兄の部屋
加寿子姉さんは、あの親族一同の中ではそれほど嫌いじゃないけど、苦手な部類に入るかな。
女の事を知る、そのために葵はまず、奔流のような父の姉、伯母の加寿子の攻撃に耐えなければならなかった。
「葵ちゃん、仕事はうまくいっとると?今の時代は女も働かんとなんてね、信一君も、共働きのお嫁さんもらえばよかったとに。ほらそこの家の子、すぐそこの地元の大学行って、帰ってきて看護婦のお嫁さんもろうてね」
「はあ、そうですか」
「あなたも今から看護か介護の資格取ったらどう?」
さらりとそんなせりふを口にする。
「資格取ったら、働き口、口利いてあげよか?」
本気だから怖い。
「おばさん、私いくつだと思ってるの、それに働いてるのよ」
「なんやわからんようなそげな仕事!」
吐き捨てるような言葉に侮蔑が混じる。DTPオペレーターなどという言葉は、理解不能なこの世のものでない如何わしい響きなのだ。人の話していることを理解しようという心はまるでない。キャパがすぐにあふれてしまう。理解できない事はスルーするか侮蔑する。聞こえないような顔をするのも久しぶりだから、葵の頬は歪む。うまく表情を作れない。太一の太い腕を思い出して何とかこらえた。
「お兄ちゃんのことを教えて」
「あなたは反発して、反発して……お母さんば泣かせとるのよね」
葵は我慢強くもう一度繰り返す。
「お兄ちゃんのこときかせてよ」
「戻ってあげたほうがよかとよ。結婚せんね?」
父がまだ後生大事に持っている、古すぎて使えなくなった、テープレコーダーみたい、と葵は思う。
──太一はテープわかるよね?
──ずいぶん見てないけど、わかるよ。
──知ってる?CDも壊れると、あのテープレコーダーみたいになるんだよ。
──CDって壊れるんだ?読めなくなるだけかと思ってた。
──なるなる。真夏の車に置きっぱなしにしてごらん。
辛抱強く、もう一度繰り返す。そっちがテープなら、こっちだって壊れたCDプレイヤーになってやる。
「お兄ちゃんが付き合ってた人って、どんな人だったの?」
叔母は瞬間、押し黙った。わかっててやってるんだな、この人も。
「みっともなか話やから言いたくなかよ。六歳も年上の、バーに勤めよった女よ、情けなかやろ」
嫌悪でいっぱいの声だった。
「それだけ?」
「あなたも涙の出るやろ、情けなか」
どんなすごい事かと構えていたから、かえって拍子抜けがしてしまった。いや、涙、別に出ないけど。情けないとも思わないけど。本当に、本当にそれだけなの?
「お母さんたちは、反対したの?」
「賛成なわけなかじゃない!商売女よ?」
気持ちが悪い、と付け加えそうなほど、伯母は体いっぱいで嫌悪を表していた。ああ、こういう一族だったなと、葵はまた思い出す。少しずつ、体が馴らされてまたあの空気の中に委縮していた少女時代に戻って行く。
よくある映画のワンシーン、場の空気を仕切ってるかっこいいおじいちゃん、おばあちゃんを中心にまとまってて、和気あいあいとした空気、のんびりとした気のいいお隣さんがた、葵に限ってはそれらこそ全部ない。全て作られた幻想にすぎなかった。
郷里ではいつも、車がなければ移動はままならない。バスだって本数は少ないから、車と免許のあるなしは十分に死活問題だった。スーパーに寄って夕食の買い物をする。
父の車を運転しながら葵は考える。バー勤めのホステスか、なるほどね。
夜の蝶、商売女、風俗嬢、そこに様々なランクや種類があって、その人がホステスか、キャバクラ嬢なら、風俗嬢とはまた違うのだろうに、伯母はわかったような顔をして決めつけている。四、五十年専業主婦をしてきた彼女らには、バーに勤めるのは体を売るのと同じなのだ。
それでも、間違ってはいないかもしれなくて、ホステスだっていい感じの客がいれば寝て、独身男をひっかけるぐらいはするだろう。兄は多分、釣られた魚だったのだ。
それでもお兄ちゃんがいいって言ったんじゃないの?お兄ちゃんが選んだ人だったら、私にはそれほど変な女とも思えないんだけど。それとも真逆で、金髪で化粧ばっちり、長いネイルでよろしくって言ったんだろうか。それは父と母は卒倒するだろうな。特に母は。
