花に水をやるように
ある日の夕方に、城からの知らせが来た。
差出人は殿下の補佐官を務める弟のグイード。陛下妃殿下のお許しも得ているので来るか来ないかの判断は私に任せると書いてあって、だからいくつも作ってもらった登城しても大丈夫だけど猫のためのドレスですぐに向かった。
もう顔馴染みになっている騎士たちに案内されて部屋の前まで来ると、ちょうど皆様が出てくるところだった。
国王陛下、王妃殿下、第二王子殿下。王女様は昨年国内の侯爵家に嫁いで今は城にはいらっしゃらないので、ご家族がそろっているということ。
私の姿を見た妃殿下が、少しだけ足早に駆け寄ってそのまま抱きしめてくれたから。来てくれてありがとうねと仰るから。
ああ、この方々は本当に愛情深いなと、申し訳ない気持ちになってしまった。
陛下は沈んだ様子でも笑顔を向けてくださり、第二王子殿下は顔を見られたくないのか陛下の背中に隠れてしまった。物心ついてから経験するのは初めてだそうだ。
私は、ノックをせずに、自分の手でそおっと猫部屋の扉を押し開けた。
落ちる夕陽が夜の色を連れてくる頃、灯りに火は入っているけれど少し暗くなった部屋の中。敷かれた絨毯に直接座りこむエルベルト様と、かぼそく鳴いている猫たち。
白い清潔な布に包まれて、静かに動かない黒白ちゃんを囲んで鳴いていた。
「今、準備をしているからね。お別れの文句はたくさん言ってやるんだよ」
白ちゃんは額に額をこすりつけていて、黒ちゃんが布の中に入ろうとするから殿下が苦い顔で「ダメだよ」と自分の膝に乗せていた。
「一緒には行けない」
淋しいねえと殿下が言うから、私は声もかけずに傍に寄ってしまった。
「……ルチア?」
先月15歳になったエルベルト様の髪は、もう亜麻色じゃない。
成長するにつれてだんだんと色濃くなって今では紅茶のような色をしている。青みがかっていた瞳も、すっかり綺麗な緑色になって、あれは仔猫の青だったんですねと言ったら複雑な顔をされたのがこの間の話だ。
美女に囲まれたハレムで眠っていた天使と会ってから、もうそんなに経つのね。
大人、というにはもう一歩だけど、どこから見ても素敵な男の人になってしまったエルベルト様が、私の顔を見て私の名前を呼んでそのままぽろっと涙を一粒落とした。
慌てた様子はないけれど、先ほどより苦い苦い顔をされて乱暴に手でそれを拭う仕草に余裕はなかった。黒ちゃんは殿下の手元から抜け出して、黒白ちゃんの前足を舐めていた。
「ごめん、今は」
「エルベルト様。抱きしめてよろしい?」
返事をきかずに、絨毯に膝をついた私は背中からぎゅうっと抱きしめてあげた。まあ本当に大きくなってしまったわ。肩から包みこむのを想像していたのに、これじゃ首に巻きついてるみたい。
きれいな美味しい紅茶色の髪に頬寄せて、エルベルト様と名前を呼ぶと、ずるいなあと返された。
「今は、……ずるいよ」
「彼女はとっても幸せでした。エルベルト様にこんなに愛されて」
「でも、だから、何度経験しても悲しいなあ」
首に巻きついている私の腕に、そっと手が乗る。大きな手。私よりひとまわり大きいかしら。だけど匂いを嗅ぐように鼻先をすり付ける仕草は変わらないのね、くすぐったい、涙があったかい。
私が婚約者候補として登城するようになって、殿下の猫部屋に入れるようになってから、虹の橋に向かった子は黒白ちゃんが初めてだ。
この国では、飼っている可愛い子たちが亡くなると虹の橋に向かうと言われている。
その虹の橋のたもとに彼らの天国があるんだって。
人と彼らは生きている時間が違うから、そこで大好きな人を待っていて、その人が来たら一緒に虹の橋を渡るそうだ。黒白ちゃんはきっと、殿下が来るのをのんびり待ってくれるだろう。
王室の皆様は何匹もの天使に囲まれていて、それは贔屓の子っているけども、本当にどの子にも愛情を注いでいる。小さな天使が虹の橋に向かったというだけで、あんなに心砕いてくださる。その様子を私に知らせてくれるグイードも相当だけどね。
でも陛下の許可をもらったとは書いてあったけど、きっと、エルベルト様に了承は得ていないんだろう。私の顔を見てちょっと驚いていたし。
だって。
私は一度でも耐えられなかった。
幾度経験してもまた愛情を注げるエルベルト様のようにはなれなかった。
ルゥ。
私の可愛いルゥ。
彼はお母様がお嫁に来る前から飼っていた猫で、お母様と一緒にバッソ家にやってきた。
だから私の先輩だった。友達で、兄のようで、家族で、私が勉強する机の半分くらいを占領して昼寝をするのが日課の可愛い子。
お母様が連れてきたのに、と文句を言われるほど一日のほとんどを私と過ごした。食事の時以外はくっついて、やわらかい毛並みに触れていなくても目に見える場所にはいて、大好きよってキスするとぺしっと尻尾で叩かれた。
紅茶色したルゥは、私が5歳の時に虹の橋に向かってしまった。
