80. 不測の危機
謝罪が終わると、ヨッドはフラーニと一緒にジャーティへ帰っていった。
どうもフラーニは、ルールを破って白の領域へ行ったヨッドを助けるためと、この島を守る『欲望の死霊』を貸し出すためにシャド・アーヤタナへ来ていたらしい。
どっちが本題なのかは知らないけどね。
ゼオラ姫やアビドヤーの人たちも、前に似たような用件で城に来ていたから、ああそういう理由で来ていたんだって納得はできる。でも、ちっとも嬉しくない理由だ。
それはこの島にまた、恐ろしい生き物が増えたってことだから。
……はぁ。ほんとやめてよね。
嫌なことを知って、私はため息が止まらないほど憂うつな気持ちになった。
死霊なんていらないよ。
もうこれ以上、私の遊び場を減らさないで!
「大人って大変なんだね」
城の外に出て、二人の後ろ姿が黒い門に吸い込まれていくのを見送ると、私は歩きながらお母様とちょっとしゃべって、階段のところで別れて自分の部屋に向かった。
ふかふかのベッドに飛び込んで、やっぱりここが一番落ち着くなって脱力する。
いいにおいがして、気持ちいい……。
サンガ村の拠点も悪くはないけど、いつ誰が来るか分からないし、あそこにはないものが多いから、実はちょっと不便なんだよね。ベッドが硬くて寝心地もいまいちだし。
それにしても、
「サンガ村にいたときは自由な感じだったのに、ヨッドってフラーニの前だとすごくおとなしくなるんだね。びっくりしちゃったよ。どっちが本当の姿なんだろう?」
まじめに話せることは知っていたけど、想像以上に小さくなってかしこまっていて、お母様の前にひざまずくヨッドは、まるでヨッドじゃないみたいだった。
違和感だらけで、とっても不思議。
でもあれなら、城に来ていても気付かないわけだって納得だ。
あんなふうに静かにしていたら、たくさんいる普通の付き人のひとりだなって思っちゃうからね。だからぜんぜん見覚えがなかったんだ。村ではあんなにうるさかったのに、ヨッドは『普通』に擬態するのがうまいらしい。普段は本当の自分を隠しているのかな?
……あ。
ちがう、もしかして逆?
サンガ村にいたときのにやにや顔が仮面なら、こっちのヨッドが本当の姿なのかもしれないと気付いて、でもまさかそんなわけないよねって私は戸惑った。
おとなしいヨッドが本物?
うそ。信じられない。どっちなんだろう……。
考えながら、ベッドの上でごろごろしていると、
「きっとどちらも本当の姿よ」
グリームがしんみり口を開いた。
「時と場合によって、大人は振る舞いや言葉遣いを変えるもの。女王様や黒の王の前で態度が変わるのは、ごく普通のことよ。別段おかしくはないわ」
「ふーん」
まぁ理解はできる。
私も、知らない大人には敬語を使うから。
でもヨッドは人が変わったみたいに態度が変わっていたから、どうしたんだろうってつい心配になっちゃったんだよね。
なーんか無理していそうな感じ。大丈夫なのかな?
ま、私にはもう関係のない話だけど。
「三柱探しでもしてこようかな」
しばらくベッドに抱きついて、満足すると、私は起き上がってぐーっと伸びをした。
気になるけど、今さら何を考えたってどうにもならないんだよね。
私が次にヨッドに会うのは、きっと十年か、それ以上先のこと。
ジャーティの、フラーニたちの事情なんて知らないし。そもそも気のせいだって可能性もあるし。ヨッドの立場や生活に、すっごく興味があるってわけでもないし。
いま私にできることは何もない。
考えるだけ無駄なのだ。過ぎたことは記憶の果て。
「いってらっしゃい。くれぐれも仕事の邪魔はしないようにね」
「はーい」
次の日。
少しゆっくりめに起きると、朝ご飯を食べて、私はまた白の領域へと向かった。
リッチさんの情報が正しければ、あと二、三日で、ライオネルがサンガ村に戻ってくるはずだから。サレハさんにオルガンを教えてもらいながら、入れ違いにならないように、しばらくサンガ村で待機していようと思う。
ヨッドが言っていた、『ライオネルの魔力は悪魔を引き寄せる』とか、『これから白の領域にやって来る悪魔が増えていく』とか、そういう話も気になっているし。
ライオネルが来たら、死なないように私が守ってあげないとね!
