8. ゲームの進行ルート
集中出来たとは言い難い授業を終え、私は急いで寮へと戻った。
ここが乙女ゲームの世界で、私がヒロインだからといって、何もゲーム通りにしなくてはならないわけではないはずだ。
今朝のことから考えて、絶対に王太子ルートは進めないようにしなくてはならないし、だからこそしっかりと現状を把握しなくてはならない。
私は、朝の王太子を思い出したせいで頬に上った熱を、振り切るように頭を振った。
改めて気持ちを引き締め直し、部屋へと帰った私を、エクトルからの手紙が待っていた。
侍女から手紙を渡された私は、差出人の名前に思わず笑みを溢す。
封を開けようとレターナイフを手に取り、けれどそこで、私ははたと動きを止めた。
エクトル=ソニエールは『愛の導き』の攻略対象だ。
「……」
私は、手紙を机に置いた。
この手紙を読む前に一度、状況を整理するべきだ。
昨日のフォスティーヌとの出会いはゲームでは起こらなかったことのはずだけれど、
あの噴水に落ちたことが、悪役令嬢に噴水へ落とされるイベントと通じているのならば、私がゲームで見えていないことがあるのかもしれない。
それとも、あまりにゲームに酷似していたから、同じようなことが起こると思ってしまったけれど、似ているからといって同じことが起こるわけではないということなのかもしれない。
どちらとも判断できない今、情報を増やしてしまうと訳がわからなくなってしまう。
…いや、まあ、そもそも今の私の状況そのものが訳がわからない状況なのは、頭を整理したところで否定することは出来ないだろうけれど、それでもきちんと考えることは必要だろう。
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『愛の導き』の攻略対象は五人。
王太子アルフォンス=パジェス。伯爵令息エクトル=ソニエール。侯爵令息レオナール=クーベルタン。音楽教師ロイク=ノヴェール。そして一学年下の子爵令息セルジュ=デシャン。
レオナールとの出会いイベントは図書室で本を探している時に起こり、ロイクルートの最初のイベントは忘れ物を取りに戻った音楽室で起るのだけど、私はどちらもしっかりと身に覚えがあることに溜息を吐いた。
しかしセルジュとの出会いイベントは起こってはいない。
セルジュとの出会いイベントは、彼が花壇の出入れをしているところに出くわすものなのだけれど、実際に私がセルジュと会ったのは、リュカが彼をお茶会に連れてきたからだ。
どうしてだろう。と考えて、セルジュの出会いイベントが起こる条件が揃っていないからだろうか。と思い至る。
セルジュとの出会いイベントを起こすためには、一年次の間に攻略対象の誰とも親密度を一定基準以上上げてはいけないという条件があり、親密度の高いキャラがいたから出会いイベントが起こらなかったのだろう。
それでも出会うのだな…。
と思ったけれど、もしかしたら今のセルジュは攻略対象ではなくて、ただの義弟の友達ということなのかもしれない。
そう考えてしまった自分に、私は呆れた思いで頭を振った。
今、私はゲームをしているわけではない。
ゲームで攻略対象だったからといって、今の私がそれに捉われる必要はないはずだ。
けれど状況判断のためには、彼の存在が自分に対してどういうものなのか考えることは必要で。そのためにはイベントが起こりうるのか考えることは必要なことだ。
一度息を吐いてから、もう一度セルジュのことを考える。
ゲーム通りであれば出会いイベントが起こっていない状態で、しかもイベントとは別の形でセルジュとは出会ってしまった。
最初からルートを外れた状況と考えれば、イベントは起こらないと言えるけれど、彼が植物が好きだということを知ることが、次のイベントに進む条件だと考えれば、次が起こらないとは限らない。
一応気にする必要があるかもしれないな、と考えて、出会いイベントを熟してしまったらしい二人についても考える。
