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ルーナの冒険 白黒の世界  作者: 北野玄冬
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70. 願いの代償

仕事が終わるとお待ちかね、オルガンを教えてもらう時間がやって来る。


頭巾をかぶって教会に入ると、サレハさんだけがオルガンのそばに立っていて、


「まずはドレミを覚えましょうか」


「ドレミ?」


さっそく()き方を教えてくれるのかなって思っていたけど、そうじゃなかった。


がっかりだ。でもまずは、楽譜(がくふ)を読めるようになったほうがいいらしい。


サレハさんは、五本線の上にオタマジャクシみたいな音符が並ぶ紙を渡してきて、


「これが『ド』、鍵盤(けんばん)の位置はここです。隣が『レ』で……」


「? 白と白の間にある、この黒いのは何ですか?」


「それは『ド』と『レ』の間の音を出す黒鍵(こっけん)です。楽譜では『ド』のシャープ、あるいは『レ』のフラットとして記されていますが、今はまだ気にしなくていいですよ」


「え? でもそれなら、『ミ』と『ファ』の間の音はどこにあるんですか?」


「ありません。『ミ』と『ファ』は続いている音ですから」


「え? 続いている音と、そうじゃない音があるんですか?」


「はい。一オクターブには十二の音があり、『ドレミファソラシド』は均等に並んでいる音ではありません。離れている音の間にのみ、黒鍵が置かれています」


「オクターブ? どうして均等に並んでいないんですか?」


「『ド』から次の『ド』までの間隔のことを、オクターブと言います。音が均等に並んでいない理由は、私も正確には知りませんが、最初の音を区別できるようにするため、そうなっているらしいですよ」


「……?」


難しい!


知らない言葉がたくさん出てきて、オルガンの練習は思っていたより難しかった。


あっという間に一時間が過ぎて、最初の練習の時間が終わってしまう。


どうしよう。今日教えてもらったこと、覚えていられる気がしないよ……。


でも、がんばらなくちゃ!


もらった楽譜とにらめっこしながら、グリームと一緒に拠点へ向かう。


これから毎日、領域を行き来するのは面倒だから、ライオネルたちが来るまで拠点に泊まらせてもらうことになっているのだ。もちろん許可は取ってある。


リッチさんにも、アースにも。


「しばらく白の領域に行っているね」


今日は朝八時に集合だったから、アースの午前授業をサボって出発しないといけなかったのだ。でも無断でサボるとあとが怖いから、事前にそう伝えておくと、


「ちゃんと報告できて偉いですね」


怒られるかなって思ったけど、なぜか褒められただけだった。


すごく意外な反応。でも三柱たちは、私が白の領域で何をしているか知っているのだ。


これからしばらく、私が白の領域にいるつもりだってことは、言われる前から分かっていたんだと思う。それでうるさいことは言ってこなかったのかな。


嬉しそうではなかったけど、アースはあっさり私を送り出してくれた。


そういうわけで、今夜はサンガ村の拠点の、この前借りたのと同じ部屋で就寝。


うーん!


いっぱい働いて、難しい音楽の勉強もして、すごく疲れた一日だった。

でもまだ初日。明日も明後日もある。


まだまだこれからだ! がんばろう!


   * * *


それから三日間は、特に何事もなく過ぎていった。


種をまいたり、畑を耕したり、日中はエルクとムースに教えてもらいながら教会の仕事を手伝って、夕方はサレハさんと一時間だけオルガンの練習をする。


忙しくて、大変で、でもいろんな子供たちとたくさん話ができて楽しい日々。


ライオネルたちが来るまで、この平和な時間が続くんだろうなって、私はなんとなくそう思っていた。


だけど、ある日の休憩時間のこと。


「あ、クモ発見。踏みつぶしてやろーっと」


「残酷な奴だな! 一寸(いっすん)の虫にも五分(ごぶ)の魂。命を粗末にする奴は、こうだ!」


「ぎゃっ! 何すんだよ、もう一回!」


「ハッハッハッ! さては反省していないな? 悪い奴には、こうだ!」


「うわーぁ! もう一回!」


怒った雰囲気のヨッドが乱暴に子供をつかみ上げ、空中でくるっと一回転させて、地面に優しく下ろしている。こらしめるつもりでやったらしいけど、回された子供は楽しかったのか、もう一回やってとエンドレスに催促している。


そんなヨッドと子供たちの、じゃれ合いのような光景をぼーっと眺めていたら、


「ちょっといいか」


腰の曲がった小さなおばあちゃんが、よたよたとヨッドに近付いていき、


「お前さんは、本当に望みを叶えてくれるのか?」


「当然だ! 対価はきっちりいただくがな!」


……え?


