38. 異変の前兆
「おい。軽率に祝福するな」
顔を離すと、ダリオンはしかめっ面で私を見ていた。
思っていた反応とちがう!
どうやら、ダリオンとは相思相愛になれないようだ。
喜ぶどころかちょっと怒っているっぽくて、顔が怖い。まぁ意味もなく祝福しちゃダメっていうのは、日頃から言われていることで、怒られる可能性もあるってことは分かっていたんだけどね。お母様がいなくて疲れているみたいだったから、キスしてあげたのに。
「たまにはいいじゃん! そういう気分なんだから」
「よくありません。特にこの状況では、祝福を繰り返すとお嬢でも……」
「うるさいこと言わないでよ! お返しは?」
「は?」
「お返し。キスしてちょーだい!」
まさか自分がもらうだけで終わりにしないよね?
話をさえぎって笑顔でねだると、ダリオンはうろんげにシャックスを見た。
「今日のお嬢はどうしたんだ?」
「さぁ。知りませんけど、あたしたちが心配で帰ってきたらしいですよ。かわいいこと言ってくるお嬢様に、今のあたしはメロメロです」
「……そうか」
「ナチュラルに引かないでもらえます? 仏頂面していますけど、ダリオンだって分かるでしょう? お嬢様にそう言われて、涙が出てきそうになる気持ち」
「……」
ダリオンは黙った。否定しないってことは肯定だ。
「もしかして照れているの? かわいー」
「……大人をからかうと痛い目見るぞ」
「えぇ? 痛い目って?」
聞き返すと、ダリオンは苦虫を噛み潰したような顔をした。
言ってみただけで、具体的なことは何も考えていなかったようだ。
ふふん! 大人の権威を笠に着た脅しなんて、私にはお見通しなんだから!
ちょっと得意になって、私はダリオンの顔をのぞき込んだ。
するとダリオンは、顔を逸らすようにうつむいて、何かを諦めたように大きなため息をついた。そして突然、私の髪の毛をくしゃくしゃにして、頭に軽くキスを落としてくれる。
やった! 頼んでみるものだね。
「ありがとう! 大好きは?」
「ああ、大好きですよ。ところでお嬢、白の領域でのあの間抜けな体たらくは何です? 訓練の成果がまったく出ていませんでしたね。日頃から、外では警戒を怠らないよう教えているでしょう? 万が一、不意を突かれて捕まった場合には……」
「あ、私、アースのところに行かなくちゃ!」
満足していたら、ダリオンが腹いせみたいにお説教を始めた。
やだやだ。せっかくのいい気分なのに、小言なんて聞きたくない!
私はとっさに執務室のほうへ逃げた。
でも誰かについて来てほしくて、途中で立ち止まって振り返る。よく知っている場所だけど、いつもとちがう雰囲でなんとなく怖いのだ。一人にはなりたくない。
一緒に来てくれるよね?
ちょぴっと不安になりながら、どきどきして様子をうかがっていると、
「任せていいか?」
「いいですよ。喜んで」
短くそんな会話をして、シャックスとグリームが私のいるほうに歩き出した。ダリオンは仕事に戻るらしく、階段を下って見えなくなってしまう。よかった。
ほっとすると、私は執務室に向かってドアをノックした。
「どうぞ」
するとすぐ、アースの声が返ってくる。すました感じの、仕事モードの声だ。
ドアを開けると、眼鏡をかけたアースが私を見てほほ笑んで、
「おかえりなさい、お嬢様」
「……ただいま」
普段はお母様が座っている席にアースがいて、私は微妙な気分になった。
お母様、本当にいないんだ。
思いがけずその事実を突きつけられて、上がったテンションが急降下、突然、悲しくなってしまう。お母様、どうしていないの? いつ帰ってくるの? 私を置いて、どこか遠くに行っちゃったわけじゃないよね? ちゃんと帰ってきてくれるよね?
どんどん不安になってくる。アースのことが嫌いなわけじゃないけど、お母様が帰ってこなくて、ずっとこのままだったらって考えると、泣きたくなる。
「すぐ戻られますよ」
黙っていると、アースが立ち上がってそう言ってきた。
「二、三日あとの予定でしたが、お嬢様が戻られたので、女王様も今日のうちにはお戻りになります。タイミングが悪かっただけです。ちゃんと戻ってきます、大丈夫ですよ」
「……本当?」
「本当です」
そばにやって来たアースが、しゃがんで私を抱きしめる。心配する必要はないと言い聞かせるように、優しく背中をさすってくれる。……いつもより、その手が冷たい。
「女王様はいつでも、お嬢様のことを一番に考えていらっしゃいますよ。お嬢様を置いて、どこかへ行ってしまうなんてあり得ません。そんなに不安がらないでください」
「……うん」
顔を上げて、私はアースをじっと見た。
エスパーみたい。言わなくても、私が考えていること分かるんだ。
「ただいま」
もう一度そう言って、私はアースのほっぺたにキスをした。
シャックスにもダリオンにもキスしたのに、アースにだけキスしないなんて不平等だから。やっぱりアースも、調子がいいってわけではないみたいだし。
「ありがとうございます」
アースは笑って受け入れて、ちゅっと、ほっぺたにお返しをくれた。
嬉しい気持ちと一緒に、高揚感が少し戻ってきて、
「元気になった? アースのことも大好きだよ!」
「ありがとうございます。ばっちりです。お嬢様に元気をもらったので、女王様がお戻りになるまで、残りの仕事も頑張れそうです」
「よかった! じゃあ私、もう行くね!」
「どちらへですか?」
「うーん、まだ考えていないけど、みんなの様子を確かめに?」
「喜ばれそうですね。しかし、みなの元気がないからといって、むやみに祝福してはいけませんよ。それから、森には近付かないでください。作業していて危険ですから」
「分かった!」
納得できる話だったから、私は素直に返事をした。
そして執務室から出ようとして、ぶすっとしたグリームに気付いてはっとする。
肝心なことを忘れていた。
三柱には大好きって言ったけど、ずっとそばにいてくれたグリームには、まだ何も伝えていない。グリームが嫉妬したら大変だ!
