83. 不測の危機
がやがや、ざわざわ……。
たくさんの人の声が聞こえてくる。
門をくぐると、そこは薄暗い路地裏だった。
近くには誰もいない。でもちょっと歩いた先に、にぎやかな大通りがあるみたいで、おそるおそる近付いて様子をうかがってみると、カラフルな装飾の店、派手な色合いの服を着た人々、あちこちに掲げられた明るいオレンジの旗……。
見覚えのある景色が広がっている。
あれ?
もしかしてここって、ウパーダーナの城下町?
びっくりしたけど、一度そうかもって思うと、もうそうだとしか思えなかった。
歩いているのは大人ばっかりだから、聞いて確かめてみようという勇気は持てないけれど。こんな特徴的な町、きっと他にはないはずだ。
しかも、通り沿いにある店をよく観察してみると、アクセサリー、香水、インテリア、宝石……リリアンと一緒にのぞいて回ったお店の並びと、まったく同じだし。
間違いない。
ここはウパーダーナなんだ!
門の先が知っている場所だったことに、私はすごくほっとした。
予想どおり黒の領域につながっていたし、マーコールが今どこにいるのか分かっていないから、あんまりいい状況とは言えないけどね。
知らない場所でマーコールを探すことになるより、ずっとマシだ。ここならすごく危険ではないって分かっているし、困ったときはリリアンを頼るという最終手段もある。
……うん。うまくできるはずだ、大丈夫!
不安を押し込めると、私は回れ右して路地裏に戻った。
それじゃ、捜索を始めよう!
マーコールはどこに行ったのかな?
考えながら、あたりをうろうろ探索する。
目立つとまずいってことは、さすがに分かっていると思うから、きっと人目につきにくいところにいるはずだよね。まぁウパーダーナに来た用件次第ではあるけど……。
いったい何の用があって、マーコールは門を開いたんだろう?
ほんとに謎だ。
まず、森でマーコールが破いていた巻物がきっと、『移動スクロール』ってやつなんだと思うけど、あんな簡単に黒の領域へ移動できる手段があることも、それを持ち運べることも信じられないし。自分の意思で黒の領域に門をつなげて、その先に進んでいくなんて頭がおかしいとしか思えないし。
ほんとになんで? まさか死に場所を探しているとか?
……ないないない。
ていうかこの前、ジャーティでマーコールっぽい人を見かけたけど、あれって見間違えたわけじゃなくて、本当にマーコールだったかな? 移動スクロールでジャーティにも行っていた? 何のために? 見つかったらすごく危険なのに……。
考えても考えても、ぜんぜん分からない。
そもそも私、マーコールのことあんまり知らないんだよね。
ライオネルの仕事仲間で、多分一番年下で、ジャッカルいわく『血の気が多くてすぐ手が出る危険人物』。素っ気なくて、冷たくて、私にいきなりナイフを投げつけてきた要注意人物。それでもって、マシューとはぜんぜん雰囲気がちがうけど王都の貴族らしい。
あ、でもマーコール邸がライオネルたちの拠点になっていて、家族が隠居しているとか話していたから、今は貴族ではないのかも……? よく分かんないや。
「あっ」
よそ見しながら歩いていると、いつの間にか櫛屋の裏まで来ていた。
日がほとんど差し込んでこない、何か出てきそうな怪しい場所。
でも懐かしい場所だ。子供のマシューに頼まれて、『帰りたくない』とごねる迷子のアーヴィングを引き渡したところ。あのときは、アーヴィングやマシューが白の領域の人だなんて考えもしなかったんだよね……。
あの二人も、移動スクロールでウパーダーナに来ていたのかな? 魔法使いになりたくないって騒いでいたけど、結局、あのあとアーヴィングはどうなったんだろう?
……って、ん?
そういえばあのとき、このあたりは白の領域の子供たちの遠足スポットになっているとか、そんなおかしなことをリリアンが言っていたっけ。
思い出して、私はちょっと不安になった。
子供だからすごく危ないわけじゃないけど、たまに無差別殺人者も現れるから、気を付けなきゃいけないって言われたような気がする。
ここにひとりでいるのって、もしかしてまずいのかな?
……リリアンが嘘をついたとは考えにくい。私を動かすために、ちょっと大袈裟に話したって可能性はあるけど、このあたりが危険だっていうのは本当のことなんだと思う。
早くマーコールを見つけて、ここから離れなきゃ!
