83. 風が運んだ声
王太子は中庭に設置させたベンチに座ると息を吐いた。
見上げると緑の奥に青空が広がり、風も気持ちがいい。
やはりここはあの場所に似ているな。
王太子は庭師に頼んでこの場所にベンチを設置させたことに満足し、木漏れ日を楽しむ。
中庭の木立は、まるで道のように奥へと続いて開いている箇所があり、王太子は先日見つけて、そこに歩みいったのだ。
本来は散策するような場所ではなく、“中庭“と呼んでいるのも便宜上のようなものだ。
王太子が歩いていた“道“も散策のためのものではなく、庭師が手入れに利用するためのものであった。
そんな場所を王太子が歩いていたと聞いて庭師は慌てた。
しかし王太子はその中庭で、学院でよく座っているベンチが置かれた場所と似た風景を見つけたのだ。
だから庭師にベンチを置いてくれるように頼んだ。
そうして設置されたベンチに座れば学院よりも緑が深い気はするが、風の心地よさは同じだった。
木立の向こうでカタリと音が聞こえた。
「今日は暑いな」と声が聞こえてくる。
どうやら誰かが窓を開けたようだ。
木立の向こうにあるのは貴族が面会などに用いる部屋である。
面会室は中庭を挟んだ反対側にも並んでいて。
だから向かい合う部屋の窓から互いの部屋が見えないようにするための衝立として、中庭が設置されていた。
散策するためでも、ベンチを置いて休むための場所でもないはずなのだけれど、王太子は居心地の良さに頬を緩めた。
「とても良い縁談のお話をサラに頂き感謝いたします」
王太子の耳に風が声を運んだ。
サラ?
王太子は知った名前に思わず辺りを見回した。
「いやあ、ご令嬢はアルノー子爵にそっくりだそうだが」
「今日は、念の為にとサラの絵姿を持参しました」
「それは有難い」
「こちらが…っと」
「ああ、風が入るな。…窓を」
パタンと音が聞こえて、声は止んだ。
王太子は頭の中で会話を反芻した。
声は途切れ途切れに王太子の耳に入った。
同じ部屋にいるわけでもなく、たまたま風が声を運んだだけ。
それも聞き馴染んだ名前だったから、つい意識が向いて声だと認知できたのだ。
会話もしっかりと聞こえたわけではない。
だから会話をきちんと理解出来てはいないはずだ。
だけどサラという名前が聞こえて。そしてアルノー子爵の名前も聞こえた。
だとしたらそれは王太子のよく知る令嬢のことなはずだ。
縁談?
王太子はもう一度会話を反芻する。
しっかりと聞こえたわけではないから。
だから勘違いかもしれない。
そう思って思い返す。
閉まった窓からはもう声は聞こえてこない。
代わりに聞こえているのは、ドクンドクンと何かが響く音。
それが自分の心臓の音だとは気づかずに、王太子は宙を見つめている。
風が王太子の髪を揺らす。
さっきまではそれが心地良かった。
けれども今、王太子は心地良さを感じることが出来ない。
ドクンドクンと聞こえる音が気持ちを追い立てる。
王太子は何度も会話を反芻する。
そのうちに少しだけ、あれが本当に聞こえた会話だったのか疑わしい気持ちが湧いてきた。
はっきりとは聞こえなかった会話は、予測で補って頭に残っているのだと思う。
それなら勘違いしている可能性はある。
ある…が…。
王太子はもう一度思い返す。
だけど『縁談』と聞こえたことは確かだ。
縁談…
王太子は息を吐いた。
そして目を瞑る。
瞼の奥には一人の少女の顔が浮かんでいた。
騎士「では、今日から中庭に殿下に依頼されたベンチが設置されるのだな」
庭師「はい、先ほど設置が終わりました」
騎士「ふむ。殿下がそこを利用されるならば警備の巡回の見直しが必要かもしれないな」