苦しんではいなかったから年齢のせいだったのかな。静かすぎて息をしているのか心配でずっと傍にいて、最後は母も弟もいたのに、なーと大きく鳴いたと思ったら私の膝に手を伸ばしたから抱っこした。
低い振動が私の小さな体に響いて、毎晩眠る時と一緒だと思った。それが聞こえなくなるのはルゥが眠った時だから、ゴロゴロが聞こえなくなって、ああ眠ってしまったんだもう起きないんだとなぜか理解した。
緑の目をしたルゥは、私の腕の中で眠りについた。
なのに私は泣かなかった。もう起きないと理解したらぽっかりと大きな穴が空いただけで、泣けなかった。
帰ってきたお父様に優しく抱きしめられた。泣いているお母様に愛してるをたっぷりもらった。ルゥがいないと泣いて家中を探す弟を抱きしめて「いないのよ」って何度も言い聞かせた。
私のぽっかり空いた穴を埋めてくれたのは大好きな家族で。
その家族を失う時にはまた大きな穴が空くのだと想像するだけで怖くなった。
だからもういらない。
ちっぽけな私は、大好きな家族だけで手いっぱい。
だから、王子妃なんて無理と思った。
妃殿下が大の猫好きなのは貴族だけでなく国民のみんなが知っていること。陛下の熱烈な求婚に対して、「この子と一緒にもらってくださるなら」と初代灰色シマシマちゃんと輿入れした話は有名だ。
妃殿下を愛するあまり条件を受け入れた陛下も、実際に触れてみて猫の虜になった上、一緒にやってきた灰色シマシマちゃんが懐いてくれずそれなら!と彼にお嫁さん猫を連れてきたのも有名な話。
殿下方は生まれた時から天使に囲まれて育った。
私と一緒なのに違うのは、あの方々は何度見送っても、また心から愛してる。
蓄えた知性と枯れない泉のような愛をそそぐのが王室だというのなら、私には難しいと、婚約の話をいただいた時にお父様から話してくださったはずだ。もうちょっと比喩的に、婉曲にだと思うけど。
猫たちは相変わらず可愛いと感じるし大好きだと思うけれど、一緒には暮らせない。
愛するのは怖いわ。
なのにね。
「ルチア。つらいのに、来てくれてありがとう」
「私のルゥが行ってしまった時も、こうやって弟を抱きしめました」
「……うん? グイードと同じ扱い?」
「いいえ。あの時は、弟に言い聞かせることで自分を納得させていたんです。でも今は、あなたが泣いているから、抱きしめてるんです」
ひくりと肩が跳ねたと思ったら、少し沈黙して、大きくなった手が私の腕を叩くので巻きついていた腕をほどいて肩に置いた。
体をひねるように振り返った殿下の頬を伝っている涙を拭うと、いっぱいになった感情が揺れてちょっと痛いなと思う。
失って穴が空くのとは違う。
エルベルト様がくれたもので、今の私はこんなにもいっぱいになってしまった。
「私の時も、泣いてくださいます?」
「……ちょっと待って。だから今はずるいよ」
「私は泣いちゃいます。エルベルト様。彼女は本当に幸せでしたね。あなたに愛されるのはこんなに幸せだって、私知ってます」
「今は、その、涙腺が緩んでるから……ムリ、駄目だ泣く、ルチア卑怯だ」
「ごめんなさい。こんな勢いでないと言えないので」
「愛してる。すごく、どうしようもなく、愛してる。前よりもっと愛してる」
鼻先がくっついて、頬にキス。
初めて会った日と同じ。あの時は本当に驚いたんですよ?
だけどもう、嬉しくてくすぐったいだけ。
お別れがつらいから愛するのが怖いなんて言っている私に、出会ってからずっと、毎日欠かさず花に水をやるように惜しみなく愛情をそそいでくれた。
そんなの好きになってしまっても、仕方ないでしょう。
エルベルト様がいっぱいくださるから、ぽっかり空いた穴が埋まるどころかあふれてしまったのね。
嬉しい。大好き。愛してる。
お別れはいつでも悲しいけれど、今度からは一緒にお見送りできるわ。あなたが悲しいなら、私がたくさんあふれるほどに愛してるをあげたいわ。
もう少しだけ泣いたエルベルト様の頬を両手で包むと、その上から大きな手で包まれてしまった。
枯れない泉のように絶えない愛もあるかもしれないけれど、私は家族から可愛い天使からあなたからもらったものでできている。
「ルチアはもう、さみしくない?」
お別れの時はきっと泣いちゃうけど、今は胸がいっぱいです。
「初めてお会いした時もそう仰ってましたね。ルゥのことを聞いてました?」
「いや。知ってたけど、知らなかったんだ。見送る側になって初めて、ルチアを、置いていってしまったんだって理解したから」
うん? ええと?
不思議な言い方をされたエルベルト様は、頬だけじゃなくて耳にも額にも瞼にもキスしてくれて。
「ルチアがくれた分をいっぱいあげたかった。でも、私は君を好きになってしまったんだ」
嬉しい言葉をもらってるはずなのに、どこかつながらないような。
そんな印象のまま、涙で磨かれた綺麗な緑の目が近づいて。
「……ルゥ?」
その名前に微笑んだ唇からのぞいた舌が、さり、と私を舐めていった。