9. 時間の感覚
「どうぞこちらへ」
サレハさんに促され、教会に足を踏み入れる。
するとその途端、
「にゃっ!」
グリームがびくっと大袈裟なくらい体を震わせ、嫌がるような声をあげた。
「どうしたの?」
珍しい反応だ。
驚いて立ち止まり、腕の中のグリームを見下ろすと、
「にゃぁ」
ぐったりした様子のグリームが、力なく鳴いた。
……なんで?
サレハさんの視線を気にして、猫のふりをしているらしい。
でも、それにしたっておかしな返事だ。急に元気がなくなってしまったようで、こんなことは初めてで、とても不安になる。
「大丈夫?」
「にゃ……」
もう一度尋ねると、グリームはするっと私の腕から抜け出した。
床におりて、よろよろとした足取りで、教会から出ていってしまう。
すごく体調が悪いみたいで心配なんだけど……。
「どうかしましたか?」
「何でもないです」
教会の外に出ると、グリームは振り返って地面に寝そべった。
見ているから好きにしていいよ、ということだ。
うーん。変なの。
よく分かんないけど、何も言わないのは大丈夫だってことだ。なんで外に出たのかなって不思議に思いながら、私はサレハさんのところに向かった。
教会の奥には古めかしいオルガンがあって、サレハさんはオルガンの上の紙束をいじりながら私を待っていた。
「この歌なんてどうでしょう。覚えやすいと思いますよ」
近付くと、一枚の紙を渡された。
奇妙な模様と文字が書いてある。
文字は読めるけど、この奇妙な模様は何だろう?
「これは何ですか?」
「楽譜です」
「楽譜?」
聞き返すと、サレハさんはちょっと考えるような顔をして、
「歌の演奏方法を記したものです。初めて見ますか?」
「はい」
「では一度弾いてみるので、歌詞だけ見ていてください」
そう言ってオルガンの前に座ると、サレハさんはメロディーを奏でながら歌い始めた。
神はいつもあなたのそばに
あなたのそばに
行く道を照らし
誘惑を遠ざけ
平穏を与えられる
神はいつもあなたのそばに
あなたのそばに
広い静かな空間に、オルガンの音色と歌声のハーモニーが満ちる。
それは、子守歌みたいなゆっくりしたリズムの歌だった。
でも眠くはならない。むしろ心の背筋がピシッと伸びて、目がシャキッと覚めるような感じがした。ここはふざけちゃいけない場所なんだなって、音楽を聞いて察した。
こういうところ、あんまり好きじゃない……。
「一緒に歌ってみましょうか」
鍵盤から手を離すと、サレハさんが私を見てやわらかくほほ笑んだ。
「間違えても構いませんよ」
少し緊張して、黙ってうなずきを返すと、
「では、いきます」
そう言ってサレハさんは、もう一度オルガンを弾いた。
微妙な気分だったけど、サレハさんが歌うのに合わせて、私も声を出した。リズムどおりに歌うのが少し難しかったけど、とりあえず最後まで、それっぽく歌ってみたら、
「上手ですね」
歌い終わったあと、サレハさんが褒めてくれた。
本当?
ちょっと嬉しい。好きじゃない空気の場所だけど、楽しくなって、もっと上手になりたくて、私はそのまま歌の練習を続けることにした。
とても新鮮な体験だった。
三柱は、歴史や地理や、魔法や体の使い方は教えてくれるけど、歌を教えてくれたことはない。歌を口ずさんでいるのは、たまに城にやって来るリリアン・ブラックというお姉さんだけだ。歌を教えてくれるのもリリアンだけ。
「あれれ。誰が歌っているのかと思ったら、ルーナちゃんだったのか」
繰り返し練習していると、そのさなかにリッチさんの声が聞こえた。
いつの間にか、戻ってきていたらしい。
振り向いたサレハさんが立ち上がって、
「おかえりなさい。ボスに連絡はつきましたか?」
とリッチさんに聞いた。ボス?
「いんや。めんどくさいことに、会談中だからって取り次いでもらえなかったよ」
「仕方ないでしょう、忙しい方ですから。それで、どうするのです?」
「んんー、こういうの柄じゃないんだけど……」
不満そうにぶつぶつ言いながら、リッチさんはため息をついた。
「会談が終わったら、いつもの集合場所にボスを連れていくってさ」
「どのくらいかかりそうでした?」
「一時間。めんどくさいから、後のことはサレハに任せてもいい?」
「構いませんよ」
「俺やることある……、いいの? やったー!」
話についていけない。
私はどうしたらいいんだろう、とオルガンのそばで突っ立っていたら、嬉しそうな声をあげたリッチさんが、逃げるように教会から出ていってしまった。
あの……?
