第二夜:温かな雫
やがて運命は動き出す。
ここはどこだろうか。そんなぼんやりとした感覚の中、ミアは歩いていた。辺りは真っ暗な闇に包まれ、思考は上手くまとまらない。
ゆっくりと、さまようように足を動かしていると、何かが彼女の背に触れた。どことなく暖かいそれは、彼女の肩を抱くようにして寄り添う。
──あなたは一体誰──
ミアの言葉は声にならなかった。しかし、まるでそれが聞こえたかのように、背後の何者かは耳元で囁く。
──ただの裏切り者よ──
裏切り者。ミアにその意味も意図も、ましてや正体など理解はできなかったが、それだけ口にすると、触れていた温もりは静かに姿を消した。同時に、少しだけ辺りの闇が晴れる。
ミアは目を凝らした。視線の先には、誰かがポツンと立っている。それが誰なのか、今度はすぐにわかった。
──かあ……さん──
母親のメイが、そこにいた。何かを言いたげに、だが何も言わず、寂しげな顔で佇んでいる。ミアにとっては、実に五年ぶりの再会となった。
ミアは駆け寄ろうと必死で力を込める。しかし、体は思うように動かず、声にならない声で呼びかけることしかできない。
そうして近づけないままでいると、少しずつ、周囲の暗がりとともにメイの姿が霞み始めた。視界がぼやける。全身の力が抜け、記憶と思考が混濁する。
徐々に足元が朱く染まり、どろどろとした感覚に包まれたまま、ミアは膝から崩れ落ちた。手を伸ばそうにも、もう起きているのか立っているのかすら、彼女にはわからなかった。
微睡むような喪失感。吐き気がするほどの孤独が押し寄せ、ただ深く冷たい中へと落ちていく。
──……いか……ないで──
メイは去るように消えていき、ミアの意識もそのまま沈んだ。耳元で囁いたあの声だけが、ぼやける頭にただ反芻している。全く知らないはずなのに、どこか懐かしいような、そんな気がした。
「──ア、大丈──ア! ミア!」
自分を呼ぶ声に揺り動かされ、ミアは目を覚ました。次第に鮮明になる感覚は、全身の痛みと気だるさを訴えている。
彼女が重い瞼を開けると、この世の終わりのような顔で心配するアルバが目に映った。その周囲では、慌ただしく大人たちが動いている。何人かは医者のように、真っ白なローブを着ていた。
少しずつ前後の記憶が明瞭になり、ミアは自分の身に起きたことを思い出した。
「……大丈夫だよ、何ともない」
ミアはそう言い、零した涙が見えないよう、軽く俯いたまま体を起こす。今にも泣きそうだったアルバの手に、自分の手を重ねて軽く握った。
そうしていると、ミア自身も少しばかり、のしかかるような心細さが薄れるようだった。僅かな時間だが、それでも彼女は救われた気がしたのだ。
落ち着きを取り戻し、ほっと一息をつくアルバ。それを見て、ミアは自分のしていることを再確認すると、慌てて手を引っ込める。顔が熱くなるのを感じた。
「えっと、結果はどうなりましたか?」
ミアは自分の左耳を触りながら、歩み寄ってきた白衣の男に、事の顛末を尋ねた。男は彼女の状態を確認すると、安心したように頷いて答える。
「成功のようですよ。倒れた時はどうなるかと思いましたが、無事で何より。これなら上手くいくでしょう」
良かったですね、と言いながら、男は次にアルバの方を見た。彼は自分の番だと言うように、立ち上がって頷いている。先程までへたり込んでいたとは思えないような、凛とした表情だった。
アルバと白衣の男は、準備のために隣の部屋へと向かう。一方ミアは医務室に案内され、そこでしばらく休むことになった。
用意された白いベッドの上で、ミアは腰掛けながら手の中のものを見つめる。ジンの形見として渡された、銀色のペンダントだ。はめ込まれた宝石は温かく、鮮やかな赤色に煌めいている。
