69. 願いの代償
「……ええと」
困惑した表情で、サレハさんがリッチさんと私を交互に見る。
急な話に戸惑っているようだけど、すぐに断ってこないあたり、きっと時間的な余裕はあるんだと思う。まぁ歌の練習がオルガンの練習に変わっただけだから、時間は取れないとおかしいんだけどね。困っているのは、何か別の問題があるからかな?
無理にとは言わないけど……。
可能なら教えてほしいですって、期待を込めてサレハさんを見つめる。
するとやがて、サレハさんはリッチさんに接近し、頭がぶつかるんじゃないかってくらいの距離で、何やらこしょこしょと話し始めた。
目の前で内緒話をされるのって、すごく嫌なんだけど……。
文句は言えない。小声で話しながら、サレハさんはずっと困った顔をしていて、見ているとなんかごめんなさいって気持ちになってくるから。ほんと急に頼んでごめんね。
でも、教えてくれるとすっごく嬉しいな!
教えてくれたら、私、サレハさんのこと大好きになっちゃうかも!
どうなるかなって、どきどきしながら内緒話が終わるのを待っていると、
「分かりました。夕方に一時間、時間を取りましょう」
私の目をまっすぐ見たサレハさんが、静かにそう言ってくれた。
やったね!
嬉しくて、ぱっと気分が高揚する。
これでもう後戻りできないって、不安な気持ちもちょっぴりあるけど、これでようやくオルガンを習えるんだ! リリアンをびっくりさせちゃおう! って興奮のほうが強くて、じゃりじゃりした懸念はすぐ心の奥底に引っ込んでしまう。
オルガン、オルガン! 早く弾けるようになりたいな。
さっそく練習しよう、しよう! 予感で指がうずうずする。
ところが、
「ありがとうございます!」
最大級の気持ちを込めて、笑顔で感謝を伝えると、
「その代わり、日中は教会の仕事を手伝ってくださいね」
にこやかにほほ笑んだサレハさんが、急にそんなことを言ってきて、
「……えっ?」
驚いた拍子に、それまでの興奮がすっと冷めてしまった。
そして困惑が生まれる。なんでそうなるのって疑問がふくらむ。
どういうこと? 私が教会の仕事を手伝うって……。
「交換条件です。孤児院の子供たちもやる仕事なので、難しくはありませんよ」
「あ、はい……」
説明されて、私は素直にうなずいた。
想定外のことだったから、思わずびっくりして、わけ分かんないって感じの反応をしちゃったけど、ちょっと考えたらそれが当然のことだと分かったからだ。
私だけがオルガンを教えてもらうっていうのは不公平。
望みを叶えてもらうなら、私もサレハさんの望みを叶えなきゃいけない。子供にできる仕事だったら、私にもできると思うし。うん、きっと問題ないね!
「分かりました!」
了承してうなずくと、サレハさんはにこっと優しげに笑った。
「では、よろしくお願いします」
そしてそのあと、ちょっと言いにくそうに口を動かすと、眉を落として、
「次から、教会に入るときは髪を隠していただけますか」
「えっ?」
また予想外のことを言ってきた。
髪を隠す? どうして?
すごく疑問だ。でもそういえば、いま教会にいる灰色のワンピースの女性二人は、後ろが長い変わった帽子をかぶって、髪をすっかり隠している。……あれ?
もしかして教会って、そういう場所だったのかな?
気付いた途端、罪悪感みたいなものが芽生えてくる。
これまで注意されなかっただけで、私はよくないことをしていたのかもしれない。知らなかったけど、実はそういうルールがあるなら、今からでも従ったほうがいいよね。
なんで髪を隠さなくちゃいけないのか、正直よく分からないけど。
なんの偶然か、マシューに渡された頭巾がまだ部屋に残っているし。
それをかぶって、オルガンを教えてもらえばいいだけだ!
* * *
次の日の朝、マシューの頭巾を持って、私は再びサンガ村を訪れた。
もちろん子猫サイズのグリームも一緒だ。
開いた門をくぐると、朝特有のひんやりとした空気が肌の熱を奪っていく。
でも昨日みたいに寒くはなくて、今日は風もほとんど吹いていない。
いい天気だ。
かすみ空の向こうから下りてくる、穏やかな日の光がほんのり暖かい。春の陽気を満喫するように、小鳥も木の葉も、ひっそりさわやかな音を立てている。歩いているだけで、心は勝手にうきうき弾み、ふくらむ胸は楽しい予感でいっぱいになっていく。
天気がいいと、気分もいいね!