私は急いで、グリームのところに行こうとした。だけど、動こうとしたらなんか急にどっと疲れちゃって、足を動かす前に眠たくなってきて……。
「あら、お嬢様……」
誰かが私の頭を撫でている。
優しい手つき。大きくて温かい、誰かの手の感触。
そっとまぶたを持ち上げると、誰かの黒い服が見え、顔を上に向けると、紙束の向こうに黒い髪の毛が見えた。……お母様だ。いつ帰ってきたんだろう?
「おはよう」
考えていると、紙束を脇にどけて、お母様が笑いかけてきた。
……いつものお母様だ。いつもと何も変わっていない。言いたいこと、聞きたいことがたくさんあるはずなんだけど、なんだっけ? 何から話せばいいんだろう?
お母様を見つめながら、夢心地でぼんやりしていると、
「まだ寝ている?」
そう聞かれて、私は首を振って起き上がった。
寝ちゃったのは事故みたいなものだ。
そのつもりはなかったのに、知らないうちにすごく疲れがたまっていたみたいで、自然と意識が落ちてしまっていた。まぁお母様を待たずに済んだから、結果オーライだけど。いつの間にかチェンソーの音はやんでいる。
「どこに行っていたの?」
「BDのところよ。不在にしていてごめんね」
「ううん、びっくりしたけど大丈夫」
見上げたお母様は、とっても優しい顔をしていた。
「でも、何をしに行っていたの? お母さんが出かけるなんて珍しい」
「定例訪問よ。次がいつになるか分からないから、時期を早めたの」
「そうだったんだ。……あのね、白の領域で不思議なことがたくさんあったんだよ」
思いつくまま、私はお母様に冒険の話をした。
「黒の領域のキメラ人間がいたり、ライオネルが魔法使いになっていたり、白魔法とか黒魔法とかが存在していたり、こっちとは常識がちがうんだって分かっていても、すごくびっくりした。あとね、王都ってところで商売をしてみたり、マツタケを見つけたり、ちょっと危ない目に遭ったりもしたの。フクロウ人間がいきなり襲ってきて……」
お母様はいつも優しいけど、今日は特に優しい感じ。
笑ったり、うなずいたり、驚いた反応をしたりしながら、お母様は私の話をたくさん聞いてくれた。疑問を投げかけたら、それにも答えてくれた。
門のこと、白魔法と黒魔法のこと、果物が微妙にちがっていたこと、などなど。
「特別なとき以外、ここでは門の跡地が使用できないようになっているけれど、よその黒の領域ではそれぞれ別のルールがあるのよ。誰でも自由に使っていいと、ガネットはそう定めているのかもしれない」
「黒魔法ならシャックスも使えるわ。だけど危ない魔法だから、まだ早いと思ってルーナには教えなかったのでしょう。知ることは大事だけど、習うにはまだ早いと私も思うわ」
「同じ果物でも、育つ地域によって色や味が変わることがあるの。品種がちがう、と言うのだけど、植物が与えられた環境に適応した結果、そういう違いが生じるのよ」
「そうなんだ!」
会話が途切れない。
お母様とこんなに話すのって、すごく久しぶりだ。
行けばいつでも構ってくれるけど、普段のお母様は仕事をしているし、ずっと島の中にいたんじゃ、心が弾むようなことはほとんど起こらなくて、報告できるようなことがあんまりなかったからね。今は話すことがたくさんあって、しかもちゃんと聞いてもらえて、うなずいてもらえて、すごく嬉しい。
やがて、しゃべりつくして満足していると、
「そういえば、リリアン・ブラックから招待状が届いているわよ」
お母様が急に、別の話を持ち出してきた。
え? リリアンから招待状?
どうしてだろう。さっぱりピンとこなくて、なんの招待だろうと考えていると、
「遊びにこないかってお誘いよ」
「行く!」
聞いて思い出して、途端に楽しい予感で胸がいっぱいになった。
そうだ。今度、家に遊びにこないかって誘われていたんだった!