なんだか事件発生の予感がした。


びっくりして、全集中して耳をそばだてていると、


「こんな老いぼれの命でも、対価として受け取ってくれるのか?」


「いいぞ! 相応の望みを叶えてやる!」


……まずいじゃん!


真剣な声色で話す小さなおばあちゃんと、いつもと変わらないはっきりした口調で話す大きなヨッド。


はたから見ると、おばあちゃんがヨッドを叱っていて、だけどヨッドはまったく反省していないような、そんな図にも見える。しつけに厳しいおばあちゃんと、自由奔放(じゆうほんぽう)な孫って感じ。実際はぜんぜんちがうけどね……なーんて。


現実逃避の思考がふっと頭をよぎるほど、私はこの状況が理解できなかった。


なんで? バカなの? 死にたがりなの?


自分の命を対価に望みを叶えてほしいだなんて、そんな……。


どうなるんだろうって、すごく気になってじっと様子を見ていると、


「さあ、望みを告げよ! オレ様が叶えてやるぞ!」


「いけません」


途中で困り顔のサレハさんが割って入って、悪魔に願い事なんてしてはいけませんよとおばあちゃんを諭しはじめた。まぁそうだよね、ちゃんと止めてくれるよね。


望みを叶えてもらう代わりに死ぬなんて、普通はあり得ないことだ。


あぁよかった。ほっとひと安心しながら、


「あのおばあちゃん、どうしたんだろう?」


二人なら事情を知っているかもしれないと思って、こっそり尋ねてみると、


「サンバーを元気にしてほしいって頼んでいるんだよ」


隣に座るエルクが、呆れたような調子でそう教えてくれた。


「ちょっと前によく分かんない病気になって、サンバーは今にも死にそうな状態らしい。医者も薬も当てにならないから、ヨッドを頼ることにしたのかもね」


「え……。それっていいの?」


「よくはないと思うよ。でも他に手立てがないから、ヨッドに望んでいるんだろうね。苦しいときの神頼み、ならぬ悪魔頼み。ルサばあさん、孫に先立たれたくないらしいから」


「ふーん」


そうなんだ……?


分かったけど、でもやっぱりよく分からない。


それってつまり、孫の代わりに、自分が先に死にたいってことだよね? 自分の命より、孫のサンバーの命のほうが大事だってこと? なんで? どっちの命も、同じくらい大切だと思うんだけど……? うーん?


「いいよね、サンバーのところは」


と、私の反対の隣に座るムースが、急に不機嫌そうな声を出した。


「うらやましい。悪魔に家族を助けてもらえるなんて、私たちとは正反対」


「シッ。そんなこと言うなよ。サレハ神父に聞かれたら叱られるぞ」


「でもエルクだって思っているでしょ。世の中は不平等だって」


「……ルサばあさんも必死なんだよ」


言い訳するようにもごもごしゃべって、エルクは気まずそうに顔を背けた。


……あれ?


ついさっきまで和やかだった雰囲気が、今はぎすぎすした空気に変わっている。


ちょっと険悪なムードがただよっていて、ルサばあさんを見つめるムースの視線には、怒りのような、苛立ちのような感情が見え隠れしていて、なんとなく怖い。


忘れかけていたけど、孤児院にいる子供のほとんどは、戦争孤児なんだよね。


悪魔との戦争で親を失った子供たち。


エルクとムースもそうだったんだ。

悪魔に家族を殺されて、それでここの孤児院で生活しているんだ。

それでも、ヨッドのことは憎んでいないんだ。……なんで?


