カフェ・アレラーテ
通夜の席で、葵は「トオルちゃん」と携帯アプリのIDを交換していた。テスト送信を重ねて送りあった小さな言葉から会話がはずむ。小さくとも 少しずつ会話の画面が増え、伸びていくときめきがある。言葉が自然にリズムを奏でる。葬式が終わり、一息ついた。実際に会ってゆっくり話したいね、とお互いに送りあい、駅に寄り添うようにある小さな繁華街で夕方に落ち合った。
「少し、飲もうか」
亨が葵を連れて行ったのは、繁華街の隅にちらちらネオンが光るバーだった。Café Arelate――カフェ・アレラーテ、と亨が言った。
「こんな所、あったっけ」
「昼間はカフェしてる。夜はバーになる。まあ、一応はつぶれずにまだ、残っているみたいだけど」
まだ準備中の札があるのに、マスター、と亨が声をかけると、中から白髪の老人が顔を出した。眉だけ黒い、穏やかで優しい顔だった。
「この子、堀田葵ちゃん。堀田の妹だよ」
「葉君の?」
マスターの顔が沈痛にゆがみ、この度はとんだことに、との挨拶に葵も慌てて頭を下げた。ずっとこらえて気を張っているのがつい緩み、涙ぐみそうになる。
亨はかつて知ったように、カウンターの席について準備中の札はそのままに、マスターは酒とつまみを用意してくれた。
二人で夕食用にとパスタを頼み、準備後でいいですよとマスターには断って、ゆっくり待ちながら葵は聞いた。
「アレラーテって、何ですか。不思議な名前ですね」
「フランスにアルル地方っていうのがあります。その地方の古い呼び方なんですよ。ビゼーの歌劇にあるんです」
「アルルの女?」
「ご存知ですか?」
葵の兄、葉は本が大好きで、いつも色んな事を教えてくれた。ビゼーの歌劇よりも、戯曲よりも、ドーデの風車小屋だよりにふっと入った短編の方が好きで、葵にも読ませていてくれた。歌劇よりもずっとシンプルに救いがない。物語には一度も出てこない女に身を焦がす男と、その結末は死だ。何の暗示か、葵の背中がすっと暗くよどんで寒気が這った。亨が下を向き、目をじっと据わらせたまま低く言う。
「堀田と二人でここに来るのが、仕事が終わってからの唯一の楽しみだった」
唯一って、と葵は苦笑する。亨は今は辞めていても公務員、兄の勤めていた会社にも近い。小学校から高校生まで、クラスは別れてもずっと一緒で、大学は兄は地元、亨は関西と別れたが、この土地に戻って就職をした。若くて見た目も素敵な二人組、人生を楽しんでいないはずがなかった。
昨日の親戚一同、鮫たちのささやきがよみがえる。
「まだ離婚しとらんと」
「もう全然会っとらんのに」
「奥さんも、同意すればよかとにね」
「養育費、送ってきとると?」
「親が送っとるらしいと」
「他にしゃあないから」
一年ほど前に、トオルちゃんは奥さんと産まれたばかりの子供を置いて家を出た。その事は母に聞いて知っていた。でも、ただの別居だと思っていた。
「仕事もやめて関東へ、公務員だぞ?一生安泰やに。埼玉かどっかで名前も知らん会社に勤めとうっとよ。なしてまた、こん年になっち突然か、人間わからんと」
「よほど奥さんとうまがいわなかったんだな」
「高校の同級生やったとよ」
埼玉だなんて、トオルちゃんがそんなに私の近くにいたなんて全然、知らなかった。太一なら埼玉と神奈川は近くないと主張するだろうが、こちらは飛行機で二時間、日本を横断する距離だ。
かすかな違和感は確かにあった。葵が二十三のとき、亨は二十七で結婚をした。それから三年、子供もいるはずなのに、今の彼には既婚の男の落ち着いた匂いがまるでない。外見は記憶にある亨のままなのに、話しているうちにはっきりとしてくる要因の一つは、発音だった。
もともと、なまりはそれほどない人だった。でも今はまるで、こっちに暮らしたことなんてないかのような言葉遣いをしている。
「トオルちゃん、今、仕事はどうしてるの?」
言いにくいことを、恐る恐る聞いてみた。なるべく明るく、何でもないことのように。
「何とか稼いでるよ。食っていくには充分、酒も飲める」
今は今回の事件にあわせて少し早い夏休みをもらったんだと亨は言った。身なりはそれほど乱れていない。少しよれたスーツだけど、食い詰めている様子もないのは亨だからなのかもしれなかった。
「お通夜の時におばさんが口をすべらせたんだけどね、お兄ちゃん、好きな人がいたらしかったんだって。わたし、ぜんぜん知らなかった」
「なんだお前、知らないのか」
「トオルちゃんは知ってるの?お兄ちゃん自分のこと、恋愛とか、話したことなかったし」
「兄妹なのに?」
亨は酒を口に運んだ。
「結婚の話まで出ていたよ、家に挨拶に行くとか行かないとか」
「え、知らない、ほんとに知らない、本当なのそれ?」
ぎょっとして葵は体を起こした。
「いつ頃の話?どうして、お母さんたちも私に言わないの?相談とかないか?普通」
またあのいやな空気が押し寄せてきて、肩をひんやりと冷やしていく。
