73. 馬に乗るということ
本日から連日更新に戻します。
「………ぅ…」
「ほらサラ、大丈夫だから」
私の腰に腕を回したエクトルに宥めるように軽くぽんぽんと叩かれる。
「俺にもっと体重を預けていいから、ほら」
エクトルの腕はしっかりと私の体に巻き付いている。
私は少しだけ躊躇した。けれど他にどうすることも出来ずに、促されるままそろりと体をエクトルに凭せかけた。
「しばらく動かないから。……安心して」
「…は…い……」
返事を返して何度か深呼吸する。
「そう、だな……上を見上げてみるか?」
「うえ…」
言われて首を持ち上げようとすれば頭をエクトルに押し付けることになる。
それ以上には頭を動かすことが出来ずに、私は目だけを上に向けた。
「あ…」
広がった空が見えた。
「下を見なければ少しは平気か?」
エクトルの言葉を自分の中で吟味する。
「そう…かもしれません」
その返事にエクトルが苦笑したような気配がした。
「じゃあもう少しこのままで、慣れたらゆっくり動いてみるか」
「…はい…」
返事をするようにぽんぽんと腰が叩かれたのは、子供をあやしているようで少し気恥ずかしさを感じたけれど、私はそのまま空を目に映してゆっくりと呼吸をした。
「エクトル様、私はあちらで控えております。少々居た堪れな……いえ、一先ず私の手は必要ないかと思いますので」
側にいたエクトルの侍従が声を掛けた。
「…それでは私も」
私の侍女もそれに倣って下がる様子だ。
「ええ」
私は侍女を見る余裕はまだなかったから、声だけで許可を出した。
二人が下がる気配がした。
おそらく側に止めてある馬車のところへ行くのだろう。
「これでは乗馬の授業を選択するのは、やはり無理でしたね…」
私はしょんぼりと言葉をこぼした。
「うーん、どうだろうな…それを乗れるように教えてもらえるかもしれないしな…」
エクトルはそう返してくれたけれど、ソニアが教えてくれたように自分が得意な科目を選択するのが一般的だとしたら、馬に乗れない生徒は乗馬の授業を選んだりはしないだろう。
「家に馬がいなくて、それでも今後乗馬が必要だからと選択する生徒もいるんじゃないか?」
「それは…そう、かもしれませんが」
そう言われてみれば、それは確かにあり得そうだ。けれど。
「私は…馬に乗ったことがあったのに…」
「え?」
エクトルの驚いた声が小さく聞こえた。
「…もう少し幼い頃ですけれど…だから、大丈夫だと思ったのに」
「…そ…れは…えーっと…どこで乗ったんだ?」
エクトルの戸惑いは私にも理解できた。
だって乗馬のためにやってきた郊外で、私はエクトルの手を借りて一人で馬に乗り、そうして馬上の高さに動けなくなり、エクトルが慌てて私の後ろに乗って支えてくれたというのが現状なのだから。
「家の厩です」
「厩?庭とかではなくて?」
「はい。義弟と義妹とよく家の中を探検して遊んでいたんですけれど、厩で馬を見つけて一人ずつ馬に乗せてもらったことがあります」
「ふーん…」
馬車は街中でもよく走っているけれど、私が近づいてしっかりと馬を見たのは、私がハンスに連れられて乗ったアルノー子爵家へ向かう馬車の馬だ。
けれどその時は、ハンスに止められてしまい馬に触ったりすることは出来なかった。
だから義弟と義妹と探検していて、厩に馬を見つけた時は触ってみたいと思ったのだ。
もっとも今なら子供達が馬に近づくことを恐れて止めた大人の気持ちもよく分かる。
大人しい馬だったけれど、子供達が近づいたことに使用人たちは気が気ではなかっただろう。
「そうすると…その時馬に乗って見えたのは厩の壁か?」
「え?」
エクトルにそう問いかけられて小さい頃に乗った馬のことを思い出す。
「…そう、ですね…。小さかったから、乗っても馬の首しか見えなくて、使用人がずっと腰を持ってくれていて、見渡しても確かに周りは壁で、でも馬を撫でると毛並みが気持ちよくて」
「うん…」
「小さい時に乗れたのだから、乗れるだろうと思っていました…」
私はまだ空に目を向けたままで息を吐いた。
「…ふっ…」
密かな笑い声に少しだけむくれる。
「まあ、そうだな、今日は……馬の上から見る空に慣れて、…また乗りたいと思えたら次は他の景色を見てみるのはどうだ?」
「そうですね。お願いします」
「ああ」
エクトルの弾んだ声は私に提案を返した。
「落ち着いたようだから少し動くか?」
「はい。ゆっくりでお願いします」
「ああ」
エクトルが足で軽く馬の腹を叩いた。
馬がゆっくりと動き出す。
「怖かったらすぐに止めるから」
「はい…大丈夫、です」
空を見たままで進む馬は少しも怖くはなかった。
初めは急に変わった視界の高さと足を踏みしめられない不安定さに怖さを感じたけれど、今はむしろ居心地が良いようにすら思える。
馬の歩くリズムが体を揺らしても落ち着いていられたことに安堵して、私はしばらく空の色を見ながら風と温もりを味わった。
侍従「ちょっと…どこかで叫んで来たい気分だ…」