表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
朱月のノクターン  作者: 傘下陽
第一幕:夜の始まり
2/3

第二夜:温かな雫

 やがて運命は動き出す。

 ここはどこだろうか。そんなぼんやりとした感覚の中、ミアは歩いていた。辺りは真っ暗な闇に包まれ、思考は上手くまとまらない。

 ゆっくりと、さまようように足を動かしていると、何かが彼女の背に触れた。どことなく暖かいそれは、彼女の肩を抱くようにして寄り添う。


──あなたは一体誰──


 ミアの言葉は声にならなかった。しかし、まるでそれが聞こえたかのように、背後の何者かは耳元で囁く。


──ただの裏切り者よ──


 裏切り者。ミアにその意味も意図も、ましてや正体など理解はできなかったが、それだけ口にすると、触れていた温もりは静かに姿を消した。同時に、少しだけ辺りの闇が晴れる。

 ミアは目を凝らした。視線の先には、誰かがポツンと立っている。それが誰なのか、今度はすぐにわかった。


──かあ……さん──


 母親のメイが、そこにいた。何かを言いたげに、だが何も言わず、寂しげな顔で佇んでいる。ミアにとっては、実に五年ぶりの再会となった。

 ミアは駆け寄ろうと必死で力を込める。しかし、体は思うように動かず、声にならない声で呼びかけることしかできない。

 そうして近づけないままでいると、少しずつ、周囲の暗がりとともにメイの姿が霞み始めた。視界がぼやける。全身の力が抜け、記憶と思考が混濁する。

 徐々に足元が朱く染まり、どろどろとした感覚に包まれたまま、ミアは膝から崩れ落ちた。手を伸ばそうにも、もう起きているのか立っているのかすら、彼女にはわからなかった。

 微睡むような喪失感。吐き気がするほどの孤独が押し寄せ、ただ深く冷たい中へと落ちていく。


──……いか……ないで──


 メイは去るように消えていき、ミアの意識もそのまま沈んだ。耳元で囁いたあの声だけが、ぼやける頭にただ反芻している。全く知らないはずなのに、どこか懐かしいような、そんな気がした。




「──ア、大丈──ア! ミア!」


 自分を呼ぶ声に揺り動かされ、ミアは目を覚ました。次第に鮮明になる感覚は、全身の痛みと気だるさを訴えている。

 彼女が重い瞼を開けると、この世の終わりのような顔で心配するアルバが目に映った。その周囲では、慌ただしく大人たちが動いている。何人かは医者のように、真っ白なローブを着ていた。

 少しずつ前後の記憶が明瞭になり、ミアは自分の身に起きたことを思い出した。


「……大丈夫だよ、何ともない」


 ミアはそう言い、零した涙が見えないよう、軽く俯いたまま体を起こす。今にも泣きそうだったアルバの手に、自分の手を重ねて軽く握った。

 そうしていると、ミア自身も少しばかり、のしかかるような心細さが薄れるようだった。僅かな時間だが、それでも彼女は救われた気がしたのだ。

 落ち着きを取り戻し、ほっと一息をつくアルバ。それを見て、ミアは自分のしていることを再確認すると、慌てて手を引っ込める。顔が熱くなるのを感じた。


「えっと、結果はどうなりましたか?」


 ミアは自分の左耳を触りながら、歩み寄ってきた白衣の男に、事の顛末を尋ねた。男は彼女の状態を確認すると、安心したように頷いて答える。


「成功のようですよ。倒れた時はどうなるかと思いましたが、無事で何より。これなら上手くいくでしょう」


 良かったですね、と言いながら、男は次にアルバの方を見た。彼は自分の番だと言うように、立ち上がって頷いている。先程までへたり込んでいたとは思えないような、凛とした表情だった。

 アルバと白衣の男は、準備のために隣の部屋へと向かう。一方ミアは医務室に案内され、そこでしばらく休むことになった。

 用意された白いベッドの上で、ミアは腰掛けながら手の中のものを見つめる。ジンの形見として渡された、銀色のペンダントだ。はめ込まれた宝石は温かく、鮮やかな赤色に煌めいている。


