8. 時間の感覚
次の朝。
目が覚めて、グリームの翼の下からもぞもぞはい出ると、朝日を浴びた湖がきらきらと輝いていた。
ひんやりとしたそよ風がさざ波を生み、水面をかすかに揺らすのに合わせて、小さな白い光の粒たちがあちこちで踊りまわっている。
静かな森の雰囲気と相まって、とてもきれいで神秘的な光景。
「おはよう」
思わず見とれていると、のっそり立ち上がったグリームがぶるぶるっと体を震わせ、オオカミの姿になって私の隣へやって来た。
「うん、おはよう」
挨拶を返して、私はぎゅっとグリームを抱きしめた。
するといつもとちがって、しっとり湿っている。朝露に濡れたせいか、グリームの毛はふさふさ感を失い、ちょっと重たくて、ほんのり雨のにおいがした。
新発見。
外で寝ると、グリームの毛ってこうなるんだ。
面白いね。でも私は、ふさふさしているいつものグリームが好き。
だってそのほうが、触った時に気持ちいいもん。
湖で顔を洗い、《在り処を示せ》で人間の反応が固まっている場所を確認すると、私たちは再び、ライオネルの情報を得るために歩き出した。
今日は天気がよくて、日差しが眩しい。
見上げると、抜けるような秋晴れの青空が限りなく広がっている。
いいね。最高のお散歩日和だ!
昨日と同じように、深い森を抜け、小高い丘を越え、歩いて通れないところはグリームに運んでもらって、ひたすらまっすぐ目的地に向かっていく。
そしたら、その日も特に危険そうな生き物には出会わず、二時間くらい経った頃、少し先に小さな家の集まりが見えてきた。
思っていたよりも近い。
《在り処を示せ》の結果どおり、ちゃんと人間の集落があってよかったと思いながら、私は気を引き締めて足を動かした。
あと少し、あともう少しで白の領域の人間に会える!
やがて、たどり着いたその集落は、ライオネルがいた村となんとなく似ていた。
森を切り開いたようなところにあって、広い畑の途中にぽつぽつと小さな家が建っている。殺風景で、人があまりいなくて、貧しそうな感じがする村。
だけどこの十年の間に、白の領域の平民にとっては、それが普通の生活環境だと学んでいるから、もうそんなに驚きはしない。白の領域は、こういうところなんだ。
「あれは何?」
ところで、その村にはひときわ目立つ大きな建物があった。
高い屋根の上に、十字の飾りがついた見たことのない建物。
最初に見た時は、二階建ての家かなと思ったけど、よく見たら窓が上のほうにしかないから、誰かが住んでいる家ではないと思う。
コンサートホールみたいなところ? 何をする場所なんだろう?
すごく気になって、私たちはまず、そこへ向かってみることにした。
オオカミの姿のままだと、村の人に怖がられてしまうかもしれないから、グリームには子猫サイズの動物――翼が生えた、白い猫みたいな動物に変身してもらう。
小さなかわいいグリームを抱っこすると、私は村の人間に見つからないように、こっそりひっそりと、その風変わりな建物に近付いた。
五メートルはゆうにある、クリーム色の頑丈そうな外壁。
少し奥まったところに、オリーブの葉っぱみたいな飾りがついた、木製の大きな扉があって、その扉の前まで行ってみると、中から歌が聞こえてくる。
聞いたことのない歌だ。もしかしてここ、歌を練習するところ?
気になるけど、扉を開けて中をのぞいてみる勇気はない。
でも気になる。
扉の隙間から中をのぞいたり、耳を当てたり、その建物の近くでしばらくうろうろしていると、不意に歌声が聞こえなくなった。
どうしたんだろう?
不思議に思っていると、そのうち人が移動するような音が聞こえて焦った。
このままじゃ見つかっちゃう!?
ライオネルならいいけど、知らない怖い大人だったら嫌だ。
見つかる前に、私は慌てて近くの木陰に隠れた。
そうして、息をひそめて様子をうかがっていると、やがて大きな扉がゆっくり開き、建物の中からぞろぞろとたくさんの人が出てきた。
私がいま着ているような、質素な服を着た白の領域の人たち。
子供も老人も、男の人も女の人もいる。
みんなで集まって、歌の練習をしていたのかな?