「お兄ちゃんが鬱になった時に、お母さんあれほど私に愚痴ってたんだよ。それって、そうまでして隠し通したりなんてできるものなの?」
矢継ぎ早に早口になる葵の言葉も、亨にはまるで届かないようで、酒の中の氷だけを眺めて黙っていた。それからひとりごとのように、ただこう言っただけだった。
「あいつには無理だっただろうなと思うよ」
それだけ周囲が反対だったってことだ。
「教えて。全部教えて」
マスターが、酒のおかわりをコトリと前に置いた。ちらほらと客が訪れはじめていた。
そんなに都会がいいのかって、どうして気づかないんだろう。若い人はいなくなっちゃうって、どうしてその一言で決めちゃえるのか。
仕事のあるなしもあるけれど、ここを出たいのは決して、都会に物があるからじゃない。ものなんか太一じゃないけど、ネットでいくらでも買える。そんなの二の次でしかない。
この、言葉と気持ちがまるで相手に通じていかない閉塞感だ。田舎の年配の人間たち、特にうちの一族はいつも、分厚いゴムの膜で覆われていて突き破れない。がっちりと固まった格差と因習の中で、堀田家は旧家のプライドを振りかざし、そんなネームブランド、完全に壊れかけて下からぼろぼろ崩れてきているのにまだ気付かない。気付いているのかもしれないが、必死になって愚痴と他人を嘲ることでバランスを保っている。そんな居心地の悪さは何でもぶちまけられる次女という立場への気安さから、葵がかぶるだけのもので、兄には周囲も気を使い、次男のトオルちゃんは気軽な立場で、うまくやっているように見えたのに。
「次、回る?」
二軒も店をはしごした。蛙の声が鳴り響く水田の中を二人で散歩する。夜の風が心地よい。まだ真夏とまで到らず、爽やかさが残る清涼な空気を酔った肺にいっぱいに吸い込んだ。飲むように吸っては吐いた。こんな風に空気を空気と感じることを、忘れていた自分が不思議だった。葵は隣を歩く男にちらっと眼をやった。
彼はなまりがないと、なおさらかっこいいなあ。こんなにかっこよかったっけ。相変わらずすらっとしてるなあ。亨は立ち止まって、葵が先に数歩進むと、後ろから腕を回して抱いてきた。耳元でささやいた。
「だってお前が見るんだもん」
「わたしそんないやらしい目つきしてた?」
「してたしてた」
腕が肩と手が頬に回って、彼のくちびるが触れた。
触れた舌から亀裂が入って体が裂かれる。葵はそのキスを腹で感じ、受け止めた。
あれほど少女時代の全てをかけて憧れた人の唇がこんなにも突然に、簡単に、降ってきたことに動揺し、それから背中に腕を回した。純粋にただ、嬉しかった。
兄はもういなくて、彼はここにいる。生きて温もりを持った一つの生命として、存在している。まだ故郷は失われていなかった。懐かしい木々のざわめき、澄んだ風の匂い、夕闇の色までが違う。星座すら紛れる星の海だ。さそりの火は燃え、煙る星雲まではっきりと、八月が近付けば夏の大三角形、ベガ・アルタイル・デネブが東から姿を見せるだろう。兄と慣れ親しんだ宮沢賢治の詩が高い子供の声でこの夜へと昇り立つ。
──ケンタウルスよ、露を降らせ──
どうしてあんな、夜でさえくすんだ色の空に、いつの間にか慣れてしまったのだろう。
抜けるような青を知らない人々は、空を見上げることもない。ここまできて、あの薄く白みがかった空色の方が懐かしいだなんて、思わない、思うわけない。
雲の流れが、太陽と月が身体の中で逆流する。ここにいるのは高校生のわたし。大学生で休暇に帰ってきたトオルちゃん。一面の水田に顔を出したばかりの青い穂が揺れ、夜はくっきりと映える星座の下に、一斉に虫と蛙たちの大合唱が響き渡る。
今日はキスまで、なら次はいつ会える?そんなインターバルを置く、気の利いた恋の駆け引きももどかしい。このお互いの肌と肌をさらに見えない部分まで合わせ、もっと確かめたいと願う望みに侵食されていく。
心は遡っても、身体はもう男の手を知っている二十七歳の女のもので、彼の舌に答えるやり方も、腰に触れる腕の意味もよく知っている。意図するところをわかっている。
それを汚れてしまった、とか、流されてしまう、とか、彼がいる、まだ離婚してない、とか、すべてこの唇とそこから溢れる思いの中で言葉は何の意味もない。奔流に投げ込まれた枯れ葉がくるくる回って姿を消すのと同じだった。全てのしがらみを突き抜けるこの望みを知らない者に、何を言うこともできなくて、体験したものだけが掴み取れるこの世の果てがある。お綺麗ぶって、殻にこもって、ずっと自分を安全圏に置いている者たちの知らない世界を、今の彼は、知っているのだ。
いつも年を取れば取っただけ、自分の先を行く兄と亨の背中だけをずっと追いかけていた。その彼が今真正面を向いて葵を抱きしめていた。これは、お兄ちゃんが私に遺してくれたもの?後ろ髪を引かれるものなど何一つないと思い切り、ふりきっていたつもりのふるさと、兄までを失った。なのにこの彼の胸の中に、安らげる場所を見つけたら、葵はもうその場所に身体を伸ばして横たわるしかないのだった。