二つ目の記憶 -野菜嫌い-
空は雲一つない快晴。
照り付ける日差しが台地を焼き、大都市の喧騒のごとくセミたちはわめきたてていた。
「なあ、ねえちゃんは場所しってるんじゃなかったのか」
「さっきも言っただろう、私に分かるのはトラウマとなったものがある記憶まで。いったい何が君の心に傷を負わせたのかまでは分からないよ」
何度目かの同じ答えを聞いた少年は汗まみれの額を肩で拭い、メルルと共にクワで野菜を傷つけないよう注意しながら畑の土をひっくり返していた。
「それに、ここが怪しいを言ったのは君の方だ」
メルルは目の前に広がる、自分の店が何十軒も立てられそうな広大な土地を見渡した。
* * * * *
「うちの子の野菜嫌いを直して欲しいのです」
そう言って中太りの女性は隣に座らせている息子の方を見た。
メルルがそちらを向くと少年は不貞腐れたような表情で目をそらし、店に並ぶ用途の分からないガラクタに視線をめぐらした。
「それと私に何の関係が」
メルルは女性に視線を戻して疑問を投げかけた。
本業である店と関係が無いことはもちろん、副業の方も子供の好き嫌いをどうこうするものではないからだ。
「大ありですよ、この子の野菜嫌いはトラウマによるものとしか思えないんです」
女性は自信たっぷりに言った。
「以前は、むしろ野菜は好きな方でした。それも夫の父、この子のお祖父ちゃんが野菜作りを生業としていまして、一昨年にはコンクールで最優秀賞を取ったほど素晴らしい野菜を作っているからです。それが去年、私や夫の仕事の関係でお祖父ちゃんの家に少しの間あずけていたのですが、帰ってきたら野菜を食べられなくなっていたんです。無理に食べさせようとすれば吐いてしまうほど拒絶するように」
「……えっと、つまり」
「もう、察しの悪い方ね。いい、この子が野菜を食べられなくなったのは、お爺ちゃんの家に世話になっている間のことなんです。でも本人は何も覚えていないって言うし、これは酷いショックを受けたせいとした思えないでしょう」
やや無理矢理こじつけているように感じなくもないが、話の通り突然の事で本人が覚えていないとなると、様々なトラウマと原因を見てきたメルルには違うと否定はできなかった。
「君はどう思ってるのかな」
「別に、そんな大したことじゃない」
話を振られた少年はそっぽを向いたまま不愛想に言った。
「とにかく、この子の野菜嫌いはその時にあった“何か”によるトラウマなのは間違いないんです」
「はあ、分かりました。お母さんはこちらでお待ちください。私はその子の――」
「ショウだよ」
「……ショウ君の記憶を探ってみます」
テーブルの下で寝ていたクロアは、
「ようやく出番か」とメルルの肩に飛び乗り、こちらを向いたショウと目を合わせ瞳を怪しく光らせた。
「それでは、深淵の記憶へ出かけましょう」
* * * * *
軽く穴を掘っては戻し、また掘て、そして戻す。
メルルたちは何度も同じ作業を繰り返しているが、原因が現れる前兆すら起きる気配はなかった。
「そろそろ日が暮れ始めたね」
太陽が傾き世界を照らす色を変えはじめたころ、メルルはすっかり曲がった背を伸ばした。
「ここは夢なんだろ、なのに日が暮れるのかよ」
「当然じゃないか。もっとも君が、日の暮れない空を見たことがあるのなら別だけどね」
ショウはクワを肩に担ぎあげ、
「そんなのあるわけないじゃん」
そう言ってメルルの先を歩き、遠くに見える祖父の家へ向かった。
平屋で、もっとも多い時は三世帯が一緒に生活をしていたという大きな屋敷は、日によりすっかり赤く染まった記憶世界の中で唯一人が住める建物だった。
脇には小さな犬小屋があるが、そこで飼っていた犬はだいぶ年をとっていたこともあり、二年程まえに衰弱して死んでしまったとショウは語った。
二人が庭の納屋にクワを置いて中に入ると、美味しそうな匂いが鼻腔をくすぐった。
「おや、帰ってきたか坊」
「ただいま」
