47. 本気の挑戦
「うそでしょ⁉」
いつもの授業場所で私を待っていたのは、引いたような顔をしているダリオンと、おへそから胸あたりまであるプリントの山を抱えたシャックスだった。
多分、私が合格しなかった時の宿題だと思うんだけど、いつもの三倍どころか十倍、いや二十倍くらいはある。
どういうこと? こんな量、絶対こなせるわけないじゃん!
「シャックス、それ……」
「おはようございます、お嬢様。今日はいい天気ですねぇ」
声をかけると、いつになくご機嫌なシャックスがにこにこ挨拶してくる。
すごく不気味だ。嫌な予感しかない。
「お、おはよう……。ねえ、それまさか、全部宿題とか言わないよね?」
「ふふふっ」
うそだよね?
確認するつもりで尋ねると、返ってきたのは楽しそうな笑い声だった。
シャックスが笑うなんて珍しい。
いつもなら激レアなシャックスだ! って喜んでいたと思う。
でも今は、シャックスの笑っている理由が、私にとっては嬉しくない理由だとなんとなく分かっているから、微塵たりとも喜べない。ちょっと怖いよ……。
「お嬢様。あたしといーっぱい、お勉強しましょうねぇ♪」
「話がちがうよ! 私が負けたときは、宿題三倍だって……」
「え? 何言っているんですか。三十倍でしょ?」
抗議すると、不意に真顔になって、まじめなトーンでシャックスは言った。
「ちゃんと言いましたよね? あたしが勝ったら、一周間、お嬢様の宿題の量を三…倍にするって。三倍なんて生ぬるい罰ゲームじゃ、お嬢様ぜんぜん本気になれないでしょ?」
「詐欺だ!」
はめられた……!
三…倍って、なんか変な言い方するなとは思っていた。聞いたときに、あれって違和感はあった。でも小さく『十』って言って、宿題を三十倍にするとか、普通はあり得ないじゃん。
だって一日三ページの自学ノートを三十倍にしたら、一日九十ページだよ?
一日でノート一冊分以上やるってことだよ?
普通に無理だから。あり得ないって!
「そんな量の宿題、できるわけないじゃん!」
「え? できる、できないじゃなくてやるんですよ」
うわぁ……。
急に真顔になったと思ったら、シャックスはまたすぐにこにこして、
「いやぁ、ちょうどお嬢様に復習してほしかった魔法理論があるんですよ。終わるまでつきっきりで見てあげるんで、分からないことがあったら遠慮なく聞いてくださいね」
「鬼! 悪魔! 人でなし!」
優しいふうに言っているけど、要は宿題が終わるまで、逃げられないように監視しておきますからねってことだ。缶詰めにされちゃう!
「ひどいですねぇ。お嬢様のための宿題なのに」
うそつけ! 私のこといじめて楽しんでいるじゃん!
にやにや愉快そうに笑いながら、シャックスは意味ありげに私を見て、
「ま、この宿題が嫌なら賭けに勝てばいいですよ。そうでしょう?」
とどめとばかりに、反論しにくいことを言ってきた。
それはそうだけど……。
合格をもらえるビジョンが、いまだに見えていない。このままじゃ、いつものように怒られるだけだ。訓練は終わることなく、宿題は三十倍になる。そんなの絶対に嫌!
「ダリオン!」
こうなったら、ダリオンに頼むしかない!
この危機的状況を回避するため、私は藁にもすがる思いでダリオンに懇願してみた。
お願い、ダリオン。今日、私を絶対に合格させて! あんな量の宿題をやることになったら死んじゃうよ! 私を助けられるのは、もうダリオンしかいないの!
ところが、
「お嬢とシャックスの約束に、私は関係ないでしょう」
全身全霊をかけてお願いしたのに、ダリオンはにべもない。
結局、藁は藁なのだ。あーもうっ。
融通の利かない人だから、こういうときは頼りにならないって知っていた。でもそれにしたって、少しは同情してくれたってよくない? 私の人生、今日で終わりかも……。
絶望の中、ダリオンの授業が始まった。
この日も危険な人から逃げる訓練をすると言われたから、訓練が始まるや否や、私は全速力でダリオンから離れた。
宿題地獄は嫌! 訓練ばっかりで遊びにいけないのも、もう嫌!
こっちは足場が悪いからダメ、こっちは行き止まり、見通しがよすぎるところは避けて、障害物の陰に入りながら、なるべくダリオンの視界から外れるように動いて、全速力だけど足音はなるべく立てないようにして、草木にぶつかって居場所がバレないよう注意して……逃げ切れたかな?
もう結構走ったはず。
と、小山を登って、ちらっと振り返ってみるとすぐ後ろにダリオンがいた。
うわっ! ダメだ! 捕まった! もう終わりだ!
「やればできるじゃないか」
世の中、そんなに甘くない。
うぅっ、宿題地獄に放り込まれちゃうよ……。
「えっ?」
これからのことを考えて落ち込んでいたら、なんか褒められたような気がした。
あれっ、私の気のせい? 空耳?
でもダリオン、怒っている感じじゃないよね?
信じられないけど、おそるおそる顔を上げてみたら、そこには怒っていない顔のダリオンがいた。……え? 本当に? 私、うまくやれたってこと? もしかして合格?