今日は仕事するのにぴったりだ!
ああ、でも……。
不意にこの先のことが頭をよぎって、私ちょっと不安になった。
今日からさっそく、教会の仕事を手伝うんだけど……。
どんなことをするんだろう?
難しくないって言っていたけど、本当かな?
心臓がずっと、速い鼓動を刻んでいる。
初めてサンガ村に来たときにやった、サツマイモ掘りみたいな仕事だったらいいんだけど。まさか危険な仕事じゃないよね? 私にもちゃんとできる仕事だよね?
ああ、緊張する……。
どきどきしながら、私は待ち合わせ場所の孤児院に向かった。
芽吹きたての緑がちらつく畑をいくつか横目に留めながら、人影がまばらな静かな村の中をゆっくり進んでいく。
やがて孤児院の屋根が見えてくると、なぜかそのあたりだけ異様に騒がしくて、
「うわっ。たかーい! かたーい!」
「ハッハッハッ! これが鍛え上げられた肉体というものだ!」
「すごーい!」
太い腕に子供たちをぶら下げ、愉快そうに笑っているヨッドの姿も見えてきた。
うわ……。
思わず足が止まり、不快な感情が生まれる。
なんでいるの? 相変わらず馴染んでいて、それはすごいと思うけど。
よく悪魔に近付けるよね……。
孤児院の子供たちは、ヨッドをまったく警戒していないようだった。
仲良さそうにくっついたり、ヨッドによじ登ってはしゃいだりしている。近くにサレハさんがいるから、危なくないのかもしれないけど、それにしたって不用心すぎるよ。
……って、あれっ?
これってもしかして、ヨッドも一緒に仕事をする流れ?
孤児院の様子をなんとなく観察しているうちに、ふとその可能性に気付いて、私は嫌な気分になった。
別にヨッドがいても悪くはないけど。もう怖いわけではないけど。ちょっと苦手なタイプの人だから、なるべくかかわりたくないんだよね。知らないふり、知らないふり。
さりげなくヨッドを避けて、孤児院に敷地に入ると、
「おはようございます、ルーナさん」
目を合わせて、サレハさんがにこやかにそう挨拶してきた。
悪感情はなさそう。ほっとしながら、私も笑って挨拶を返した。
「おはようございます。今日は何をするんですか?」
「野菜の種まきをします。経験はありますか?」
「ないです」
「では教えてもらってください」
想定どおりだというふうにしゃべると、サレハさんは近くの子供たちに目を向けた。
それは薄緑の短い髪の、顔立ちがそっくりな男の子と女の子で、
「エルク、ムース、こちらが今日一緒に畑仕事をするルーナさんです。困っていたら助けてあげてください。ルーナさん、こちらは今日一緒に畑仕事をするエルクとムースです。作業中にもし分からないことがあれば、遠慮なく聞いてください」
「あ、はい……」
「「はーい!」」
私が返事をすると、エルクとムースというらしい子供たちも、聞き分けのいい元気な返事をした。穏やかで話しやすそうな、落ち着いた雰囲気のある子供たち。
双子かな?
子供だけど、本当の私よりも大きくて、お兄ちゃんとお姉ちゃんって感じがする。
でも今は、私のほうがお姉ちゃんだからね! 年下の子供たちに、情けないところは見せられない。種まきは初めてだけど、カッコいいところを見せなくちゃ!
年の近い子供に会えたことを内心で喜びながら、私はそう意気込んだ。
初めての仕事に対する不安は、エルクとムースに会ったことで吹き飛んだ。
ところが。
汚れてもいい服を貸してもらって、さぁ働くぞってやる気満々で畑に出ると、
「うわぁっ、ミミズだ!」
「ミミズ苦手? ミミズがいるのはいい土なんだよ。多すぎるのは逆によくないけど」
「えっ、ちょっ、なんかちっちゃい虫がいっぱい飛んでいるんだけど⁉」
「トビムシかな? 害虫じゃないから気にしなくていいよ」
初めてのことに驚かないのは無理だったし、エルクとムースは、すごくしっかりしている子供たちだった。
いつでもすごく落ち着いていて、見慣れないものにすぐ反応してしまう私とは大違い。とても頼りになるお兄ちゃんとお姉ちゃんで、結局、私は二人に情けない姿を何度もさらすことになり、二人はそのたび、怖くないよって教えてくれた。
うぅ……。こんなの、私の理想のお姉ちゃん像じゃない……。
でも、初めてのことだから仕方ないよね!