台所の方から顔だけを出したお祖父さんは、玄関に立つショウの姿を見ると優しい笑みを浮かべた。
「ねえちゃんも上がりなよ」
「それではお言葉に甘えさせてもらそうかな」
メルルは脱いだ靴をそろえた時に、玄関にある靴の数が多いことに気が付いた。
今この屋敷にいるのは自分とショウと、そのお祖父さんの三人だけのはずだったが靴は四組以上置かれていた。
「ショウ君、この靴は」
「……祖母ちゃんのだよ。今年の初めから行方不明なんだ」
そう話したショウは悲しそうな顔をしていた。
「お祖母ちゃんのことは好きだったかい」
「祖父ちゃんほどじゃないけど、でも祖母ちゃんがいなくなってから祖父ちゃん元気がなくなってる気がするんだ」
「そっか、早く見つかると良いね」
二人が居間に入ると目の前には既にテーブルに料理が並べられていた。
新鮮な野菜を使ったサラダに川魚の塩焼き、具だくさんのみそ汁、ご飯は少しだけ焦げているところがあった。
「あれ、祖父ちゃん一つ足りないよ」
テーブルに置かれている茶碗はショウとお祖父さんの二つだけだった。
「今日は疲れただろ、たらふく食べろ」
何も聞こえなかったかのようにお祖父さんはショウの席にみそ汁の入ったお椀を置いた。
「ねえ祖父ちゃん」
「これで良いんだよショウ君」
食い下がろうとするショウにメルルは首を振った。
「ここは君の記憶の一つ。君と私が揃ってお祖父さんに会ったことはないだろう、だから当然ここでは、私はいないことになっているんだよ」
ショウは納得できていない様子で、
「じゃあ飯はどうするんだよ、それに寝るところも。いないことになってるなら用意してもらえないじゃないか」
「べつに構わないさ。それに君にとっては一晩でも、私にとっては“一瞬”にすることも出来るしね」
「なんだよそれ」
「おっと、詳しくは企業秘密だよ。真似はできないだろうけどね」
そう言ってメルルが、いつからか持っていた杖で床を“トントン”と叩くと、ショウも含めた自分を除く世界の全てが一気に加速した。
高速で過ぎていく世界ではショウですら純粋な“記憶の一部”となり、メルルの存在を完全に消した時の流れの中で記憶の通りの生活を送った。
メルルが「そろそろかな」ともう一度杖で床を軽く叩くと時の流れは元に戻った。
「おせーぞねえちゃん。暑くなる前にさっさと行って終わらせようぜ」
玄関に立ったショウはクワを手に持ってメルルの準備が終わるのを待っているようだった。
「少し飛ばしすぎたかな」
「なんの話し」
「いや、こっちのことさ」
訝し気な表情で玄関から出ていくショウについてメルルも畑へと向かった。
まだ午前中なこともあり昨日よりはマシな、それでも辛い日差しと気温の中で、二人は野菜を傷つけないように土を掘り起こしていった。
一刻も早くこの苦行から解放されたい思いで無駄口も叩かずに作業していると、
「おおい、サンジさんの知り合いかー」
顔を上げて声の方を向くと腰の曲がった老人が立っていた。
「ショウ君あれは誰だい」
「んー。あ、シローのじっちゃんじゃんか。よく祖父ちゃんと遊んでる人だよ」
「お祖父さんの知り合いか、何の用だろうね」
ショウは話を聞くために近寄っていき、その間メルルは土をひっくり返して待った
分かれを言ってシローという老人が去り、それと同時に戻ってきたショウは浮かない顔をしていた。
「祖父ちゃんに言伝だってさ、しかたないから一回かえるよ」
ジリジリと太陽に焼かれていたメルルはこれ幸いと「なら私も行こう」と共に屋敷に戻った。
「そんじゃ、祖父ちゃんに言ってくるわ。それまで少し休んでていいぜ」
「そうさせていただこうかな」
声をかけながら奥の方へ向かうショウを見送った後、メルルは適当な部屋へ入った。
中は畳敷きでそれほど広くなく、入り口の向かい側は庭に面した障子窓になっていた。壁側には衣類などを仕舞うタンスと骨董品の並べられた棚、座布団の置かれた座敷机の上には、均等に纏められた紙束がいくつも重ねられていた。
