37. 異変の前兆
私の部屋には誰もいない。
ベッドがきれいに整えられている他は、白の領域へ行く前と何も変わっていない。
ただ、城内はいつも静かなのに、今日はブロオォォという低いチェンソーの音が聞こえてきている。森で木を伐採しているのかな? 遠くのようだけど、結構うるさくて嫌な感じがする。思わず逃げ出したくなるような、不快な音。
窓に近付いて外を見ると、珍しいことに、庭にミントブラウンの姿があった。しゃがみ込んで、黙々と庭の手入れをしている。まだ朝だからかな? 庭師のミントブラウンが仕事をするのは、朝早くと夕方だけで、普段はあんまり見かけないんだけど……。
黒の領域に帰ってきてすぐ、いつもとちがうところを二つも見つけてしまって、私は少し不安になった。想像していたように、何か普通じゃないことがあったのかな?
ぱっと見た感じ、外で動いている使用人の数も少ない。
どうしたんだろう?
おそるおそるドアを開け、部屋の外をのぞいてみる。すると、城の掃除をしているらしい何人かの使用人の姿が見えてほっとした。よかった、これはいつもどおりだ。
でも、みんなどことなく元気がないような、覇気がないような、そんな感じがする。
何か暗いニュースでもあったのかな?
と、不思議に思ったそのとき、
「あ、シュピ! ねえ!」
視界に、見慣れた水色頭が入ってきた。
使用人のシュピだ。今日も誰かの使いっ走りをしているらしく、本を抱えて速足で歩いている。仕事の邪魔をしちゃ悪いかなって思ったけど、呼び止めずにはいられなかった。
「はい。何でしょう、お嬢様」
ぴたりと立ち止まったシュピが、私のほうを向く。
仕事の途中なんだろうけど、ぜんぜん嫌な顔はしていない。さっと近付いてきて、用件を聞いてくる。私が城にいることに、驚いてはいないみたいだ。
「三柱がどこにいるか知っている?」
「ダリオン様でしたら、今はエントランスホールにいらっしゃいます」
はきはきと、シュピはよどみなく答えた。
「アース様は執務室で代理業務を、シャックス様は城内の点検をなさっていると聞いております」
「代理業務?」
聞き慣れない言葉だ。
聞き返すと、シュピは軽くうなずいて、
「はい。女王様の代わりに、アース様がこの城を維持していらっしゃいます」
「それってつまり、お母様は今この城にいないってこと?」
「さようでございます」
「どこに行っちゃったの?」
「誠に申し訳ございませんが、私は存じ上げません。聞いてまいりましょうか?」
「ううん、自分で聞くから大丈夫」
どうせこれから、三柱のところへ行くのだ。
シュピは知らなくても、三柱がお母様の居場所を知らないことはないだろう。
「教えてくれてありがとう。仕事の邪魔してごめんね」
「とんでもないことでございます」
一礼すると、シュピは速足で去っていった。
シュピがいなくなると、私は信じられない思いでグリームを見つめた。
グリームの言っていたとおり、三柱が私を連れ戻しにこなかったのは、お母様が城にいないからだったんだ……。でも、なんで?
お母様が城を出て、よその黒の領域へ行くことはたまにある。
だけど、これまでは必ず私に伝えてからいなくなっていたし、よその黒の領域を訪問するのは、黒の王たちがこの城を訪れてから二、三十年後くらいのことだった。
この前の黒の王たちの来訪から、まだ一年も経っていない。それなのに訪問しに行くなんて、あまりにも早すぎる。何が起こっているの?
恐々としながら、私はアースがいるという執務室に向かった。
何が起きているのか、知るのが怖い。
でもこのまま、みんなの様子がおかしいと知りながら、何も分からないでいるのはもっと怖い。私はどきどきしながら階段を上って、
「あれ、お嬢様。帰ってきていたんですね」
そこで思いがけず、シャックスに会った。
……いつもより、顔が青白い気がする。
なんとなく不健康そうで、このうるさくて嫌なチェンソーの音を聞き続けていると、自然とそうなってしまうのかもしれないけど、心配になる。
それに、私を見て驚いているのはおかしい。
いつもは私が魔法を使うとすぐ察知するのに、どうしちゃったんだろう?
「ついさっき帰ってきたんだけど、気付かなかった?」
「ああ、すみません。いま女王様が不在なもので、省エネモードなんです」
「? 何それ、どういうこと?」
「魔力不足になると困るんで、いつもの探知をしているのはアースだけってことです。魔力関係はアース、内回りはあたし、外回りはダリオンって、役割分担しているんですよ」
「……?」
首をかしげていると、説明してくれたけどよく分からない。
お母様がいないと、魔力不足になるから、省エネモード?