ひとりおかしくなって葵は笑った。涙まじりの歪んだ笑顔ではあったが、ここに帰ってきてはじめて浮かんだかもしれない笑顔だった。
私が太一ちゃんを紹介するほうがまだましだ。それでもあの茫洋とした姿には、ちょっと眉を潜めるだろうけど。
車を車庫に入れ、夕暮れ時に人気がない家に違和感を覚えた。何でお兄ちゃんの部屋だけに電気がついているんだろう。家全体からずっと、線香の匂いが絶えない。
そっと、ギシギシ鳴る階段を登っていった。父も母もいない。兄の部屋には鍵がかかっていた。
「誰かいるの?お母さん?開けてよ」
葵は顔をしかめて鼻をつまんだ。何これ?くさい。焦げた匂い?兄の使っていた毛布?部屋の外に、無造作に置かれた段ボールがあり、半分蓋がかかって中身が見えない。
葵はそっと手を伸ばした。千切られてる?焼け焦げてる?どうしてこんな所にあるのに、毎日その前を歩いていたのに、気がつかなかったんだろうと、ぞっとした。
部屋の中で何かが動く気配がした気がした。
必死になって携帯をさぐる。
「トオルちゃん、お願い」
亨が出るか出ないかのうちに、話す言葉もとりとめがなく、息が切れた。うまく喋ることができない。
「今家に誰もいないんだけど、お兄ちゃんの部屋に電気がついてて、中から鍵がかかってるの」
手が震えていた。
「お願い、助けて!」
『落ち着けよ』
「来てくれたんだ」
階段から降りることも出来ずに、葵は兄の部屋の前でただ縮こまっていた。亨を見上げ、本当に着てくれると思わなかった、と息をつく。半ば過呼吸になっていた。
「息を吸えよ」
亨はペットボトルを出した。無我夢中で中身を開ける葵を制する。
「バカ、そんながぶ飲みする奴があるかよ」
亨は兄の部屋の鍵を調べた。
「これは、外からかかってる」
「本当に?でも、何のために?」
落ち着けって。ほら、ちょっと待って…1、2、3。
「すごい、開いた、トオルちゃん、泥棒?」
「このくらい、普通にできるって」
部屋の中に、また体を揺らす母がいてもおかしくはなかったのに、誰もいない。何もない。
「ただ電気がついてるだけ?」
ならば自分が興奮していただけの幻だったのだろうか。取り合えず、ごめんねと謝ってみる。
「さっきまで誰かここにいたみたいだ」
気配がする。葵はデスクの椅子に座り、反射的に立ち上がった。
「さわってみて」
「ぬくい。あいつ、ホントは生きてるんじゃないのか?」
「やめて!」
「焼くところ、見なかったんだろう」
「見たよ、見たに決まってる。だって、私が火葬場でボタンを押したんだもの。押したのよ」
「おまえが?」
亨はにわかに信じられない顔をした。
「パパもママもだめだったから。無理だったから、だから私が…」
葵は亨の腕にしっかりと抱かれていた。
それから、二人は何かに気付いた。
「音がしてる」
「本当だ。ジーって」
「パソコンだ」
「ディスプレイ、画面の電源が切れているだけなんだわ。このパソコン、ついてるよ」
「おまえパソコン、さわれんの?」
「そういう業界にいたから」
スイッチを押した途端に、文字がディスプレイいっぱいに並んだ。随分大きなフォントで、画面全てを埋めている。
目を大きく見開いて凝視していた葵は、ゆっくりと顔を両手で覆った。
「お兄ちゃん、すごいってか」
絞り出すように言う。
「こんなに文字書くって、気持ち悪い」
「兄貴だろ」
「兄貴だけど、気持ち悪い。吐き気がする」
横たわり白い布をかけられて硬直していた青白い棒のような身体と、この特大フォントで飛び込んできた文字の海と、生きていた記憶の中に微笑む兄とが、葵の中で一つにならない。本当に吐き気がして脚が震える。物音がして亨が腕を離して扉の方に確かめるように動き、葵は思わず、やめてこんな所で、置いて行かないでと、叫んでいた。
戻ってきた亨の手にすがり、ゆっくりマウスに手を伸ばしてウィンドウを切った。見慣れたOSの画面が視界に戻り、やっと息をつけるようになった。
「落ち着いた?」
物音はやんで、いつも周辺によくいる小動物か猫の立てた音のようだった。葵はOSは起動させたまま、全てもと通りにと、ディスプレイだけを切ると亨にすがって部屋を出た。扉を閉めてへたりこむ。