メルルは骨董品の並べられた棚の一か所に、机の上の物と同じような紙束が並べられているのを見つけ手に取って見た。
驚いたことに紙束は中を見ることが出来た。
どうやらお祖父さんの日記のようで普段のことやショウが遊びに来た日のこと、他には野菜の育て方に関して細かく記録がつけられていた。
「ねえちゃん、祖父ちゃんの部屋で何やってんのさ」
いくつかを暇つぶしに流し読んでいたところにショウがやってきて、見るからに呆れた様子でメルルを見ていた。
「他人の日記なんか勝手に読んだら怒られるぞ」
「ごめんごめん、それよりお祖父さんは見つかったのかな」
「いや、どっか出かけちゃったみたい。いつ帰ってくるか分かんないし、畑の方の続きをやろうぜ」
「そっか、私は待っていても構わないんだけど」
「そうやってまた続きを読むつもりだろ」
「そんなことはないよー」
メルルは日記を元の場所に戻し、ショウの脇を抜けて玄関へと向かった。
「あ、畑には先に行っててくれるかな。ちょっと納屋に寄りたいから」
「別にいいけど、納屋なら一緒でもいいんじゃないか」
「ショウ君。さっき君がシローさんと話している間、私は健気に一人で土を掘り返していたんだ。君のトラウマを直すための事なのに、今のままだと私の方が働いていることになる。これは非常に不味いことなんだよ。何が不味いかは詳しく言えないけど、とてつもなく良くないことに繋がる可能性が大きいんだ。だからバランスを保つためにも君には先に行って少し多めに働いてもらわないといけない。大丈夫、私もすぐに追いつく」
ショウは何を言っているのかサッパリ分からなかったが、メルルがあまりにも真面目な顔で言っていたので「お、おう」と返事をして畑に向かうしかなかった。
メルルはその姿が小さくなると宣言通りに納屋へ向かって中を物色した。
そしてクワよりも少し長い金属製の熊手をいくつか見つけると、一つ一つ手に取って見てみた。
今使っているクワを除けば、基本的にキレイに手入れをされている農具の中で、熊手の中に一つだけ先が泥で汚れているものがあった。
「これか、あとは切っ掛けをどうするかだけど……」
メルルは熊手を畑に引きずりながらわざと遠回りをし、ぶつくさと文句をつぶやいて土をいじっているショウの元へ向かった。
「ショウ君、これ使って探してほしいものがあるんだ」
「それ熊手じゃん。なんでそっちを使わないといけないんだよ、てか探し物って」
「いやー、杖をどこかに落としてしまったようでね。納屋を出るまでは持っていたはずなんだけど、君を探しているうちに落としてしまったみたいなんだ」
「なんだよそれ、しかも俺が熊手を使う理由になってないし」
「本当に一生のお願いだよ、ここに来るまでに少し使ってみたけど私には重くて」
ショウが周りを見ると確かに、畑のあちこちには熊手を使ったような跡が見られた。
また今にも泣きそうな顔で自分を見つめるメルルを前にして否定しきれるほど、ショウは人を疑うことに慣れてはいなかった。
「しゃーないな、貸せよ」
自分よりも背が高いくせに力が無いらしい少女の手から熊手を取り上げ、
「それで、どの辺に落としたんだ」
「たぶん、あっちの方だと思う」
メルルの指さした方は屋敷を挟んで向かい側だった。
なぜそんな場所に落としているのかメルルは答えなかったが、心優しい少年は追及せずに言われた場所の方へと一緒に向かった。
「この辺だと思うんだけど」
「え、マジでここなの」
「うん、マジもマジ、大真面目にここの中だと思う」
メルルが案内したのは、作物の苗が植えられている高い柵に囲まれた小さな畑だった。
ここである程度育ててから、大きな畑に植えなおすようにしているとショウはお祖父さんから聞いたことがあったが、その理由は何だか難しくて覚えていなかった。
「いや、やっぱりおかしいって、どうやったら中にはいるんだよ」