「行くよ!」
出かける準備が整うと、サンガ村から少し離れたところにつながりますようにって、そう念じながら私は門を開いた。
拠点に近いほうが楽だけど、リッチさんに見つかるとまずいから念のため。
『白の領域の登録されていない魔法使い』って意味では、もう私が悪魔だってばれているけど、黒の悪魔だって知られたら襲ってくるかもしれないし、まだまだ警戒は必要だ。
門をくぐると、その先では春の風がびゅうびゅう吹いていた。
空には白と灰色の雲がいっぱい。緑や黄緑の葉っぱをつけた枝が、右に左にざわざわ騒がしく揺れている。風が冷たくてちょっと寒いけど、着替えに戻りたいほどではない。
ひらめく服の裾を押さえながら、私は拠点に向かってゆっくり歩き出した。
隣にはオオカミ姿のグリーム。村に入るときはいつも子猫サイズだけど、それだと歩くのも飛ぶのも大変だから、人目がないときと正体を知られている人の前では、大体オオカミの姿になっている。抱っこしなくていいから、歩くときは私もそのほうがありがたい。
あ、おなかが白い鳥発見……。
白の領域だけど、サンガ村の周辺はもうすっかり慣れた場所だ。
地形も目印も頭に入っているから、迷ったり、変なところに落ちたりする可能性はもうほとんどない。
だから私はちょっと気を抜いて、白い葉っぱみたいな花を見つけたり、木の幹の隙間でうじゃうじゃうごめくアリの大群を見つけたり、きょろきょろよそ見をしながら、サンガ村の拠点に向かってのんびり歩いていた。
ここで怖いことは起こらないはずだと、私は完全に油断していた。
ところが、森の途中でちょっと立ち止まって、名前を知らない細長い黒い虫が、猛スピードで木を登っていく様子をじーっと観察していたら、突然、
ビュンッ。
「うわぁ⁉」
異常事態、発生。
私の目の前を、急にナイフみたいなものが飛んでいって肝が冷えた。
え、え、え……?
なにこれ、どういうこと?
ゆるんでいた気持ちが一瞬で引き締まり、緊張で息が止まる。
心臓がばくばくして、皮膚ごしに自分の激しい脈動がはっきり伝わってくる。
今の何? 私、誰かに狙われた? ……なんで?
まったくわけが分からない。
ともかく、怖い人が近くにいるなら、すぐ逃げなくちゃいけない。だけど動揺してうろたえて、逃げなきゃって分かっているのに、私の足はぜんぜん動いてくれなくて……。
まずいよ! ピンチだよ!
こんなんじゃまたダリオンに怒られて、毎日が訓練三昧になっちゃう!
グリームの毛をぎゅっとつかんで、私は必死に考えた。
どうしよう、どうしたらいいの?
なんで私、狙われているの? 何か悪いことした?
「グリーム……」
でも必死に考えてみても、狙われる理由なんてさっぱり分からない。
やがて私は、助けてって思いながらグリームに目を向けた。
そしたら、目線を下向けたその瞬間、
「なんだ、君か」
正面から、人の声が聞こえてきてびくっとなった。
「誰⁉」
ぱっと顔を上げて、あちこちに視線を動かして声の主を探す。
きっとナイフを投げてきた人だ!
悪魔? 魔法使い? どっちでもまずいよ!
きょろきょろしながら、どんどん不安がつのり、緊張が高まっていく。だけど、
「まだいたんだ。物好きな悪魔だね」
ちょっとしてから、私の前に現れたのはマーコールだった。
拠点で二回だけ会ったことがある、深い苔色の髪の、私と同じくらいの背丈の、ギラギラした殺意高めのまなざしを向けてくる怖い人。
でもライオネルの仲間で、知り合いだから襲ってくることはないはずだ。
間違って攻撃しちゃったのかな? あぁびっくりした。
「何しているの?」
きっと悪魔退治をしていたんだろうけど……。
緊張を紛らわせるために、私はそう聞いてみた。
ていうか、それ以外の理由でナイフを投げていたんだとしたらものすごく怖いから、それしかないと信じたい。この近くで悪魔を見つけて、追いかけている途中?
それなら協力してあげてもいいんだよ?
じとーっとマーコールを見つめて、私はこの状況を説明する言葉を静かに待った。
困っているなら助けてあげる。
怖い思いをさせられたばかりだけど、私って実はすごく寛容だから!
ところが、
「……」
私のそばへ無言で近付いてくると、マーコールは枝にはじかれ地面に落ちたナイフのようなもの――私の知っているナイフとは、ちょっと形がちがうナイフを拾い上げると、即座に背を向け、何事もなかったかのようにその場から立ち去ろうとした。
え、ちょっとそれはなくない?
傷付くし、結構むかつくんだけど⁉
「無視しないでよ!」
感じわるっ。
怒って、私は強い口調でマーコールに呼びかけた。
歩いていたらいきなりナイフが飛んできて、こっちはすごくびっくりしたし、怖かったんだけど⁉ 『ごめん』のひと言くらいあってもいいんじゃない? わざとじゃなくても、他人に怖い思いをさせたら謝るのが普通でしょ? なんで黙っているの⁉
「待ってよ!」
ところが、マーコールにそんな常識は通用しないらしい。
ちらりとも目をくれることなく、マーコールは同じ歩調で私から遠ざかっていった。
何なの、もうっ。ひどい人!