納得しかけた瞬間、別の疑問が生まれてくる。


まぁヨッドに家族を殺されたわけじゃないなら、ヨッドを憎んでいなくてもおかしくはない……のかも? うーん? でもそれで、悪魔を無警戒なのはおかしいよね?


腑に落ちない。


一方、私が首をひねっている間にも、サレハさんによる説得は続いていて、


「悪魔の力を頼るおつもりですか」


「そうだね。神父様のおっしゃることは、あたしだって分かっているよ。サンバーのあの病気は、神様がサンバーに与えられた試練だ。サンバーが自分で乗り越えないといけない」


「そのとおりです。ですから……」


「だが物事には限度ってものがあるだろう。神様はあの子が死ぬ直前まで、耐えられる程度の試練を与えられるだけだ。あの子の病気を治してくれることはない。このままじゃあの子は死ぬ。そう分かっているのに、黙って見過ごすのが正しいって言うのか?」


「お気持ちは分かりますが、あなたが取引しようとしている相手は悪魔です。命を投げ出したところで、望み通りの結果をもたらしてくれるとは限りませんよ」


「いいや。あたしは知っている」


はっきりした口調で、顔つきで、自信たっぷりにルサばあさんは言った。


「その男は、交わした約束をたがえるような奴じゃない」


「ハッハッハッ! そうだとも!」


楽しそうに高笑いして、ヨッドはにやりと口角をあげた。


「望むなら叶えてやろう! 貴様は何を望む?」




その日、オルガンの練習は休みになった。


というか私が、『オルガンの練習は休みにして、代わりに私もルサばあさんの家に連れていってください』とお願いしたのだ。ルサばあさんの話を聞いたヨッドが、


「オレ様とて、『何でも』叶えられるわけではない! まずは病状を確認するぞ!」


と言って、仕事が終わったらルサばあさんの家に行く流れになっていたからね。


ヨッドについて、サレハさんがルサばあさんの家に行くのは確実。


仕事の邪魔をしちゃ悪いし、気になってオルガンの練習どころじゃないし、『望みを叶える』名目で、ヨッドが悪いことを企んでいたら、私は止めなくちゃいけない。


さいわい、サレハさんは私のお願いをすんなり聞き入れてくれて、その日の仕事が終わると、私はサレハさん、ヨッド、グリームと一緒に、ルサばあさんの家へと向かった。


ジャーティの人の『望みを叶える魔法』ってどんなものなんだろう?

ルサばあさんは本当に、自分の命を差し出して望みを叶えてもらうつもりなのかな?


不安と好奇心でどきどきしながら、みんなに合わせて無言で歩き、やがてどこにでもあるような石造りの家に入る。ルサばあさんに案内されて、小さな寝室に向かうと、


「祈っても、あらゆる療法を試しても、一向によくならないんだ」


そこには苦しそうな寝顔の男の子がいた。


エルクとムースと同い年くらいの、がりがりにやせ細った男の子。


荒い息づかい、真っ赤になった手足や顔、次から次へと流れ落ちる大量の汗……。とってもつらそうだ。その姿を見ているだけで、なんだかかわいそうになってきて、私が病気を治す魔法を使えたら、対価なんて要求しないですぐ治してあげるのにって思った。


この子を助けてあげたい!


……まぁ私はそのための魔法を知らないから、無理なんだけど。


ともかく、病気のサンバーを見て、ルサばあさんがこの子を助けたいって思う気持ちは理解できた。できることなら、私も助けてあげたいって思う。


でも、だからって……。


「先行きの短い老いぼれの命と、これから長い人生が待っている孫の命、天秤にかけるまでもないだろう」


諭すようにゆっくりと、ルサばあさんがヨッドに話しかける。


「さぁ、あたしの望みを叶えておくれ」


「ふむ。望むなら叶えてやろう」


寝ているサンバーをじっと見つめながら、珍しく静かな声でヨッドは言った。


「だが貴様の命の対価では、この病は完治せんぞ。現状を改善することはできるが、いずれまた同じ症状が出る可能性も、出ない可能性もある。それでも貴様はその命を賭して、こやつの苦しみを取り除きたいのか?」