ちょっとへこんだけど、私はすぐ立ち直った。
私に知らないことがたくさんあったおかげで、二人といっぱい話せて仲良くなれたんだし! うん、結果オーライだ! 悪くない、悪くない! 私、本当は子供だし!
見本を示しながら、二人は種のまき方を教えてくれた。
ニンジンの種は、浅い溝の上に一、二センチの間隔でまいて、薄く土をかぶせてからきゅっと押す。枝豆の種は、深さ二センチの穴に、二十センチくらいの間隔で三粒ずつまいて、平らになるよう土を戻してからきゅっと押す。
「適当にまいたら、勝手に芽が出てくるわけじゃないんだ」
「そうだよ。気温とか水分量とか土の性質とか、条件が合わないと種は発芽しないんだ」
「ふーん」
野菜を育てるのって、どうも簡単なことじゃないらしい。
この小さな種が、育つとニンジンとか枝豆になるなんて、すごく不思議。
一緒にしゃがんで種をまいたり、土をかぶせたりしながら、二人は仕事以外のこともいろいろと話してくれた。
きつい日の仕事はマジできついこと。次の夏が来たらサンガ村を出て、別々の場所へ働きに出ること。ヨッドが来てから村の雰囲気が明るくなったこと。サレハさんはぜんぜん怒らないけど、実はかなり厳しい人だということ。ヨッドも怒らないけど、いつも優しくて楽しい人だということ。……。
「ヨッドが怖くないの?」
途中でつい気になって、私はそう聞いてみた。
近くの別の畑で、小さい子供たちとわいわい畑仕事をしているヨッド。
もうすっかり、村の一員になっているって感じだ。
でもヨッドはすごく強い悪魔で、魔法のことが何も分からなくたって、あの強そうな体格を見れば、暴れ出したら止められないって分かりそうなものだけど……。
「え?」
ところが二人は、ヨッドが危険だなんて、まったく思っていないらしい。
手を止めたエルクとムースは、びっくりしたように顔を見合わせたあと、
「怖くないよ。最初はびっくりしたけど、楽しい人だし、小さい子たちの面倒を見てくれて助かっているし。悪魔の血が混じっていても、半分は普通の人間なんだしさ」
「そうだよ。最初はちょっと怖かったけど、今は優しくて頼りになるみんなのお兄ちゃんだから。悪い人ではないと思う。ルーナさんはヨッドが怖いの?」
そう言ってきて、ぞわっと背筋が寒くなった。
やばいじゃん……。
大人びた子供たちだけど、危機感は薄いらしい。私も悪魔だし、悪魔だからみんな悪いことをするって決まっているわけじゃないけど、もうちょっと警戒したほうがよくない?
「怖いわけじゃないけど、ちょっと苦手かな」
「あぁ。孤児院にもいるよ、そういう子」
「うん、何人かいるね。ヨッドって声も体も大きくて、本人にそのつもりはないみたいだけど、普通にしゃべっているだけで威圧されているように感じる子もいるから」
「……ふーん」
なんだか、むずむずする。
私だけ考え方がちがっていて、だけど私のこの感覚が間違っているわけないのに。
居た堪れないこの気持ちを解消するため、ヨッドはすごく強くて危険なんだよって教えるべきかどうか、私はちょっと迷った。
でも結局、ヨッドが何のつもりで白の領域にいるのか知らないし、私が魔法使いだって知られるのはよくないことだから、黙っていることにした。
ヨッドにはなるべく、かかわりたくないんだけど、今度確認してみようかな。
「つおーっ! 腰がいてぇ! 足がしびれたぁー!」
「ぷっ、ジジイかよ。えいっ」
「ちょっ、足踏むなよ、いってぇな!」
「なんだ、どうした? 望みを告げよ! オレ様が叶えてやるぞ!」
「やめなさい」
あっ、ほらまた魔法を使おうとして、サレハさんに怒られている。
やっぱりヨッドって、危険だと思うんだけどなぁ。




