39. 異変の前兆
「いつ行けるの?」
「いつでもいいわよ」
うきうきしながら尋ねると、お母様はやわらかくほほ笑んで答えた。
「私もガネットの領域に用があるの。だけど明日は城でやることがあるから、向かうのは早くても明後日になる。待ちきれないなら、三柱を連れて先に行っていてもいいわよ」
「本当!? なら、明日から行ってくる!」
「連絡しておくわ。きちんと正式なルートで訪問するのよ」
「うん!」
大きくうなずくと、私はぴょんとソファーから下りた。
「アースにお願いしてくるね!」
本当にリリアンの家に行けるなんて、夢みたいだ!
お母様の部屋を出ると、私はグリームと一緒にアースを探した。
アースに頼むか、シャックスに頼むかで少し迷ったけど、ガネットの領域に行くならアースのほうがいいんだよね。ガネットの領域には、シャックスの地雷みたいな人がいるから。
出会う可能性はすごく低いらしいけど、会ったらものすごく険悪な雰囲気になってしまうから、そんなことのないアースに頼むほうが安心なのだ。
「あ、いた!」
通りがかった使用人にアースの居場所を聞きながら、城内をうろうろ探索していると、やがてエントランスホールにアースとダリオンの姿を見つけた。
まじめな話の途中?
何か真剣に話し合っているようなので、邪魔しちゃいけないと思って、私は階段の途中で立ち止まり、二人の話が終わるのを待つことにした。すると、
「ええ、そうですね。お嬢様はもっとしっかり、危機管理をする必要がありそうです」
「教えたはずだが、ぜんぜん対応できていなかったからな。想定訓練と現実はちがうが、練習しておけば今より少しはマシになるだろう」
「そう願っています。これからは、ダリオンの授業を最優先にしてスケジュールを組みましょう。シャックスの授業も、実践を中心にしてもらいましょう」
そんな話が聞こえてきて、私は心の底からげんなりした。
うっ、これからの授業の話をしている……。
まぁこうなるかも、とはちょっと思っていたんだけどね。
バッタ人間に捕まっても、私はどうすればいいかなって考えているだけだったし、フクロウ人間やクラウド子爵と対面して、危ない状況になっても、ただ焦っているだけだった。
お説教は嫌いだけど、思い返してみれば、自分でもあれひどい対応だったと評価せざるを得ない。だからダリオンに怒られて、危なくなったときの対処方法を、もう一度みっちり教えられるっていうのは想定内のこと。
でも私、これからリリアンのところに行くんだよ!?
明日から授業再開、なんて言われたって断固拒否だ。
もっと訓練が必要だってことは、自分でも分かっているけど、今は譲れない。
私は明日、リリアンのところに行くんだ! 絶対!
「ねぇアース! お願いがあるの!」
「あら、お嬢様」
話の邪魔をするつもりで声をかけると、アースは驚いた顔で振り向き、
「お体の具合はもう大丈夫ですか?」
まっさきにそう心配してきた。
そういえば私、アースの目の前で倒れちゃったんだっけ。
「うん、もう大丈夫だよ!」
少し寝たら疲れはきれいさっぱりなくなって、今はもう元気いっぱいだ。
「それよりアース。私、リリアンのところに行くから、ついて来てくれない?」
「……今ですか?」
「ううん、明日」
「明日ですか。それは正式な訪問でしょうか?」
「えーっと、知らないけど、リリアンに招待されたから行くの。三柱を連れて、正式なルートで行くようにって言われた。お母様は一日遅れで行くんだって」
「正式な訪問のようですね。それでしたら、きちんと身なりを整えないといけないのですが……、仕立ては間に合いません。クローゼットを確認しましょう」
「えっ、なんで? リリアンの家に遊びにいくだけだよ?」
なんだか、いやぁな予感がする。
授業をするから行っちゃダメ! と言われなかったのはよかったけど、身なりをきちんとするってことは、黒の王たちが来たときのような正装になるってことだ。
遊びに行くだけなのに、あの動きにくい服を着ないといけないの?
アースに頼むのって失敗だった?
今からでもシャックスに変えようかな、と考えていると、
「シャックス」
不意にアースが手を叩いて、シャックスの名前を呼んだ。
するとダリオンの隣に、いきなりシャックスが現れて、
「なんですか?」
「明日、わたくしとお嬢様でガネットの領域を訪問します。隅々まで、お嬢様をきれいにしてあげてください。わたくしは他の準備に取りかかりますので」
「了解です」
逃げる間も抵抗する間もなく、私はシャックスに捕まってしまった。
あれっ。この二人って、もしかして結託している?
「さぁお嬢様、お風呂に行きますよ」
「え、えっ……」
嫌だ! こうなったら、頼みの綱はダリオンだけだ。
あんな堅苦しい格好で、リリアンのところに遊びに行きたくない!
