来なくなってしまった」
私に寂しそうな微笑みを向けて、フォスティーヌは息を吐いた。
「でも、王太子妃ならば他国について学ばせてもらえるのよ。だから、もう、出来る限り学びたいことを挙げ連ねて、教師の手配をしてもらっていたのだけれど…」
そこでフォスティーヌは大きく溜息をついた。
「学院を卒業するまでは王太子妃教育は続けられるはずなのに、最近は予定の日に教師が来られないと言われることが多くって…」
少し俯いていたフォスティーヌが私を見てにっこりと笑う。
「けど、まあ、そのおかげで、持て余した時間に街に出て、サラに会えたのだものね」
「…!」
「私も本当は無理を言っているのは分かっているの。他国のことを教えられる人材がこの国にはそれほど多いわけではないんだもの。だけど、残り時間は少ないのだし、可能な限り色々知りたかったのだけれどね…。
そろそろこれ以上は、希望する教師に来てもらうのは難しいのかもしれないと残念に思っていたから…、こんなに素敵なお友達が出来るなんて、本当に幸運だわ」
「ティーヌ様…」
フォスティーヌが王太子と婚約した理由の中に少しも王太子自身についてがないことには戸惑いがある。
王太子に対する執着でなければ、彼の婚約者でなければ受けられない教育環境を手放すことを恐れて、悪役令嬢はヒロインを虐めていたのであろうか。
それとも、未来の王妃という地位を守りたいために?
いや、もしかしたら婚約した後で、王太子を慕う気持ちが芽生えたということも考えられる。
だけど。
フォスティーヌの嬉しそうな笑顔に釣られるように、私もフォスティーヌへ笑みを返した。
やはり私には、ゲームの悪役令嬢とフォスティーヌは別人であるように感じてしまう。
目の前にいるフォスティーヌが私を虐めるだなんて信じられない気持ちだけれど、
だとしてもーーフォスティーヌが王太子の婚約者であることは間違いない。
だったら私はやっぱり、王太子とこれ以上近づかないようにしたいと思う。
私は内心でこっそり決意を固め直した。
そうして、昔話でしんみりした気持ちを立て直すために絵本に手を伸ばす。
この流れならば、アスカムの絵本の方がいいかもしれない。
そう思ってフォスティーヌと一緒に絵本を開く。
フォスティーヌが嬉しそうに、「今はもうアスカム語も読めるわ」と呟く。
私は久しぶりに、誰かと一緒に絵本を見るという時間を楽しむことが出来た。