「向こうで危ない奴に会ったときは、そうやって逃げろ」
「……うん」
「あとは捕まったときの動きだな。捕まっても簡単に諦めるな。相手によってはおとなしくしているほうが安全なこともあるが……」
期待しているのに、ダリオンはなかなか私の求めている言葉を言ってくれない。
捕まって、もうダメだって打ちひしがれちゃったのがまずかったのは分かっている。
でも今日の訓練は、逃げることでしょ? 捕まっちゃったけど、そもそもダリオンから逃げきるのは無理なことだし、逃げ方については合格なんでしょ?
「この訓練は今日で終わり?」
うずうずして、ダリオンの話をさえぎってそう聞くと、
「ひとまず終わりだな。次は……」
「え、本当に⁉ 合格ってこと⁉」
「ああ。だが優先課題が片付いただけで……」
「ありがとう! ダリオン大好き!」
なんか嬉しくないことを言おうとしている感じだけど、シャックスとの賭けには勝ったってことだ。やった! これでようやく森で遊べる!
すごく嬉しくなって、衝動のままダリオンに飛びつくと、ダリオンは複雑そうな、何か考えるような、何か思いついたような、また思考に沈むような、いろんな表情を順に浮かべて戸惑っていた。あ、これ百面相だ!
「言っておくが、次からこの訓練の代わりに別の授業が入るだけだぞ」
「え! そうなの?」
「元から授業はあっただろう。俺の受け持ちが少し増えていただけだ」
ふーん。
これからは訓練の時間が減るけど、相変わらず午後の授業はあるってことね。残念。でもまぁ、それは別にいいや。これから一週間、シャックスの授業なしで遊べるし。
うきうきしながら、私はダリオンと授業を始めた場所に戻った。
すっごく冷や冷やして、ドキドキして、恐ろしかったけど、シャックスの提案どおり賭けに乗って本当によかった。宿題三十倍じゃなかったら、私は本気になれていなかったかもしれない。
シャックスが山のような宿題プリントを持ってきたのは、きっと私を追い詰めるためだったんだよね。合格をもらえたのはシャックスのおかげだ。感謝しなくちゃ。
そう思って、本当にありがとうって気持ちでシャックスのところに向かったら、
「ちっ。つまんないですねぇ」
向かっている途中で、本気で残念そうに舌打ちされた。
ちょっとショックだ。
ていうか、本気だったの?
そのプリントの山、私が合格をもらえなかったら、本当にやらせるつもりだったの?
恐ろしくなって、心にあふれていた感謝の気持ちがすっと引っ込んでしまう。
シャックスって怖いところあるんだね、気を付けよう……。
ともかく! これでようやく、森で遊べるんだ!
それから数日後、私は城内で、アースに叱られているシャックスを見つけた。
私と賭けをしたことがバレたみたい。お嬢様と賭け事をするなんてどういうつもりですか、とか、勝手に授業をなくしていいわけないでしょう、とか、ガミガミ怒られている。
わぁ、かわいそう。
私は見なかったことにして、静かに厨房へ向かった。
今日の午後はシャックスの授業。つまり、森へ行って遊べる日だ。
ザガンにお弁当をたくさん作ってもらって、森の動物たちと一緒にピクニックをする予定。あのBBタイガーとかいう生き物の被害に遭っていないかの、確認もかねてね。
「ザガン料理長。お弁当を作ってほしいんだけど……」
「またピクニックですか?」
「うん! シャックスと、森の動物たちと一緒に!」
お昼にお弁当を受け取ると、私はシャックスと西の森に向かった。
アースに怒られて、授業をなしにするのはなし、なんて言われたら嫌だなと思っていたけど、そんなことはなかった。
交わした約束は守らないといけないからね。シャックスはちゃんと、森の動物たちを探すのを手伝ってくれたし、私がすることに何の文句もつけなかった。
「BBタイガーはどこにいるの?」
あちこち散策した結果、森の動物たちはみんな無事らしいということが分かった。
レオはいつもどおり日向ぼっこをしていたし、お弁当を持って歩いていたら、においを嗅ぎつけてシカやキツネやネズミがやって来た。
変わりなく元気そうで、早くちょうだいとお弁当箱をつついてくる。
私は敷物を広げ、みんなと一緒にお弁当を食べた。
それから少し遊んで、昼寝して、シャックスにBBタイガーのことを尋ねると、
「会いたいんです?」
シャックスは怪訝な顔をしてそう聞いてきた。私は首を横に振って否定した。
「ぜんぜん。でもどこにいるのかは気になるよ」
「北の岩場のあたりです。危ないんで、一人では近付かないでくださいよ」
「頼まれても近付かないって。ところで、どうしてBBタイガーがやって来たの?」
「ダリオンが話したとおりです」
うーん、残念。
もしかしたらって思ったんだけど、情報がすでに共有されているみたいだ。誰かが答えた質問だって知らなければ、ちがうことを教えてくれることもあるんだけど。
「低いところの枝を急に切ったのはどうして?」
これは初めての質問。
この前チェンソーの音が聞こえたのは、森の低いところにある木の枝を切り落とすためだったようで、森の一部がすっきりしている。歩きやすくて、見通しがよくていいけど、どうして急にそんなことをしたんだろう?
じっと見つめていると、シャックスはため息をついて答えた。
「それはですね。ナユタがようやく、仕事をしたってだけの話ですよ」