白の領域の人たちって、やっぱり不思議だ。
変わったことをするなぁと思いながら、私は次々に出てくる人間の行列を眺めて、そこにライオネルやダクトベアの姿がないかと探した。けれど、見つからない。
残念。少し期待していたんだけど、そう簡単には見つからないか。村を回って探すか、誰かに声をかけて聞いてみるしかないのかな。
「見ない顔の子供だねぇ」
と、そのとき不意に、誰かに声をかけられた。
近くに人がいるとは思っていなくて、私はぎょっとした。
ライオネルやダクトベアとは、しゃべり方がちがう。ってことは、それ以外の知らない人に見つかった⁉ どうしよう、まずいかも……。
どきどきしながら、私は慌てて声の聞こえたほうに顔を向けた。
けれど、そこには誰もいなかった。
あれ? さっき、確かに声が聞こえたのに。まさか空耳?
きょろきょろしていると、グリームがぴょんと私の肩に乗って耳元でささやいた。
「ルーナ、上よ」
上?
言われて、少し疑いながら視線を上に向けると、木の上に眠たそうな男の人が寝そべっていた。若草色の、くるくるしたやわらかそうな髪の人。……何をしているんだろう?
そんなところに人がいるなんて、考えたこともなかった。
驚いてじっと見上げていると、そのうち目が合って、
「こんにちはぁ」
その人はゆるい笑顔を浮かべながら、のんびりと口を開いた。
「こ、こんにちは……」
すごく変わった人のようだった。
大人だけど、あんまり怖い感じはないし、雰囲気もしゃべり方ものんびりしている。木の上で横になっているって普通じゃないし……、普通じゃないよね?
知らない大人は好きじゃないけど、つい気になって私は聞いた。
「あの、なんで木の上にいるんですか?」
「んんー? 見つかりにくいからだよ」
見つかりにくい? 確かにそうかもしれないけど……。
聞いたせいで、ますます分からなくなった。
何、どういうこと? かくれんぼでもしているの? 大人なのに?
理解できなくて黙っていると、やがて、
「昼寝をしたい時にはぴったり、誰にも邪魔されないで休める場所なんだ」
男の人は付け足すようにそう言った。
へぇ、そうなんだ。
私だったら落ちるのが怖くて、木の上じゃぜんぜん休めないと思うけど。
「落ちたりしないんですか?」
「しないよ。慣れっこだからね。……ハハッ」
私の質問に答えて、その男の人は急に笑い声を立てた。
何? 私、何かおかしなこと言った?
「君、面白いね。名前はなんて言うの?」
「ルーナです」
「ルーナちゃんかぁ。俺はリッチ・ラーテルって言うんだけど……。んんー、やっぱり。その反応、君はこのあたりの子供じゃぁないね」
「そうですけど……」
まったく聞き覚えがない。有名人なの?
目をぱちくりさせていると、リッチさんは木の上で大きく伸びをした。よいしょ、とおじさんくさい掛け声を発して木から飛び下り、私の前にすとんと着地する。
ひょろりとした高身長の、病弱そうな人。
体が弱いから、普通の大人みたいに忙しく働かないで、のんびりしているのかな? だから大人っぽくないのかな? と、当てずっぽうに考えていると、
「ルーナちゃん、こんなところで何しているの?」
「友達を探しているんです」
「友達?」
普通の感じで聞かれたから、私は普通の感じで答えた。
「はい。あの、ここじゃなくて、ちょっと離れた村に住んでいた子供なんですけど。行ってみたら誰もいなくて。もしかしたらと思って、一番近いこの村に来てみたんです」
「ふぅん」
リッチさんは興味なさそうに相槌を打った。
そして、気怠そうに大きなあくびをすると、
「手伝ってあげようか? 俺、この村の子供の名前ならみんな知っているよ」
突然そんなことを言ってきた。
「本当ですか⁉」
運が良すぎてびっくりした。
知らない大人に見つかって、ちょっと焦っていたけど、その人が物知りで、ライオネルを探すのを手伝ってくれるなんて奇跡だ。
でも、会ったばかりの人の話を信じていいの?
とんとん拍子に話が進んで、ちょっと怖い感じもする。
「うん、本当」
少し疑いながら見ていると、リッチさんはやる気なさそうにうなずいて、
「友達の名前、なんて言うの?」
「ライオネルです」
「ライオネル?」
しゃべっている言葉と態度が一致していなくて、少し不安になる。
だけど、手がかりを得るためには、聞いてみるしかない。
そう思って答えたら、聞き返したリッチさんの表情が、急にまじめになった。
「ルーナちゃん、もしかしてクシャラ村から来たの?」
「え? あの、えっと、村の名前は知らなくて……」
「北東の村でしょ? ここより小さくて、今は誰も住んでいないところ」
「……多分、そうです」
方角は合っている。
村の大きさは分からないけど、誰も住んでいないっていうのはそのとおり。
「だよねぇ。この村に、ライオネルって名前の子供はいないんだけどさぁ」
どうしたんだろう?