レオナールとロイクは、どちらも出会いイベントは終えたものの、その先のイベントは起こっていない。
ロイクの方は、出会いイベントーーーゲーム上では出会いだったが、実際には授業を受けているのでロイクルートの最初のイベント、というべきな気がするーーーでの会話が親密度を上げるものではなかったせいで、次のイベントが起こらずにいたのだろうけれど、レオナールの方はどうしてだろうか。
レオナールとのイベントは図書室に行くことで起こるはずで、図書室には頻繁に行っていたはずなのに。
そう首を傾げて、私は図書室に行く時はエクトルが一緒にいたことがほとんどだったことに思い当たった。
エクトルが一緒にいたからレオナールのイベントは進まなかったのかもしれない。
そう考えて、私はチラッとエクトルからの手紙に目を遣った。
見た瞬間は心が弾んだエクトルからの手紙だったけれど、彼が攻略対象であることに気がついた途端、急に頭が冷えていくのを感じた。
ここが『愛の導き』の世界だとして。
私がヒロインなのだとして。
それじゃあエクトルと過ごした日々は、ただのイベントだったということなのだろうか。
もちろん今の私にとってはこれは現実なのだけれど、心が軋むように感じたのは、エクトルが私に心を寄せたのだとしても、シナリオだったからなのだと考えたら、なぜだかとても悲しくなってしまったのだ。
そう、エクトルルートは既に終盤だ。
騎士の誓いのイベントも熟しているのだから、彼は私との親密度がマックスな状態であって、だからあとはエンディングを待つのみで…。
そこまで考えて私はあれ?と頭を傾げた。
騎士の誓いのイベントーーーそれは薔薇園の奥のエクトルだけの秘密の鍛錬場所で、ヒロインへ騎士の誓いを立てるイベントなのだけれど、確かに私は、あの場所でエクトルから将来についての言葉を聞いた。
それはイベントでの言葉にとてもよく似ていたように思う。
あれはエクトルが、ヒロインの騎士になるという誓いを立てるイベントなのだ。
けれど、あの時エクトルは、近衛騎士にならなくても傍にいてくれるか、と聞いたけれど、騎士の誓いを立てはしなかった。
ーーーということは、もしかしてエクトルルートは失敗している?
それに気がついて、私は目の前が暗くなったように感じた。
エクトルの想いが決められたものだったのではないかと悲しく思ったばかりだというのに、エクトルとの未来が閉ざされたのではないかと苦しくなるなんて、私は何て身勝手なのだろうか。
私はエクトルの手紙を手に取って、そっと彼の名前を指でなぞる。
ゲームの中ではエクトルと手紙のやり取りをしているなんて知らなかったな。と考えて、私はなんだか泣きそうな気持ちになった。
ゲームではどうだったかを考える必要はあるけれど、それでも今、私はゲームをしているわけではないのだと、もう一度自分に言い聞かせる。
エクトルの名前を声に出さずに読み上げて、それから息を吐くとゲームのことに気持ちを向けた。
エクトルルートはもしかしたら頓挫している状況なのかもしれない。
つまり今のヒロインは王太子ルートを進んでいるということなのだろう。
もしかしたら、王太子ルートが優先だったせいで、エクトルルートの騎士の誓いが起こらなかったのだろうのだろうか。
もう一度私は息を吐く。
私が、王太子ルートを進んでいるということなのであれば、
やはり王太子と距離を取ってイベントが進まないようにしなくてはならないだろう。
私はそう決めたことで少しだけ気持ちが落ち着けられたように感じた。
急に記憶が戻ったことで、混乱してしまったけれど、方針を決めたならば遂行するだけだ。
私はようやくエクトルからの手紙を開けるだけの平静さを取り戻したけれど、彼に対してどうするべきなのかはすぐには決めることが出来ないでいた。
手紙の言葉を読み進め、けれど断るしかないことに少しだけ寂しさを覚えながら、私は返事を書くためにペンを手に取った。