レイ
脱ぎっぱなしのスーツがソファに倒れるように掛かっていて皺が寄っているが、直す気にはなれなかった。
壁に寄りかかり、ただひらひらと漂う埃か小さな虫のようなものを眺めていることしかできない。
夢。
夢を見ていた。
僕はただ夢を見続けていた。
一つの夢が潰えて、次の夢を見て、それなりの努力をしてから、知る。ただのハリボテだということを。ハリボテが風や雨に晒されて、しおれて折れて跡形もなく崩れさる。
崩れたハリボテの山を見て僕は、その瓦礫の上に立ち、どこにも行くことができずに、たださまよう。
手の先が冷えてきて軋んだ。ポケットに手を入れると、冷たい金属に触れた。
「寂しかったらいつでもおいで。来る前に電話かメール、してね」
そう言ってこの合鍵をくれた女性は、僕のなにが欲しかったのだろうか。
人の気持ちほど簡単に手に入るものはないのかもしれないのに、手に入れたいものはどこを探しても見つからない。
僕は目を閉じた。眠いわけではない。指は冷たいのに、触り続けるうちに鍵は生暖かくなっていった。
少しの金と少しの幸せ。ただそれだけでいいはずなのに、いつのまにかあるかないか、ゼロか百かになってしまっていて、どうしてもその中でうまく均整がとれない。もしかしたら、そもそもそれが間違っているだけなのかもしれない。
三日前の金曜日の夜、女性から電話があった。
「ぜんぜんあれから、連絡してくれないじゃない? 合鍵を渡したのに、使ってくれたのって、片手で数えられちゃうだけだよ」
おどけた口調が耳に入る。
「なかなか行きたいんだけど、忙しくなってきちゃって」
「忙しいなら、逆においで。わたしの家からのほうが、近いでしょ?」
僕は曖昧に頷く。
「今日、待ってるからね」
「今日は……」
僕の言葉を遮るようにして、電話は切れた。
できれば聞こえていればいいのになと思いながら受話器に向かって深く息を吐いた。細かく霧状になった魂もいくらか出ていったようだった。
鍵をポケットから取り出してベッドに向かって放り投げると、スプリングに跳ね返された鍵は乾いた音を立ててフロアリングに着地した。
四階でエレベーターを降りた。
僕は鍵をポケットの中で触りながらインターホンを押す。中で電子的な鐘の音が鳴り、ぱたぱたと、小さな音が何回か聞こえてから、かたん、と軽い音がした。
「来てくれると、思ってたよ」開いた玄関の隙間から覗く顔が呟く。「でも合鍵を渡したのに。いつも持ってないの?」
「今日は荷物が多くてバッグを変えたからさ」
いつもと同じバッグを左手に持った僕は言った。
そう、キーケースに付けておいて欲しいな。目を大きく見せるように上目遣いで僕を一瞬見てから、廊下に向かって、ビールでいいでしょと言った。
今日も女性の部屋は、きれいに整頓されていた。大量の化粧道具やドライヤーが置いてある一角以外、生活感がなかった。僕はベッドを背もたれにしてカーペットに座った。
女性はすぐに缶ビールを持ってきて、僕の隣に座る。
今日もおつかれさま。その言葉に返事をするように僕は微笑んだ。仕事のと変わらないなと思いながらビールを受け取った。
僕は閉じていた目を開いて、フロアリングに落ちている鍵を見た。気の遠くなるほど鍵を見つめていても不思議な 力で宙に浮いたりはしなかった。鈍く銀色に光っていることだけが鍵の存在を現していた。
その女性の全てが欲しいわけじゃない。むしろかけらもいらなかったかもしれない。ただ成るように、成されるがまま、そう成っていっただけだ。
孤独には打ち勝てないのと同じくらいに責任にも打ち勝てない。この曖昧な関係が淡々と続いていくだけだ。
女性はビールを何缶か空けて酔い始めると、顎を僕の肩の上にもたげてきた。
ねぇねぇ、シャワー浴びてきてよ。わたしはもう入ったから。
直接的な感情は、時として嫌悪感を生むことを、そのとき僕は知った。
素直にシャワーを浴びて、僕が体を拭いて部屋に戻ると、女性は僕の築き上げた瓦礫の山の上で、裸にシーツ一枚を纏って寝そべっていた。
そして瓦礫の上のシーツの中へ僕はそっと入っていく。
宙には浮かなかったが、鈍く光る鍵が、きらめいた。
カーテンから漏れて、一筋の光が差し込んでいた。
舞い上がるように埃が漂い、無数の小さな虫が光を昇っていくようにも見えた。
読んで頂いてありがとうございます。
現在(自分の部屋の場面)と、三日前の金曜(女性の部屋の場面)が混在しています。
(分かりづらいかと思って改行してしまった。なんたる弱気…汗)
お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、
Mr.Childrenの光の射す方へからインスピレーションを受けました。
ってか、けっこうまんまですが笑
でも自分としては、そこそこ良い味付けが出来たかなとは……