頭をぼりぼりかきながら、リッチさんは何か迷うように低くうなった。
「はぁ。めんどくさい」
「めんどくさい?」
「あぁ、ごめん。気にしないで。単なる口癖だから」
聞き返すと、リッチさんはまくし立てるように早口で、
「ルーナちゃん、ちょっとここで待っていてくれる? その友達を知っていそうな人に心当たりがあるんだ。すぐ戻るから」
「え……」
そう言うなり、大きな建物に向かって歩いていってしまった。
心当たりがあるというのは、嬉しいことだけど……。
不安が消えない。初めて会う大人に、しゃべりすぎてしまったかもしれない。
リッチさんが建物の中に入って、その姿が見えなくなると、
「大丈夫かな?」
私は腕の中のグリームにこっそり話しかけた。
グリームは私と目を合わせると、すばやく何度かまばたきして、
「警戒は必要ね。あの人、何かに気付いたような素振りがあったから」
「逃げたほうがいい?」
「どちらでも。好きにしていいわよ。何があっても守ってあげるから」
「ありがとう」
すごく頼もしい。グリームを連れてきて本当によかった。
感謝の気持ちを込めて軽くのどを撫でると、グリームはあごを上げ、気持ちよさそうに目を細めた。ゴロゴロのどを鳴らして、本物の猫みたいでかわいい。
「ルーナちゃん、お待たせ」
グリームをかわいがっていると、間もなく、リッチさんは知らない男の人と一緒に戻ってきた。
奇妙な白い服を着た、すごく背が高くて、クマみたいに大きな人。
「その人は?」
「この教会の神父。俺はクシャラ村の知り合いに連絡してくるから、その間、こいつに教会の案内でもしてもらっているといいよ」
「はじめまして。サレハ・プロングホーンです」
大きな男の人が、そう言ってほほ笑んだ。
胸元で十字のペンダントが光っている。大きくて強そうでちょっと怖いけど、雰囲気は優しそう。声も口調も態度も穏やかで、ダクトベアとは正反対な感じがする。
「ルーナです」
名乗ると、にこっと笑顔が返ってきた。
うん。こういう大人は嫌いじゃない。
「どうぞ」
リッチさんがいなくなると、サレハさんは教会の前まで歩いていって、扉を開けた。
予想外の展開だ。
大人と親しくするつもりはないんだけど、その教会という建物には興味があって、グリームを抱きしめると、私はおそるおそる教会に近付いた。
その扉の向こうは、普通の家とはぜんぜんちがっていた。
一つの大きな空間しかなくて、左右に細長い椅子と机がずらりと整列している。陽光を浴びて、奥の壁の色つきガラスがきらきら輝いている。とても不思議で、自然と背筋がピンと伸びるような場所。
「きれいなガラス……」
「ステンドグラスと言うんですよ」
奥の壁をしばらく見つめていると、サレハさんがそう教えてくれた。
「大昔の人々が、神様と天使たちの姿を描いたと言われています」
「神様?」
「はい。私たちのことを教え導いてくださる、この世界の創造主のことです」
「神様には羽が生えているんですか?」
「いいえ。神様は人間と同じ姿をしています。羽が生えているのは、天使と呼ばれる神様のみ使いです。受難の時、信じる者のもとには天使が遣わされ、救いの道を示すのだと言い伝えられています。救いを求めて、人々は祈るのです」
「ふーん」
「教会を見るのは初めてですか?」
私を見て、サレハさんがそう尋ねてきた。私は迷わずうなずいた。
「初めてです。ここは何をするところなんですか?」
「神様に祈りを捧げる場所です」
「少し前に、中から歌が聞こえてきたんですけど……」
「それは神様をたたえる歌でしょう」
すらすらと、サレハさんはにこやかに答えて、
「ルーナさんも歌ってみますか?」
と、いきなり私にそう聞いてきた。えっ。
「私も歌えるんですか?」
「はい。練習すれば、どなたでも歌えますよ」
「じゃあ、歌ってみます。教えてください」
好奇心に従ってお願いすると、サレハさんはほほ笑んで、私を教会の奥へと誘った。
「どうぞこちらへ」