彼ら二人が、一体どこで何をしているのか。そこに至るまでの話は、時間にして約四十時間。二日ほど前まで遡る。
***
男たちが帰った後、カーテンも開けずに過ごしていた二人。気づけばすっかり夜は明け、日が昇っていた。
アルバは傷心しているであろうミアを一度一人にし、部屋から出るといつものように家事を始めた。
もちろん、それが仕事であり、これからのことも考えれば自分が頑張らなければいけないという、責任感のようなものもある。だがそれ以上に、こうして日課をこなしていないと、アルバ自身の気がもたないと感じたからだった。
──ダメだ、僕がこんなんじゃ。ミアはもっと、ずっと辛いはずだろう──
自分のことに関して無頓着。親がいなくなった時も悲しいとは思わず、泣かなかったアルバだが、他人のこと、特にミアのこととなると、どうしても感情が前のめりになってしまう。
ミアはアルバにとって守るべき存在で、彼女を大切にしてあげて欲しいと、ジンにもずっと頼まれていたのだ。
ジンのいなくなってしまった今、自分がどうにかしなくて誰がミアを守れようか。それだけを考え、アルバは不安をかなぐり捨てた。
そうして少し経ち、外もすっかり明るくなった頃。ミアの様子を確認するために、家事を一通り終えたアルバは客間へと戻った。
彼女はソファに横たわり、そのまま眠っていた。当然だが、心底疲れてしまったのだろう。
アルバは起こさないよう静かに歩み寄り、肩と膝の下に手を回すと、その体をそっと持ち上げる。丁度、童話の中で姫にするような姿勢で、彼はミアを抱きかかえた。
眠る彼女の頬には、うっすらと涙の跡が残っていた。細く軽い体で、どれだけのものを背負っているのか。孤独を知るアルバには、それが痛いほどにわかってしまう。
「絶対に、僕が守るから」
ベッドに寝かせたミアに毛布をかけ、アルバは静かに、そして力強くそう誓う。それは、誰にも見せず誰にも奪わせない、揺るぐことのない彼の決心だった。
安らかとは言えないミアの寝顔。普段の強かな彼女と違う、あまりにも弱々しいその手を、少しの躊躇いの後握りしめる。
そのまま、せめてうなされることのないように、アルバは傍に座っていた。
自分にそんな資格があるのか。アルバにはまだ、わからなかった。だが、それでもいい。今はただ、彼女の隣にいたいのだと、それが彼の思いだった。
日は既に高くなり、照りつける光を遮るようにして、部屋のカーテンは固く閉ざされていた。
ミアは目を覚ました。何か嫌な夢を見ていた気がするが、不思議と不快な寝覚めではなかった。まるで霧が晴れるが如く、悪夢が遠ざかったように感じる。
備え付けの時計を見ると、時刻は午後の四時を回っている。朝眠ってしまってから、半日程が経っていた。
ふと、左手に温もりを感じ目をやると、アルバが手を重ねて握っていた。嫌な夢から逃げられた理由が、ミアには何となくわかった気がした。
アルバも疲れていたのか、ミアの手を握ったまま座って眠っている。彼女は体をゆっくりと起こすと、慎重に身を乗り出して眠る彼に手を伸ばした。
自分が幼い頃、両親にしてもらったように、ミアはそっ頬を撫でる。温かな感触とともに、指先には小さな雫が触れた。彼女が見たことのなかった、アルバの涙だった。
──ああ、そうだよね。君はずっと、今私の抱える感情を、ひとりで背負っていたんだよね──
ミアは腹が立った。彼を想うつもりで、そのくせ何も理解していなかった自分自身に。
アルバのことを考えると、鼓動が早くなった。アルバの声を聞いていると、心が穏やかになった。自分の内に秘めておくつもりで、それを誤魔化し続けていた。
たった今、孤独を感じてようやくミアはわかった。誰かが隣にいてくれること。それがどれだけ救われることなのか。