急げ急げって焦りながら、次はどこを探せばいいんだろうって、私はおろおろと周囲を見回した。
どこも似たような暗がりで、当てをつけるのは難しい。
悩んで、もたもた迷っていると、
「!」
不意に小さな悲鳴が聞こえてきて、急激に警戒心が高まった。
ドキッと心臓が跳ねる。手のひらに汗がにじみ出す。
何? 近くで何かまずいことが起こっているの? それなら逃げなきゃ……でもそこにマーコールがいるなら、助けに行かなきゃ! 私はマーコールを助けに来たんだから!
怖くてたまらない。
それでも私は、恐怖を振り払って、悲鳴が聞こえたほうへと慎重に進んでいった。
足音を立てないように、ゆっくり、ゆっくり……。
怖い人が待ち構えていたらって考えると、心臓が止まりそうになる。
だけど、今ここにいるのは私だけだから。
私が自分で、どうにかしないといけない。自分でよく考えて、決めて、行動しないといけない。私がやるんだ! 大丈夫、私は強いから。何があっても、きっとどうにかなる!
自分自身をどうにか奮い立たせながら、私は震える手をT字路の壁にくっつけた。
そうして、建物の陰から、その先の様子をそっとうかがうと……。
誰もいない。
よかった。人がいるのはもう少し先なのかな。
ほっと息をつくと、壁を伝いながら、私はさらに奥へと進んでいった。
怖いことが起きていませんように、怖いことが起きていませんように……。
懸命に祈りながら歩いていく。
ところが、その祈りは通じなかったらしい。
道の先にある十字路に近付いたところで、ねっとりとした嫌な空気を感じた。
その瞬間、理由はぜんぜん分かんないけど、危険だって体が勝手にそう叫び出して、私の足はもう前に進まなくなってしまった。
この先に、何かいる。
十字路の先のどこかに、やばい人がいて、やばいことが起きている。
絶対、引き返したほうがいい。
どうしよう……。
ちょっとためらったけど、足が動かなくなった時点で、私の意思は決まっていた。
引き返そう。そしてグリームを呼んで、助けてもらおう。
確証はないけど、助けに来てって呼んだら、グリームはがんばって駆け付けてくれるような気がするんだよね。すっごく怒られると思うけど、呼んでも呼ばなくてもそれは同じだろうし。これは私だけじゃ無理だ。すっごく怖い。ここはいったい退散して……。
と、ゆっくり後ろに下がろうとしたそのとき、
「ぎゃ!」
十字路の左側から、悲鳴と共に誰かが飛び出してきた。
わっ! コガネムシ人間!
狂人が襲いかかってくるかもと思ったけど、それは丸っこくてきらきらした、固そうな緑の翅で背中が覆われている、やや小さなキメラ人間だった。びっくりした……。
でも、こんなところで何しているんだろう?
ウパーダーナの城下町に、キメラ人間がいるなんて珍しい。
迷子かな? 何かから逃げているようだけど……えっ。
どうしたんだろうって、ちょっと警戒しながら様子をうかがっていると、間もなく、走るコガネムシ人間を追いかけるように何かが飛んできた。
それはコガネムシ人間の足に突き刺さり、首に突き刺さり、コガネムシ人間は痛がるようにチューチュー鳴き声を上げると、ばたりと地面に倒れ込んでしまい……。
あれっ。死んじゃった?
地面に伏せた体から、どくどくと赤い血が流れ出ている。
虫の血は緑だって言うけど、キメラ人間の血は赤いんだね。なんて現実逃避的な思考をしてしまうくらいそれは唐突で、束の間に起きた恐ろしい出来事だった。
これが現実だと認識するにつれて、恐怖がせりあがってくる。
やばいよ……。
これってもしかして、無差別殺人者がこの先にいるってことじゃない?
終わりだよ! 逃げなきゃ! 見つかったら私も殺されちゃう!
でも腰が抜けて動けなくて、その場にへたり込んでいると、
「さっさとくたばれよ」
声がして、十字路の左側からまた誰かがやって来た。
それは服を血まみれにした、深い苔色の髪の人物だった。
……マーコール。
ひと目で分かったけど、理解が追いつかない。
どういう状況? なんでマーコールが悪魔を追いかける立場なの? 弱い人が相手とはいえ、普通は逆じゃない? そんな簡単に返り討ちにできちゃうものなの?