「なんだって⁉」


仰天したように、ルサばあさんはせわしなくまばたきを繰り返した。


「まっ、孫は不治の病にかかっているということか⁉ 悪魔の力をもってしても、孫を助けることはできんのか⁉ おお、神よ……」


「ちがうぞ。対価が足りんのだ」


難しい顔をして、ヨッドは腕を組み小さくうなった。


「オレ様にかかれば、この病を完全に治すことも可能だ。だが貴様ひとりの命では対価として到底つり合わん。……そうだな。この村の三十人分の命を差し出すのであれば、こやつから完全に病を取り除くことも考えてやっていいだろう。貴様にその覚悟はあるか?」


「さ、さんじゅうにん⁉」


悲鳴のような上ずった声を出して、ルサばあさんはおろおろと視線を動かした。


「そんな……そんな数はとても……」


「本気にしてはいけませんよ」


有無を言わせない厳しい口調で、サレハさんが強引に口を挟む。


「人の皮をかぶっていても、これは悪魔の血を引いているのです。信用してはならない相手だと、もうお分かりになったでしょう。甘言(かんげん)に惑わされてはなりません」


「ハッハッハッ! 人聞きが悪いな、オレ様は事実を述べたまでのこと!」


愉快そうに(つば)を飛ばし、ヨッドはにんまりと悪魔のように笑った。


「さぁどうする? オレ様はどちらでも構わんぞ!」


「……」


ルサばあさんは黙り込んだ。


唇を噛みしめてうつむき、震える手を握り合わせながら、額にたくさんの小さいシワを寄せて、祈るようにじっとしていた。その姿は、悩んでいるようにも、誰かに許しを願っているようにも見えた。鉛のように重苦しい沈黙が、小さな寝室を支配する。


逃げ出したい。


気まずくて、私はその場にいるのが嫌だった。でも逃げるのは現実的な選択肢じゃなかったから、息をひそめて存在感を消すように突っ立っていた。


苦しいひたすら時間が続く。なかなか誰もしゃべり出さない。

ときおり静寂を打ち破るのは、苦しそうなサンバーの呼吸音ばかり。


けれどやがて、


「差し出せるのは、あたしの命だけだ」


のろのろ顔を上げ、ルサばあさんがやっと絞り出したような声でそう言った。


「同じ症状が、もう二度と出ない可能性もあるんだろう。それなら充分だ。あたしはもう充分すぎるほど生きた。あたしの望みを叶えて、孫を元気にしておくれ」


「よかろう!」


答えを聞くと、ヨッドは楽しそうにうなずいた。


「だが貴様の望みを叶えてやるのは明日だ! それとひとつ、望みを叶える前に、貴様の勘違いを指摘してやろう! 黙っているとあとで神父がうるさいだろうからな!」


「勘違い……?」


「そうだ! 人の命に軽重(けいちょう)はないものの、あえて定義するならば、より重たいのは孫ではなく貴様の命のほうなのだ! 当然のことだがな!」


戸惑うルサばあさんをよそにして、ヨッドは笑顔で話を続けた。


「貴様には、長年生きてきた知恵と経験が豊富にあるだろう。貴様が死ぬということは、貴様が得てきたその知見がすべて失われるということ。それはこの村にとっての損失だ。寝たきりの孫よりも、貴様の命のほうがよっぽど役に立つのだ。そのうえ子供は、死んでもすぐにまた新しいのが生まれる。よくよく考えて決断することだな。改めて問おう!」


にやにやしながら、ヨッドは張りのある声で再び問いかけた。


「貴様は何を望む?」


「……孫の病を治してくれ」


あまり迷うことなく、ルサばあさんはそう返答した。


「二言はないよ。あたしにとっては、あたし自身より孫が大切なんだ」


「ハッハッハッ! ではまた明日だ!」


ルサばあさんの意思が変わらないことを確認すると、ヨッドはとても満足そうに笑った。


「貴様のその望み、このオレ様が叶えてやろう!」

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