 彼ら二人が、一体どこで何をしているのか。そこに至るまでの話は、時間にして約四十時間。二日ほど前まで遡る。



***



 男たちが帰った後、カーテンも開けずに過ごしていた二人。気づけばすっかり夜は明け、日が昇っていた。

 アルバは傷心しているであろうミアを一度一人にし、部屋から出るといつものように家事を始めた。

 もちろん、それが仕事であり、これからのことも考えれば自分が頑張らなければいけないという、責任感のようなものもある。だがそれ以上に、こうして日課をこなしていないと、アルバ自身の気がもたないと感じたからだった。


──ダメだ、僕がこんなんじゃ。ミアはもっと、ずっと辛いはずだろう──


 自分のことに関して無頓着。親がいなくなった時も悲しいとは思わず、泣かなかったアルバだが、他人のこと、特にミアのこととなると、どうしても感情が前のめりになってしまう。

 ミアはアルバにとって守るべき存在で、彼女を大切にしてあげて欲しいと、ジンにもずっと頼まれていたのだ。

 ジンのいなくなってしまった今、自分がどうにかしなくて誰がミアを守れようか。それだけを考え、アルバは不安をかなぐり捨てた。



 そうして少し経ち、外もすっかり明るくなった頃。ミアの様子を確認するために、家事を一通り終えたアルバは客間へと戻った。

 彼女はソファに横たわり、そのまま眠っていた。当然だが、心底疲れてしまったのだろう。

 アルバは起こさないよう静かに歩み寄り、肩と膝の下に手を回すと、その体をそっと持ち上げる。丁度、童話の中で姫にするような姿勢で、彼はミアを抱きかかえた。

 眠る彼女の頬には、うっすらと涙の跡が残っていた。細く軽い体で、どれだけのものを背負っているのか。孤独を知るアルバには、それが痛いほどにわかってしまう。


「絶対に、僕が守るから」


 ベッドに寝かせたミアに毛布をかけ、アルバは静かに、そして力強くそう誓う。それは、誰にも見せず誰にも奪わせない、揺るぐことのない彼の決心だった。

 安らかとは言えないミアの寝顔。普段の強かな彼女と違う、あまりにも弱々しいその手を、少しの躊躇いの後握りしめる。

 そのまま、せめてうなされることのないように、アルバは傍に座っていた。

 自分にそんな資格があるのか。アルバにはまだ、わからなかった。だが、それでもいい。今はただ、彼女の隣にいたいのだと、それが彼の思いだった。

 日は既に高くなり、照りつける光を遮るようにして、部屋のカーテンは固く閉ざされていた。




 ミアは目を覚ました。何か嫌な夢を見ていた気がするが、不思議と不快な寝覚めではなかった。まるで霧が晴れるが如く、悪夢が遠ざかったように感じる。

 備え付けの時計を見ると、時刻は午後の四時を回っている。朝眠ってしまってから、半日程が経っていた。

 ふと、左手に温もりを感じ目をやると、アルバが手を重ねて握っていた。嫌な夢から逃げられた理由が、ミアには何となくわかった気がした。