疑問だらけだ。
じっと見ていると、マーコールは冷たい視線でコガネムシ人間を見下ろし、投げつけたナイフを引き抜いた。そしてナイフに付着した血を自分の服で軽くぬぐうと、手慣れた動きで腰のベルトに収納し、ふと気付いたように私のほうを向いて、
「なんでいるの?」
と、怪訝そうに聞いてきた。
セーフ。
問答無用で襲いかかってきたらどうしようって心配していたけど、そんなことはなくてちょっとだけ安心した。でも気を抜くわけにはいかない。マーコールの気が急に変わることだってあるかもしれないから。変に刺激しないように、気を付けないとね。
ドキドキしながら、マーコールがどう動くつもりなのか観察していると、
「やっぱり悪魔じゃないか」
「ちがっ……」
ひとり言のように話しかけられて、反射的に声を出してしまった。
だけど、その勘違いは困る。早く訂正しておかないと、後々まずいことになる。
「ここにいるってことは、そういうことだろう?」
「……ちがうよ。私は、マーコールを追いかけてきただけ」
緊張して、口の中がからからになって、喉がぴたりと張りついている。
でも言わなくちゃ。怖いけど、はっきり言わなくちゃ。
「森の中で、巻物を破いて門を開いていたでしょ。どこにつながっている門なのか気になって、くぐってみたらここに出たの。それだけだよ」
「ああ、見ていたんだ」
やっとそう伝えると、マーコールは見られても問題ないというふうに軽くうなずいて、
「まぁいいや。害虫どもを始末したら、君もトルシュナーに連れていってあげるよ。君を無視するとボスがうるさいからね。終わるまでそこでおとなしくしていな」
「え……」
勝手に話が進んでいく。
私のことなんてお構いなしだ。マーコールは一方的にしゃべり終えると、くるりと背を向け、さっさと十字路を引き返して、またたく間に見えなくなってしまった。
え……。
ちょっと待ってよ。
私はまだ、何も、なんにも納得できていないんだけど?
心の中で不満がくすぶる。
だけど、怖くてそれは口に出せなかった。
とにかく、せっかく見つけたマーコールを見失うわけにはいかない。
大丈夫、ライオネルの仲間だからきっと大丈夫って自分に何度も言い聞かせながら、マーコールを追いかけ、私はおそるおそる十字路に向かった。
なんとなくだけど、すごく嫌な予感がする。
この先で起きていることを見てしまったら、もう引き返すことはできないような、そんな恐ろしい予感がある。外れてくれるといいんだけど……悲しいことに、嫌な予感ほどよく当たるんだよね。なんでだろう。分かんないけど、お願い、今回だけは外れて!
十字路に立ち、マーコールが消えていった左のほうを向く。
するとそこには……。
「何やっているの?」
「害虫駆除だよ」
キラメ人間の死体、死体、死体。
道を塞ぐように、ピクリとも動かないたくさんの屍が転がっていて、ぞくっと恐怖が体を駆けめぐったし、うわってちょっと気持ち悪くなった。
なにこれ、なにこれ、なにこれ……。
目を背けて、私は必死で思考した。
わけ分かんないよ。なんで? 信じられない。キメラ人間だからって、どうしてこんなひどいことができるの? これじゃ人でなしだよ。悪魔以上の悪魔だよ。
すごくショッキングだし、すごく混乱する。
まさかマーコールが、こんなひどいことを平気でする人だったなんて。
見損なったよ。害虫駆除ってことは、襲われたから返り討ちにしたわけじゃなくて、見つけ次第、退治していったってことでしょ? あんまりだよ。
キメラ人間って言ったって、ちょっと変わっているところがあるだけの人間なのに。
これはひどすぎる……。
どうやら私は、勘違いをしていたらしい。
私は最初、マーコールが黒の領域へ行くのは、肉食獣の群れの中に裸で飛び込むようなものだと思っていた。けれど実際は立場が逆。マーコールは、草食獣の群れの中に飛び込む肉食獣だったのだ。危険なのはマーコールじゃなくて、ウパーダーナの人たち。
私がマーコールを守ってあげる必要なんて、微塵もなかった。
マーコールが、ウパーダーナの城下町に現れる無差別殺人者だったのだ。
どうしよう、どうしよう……。