葵を支えて階下に下ろし、落ち着いたのを見て亨はこれ以上いるとまずいから、と帰って行った。入れ違いに母が入ってくる。相変わらず取り憑かれた幽鬼のような表情は変わらないが、食べ物は少しだけ口に入れるようになっていた。今朝の伯母との会話を思い出した。
「うちに来たことはあるの?加寿子ねえさんはその人を見たの?」
「見とらんとよ。連れてくる言うた矢先に、話が立ち消えになって、目が覚めたかて、お父さんもお母さんもほっとしとったと」
「じゃあ別れたの?どのくらい前のこと?」
「一年前ぐらいかね。本人も特になんも言わんと、黙っとって、ただ、そのうち顔色が青うなって、だんだん苦しそうになって、それで仕事にも行けん、様子がおかしなって、こうなったとよ」
ではやはり、兄の自殺は彼女の事が原因なのだろうか。
「女の方から捨てられたんかそら知らん。もっといい男捕まえたんちがう?ああいう女は卑怯やから、男は何人でも付き合うとよ。セックスよ、わかる?葵ちゃん。体やから、ああいう女は」
わざと刺激的な言葉を口にして、自分の感じている嫌悪をこちらにも植えつけようとしているのだった。
そうだ、素早く足音を忍ばせて葵は二階に上がった。扉の鍵が開けられたのを知られるより早く、と、パソコンにメモリースティックを差し込んだ。
目についただけのファイルをコピーする。殆ど中身は残っていなかった。あの長いメールと短い返事、それに小さなテキストファイルだ。
階段を上がってくる音がして、素早くまたディスプレイの電源だけを切った時、扉には母が立っていた。ぼんやりと、虚ろに言う。
「お兄ちゃんは出かけるとき、いつも鍵をかけとったとよ」
「ここにわたし、入ってもいい?」
「当たり前じゃなか。でもいじくりまわさんでね。お兄ちゃん腹かくから」
その言い方に、椅子のぬくみを思い出して、またぞっとした。
「このパソコンは?」
葵はなるべく何気なく聞いた。
「お兄ちゃんが使っとった時のままにしてあるとよ」母は相変わらずぼんやりと言った。鍵が開いていたことなど、気が付いてもいないようだった。「何一つ、変えてないんよ」
気付かれないように、マイクの音量をミュートにして、そっとスティックを抜いた。
着信が入っていたことに気付いて、葵はかけなおした。
「課長」
『お兄さんのこと、残念だったな。どうだった?ショックだったんじゃないか?』
「部長にくびだって言われましたよ」
『何、くび?聞いてないよ、慶弔休暇中だろう?』
「本当に?」
『この人員が足りないときに当たり前だよ。部長のことだから、また気分で適当なこと言ってるんじゃないか?』
電話を切って、わずかながら希望が見えてきた。ここから逃げ出すことがまだ可能かもしれないという希望だ。
母は、加寿子ねえさんの所に葵が女のことを聞きに来たと告げられたようだった。葵の手によって運ばれた配膳を横に、疲れたようにぽつりと言う。
「そんなこつして、あの子が喜ぶとでも思うと?」
「いいえ、お兄ちゃんはいやがると思うわ」
ベッドで亨とした会話を思い出した。
──思い出したんだけど、いつか私、お兄ちゃんにラブレターが来たのを受け取ったことがあるんだよね。一応机の上に置いておいたんだけど、あとでそのことでからかったの。いつも穏やかなお兄ちゃんが、すごく怒ってた。今思うとね、なんでも子供扱いされて、怒られてた。いつも落ち着いてたお兄ちゃんを怒らせたかったんだと思う。
──気を引きたかった?
──違うわ。私の所まで降りてきて欲しかったっていうかね。
──あいつは、お前が彼女を探すの、嫌がらないと思うよ。愛の逆は憎しみじゃないんだよ。無関心だから。誰の言葉だっけ。
──マザー・テレサだよ。
小さなネットカフェを探して、例のメモリースティックに保存した中身をプリントアウトする。兄の気持ちが悪くなるほど長い恋文はまだ読めない。だがその長文メールに対して、彼女の返信は、わずか三行だった。
無理だと思うけど。
そこまで言うなら。
明日、アレラーテで待ってて。
アレラーテで。その名が、閃光のように葵の目を刺した。