謎の女
この旧家も、昔は若い祖父母を中心につながっていて、明るく生気に満ち、子供たちの声もあふれていた。受験期に従兄弟たちとも疎遠になり、親世代は祖父母の遺産でもめた。思えばこれが一番決定的な亀裂になった。何の遺言も示さず、誰にも何も了解を取ることなしに、長男が全てを相続したのだ。田舎では当たり前のことだった。
高度成長期の最後の名残の中での出世に伴い、無意味なプライドも生まれて角突き合った。子が二十代に境に、就職で競い合い、いがみあい、陰口を叩きあい、様子を伺い、その姿は既に野犬の群れにも等しかった。今は退職して生きがいを失った高年齢層たちがそこにいる。子が三十代にかかる頃、ニート、晩婚、結婚、離婚、転職、欝、宗教、溢れ帰る今時のトラブルでもめ、苦しみ、孫に金は吸い取られ、兄弟の最初の一人が死ぬ頃に、終焉を意味するおぼろげな平和がまた訪れる。
少し早い蝉の音が早朝からもう響き渡っていた。水道から落ちる水滴が涼しげな音を立てる。水道から水を汲んで直接飲むのは随分久しぶりのことだった。
葵の下腹部はじっとりと重くて体は気だるく疲れていた。昨夜の喜びはもうなくて、高揚があまりにも高かったほど、亨との未来のなさが迫ってきて、わかっていても心が沈んだ。このまま太一に口をぬぐって何もなかったような顔をしてやっていくことが、この不器用な私にできるのかな。答えは否だった。
現実、現実。いつだって現実がそこにあった。暮らしていくための金と仕事。口に入れてこの身体を維持するための稼ぎを必死になって手に入れようともがく生活だった。今太一がいる意味は、ただの同居人というだけではない。家賃を折半、食事は一緒に、洗濯だって二人でした方がいい。水道代、電気代はほぼ彼が受け持っている。葵は実際、本当は太一に養われていた。だから私は家事をやり、食事を作ってさらに彼に身体までも差し出していたんだろうか?いや、違う。彼はトオルちゃんのように顔が格好良くもなければ、体系もスマートではないが、安らげる空気を持っていた。安心できる胸をもっていた。葵にはそれが一番重要だった。
今、故郷に帰り、亨の胸に心の居場所を見つけたように、あの都会の片隅で、葵は太一の中に自分の居場所を見つけていた。慶弔休暇に苦い顔をした部長と言い合いをして首だと言われても、取るものも取り合えず実家に駆けつけられたのも、太一が居場所を維持してくれているからだったはずだ。
解決できない問題を髪の毛と一緒に後ろに振り払い、葵は階下へ降りて行った。階下では、朝早くから叔母が来て台所を手伝ってくれていた。
「おはようおばさん、ごめんね、ありがとう」
母は魂が抜けたように座り込んで仏間のお骨の前から動けない。食事を運んでそっとふすまを閉め、洗い物をしながら葵は叔母に尋ねた。
「シン兄の具合はどうなの」
「良かったり悪かったり、悪かったり良かったり」
叔母は通夜の席での騒ぎなど忘れたような顔をしている。もともとおっとりとしていて、あの場を硬直させた一言を放ったのも彼女だった。
「うつって怖いとねえ、本当こわい、あげなことがあってから、信一もひょっとと思っとってね」
シン兄は大丈夫だよ、と思うが口には出さなかった。昨日も最近開店の人気の居酒屋チェーンで従兄を見かけた。この街は繁華街も狭くすぐに目に付く。葵と亨は、注意深く人を避けて歩いた。そんな人目を忍ぶ行動は、ここで育った彼らは生まれ持って身につけていた。人目など気にもしない信一は昨夜、フィリピン嬢と肩を組んで飲んでいた。あれは死ぬタマじゃない。親の財産を吸い尽くす系だ。
「お母さんたちが私に隠し事してるのが悲しい」
わざと声を落として言う。
「おばさん、お兄ちゃんのことで何を聞いてたの?」
「さあねえ、私ん口からは」
自分の口から言いたくないと見え、叔母は口を濁して押し付けた。
「一番知っとうのは、加寿子ねえさんだと思うとよ。いっつも相談してたらしいから」
昨夜、ベッドの上ですらりと伸びた亨の脚の筋肉が、形よく位置を変えた。
「子供の顔も見たくて帰ってきたんだ」
今寝た女に何言ってるの、ふざけてる。それでも崩れてしまった彼の方が、以前の隙一つなく、子供扱いで振り向いてもくれなかった彼より好ましい。あたしのところへ降りてきてくれたみたい、と葵はシャワーで濡れたばかりの亨の髪を撫でた。裸の胸元に彼の頬が唇が、なまの息使いがあった。一人じゃないって、とても落ち着く。子供の話など聞きたくないから、自然に話題は戻って行った。
「トオルちゃんは、お兄ちゃんのその人のこと、よく知ってるの」
「よくじゃないけど、知ってるよ」