「あ、分かんなくても大丈夫です。お嬢様が帰ってきたなら、女王様もすぐ戻られると思うんで。そのうち、いつもどおりになりますよ」
「お母様はどこに行ったの?」
「アビドヤーです」
「BDのところ? なんで?」
「まぁいろいろあって、ですかね」
知っているけど、私に教えるつもりはないらしい。
ひょいと肩をすくめると、シャックスは廊下の隅に移動して、
「それよりお嬢様。あたしはお嬢様が自主的に戻ってきたことに、今とてもびっくりしているんですが、いったいどうしたんです?」
本当に驚いている様子でそう聞いてきた。
どうしてって……。
「シャックスたちが追いかけてこないから、心配になったんだよ」
少し気まずくて、小さな声で文句を言うように私は答えた。
「連れ戻しにくるって思っていたのに、いつまで経っても来ないから、シャックスたちに何かあったんじゃないかって心配になったの。……でも、お母様がいなくて、追いかけられなかっただけなんだね」
心配して損した、とまでは思わないけど、なんだ、そういう理由だったのかって、ため息をつきたくなる。
がっかりというか、残念というか、大変な事件が起きているわけじゃなくてよかったんだけど、心配する必要なかったんだなって……。
「あたしたちのことが心配で、帰ってきてくれたんですか?」
「……そうだよ」
「うわっ、それマジですか? 超感動なんですけど!?」
え?
もっと白の領域にいればよかったかな、でもライオネルたち忙しそうでつまらなかったから帰るしかなかったんだよな、と考えながらうつむいていたら、急にシャックスが興奮したような声を出して、私をぎゅっと抱きしめてきた。
いきなり何!?
驚いて見上げると、シャックスが少しうるんだ目で私を見つめていて、ますます驚いた。
どうしたの? いつもクールな感じなのに!
「お嬢様、かわいいことしてくれますね!」
「あ、うん……、そう?」
意外な反応。でもそういえば、グリームが予言していたっけ。
私が心配すると、シャックスは泣いて喜ぶって。
さすがに泣いてはいないけど、本当にすごく喜んでいるみたいで、戸惑ってしまう。私はシャックスたちのことを心配しないと思われていたの……? なんか複雑な気分。
「あたしたち、お嬢様を追いかけられなかったわけじゃないんですよ」
しばらくすると、私に抱きつくのをやめてシャックスが言った。
「女王様に、お嬢様の好きにさせるよう言われていたんですが、危ない状況になったときは白の領域に乗り込むつもりで、実はずっと見守っていました。もちろん、白の領域へ行くための手段も確保してあったんですよ」
「……え?」
そうなの?
それを聞いて、私は驚くのと同時に心の中があったかくなった。
気まずさがなくなって、嬉しい気持ちと安心感があふれてくる。
連れ戻しには来なかったけど、三柱はちゃんと見守っていてくれたんだ。私のことを気にかけていてくれたんだ。
……よかった!
「ただいま!」
にわかに気分が高揚して、私は衝動のままシャックスに抱きついた。
それから、元気になりますようにと願いを込めて、ほっぺたに軽くキスをした。
「お嬢様!」
喜ばれたみたい。
顔を離すと、珍しくにこっと微笑したシャックスが、私のほっぺたにお返しのキスをくれた。ふふっ。嬉しい。くすぐったいような、幸せな気持ちでいっぱいになる。
「私、シャックスのこと、だーいすき!」
「あたしもお嬢様のこと大好きです」
やった、相思相愛だ。
にこにこしてシャックスと見つめ合っていると、
「……何をやっているんだ?」
少しして、不意に後ろからダリオンの声が聞こえた。
振り向くと、疲れた顔のダリオンが怪訝そうに私たちを見ている。
えっ、ダリオンまで不調なの? これは緊急事態かも!
「ダリオンだ! ただいま!」
「おかえりなさい、お嬢」
「うん! ちゃんと無事に帰ってきた。私、えらいでしょ!」
「……そうですね」
「エントランスにいるんじゃなかったの? あとで行くつもりだったのに!」
「それはすみません。シュピにお嬢がいると聞きましたので」
「むぅ。待てなかったってこと? ねえ、しゃがんで!」
高揚した幸せな気分のまましゃべって、そうお願いすると、
「……今日はやけにテンションが高いですね」
変な顔をしながらも、ダリオンはしゃがんでくれた。
だから私は、ダリオンの首に腕を回して、シャックスにしたのと同じように、ほっぺたにキスをした。
「ダリオンのことも、だーいすき!」




