祝祭の女神(後)
生首が喋り出した。
「な・に・を・や・っ・て・い・る・の……」
女の声だ。
「あなたが死ぬことは赦されない……私が赦さない」
「やめろ……!」
リオーダが苦しみだした!
女の声は物理的な圧力を伴ってリオーダを絡め取らんとする。
「あなたは生きなければならない……魔術師を殺すためだけに」
「それがあなたの贖罪なのだから……」
「やめてくれ!」
責め立てる生首の声にリオーダはたまらず叫んだ。
これは幻覚である。受けたダメージが彼の脳に見せた幻だ。
だが、それがわかっていてもリオーダの苦悩はいささかも薄らがない。
「さあ、魔術師を殺しなさい……殺せ。殺せ!」
「わかったから……もう黙ってくれ」
泣きそうな弱々しい声。リオーダがこんな声を出すとは。
彼の目が開く。立ち上がる。足元はまだおぼつかない。まるで酔っているようにふらつく。
「まだ生きているとはすごいね。でもこれで頭部粉砕だ!」
フラフラのリオーダに剛拳が迫る!
リオーダの精神は乖離状態。目の前の光景がまるでスクリーン越しのように感じられる。
それも、スローモーションに。
ゆっくり来るパンチを余裕の紙一重で避けた。
頭に強い衝撃を受けた副作用か? リオーダの脳は過集中状態だ。全ての感覚が鋭敏に、思考が加速し、敵の攻撃の全てがわかる。
ライカーの右拳に軽く手を添えて受け流す。蹴りの予備動作に入った瞬間に死角に入る。すべてはゆっくりと行なわれる。
ライカーが驚愕に表情を変えるその表情筋の動きの一つまでが見て取れる。
通常速度ならば鋭いと形容されるであろう大振りのフックが来る。
リオーダは避けると同時に顔面へカウンターを入れた。次も、その次もカウンターを命中させる。ライカーが鼻血を出してよろめいた。
客席は戸惑ったような沈黙。
「おおおおおおおのれ貴様一般人間のくせに! 叩き潰す!」
憤怒のライカーはついに魔術を発動した!
魔力クォークを励起! 全身に行き渡らせ、筋組織を強く、強靱に、強力に強くする!
ライカーの肉体が肥大し、完璧なバルクを三重満月の下で披露する。
――そのはずであった。
だがライカーのバルクは期待の半分以下しかアップしなかった。
なぜか?
励起された魔力クォークの半ばを、リオーダのマスイハガネが吸着したからだ。
リオーダの全身に力がみなぎる!
だが再度バルクアップしたライカーの力もすでに人間の限界を突破している!
もはや過集中状態でも見えないほどの速度でリオーダをパンチが襲う。
ブロック!
不可能!
自ら回転して間一髪、ダメージを軽減。
追撃が来る。右腕でガード。鉄球をぶん回したような衝撃! 骨が軋みをあげる。
だが、同時にリオーダの左手刀がライカーの首筋に命中していた!
「うおおおおお!」
マスイハガネの魔力クォークを全て消費、そのまま振り抜く!
ライカーの首は、三重満月まで届くかと思われる勢いで空中へと飛んだ!
一拍遅れて首の断面から血の噴水が撒き散らされ、ライカーの胴体は後ろへ倒れた。その大胸筋の上に、落ちてきた首が着地。
魔術師は死んだ。
月の光が明るく照らす夜。
客席は0デシベルの沈黙。
一時的な過集中が切れ、リオーダは目の奥の激しい頭痛を覚え膝を突く。マスイハガネも再び魔力クォークを消費しつくして沈黙。
うつ伏せにばったり倒れた。全身の力が入らない。
あの娘の鎖を解いてやらないと……。
ファルアは今、どんな表情でリオーダを見ているだろうか?
客席の住民どもがざわつきはじめた。
信じられないことを目の当たりにして、混乱を来たしている。
まさか、魔術師が? あの、神にも等しい、最強無敵不可侵な魔術師が……死んだ?
魔術による幻ではないかと様子をうかがう者も多い。
その時、辺り一帯が振動する!
揺れ動いているのはコロッセオだ。ライカーの魔力が途切れたせいで建物が崩壊をはじめている。ひび割れが入る。粉が落ちる。
住民が浮き足立つ。
「危ない!」「逃げろー!」
だが、開けた客席やフィールドは喫緊の危険は少ない。
危ないのは屋根付きの貴賓席だ!
貴賓席で身動きが取れないファルア! その顔に浮かぶのは、困惑、恐怖。いくらもがいても鎖はとけない。
リオーダも動けない!