「投げたから」
「何で泣くほど大切な物を投げてんだよ」
「昨日から何も食べてなくてイライラしてて……」
懇願する姿と、だんだんと情けない気持ちになってくる話を聞いたショウは、葛藤するように頭を掻きむしったあと「分かったよ」、と意を決して策を乗り越えて中に入っていった。
気が付くと周囲は夕日の色に染まっていた。
ショウは苗を傷つけないように慎重に熊手で土を掘り返していった。
日の光は赤く、どこまでも赤く台地を染め上げた。
やがて“カツン”と熊手が固い物に触れた時には、世界のほとんどは赤以外の色を失っていた。
「おい、なんだよこれ」
掘り返されたものは日の影響を受けず白い姿のままだったが。
「なんでこんなのがここに……、ねえちゃん、なんだよ、これ……」
「何か見つけたのかい」
「これ、この布……、ばあちゃんの……」
「坊、ここで何をしているんだ」
ショウが振り返ると開いた柵の入り口からお祖父さんが見下ろしていた。
夕日を背にしたその姿は真っ黒な影になっていて、それがこの世のものでないほど恐ろしく感じた。
「じ、じいちゃん、これ」
「それはなんだ」
「ばあちゃんの、服の……」
影はショウのすぐ近くまで来ると、掘り返された白い“それ”と泥に汚れた布を見下ろした。
「――そうか、ここにいたのか」
ショウの方を向き、光に照らされた影の顔は涙に濡れていた。
「ありがとうな、見つけてくれて。……お前はばあさんのこと好きだったから辛かったろう」
お祖父さんは力強くショウを抱きしめた。
ショウは徐々に封じた記憶を受け入れ、泣きじゃくりながらお爺さんの体に回した腕に力を込めた。
「ごめん祖父ちゃん。俺、祖母ちゃんで育った野菜を食ってたって思うと凄いショックで、一番つらいのは祖父ちゃんだって分かってるのに。野菜食べようとすると思い出しちまって……」
二人の姿を柵の上に器用に立って見ていたメルルは、
「ショウ君、野菜は食べられるようになりそうかい」
分かり切った質問を尋ねた。
「食べられる。すぐには無理かもしれないけど、また祖父ちゃんの上手い野菜を食えるようになる」
メルルは答えを聞くと“トン”と手に持っていた杖で柵を叩いた
「目覚めの時間です」
* * * * *
「なかなかエグイ原因だったな、子供ならなおさら辛いだろう」
クロアは店の仕事をほっぽり出して、ティーセットの置かれたテーブル席でくつろぐメルルの足にパンチを繰り出しながら言った。
「お祖父さんは今でも野菜を作り続けてるそうだよ」
「本当か、小僧よりも受けた衝撃は大きいだろに」
「どうだろうね」
「なんだよ、その訳知り顔は」
メルルは執拗に攻撃を続けるクロアを抱き上げ膝の上に乗せた。
「実は夢の中で面白いものを読んでね」
「と言うと」
「日記には一昨年のことも書かれていたんだけど、そこにね“犬を肥料に使ってみた”て書いてあったんだよ。そしてその年のコンテストで最優秀賞になった」
クロアは驚いた様子で瞳を針のように細くした。
「……犬はたしか二年前に死んだんだよな、なら――」
「そっちは純粋に衰弱死だったみたいだよ、書かれてた。それと去年のコンクールは結果が悪かったらしいんだけど、今年の初めの方に“新しい肥料を作ってみた”って書いてあってね」
「おいおいおい、ちょっとまて、もしかして婆さんは……」
「可能性はあるかもしれないね」
最後まで言わなくてもメルルにはクロアの言わんとしていることは分かった。
それはあくまで証拠のない憶測でしかないが、決して無いとは言い切れなかった。
「お前、夢の中で日記を読んだんだよな。なら小僧も日記の内容を知ってるはずだよな」
「“前兆”が無かった以上、ショウ君は日記のことと今回の件は結びつけていないみたいだよ。それが真実だといいんだけど」
メルルはポットからすっかり冷えた紅茶をカップに注いだ。
その液体はとても、とても、赤い色をしていた。
「来年はどうなるのかな――」