 アルバも疲れていたのか、ミアの手を握ったまま座って眠っている。彼女は体をゆっくりと起こすと、慎重に身を乗り出して眠る彼に手を伸ばした。

 自分が幼い頃、両親にしてもらったように、ミアはそっ頬を撫でる。温かな感触とともに、指先には小さな雫が触れた。彼女が見たことのなかった、アルバの涙だった。


──ああ、そうだよね。君はずっと、今私の抱える感情を、ひとりで背負っていたんだよね──


 ミアは腹が立った。彼を想うつもりで、そのくせ何も理解していなかった自分自身に。

 アルバのことを考えると、鼓動が早くなった。アルバの声を聞いていると、心が穏やかになった。自分の内に秘めておくつもりで、それを誤魔化し続けていた。

 たった今、孤独を感じてようやくミアはわかった。誰かが隣にいてくれること。それがどれだけ救われることなのか。

 失って気づいた、想いを伝えられることの大切さ。少女にとって、それはあまりに残酷で、しかし揺るぎない過ぎた現実。

 今は今しかないのだと、ミアはそれを思い知り、そして理解することができた。願おうと、祈ろうと、亡くしたものは戻らない。だが、今ここにいる人になら、まだ──


「アルバ、私──」

「……僕のこと好き?」


 ミアが言いかけた丁度その時、先手を打つようにアルバが目を覚ました。寝言か、あるいは起きて寝ぼけているのか。それともいつもの調子なのか。

 アルバはそれだけ口にすると、またうとうとと船を漕ぎ始める。彼に悪気は全くなく、どうやら本当に寝ぼけただけらしかった。

 彼女が伝えようとした言葉は、ある意味タイミングの良過ぎるアルバによって遮られた。


「……馬鹿」


 再び眠り始めるアルバを見て、たまには叩いてみようかと思うミア。だが、ほんの少しだけ、彼女はほっとしていた。

 まだ、この想いを伝えるにはきっと早い。今のミアには、やらなければならないことが残されていた。



 アルバは程なくして飛び起き、勝手に手を握っていたことをミアに謝った。彼女は左耳を触りながら、今回だけ特別だと言ってそっぽを向いた。

 内心、ミアは元気づけられていた。どうしようもなかった不安の中、アルバはいつもと同じように手を差し伸べてくれる。彼がいてくれることの心強さは、たとえ一縷の光でも、彼女に確かな希望を与えていた。


──だから、守らないと──



 翌朝、ミアは家事を済ませたアルバを居間に呼んだ。夜通し考え続けていたこともあり、少々寝不足気味な瞳を、真剣な眼差しで彼に向ける。


「ねえ、アルバ。私ね、継ごうと思うんだ。父さんの仕事」


 隠し事はしようと、嘘はつかないミアだ。本気で言っているのだと、アルバにはわかった。

 ミアは最初から、そのつもりで考えていた。自分にはもう失うものがなく、遺された父親との繋がりを、途絶えさせたくなかった。

 そしてそれ以上に、自身で確かめなければ、納得がいかなかった。この世界の、知らない部分。なぜ父親が死ななければならなかったのか。夜族とは何なのか。その全てを、自分の目で見て確かめたかったのだ。