困ってサレハさんを見上げると、
「知り合いの手が空くまで、あと一時間ほどかかるようです」
にこっと笑ってふたつの提案をされた。
「このまま歌の練習を続けてもいいですし、せっかくなので、この村を歩き回ってみてもいいですよ。観光名所はありませんが、よかったら案内します。どうしますか?」
「えっと……」
一時間。短くはない時間だ。
ちらっと教会の入り口を見ると、グリームは丸くなって知らんぷりをしていた。
私の好きにしていいってことだ。それなら……。
「案内してください」
このまま一時間も歌い続けるのはきついかなと思って、私はそう言った。
白の領域の村を見て回れる機会なんて、これが最後かもしれないし。
「分かりました」
楽譜を返して、サレハさんと教会の外に出ると、丸まっていたグリームがぴょんと飛びついてきた。いつもと変わらないグリームだ。急に元気がなくなって心配だったけど、今はもうすっかり元気を取り戻したようで安心する。
「具合よくなった?」
「にゃー」
尋ねると、グリームはかわいい声を出した。
もう大丈夫なようだ。本当は言葉で返事をしてほしいんだけど、サレハさんがいるから仕方ない。動物がしゃべって変に思われるのは、白の領域でも同じだろうからね。
「ここはサンガ村と言います」
黄色いイチョウ並木を抜け、家がたくさん集まっているところに向かう。
歩きながら、サレハさんはこの村についていろいろと教えてくれた。
ここ十年の間によそから移り住んだ人が多いこと、戦争孤児がたくさんいること、ラーテル侯爵領に属しているということ。
見た目どおり、サンガ村は貧乏な村らしい。でも不思議なことに、そこに住んでいる人たちは、みんな生き生きとしていた。活気があって、楽しそうな雰囲気を感じる。
そしてそれは、
「神父様、こんにちは」
「サレハ神父、いつもありがとうございます」
どうもサレハさんのおかげらしかった。
すれ違う人も、畑仕事をしていた人も、サレハさんに気付くと近寄ってきて、挨拶して短いおしゃべりをしていく。村のみんなに知られている、人気者って感じだ。
「サレハさんは偉い人なんですか?」
気になって聞いてみると、
「いいえ。私は神父です」
笑顔で否定された。そういえば、神父って何だろう?
「神父だから村の人と仲よしなんですか?」
「そうですよ。教会でお会いするので、村のみなさんと顔見知りなのです」
「神父って何をしているんですか?」
「教会の管理と信徒の指導をしています。まぁ、お悩み相談所のようなものです」
「ふーん」
変なの。悩みを相談するために、村の人がみんな教会に集まるなんて。
白の領域の人たちは、何をそんなに悩んでいるんだろう?
「はぐれますよ」
と、考え事をして歩いていると、途中でサレハさんに腕をつかまれた。
ちがう道に進もうとしていたらしい。
はっとして振り返ると、サレハさんは無言で優しくほほ笑み、そっと手をつないで、また案内を続けてくれた。
大きくて力強い、皮膚の厚いがさがさの手。
びっくりしたけど、お父さんがいたらこんな感じなのかなって、ちょっとだけ思った。
「あ、サレハ神父!」
しばらくすると、小さな家の並びの中に、他より少し大きな家が現れた。
屋根に十字架がついた、クリーム色の外壁の家。教会に似ているけど、教会より低くて窓がない。家の周りには子供ばかりが集まっていて、ふと振り向いた子が、サレハさんを見つけて嬉しそうに駆け寄ってくる。
私より少し年上くらいの女の子だ。サレハさんの前に立つと、その子は立て板に水を流すように、わーっと何か話し始めた。すごい勢いで、呆気に取られていると、
「新しい子供?」
二、三分経って、ようやく口を閉じたその子が、今気付いたようにちらっと私に視線を向けた。苦笑しながら、サレハさんはゆるく首を振って、
「ちがいますよ。友達を探しに来たそうです」
「友達? なんていう子?」
「残念ながら、この村の子供ではないようです。ですが、心当たりのありそうな知人がいるので、その人を待っている間、せっかくなので村の案内をしていました。ルーナさん、この子は孤児院のリサです」
「……こんにちは」
紹介されて、私はためらいながら挨拶した。
子供に会えたのは嬉しい。遊びたい。でもすごい勢いで話すこの子と、仲よくなれるのかなって少し心がひるんだ。
もじもじしていると、リサはにっと笑って、
「こんにちは! ルーナって言うの? よろしくね! 私たち、これからサツマイモ掘りに行くところなんだけど、一緒に行く?」
と、いきなり聞いてきた。
びっくりだけど、その瞬間、なんだか楽しそうな予感がして、
「行きたい!」
反射的にそう答えると、
「じゃ、決まりね!」
リサは元気よくそう言って、私の手をぐいぐい引いた。
そういうわけで、私は孤児院の子供たちとサレハさんと一緒に、建物の裏にあるサツマイモ畑に向かった。地表近くにハート型の葉っぱがたくさん茂っている、緑の畑。
サツマイモを掘るなんて初めてだし、知らない子供たちに囲まれて緊張したけど、子供たちはみんな優しかった。まずは邪魔な葉っぱやつるを鎌で刈り取って、それから根っこのあたりをスコップで優しく掘り返せばいいと、親切に教えてくれた。
言われたとおりにやってみると、
「あった!」
初めての私でもちゃんとサツマイモが収穫できて、おかげでとても楽しかった。
「そろそろ行きましょうか」
大きなサツマイモを見つけて喜んだり、小さいのばっかりでがっかりしたり、孤児院の子供たちと一緒になって騒いでいると、時間はあっという間に過ぎていった。
サツマイモ掘りに集中していた私は、サレハさんに声をかけられて、自分がここに来た目的をはたと思い出した。そうだ、こんなことをしている場合じゃない。
「バイバイ、また遊ぼうね」
「うん。またいつか」
私はライオネルを探しに来たんだ。
名残惜しく思いながらも、私はつかの間の友達に別れを告げた。