シャックスにぐいぐい腕を引かれながら、私はわずかな望みをかけてダリオンをじっと見つめた。助けて! 着替えが面倒な服は嫌なの! ところが、
「ウパーダーナで訓練してほしいのか?」
「……そんなわけないじゃん!」
「だろうな」
からかわれただけだった。私の味方になるつもりはないらしい。
ダリオンなんか、もう嫌いだ!
「グリーム……」
一応、グリームにも『助けて』の視線を送ってみたけど、
「洗われるのが嫌なら、遊びに行くのは諦めることね」
「ひどい!」
「あら、私には決定権がないもの。私ではなく三柱を連れていくようにと、女王様に言われたでしょう? きちんとおめかししないと、連れていってもらえないわよ」
「……分かっているけど!」
淡々と事実を突きつけられただけだった。
分かっているけど!
もっと気軽に遊びに行かせてよ……。
次の日は、朝から忙しかった。
顔を洗って、体を拭かれて、引っかけたらすぐ破けてしまいそうな服を着せられて、いろんな装飾品をつけられて……。
すごく目まぐるしかったけど、鏡に映った私はいつもよりずっときれいで、ちょっと感動した。でも思い切り遊ぶのには向いていないから、どうしようって少し心配になる。
「これじゃ走れないよ……」
エントランスホールに下りて、待っていたアースにそう零すと、
「ええ、無理に走らないでくださいね。向こうに着いたら着替えますから」
と言われた。あ、ちゃんと別の服も持っていってくれるんだ。
「あとで着替えるなら、最初から楽な服装でいいじゃん」
「いけません。軽装でよその領域を訪問するのは、非常に失礼なことですよ」
「そうなの? ガネットなら気にしないんじゃない?」
お母様の城に来て、変なポーズをしているような王様だ。
付き人たちはみんな奇抜な服を着ていたし、私がどんな格好で行っても、そんなに気にしないと思うよ。むしろ、堅苦しい格好は嫌いなんじゃない?
「いいえ。ガネット様は誰よりも、ご自分の立ち位置を気にされている方です」
ところが、ふとまじめな顔をして、アースはゆっくりと首を横に振った。
えぇ、本当に?
信じられなくて、私は疑うようにアースに見た。
「いつも変な格好をしている人なのに?」
「パーソナリティは関係ありません。どこを訪問するにしても、正装で赴くのが無難なのです。お嬢様の服装ひとつで、周りからの評価が変わりかねませんから」
「? 何それ」
難しい話が始まった気がする。
私の服装ひとつで、周りからの評価が変わるってどういうこと?
「お嬢様が正装で訪問しないのは、その価値がないからだとみなされるのです」
落ち着いたゆっくりな口調で、アースは静かに言った。
「礼を尽くす必要のない相手だから、正装ではないのだろうと、人々はお嬢様の行動をそのように受け止めます。そうなれば、ガネット様は心中穏やかではいられないでしょう」
「私、そんなこと思っていないよ」
「お嬢様がそう思っていなくても、周りの人間はお嬢様の行動をそう捉えるのです。ですから正式な訪問の場合は、必ず正装で向かわなければならないのですよ」
「ふーん」
そうなんだ。変なの。
なんでみんな、そんな勘違いをしちゃうんだろう?
話は分かったけど、納得はできない。
私は楽な格好をしたいだけなのに。勘違いする人がいなければ、好きな格好でいられるのに。勝手な勘違いをされて、すごく迷惑だ。やめてよね! ……あーあ。
「さぁ、参りましょう」
だけど、ガネットをいじめたいわけじゃないから仕方ない。
私はちゃんとしたそのままの格好で、ガネットの領域へ行くことにした。私のせいで勘違いされちゃったら、かわいそうだからね。
アースに促されて城を出ると、外では魔法の馬車――二頭のペガサスが引いてくれる空飛ぶ車と、お母様や城の使用人たちが待っていた。シャックスとダリオンもいる。
見送りに来てくれたんだ!
私は魔法の馬車を見てテンションが上がり、お母様たちを見てさらに気持ちが高ぶり、嬉しくなって、来てくれた人ひとりひとりに行ってきますの挨拶をした。それから、めったに乗れない馬車にわくわくしながら乗り込んで、窓からみんなに手を振った。
「楽しんでいらっしゃい」
「うん! 行ってきます!」
この馬車に御者はいない。
アースが合図すると、ナユタがペガサスに話しかけて、馬車がふわりと宙に浮いた。らせんを描くように、ゆっくり空高くまでのぼっていって、やがて領域の隅を目指してまっすぐに飛んでいく。
さぁ、ガネットの領域に向けて出発だ!
待っていてね、リリアン!