コロッセオの揺れが強くなりつつある。
リオーダはファルアへ向けて無理に這っていく。
「誰か……その娘を助けろ!」
リオーダの焦りの叫びを聞く者などいない。
這う速度は遅く、このペースではファルアのところへ着くのに明朝になってしまう。
「いいじゃないの。貴方は魔術師を殺すだけの存在。他の一般人間が生きようが死のうが」
また、生首の女の声が、リオーダの頭蓋内に反響する。
リオーダは這う。
「それとも、代償行為? わたしと、同じくらいの、年代の子を助ければ、罪悪感が薄れるの?」
リオーダは這い続ける。
手が何かに触れた。ライカーの屍だ。
急激にマスイハガネに魔力クォークが吸着する!
リオーダは跳ね起きた!
ライカーの筋肉に残留する魔力クォークにマスイハガネが反応したのだ。疲れはある。ダメージもある。だがリオーダは走った。
生首の声を置き去りにするように走った。
ファルアの頭上の石天井にひび割れが入った。もはや一刻の猶予もない!
フィールドから一跳びで客席に上る。まっすぐ貴賓席へ。ファルアの助けを求める顔。
鎖を手にした。頭上からひっきりなしに粉が落ちる。鎖は複雑に絡み合っている。丁寧にほどいている暇はない。だが、引きちぎるほどの力がマスイハガネに残っているだろうか?
躊躇する時間はない。リオーダは両腕に力を込める!
次の瞬間、一気に天井が崩れ落ちた。貴賓席は完全に石の下に埋まってしまった。
リオーダは? ファルアは? どうなったのだろうか?
二人は圧死したのか? それとも生き埋めになってしまったのか?
どちらでもなかった!
見よ、崩れた貴賓席のすぐ脇に、ファルアを抱き、片膝をついているリオーダの姿があるのを。
間に合っていたのだ。
だが、今度こそ完全に力を使い果たしていた。
そのまま意識を失う……。
今回は、生首の声を聞くことはなかった。
目が覚めると、誰かがリオーダの顔を覗き込んでいる。
薄目を開けたリオーダ。逆光ではっきりとしないが、とても懐かしい顔のように見えた。
「姉ちゃん……?」
無防備な精神のままその言葉が口をついて出た。
やがて覚醒するに従い、現実感を取り戻した。
そこにいるのはファルアだった。
リオーダは粗末な家の粗末な寝台に寝かされていた。ファルアの部屋なのであろう。
崩れ去るコロッセオから彼を連れ出したのもファルアに違いない。
「世話になった」
ファルアは差し込む日の光の如く、柔らかく微笑んだ。
「魔術師は死んだ」
出立の準備を終え、家を出るところで振り返ってリオーダは言った。
「おまえはどうする?」
ライカーの死でこの町の人心がどうなるのか予測は難しい。リオーダに関わった彼女が無事でいられるという保証はなかった。
「魔術師の支配から逃れた一般人間の村がある。よければそこへ連れて行ってやるが」
ファルアはリオーダに感謝するように笑顔を見せたが、首を横に振った。
「そうか。気をつけてな」
魔術師に死をもたらす黒い男としては実に平凡な挨拶であった。
リオーダはその家をあとにした。
この国で生まれ育ったファルア。旅人をだまして犠牲にするという住民たちのやり方が許容できず反抗して、声を潰されたファルア。殴られ、蹴られ、迫害されても、それてもまだ、この土地に愛着があるのだった。
都市城壁はコロッセオのように崩れてはいない。魔術師が作ったのではなく一般人間の努力の結晶なのだ。
リオーダが歩いていると住民たちが寄ってきた。
例の地区代表が他の連中に押されるように前に進み出た。
「ほ、本日は誠に天気に恵まれ……」
リオーダは無視して行こうとした。
「お、お待ちを! ……貴方様を罠にかけるような真似を致しましたことに関しては、誠に慚愧に堪えず……」
ちらちらリオーダの顔色をうかがいながら、謝罪のような言葉を吐き出す。魔術師を殺したのだからリオーダも魔術師か、それに類する存在だと思って怯えているのだ。
「旅人さまを眠らせる件は、魔術師ライカーに強いられてやったことでして」
「そうだろうな」
リオーダの口調には皮肉がまぶされている。
住民たちが、ライオンに殺される旅人を見て熱狂していたのは、たしかに強いられて無理にやったことに違いない。
「この国にまともな人間は一人しかいないな。他は全員クソ野郎だ」
おれも含めてだが。
絶句した連中を置いて、リオーダは歩き出す。
次の魔術師を求めて……。