「会ったことあるの?」
「一度か二度」
いきなり全部は言わないよ。だって全部ぶちまけたら、お前明日からもう会ってくれなさそうだから。そんなことをいって亨は笑う。
洗濯も終わり、掃除も一通り終わると、田舎町ではテレビを見るよりほかやることがない。母は仏壇の前、父は書斎と、何を話すこともできなかった。家を出る前もこうだったかもしれなくて、ただ違和感はそこに兄の気配がないことだけだった。兄一人がいないだけで、あまりにも寒々しく、この家は今、蝉の抜け殻だった。継ぐべき体を失ったのだ。葬式は結局密葬になった。ちらほら、少しずつ、絶え間なく人が訪れて、父が一人一人対応していた。顔を合わせば、あら葵ちゃんは、今どこでどうしているのと聞かれるのがわずらわしくて、サンダルをひっかけて裏口から外に出た。
ぶらぶらと、少女時代によく遊んだ林の中に紛れ込む。懐かしい小道だった。少女の時にはくぐって通れた下生えの木々のトンネルが、今はくぐることもできず、行き止まりになって葵はぼんやりとたたずんだ。辺り一面から蝉だけでない大小さまざまな虫の声が降りかかる。幼い頃に胸をときめかせた青い葉の一つ一つの形や虫たち、小さな花にまで、興味を失ってしまった自分がいて、葵は切り株に座り込んだ。
手持ち無沙汰に携帯をいじる。
機種変更したばかりの携帯の新しいラインは、この異次元の別世界と、現実が待つ東京とをつなぐ最後のよりどころのように見えた。ほんの数日前までは、この携帯の光が所属する所の世界に生きて動いて暮らしていたというのに、既に自分の場所などなくなって久しい場所に身を置いている不自然さがあった。
携帯を眺めれば、今思うのは亨ではなく太一のことばかりだ。彼は機械が何でも好きで、葵のことでもいつでもじっとしていられないのだった。
数日ぶりにネットを開く。ネット大好き男な太一の言うことも、わからなくもないわ、と葵は考えた。
この小さな箱から繋がる無数の線でやりとりされるデジタル、どこかの会社のどこかのサーバーの中に存在する0と1の羅列、そこに吸い込まれて行く自分を感じる。広大なネットの海をさまよい、真の居場所、よりどころが振れる目の奥、この脳の中にある。そんな気がする時がある。
心が吸い込まれていく画面、カタカタとキーが指にあわせて歌う。職場でなら、キーボードに両手を乗せて自在に操り動かしていく。
昔ピアノ習っていたっけ。あたしが嫌ってすぐやめちゃったんだけど。女の子への夢、押し付けないでって思っていた。決められたことを毎日してくるように強制されるのが嫌いだった。
いつもお嫁さんになる話ばかり。どんな男をつかまえてってそればかり。
目新しいニュースもない。ほとんどないブックマークにあるリンクをたどった。それから閉じて、太一に教えられた箱庭ゲームが目につく。暇つぶしにやるアプリだ。
──家や、小屋、作物や動物たち。自分の思うところに置く。面白いよ。やってみたら。箱庭やると、落ち着くんだ自分が。
──それを見て落ち着かない気分になる私のことは考えないわけ。
──やってみればいいのに。
──自己完結しないでよ。
葵はぼんやりとアプリの情報を探り、削除、の文字を親指が押した。
ずっと、一族があざける人々からあざけられているのを感じるのが目に痛かった。そんなとき兄は黙って席をはずしていた。背中を向け、本を開く。葵は真似することもできずに、親戚の中に身を置いていた。沢山の人をお世話してきたと自慢する父に訪れる人が年々少なくなっていくのを指摘できない。友達付き合いをしていると誇る、まだ隆盛を極めている一族の輝かしさをそねみながら、我が事のように褒める台詞が痛々しくて焼け付くようだ。かと思えばそんな輝く一族に一人でもはみ出し者が出ようものなら、かさにかかって噂の種だ。ハイエナ、ジャッカルの群れは飛びついて死肉を食らう。
人の間違いを厳しく追及する人々の前で、言ってることは完全に正しいのに、間違っていないのに、不自然な居心地悪さを感じるのと同じように、こうして違和感を感じる事柄が当たり前とされている価値観の只中で、次第に、はっきりとした反感となって形を取ってきたものがある。
あの叔母の奥歯にものが挟まった言い方が気になった。
「決めた。わたしその女を探す」
声に出して葵は言った。足元をとかげが這って下生えの中に消えた。
「会ってひと言文句言ってやる。なんてことしてくれたんだよって。それで直接聞いて、直接話して教えてもらう」
その方が早い。今のままじゃ、ずっと一緒に育ってきた兄なのに、最後に何もわからないままだ。そんなの耐えられない。