 アルバは知る由もなかったが、ミアが覚悟を決めたのは、彼のためでもあった。身近な人の死。二度と失いたくないという思いは、それだけで彼女が戦う理由足りえたのだ。

 柄にもなく、不合理な動機だということは、ミア自身が一番理解していた。それでも、誰かを守る力が欲しいというのは、純粋な原動力であった。


 アルバは悩んだ。もちろん、ミアの意見は最大限尊重したい。何より、彼女は既に決心している。止めることに意味があるのかわからない。

 だが、それとアルバの思いは別問題だ。ミアがどれだけ覚悟していようと、アルバ自身は彼女に命を賭けて欲しくない。ミアのことは大切だが、それゆえにここは譲れなかった。



「……わかった。ただし、僕も一緒に行く」


 これが、悩んだ末にアルバの出した結論だった。ミアのやりたいことを止めることなく、その身の安全を守ることができる最短の手段だ。

 ミアは驚いた顔をしたが、少し考えて頷いた。彼女もまた、アルバの意志は理解していたからだ。

 覚悟が決まっているのも、一度決めたら曲げないのも、お互い様であるようだ。


「行こうか、二人で」


 心ばかりか晴れやかな表情で、ミアは立ち上がる。アルバもそれに続き、隣に立った。

 こうして話し合っている間にも、随分と日が昇ったらしい。玄関の扉を開けると、昨日と同じく眩しいくらいの光が、二人を包み込んだ。



 夜族狩りの組織、騎士隊と呼ばれる彼らの拠点は、街にある大きな教会の地下にあった。教えられなければ、気づくことはできなかっただろう。

 クラールの姓を口にすると、何も聞かれることなく二人は部屋へと通された。至って普通の空間であり、ローテーブルを挟んで置かれたソファに、訪ねてきた男が座っている。

 彼は改まってギルバートと名乗り、ギルと呼んでくれればいいと続けた。


「君たち、本当に来てくれたんですね。断っても良かったというのに」


 ギルは感謝と悲哀の入り交じったような表情で、二人に向き合った。

 最初のうち、彼は今なら引き返せると諭すような口ぶり見せたが、二人の決意が固いことを知ると、暫し沈黙した。

 ミアの顔を見て、何かを思い出すように悩む。


「……そうですね。私は君たちを歓迎しましょう」


 一息ついて目を閉じ、ギルはそう言って案内役に手続きの用意をさせた。二人はテーブルに置かれた書類に目を通し、言われたとおりにサインをする。

 死亡同意の項目は、手に持った万年筆の動きを、ほんの一瞬鈍らせた。最も、それは彼らの確かな覚悟を、揺らがせるほどのものではなかったが。


──Mia Crall──


 綴り終えたミアは、自然と両親の顔を思い浮かべていた。亡き父親は、どんな気持ちで戦っていたのだろうか。亡き母親は、どんな想いで見守っていたのだろうか。

 隣に座るアルバを見て、くゆる不安を打ち消す。彼女は今、一人ではないのだ。そう思うと、何とかやっていける気がした。


 必要な紙面での手続きを済ませた二人は、別の部屋へと案内された。石畳に覆われたその場所は、かなり広い空間となっており、どうやら訓練などに使っているらしい。

 ミアはギルから、ジンの遺品であったペンダントを受け取った。その後、白衣のようなローブを着た女性が彼女に近づき、金属製の注射器のようなもので腕から血を採取する。

 月の雫。ギルの説明によると、ペンダントにある月色の宝石のことらしいそれは、使用者の血を注ぐことで共鳴し、大きな力を与えるそうだ。

 騎士隊に入る際は、まず雫との共鳴を試す儀式のようなものが必要なのだと、白衣の女性が続けた。相手を選ぶのは人ではなく、月の雫のほうなのだ。

 魔法のような話だと、首を傾げるアルバに、ギルは優しい顔で言う。


「世の中、不思議なこと、不思議なものは意外にも多い」


 この月の雫に、それから夜族も。そう付け加え、ギルはミアにペンダントを握るよう促す。彼女の血を吸い、赤い色へと染まっている雫は、微かな温もりを帯びていた。

 ミアは左手をかざし、強く握る。言われるままに目を閉じ、意識を集中させた。

 手の中で、雫の熱が増す。同時に、彼女の鼓動も早くなっていく。何か力のようなものが全身に巡り、脈打つのがわかった。


──誰かしら?──


 ミアの耳元で、何者かが囁いた。あるいは、それは彼女の中に響いた声なのかもしれない。

 次の瞬間、不意に意識が遠のき、感覚が薄れる。ミアは立っていることができず、その場に倒れ込んだ。握ったペンダントの、そこにある月の雫の熱が、強く広がったような気がした。

 視界がぼやけ、思考に靄がかかっていく。アルバの声が呼びかける中、彼女の意識はゆっくりと闇に落ちた。



***



 ミアがベッドで横になっていると、医務室の扉がノックされた。この叩き方がアルバのものであることを、彼女は知っている。


「ミア、大丈夫そう?」


 予想通り、扉を開けて入ってきたのは、例の儀式を終えたアルバだった。彼も、特に問題はなかったらしい。

 ミアは頷き、ベッドから起き上がった。ハグしてもいいかと聞くアルバに、これで我慢だと言って手を差し出す。彼はその手を優しく、そして固く包んだ。

 互いに笑みがこぼれ、始まってすらいない戦いに、まるで勝ったような気分だった。二人ならば大丈夫だと、本気でそう信じられた。



「いいですね、若いって」


 医務室の外、廊下の壁にもたれ掛かりながら、ギルバートは呟いた。その表情は、どこか憐れみにも似ていた。

 今はただ、そこにある温もりを離さないように。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