失って気づいた、想いを伝えられることの大切さ。少女にとって、それはあまりに残酷で、しかし揺るぎない過ぎた現実。
今は今しかないのだと、ミアはそれを思い知り、そして理解することができた。願おうと、祈ろうと、亡くしたものは戻らない。だが、今ここにいる人になら、まだ──
「アルバ、私──」
「……僕のこと好き?」
ミアが言いかけた丁度その時、先手を打つようにアルバが目を覚ました。寝言か、あるいは起きて寝ぼけているのか。それともいつもの調子なのか。
アルバはそれだけ口にすると、またうとうとと船を漕ぎ始める。彼に悪気は全くなく、どうやら本当に寝ぼけただけらしかった。
彼女が伝えようとした言葉は、ある意味タイミングの良過ぎるアルバによって遮られた。
「……馬鹿」
再び眠り始めるアルバを見て、たまには叩いてみようかと思うミア。だが、ほんの少しだけ、彼女はほっとしていた。
まだ、この想いを伝えるにはきっと早い。今のミアには、やらなければならないことが残されていた。
アルバは程なくして飛び起き、勝手に手を握っていたことをミアに謝った。彼女は左耳を触りながら、今回だけ特別だと言ってそっぽを向いた。
内心、ミアは元気づけられていた。どうしようもなかった不安の中、アルバはいつもと同じように手を差し伸べてくれる。彼がいてくれることの心強さは、たとえ一縷の光でも、彼女に確かな希望を与えていた。
──だから、守らないと──
翌朝、ミアは家事を済ませたアルバを居間に呼んだ。夜通し考え続けていたこともあり、少々寝不足気味な瞳を、真剣な眼差しで彼に向ける。
「ねえ、アルバ。私ね、継ごうと思うんだ。父さんの仕事」
隠し事はしようと、嘘はつかないミアだ。本気で言っているのだと、アルバにはわかった。
ミアは最初から、そのつもりで考えていた。自分にはもう失うものがなく、遺された父親との繋がりを、途絶えさせたくなかった。
そしてそれ以上に、自身で確かめなければ、納得がいかなかった。この世界の、知らない部分。なぜ父親が死ななければならなかったのか。夜族とは何なのか。その全てを、自分の目で見て確かめたかったのだ。
アルバは知る由もなかったが、ミアが覚悟を決めたのは、彼のためでもあった。身近な人の死。二度と失いたくないという思いは、それだけで彼女が戦う理由足りえたのだ。
柄にもなく、不合理な動機だということは、ミア自身が一番理解していた。それでも、誰かを守る力が欲しいというのは、純粋な原動力であった。
アルバは悩んだ。もちろん、ミアの意見は最大限尊重したい。何より、彼女は既に決心している。止めることに意味があるのかわからない。
だが、それとアルバの思いは別問題だ。ミアがどれだけ覚悟していようと、アルバ自身は彼女に命を賭けて欲しくない。ミアのことは大切だが、それゆえにここは譲れなかった。
「……わかった。ただし、僕も一緒に行く」
これが、悩んだ末にアルバの出した結論だった。ミアのやりたいことを止めることなく、その身の安全を守ることができる最短の手段だ。
ミアは驚いた顔をしたが、少し考えて頷いた。彼女もまた、アルバの意志は理解していたからだ。
覚悟が決まっているのも、一度決めたら曲げないのも、お互い様であるようだ。
「行こうか、二人で」
心ばかりか晴れやかな表情で、ミアは立ち上がる。アルバもそれに続き、隣に立った。
こうして話し合っている間にも、随分と日が昇ったらしい。玄関の扉を開けると、昨日と同じく眩しいくらいの光が、二人を包み込んだ。
夜族狩りの組織、騎士隊と呼ばれる彼らの拠点は、街にある大きな教会の地下にあった。教えられなければ、気づくことはできなかっただろう。
クラールの姓を口にすると、何も聞かれることなく二人は部屋へと通された。至って普通の空間であり、ローテーブルを挟んで置かれたソファに、訪ねてきた男が座っている。