「聞こえていないわけじゃないでしょ! 意地悪!」
「……」
「急にナイフが飛んできて、こっちはすごくびっくりしたんだよ⁉ ねぇってば!」
「……なんでついてくるの?」
必死に話しかけながら隣を歩いていると、やがてマーコールは足を止め、すごく嫌そうな顔を私に向けた。うるさい、迷惑だってはっきり顔に出ている、憎らしい表情。
でもこれしきのことで、私はひるまない。
そもそも方向が同じだけで、ついていっているわけじゃないし! 怒って、むきになって追いかけるような子供じゃないんだよ、私は! まったく失礼しちゃう!
「私はサンガ村に向かっているだけ」
「あ、そう」
「それで、何していたの? 悪魔退治?」
「……」
もう一度聞いてみたけど、マーコールはまた無言を貫いた。
何? 聞かれちゃまずいことでもしていたわけ?
私を危険な目に遭わせたんだから、説明くらいしてくれたっていいのに!
ほんとむかつく。
ぐつぐつと煮えくり返った怒りと不満が、ふつふつとこみ上げてくる。
……そっちがその気なら、私にだって考えがあるんだよ?
無視するなら、私だって無視してやるんだから!
ふいっと興味を失ったように目を背け、急ぐことなく歩き出したマーコールの小さな背中をにらみつけながら、私は心の中で思いっきり舌を出した。
もうマーコールのことなんて知らない! 悪魔に襲われてピンチになっていたって、絶対に助けてあげないんだから! 後悔したって無駄なんだから! べーっだ。
……あ。
だけど、そう考えて、そのとき私はふと気付いた。
ここにマーコールがいるってことは、もしかして、
「ライオネル、もうこっちに来ているの?」
「いるよ」
ダメもとで聞いてみたら、マーコールはこの質問にはなぜか返事をくれた。
なんで? どういうことなのかよく分かんないけど、
「いるんだ!」
嬉しい!
それを聞いた途端、私はぱぁっと気分が高揚して、マーコールが冷たいことなんてどうでもよくなった。どくどく胸が高鳴って、わくわくする気持ちがあふれて止まらない。
やった! ライオネル、もう来ているんだ!
こうしちゃいられない! 早く会いにいかないと!
「ありがとう! じゃあね!」
うろんげなマーコールをさっと追い越すと、私は全力で走って拠点に向かった。
ようやくだ! やっと会える!
期待で胸がふくらみ、心音がドキドキうるさい。
口で吸いこんだ空気が、すぐに同じ場所から抜けていく。
冷たい風がちっとも気にならないくらい、体がすごく熱くなって、走っているうちにどんどん息が苦しくなってくるけれど、早く早くって急ぐ気持ちに突き動かされて、足はぜんぜん止まらない。
どうしよう、どうしよう、どうしよう……。
私、今すっごく変な気分だ。
なんでこんなに嬉しいんだろうってくらい、嬉しくて、嬉しくってたまらない。
ライオネル、元気かな? 変わりないかな?
二、三分で森を抜け、よく知った拠点の庭に到着すると、私はその近辺を歩き回ってライオネルの姿を探した。どこだろう? どこにいるのかな?
けれど、そこには誰の影も形もない。
どうして?
拠点の中か、教会にいるってこと? あるいは村のほう?
《在り処を示せ》するかどうか迷いながら、私はとりあえず拠点の入り口に向かった。これまではずっと、私が出入りするとき以外は鍵が閉まっていたけど……、開いている。
よし! 中に誰かがいるってことだ。
ライオネルかな? そうでありますように!
祈りながら拠点に入って、私はまっすぐ食堂に向かった。
すると途中で、誰かのぼそぼそしゃべる声が聞こえてきて、
「ライオネル!」
ほとんど確信しながら食堂をのぞくと、金髪と赤毛と茶髪がかたまって座っているのが見えて、瞬間、嬉しさが爆発した。
よかった! ちゃんと生きている!
でも……、あれ?
嬉しくて、楽しい予感でいっぱいだったんだけど、少しするとライオネルたちの違和感に気付いて、私の高揚感はふしゅーと風船のようにしぼんでいった。
ダクトベアとジャッカルと一緒に、椅子に座ってまじめな話をしている様子のライオネル。顔立ちや雰囲気はこれまでと変わりないけど、今日はいつもの薄緑のマントを着ていないし、疲れがたまっているのか、その険しい顔はほんのりと青白い。
何かあったのかな?
元気のないライオネルなんて、初めて見るかも……。