彼は改まってギルバートと名乗り、ギルと呼んでくれればいいと続けた。
「君たち、本当に来てくれたんですね。断っても良かったというのに」
ギルは感謝と悲哀の入り交じったような表情で、二人に向き合った。
最初のうち、彼は今なら引き返せると諭すような口ぶり見せたが、二人の決意が固いことを知ると、暫し沈黙した。
ミアの顔を見て、何かを思い出すように悩む。
「……そうですね。私は君たちを歓迎しましょう」
一息ついて目を閉じ、ギルはそう言って案内役に手続きの用意をさせた。二人はテーブルに置かれた書類に目を通し、言われたとおりにサインをする。
死亡同意の項目は、手に持った万年筆の動きを、ほんの一瞬鈍らせた。最も、それは彼らの確かな覚悟を、揺らがせるほどのものではなかったが。
──Mia Crall──
綴り終えたミアは、自然と両親の顔を思い浮かべていた。亡き父親は、どんな気持ちで戦っていたのだろうか。亡き母親は、どんな想いで見守っていたのだろうか。
隣に座るアルバを見て、くゆる不安を打ち消す。彼女は今、一人ではないのだ。そう思うと、何とかやっていける気がした。
必要な紙面での手続きを済ませた二人は、別の部屋へと案内された。石畳に覆われたその場所は、かなり広い空間となっており、どうやら訓練などに使っているらしい。
ミアはギルから、ジンの遺品であったペンダントを受け取った。その後、白衣のようなローブを着た女性が彼女に近づき、金属製の注射器のようなもので腕から血を採取する。
月の雫。ギルの説明によると、ペンダントにある月色の宝石のことらしいそれは、使用者の血を注ぐことで共鳴し、大きな力を与えるそうだ。
騎士隊に入る際は、まず雫との共鳴を試す儀式のようなものが必要なのだと、白衣の女性が続けた。相手を選ぶのは人ではなく、月の雫のほうなのだ。
魔法のような話だと、首を傾げるアルバに、ギルは優しい顔で言う。
「世の中、不思議なこと、不思議なものは意外にも多い」
この月の雫に、それから夜族も。そう付け加え、ギルはミアにペンダントを握るよう促す。彼女の血を吸い、赤い色へと染まっている雫は、微かな温もりを帯びていた。
ミアは左手をかざし、強く握る。言われるままに目を閉じ、意識を集中させた。
手の中で、雫の熱が増す。同時に、彼女の鼓動も早くなっていく。何か力のようなものが全身に巡り、脈打つのがわかった。
──誰かしら?──
ミアの耳元で、何者かが囁いた。あるいは、それは彼女の中に響いた声なのかもしれない。
次の瞬間、不意に意識が遠のき、感覚が薄れる。ミアは立っていることができず、その場に倒れ込んだ。握ったペンダントの、そこにある月の雫の熱が、強く広がったような気がした。
視界がぼやけ、思考に靄がかかっていく。アルバの声が呼びかける中、彼女の意識はゆっくりと闇に落ちた。
***
ミアがベッドで横になっていると、医務室の扉がノックされた。この叩き方がアルバのものであることを、彼女は知っている。
「ミア、大丈夫そう?」
予想通り、扉を開けて入ってきたのは、例の儀式を終えたアルバだった。彼も、特に問題はなかったらしい。
ミアは頷き、ベッドから起き上がった。ハグしてもいいかと聞くアルバに、これで我慢だと言って手を差し出す。彼はその手を優しく、そして固く包んだ。
互いに笑みがこぼれ、始まってすらいない戦いに、まるで勝ったような気分だった。二人ならば大丈夫だと、本気でそう信じられた。
「いいですね、若いって」
医務室の外、廊下の壁にもたれ掛かりながら、ギルバートは呟いた。その表情は、どこか憐れみにも似ていた。
今はただ、そこにある温もりを離さないように。