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実家

 一年ほど前からうつを発症し、仕事に足を運べなくなった。兄のようが勤めている職場はこの地方では名の通った大手百貨店で、それなりに出世コースにも乗っていたから、これで出世の道は絶たれてしまったと、そんな事ばかりを親戚一同は言っていた。

 手首自殺未遂をしては、よどんだため池のふちでたたずんでいるのを発見される。そんな事を重ね、半年ほど前に、皆がもう少しと止めるのを降り切って兄は仕事に復帰した。いきなり元の部署に配属されるわけもなく、今まではやらなかったような下積みの在庫整理を淡々とする。真面目な性格だから、そこはきちんとこなしていたようだ。母から電話で、このままなら、少しはましな部署に戻してもらえるかもしれないと、父が希望を述べていると、聞いた矢先の出来事だった。

 父も母も、なるべく兄を一人にしないようにしていたはずだ。自宅一階の鴨居かもいに首をつっていた。古い昔ながらの木造家屋だからあった梁だ。父は二階増築のリフォームをしても、この梁だけは手を付けず、古い磨き抜かれた木とその節々を特に自慢にしていた。今なら全て目に触れないよう、取り去ってしまいたい気持ちだろう。

 通夜の席で、手持無沙汰にうろうろとする親戚一同は、部屋の中でもかまわず煙草を吸うか茶をすする。餌を探す回遊魚の群れだ。すきを見せようと見せまいと、すぐに襲い掛かり掴みかかる。

「葵ちゃん、二十七歳にもなって、まだフリーターしよっとか?そろそろニート卒業せな」

 言いたい所をぐっと飲み込んだ。こうなると、解雇が痛い。後ろ暗くて、言い返せない。この七月に楽しみにしている高校野球の地方予選を、ローカル局で見られないから機嫌が悪いのだ。

「派遣やろ?」

「ちがいます」

「派遣はきついわ、すぐに首ば切られるからね」

「わたし正社員で働いてるんですけど。そういうのはフリーターともニートとも言わないんですけど。おじさん言葉の使い方間違ってません?」

 どっしりと山のように君臨し、首をひそめて口をつぐむ、かずこねえさんと呼ばれる長女がいれば、ここまで悪乗りはしない。当の伯母は奥に引っ込んでいてまだ出てきていない。叔父は既に過ごした赤い顔で敷居の方を伺いながら声を潜めて吐き続ける。

「どげん仕事しとるんだかわからんと、こまか会社でよ、使いもんならん」

「ニートでフリーターっていうのは、シン兄のようなのを言うのよ」

 場の空気が固まった。シン兄とは従兄の信一の名前で、この皮肉を放った当の叔父の息子だった。我慢ができなかった。こんな耳障りな台詞を吐きながら、この郷里の男たちは指先一つ動かさず、あぐらをかいて座り込んだまま煙草をふかし放題だ。女たちを顎で呼びつけて茶をくれ、つまみが足りん、と声を上げる。それが当たり前の事だった。

「あの女のことがあってから本当にいかんやったとね」

 鋭い静止の声が響いたために、その何気ない叔母の一言は、違和感を余計に際立たせることになった。

「何?誰のこと?わたし、知らないよ」

 母はただぐったりとしおれて、反応することもできないようだった。父は兄が欝病と診断されてからこっち、ずっと葵が見てきたのと同じ、ただただ固い顔をしていた。

「女って誰?」

「関係なかと」

 吐き捨てるように叔父がいう。

「昔んこと、ぜんぜん関係なかと」

「おじさんが知ってて、あたしが知らないって何。ちゃんと言ってくれなきゃわかんないよ」

「黙らんか!」

 父だった。顔を真っ赤に、握られたこぶしがぶるぶる震えていた。

 シンとした部屋に、その時鳴った玄関のチャイムは、誰にとっても救いの鐘だった。

「こんばんは」

 なんだお前、葵じゃないか、そんな声で、事態に強ばっていながらも照れたような顔を見せたのは、兄の同級生で、葵は言葉を失った。ここで彼に再開することをどうして今まで考えもしなかったのか、わからなかった。

「トオルちゃん!」

 喉に痰がからんでうまく言葉を出せない。かろうじて言った。

「どうして、今?」

「親には、おれは葬式には顔を見せるなって言われたんだ」

「どうして?喜ぶよ」

 言った瞬間、涙があふれた。

「喜ばないよ」

 同じ年、兄の葉よりも少しだけ高い背丈、どちらかというと細目がちな茶色の目、変わらない。結婚した既婚の男の気配がなくて、まるで独身時代のとおるそのままだった。


 久々に少女時代から使っていた二階の自分の部屋に布団を敷いて横になった。昨日までとはありえないほどの静けさにカエルの合唱、さらにヒメギスやキリギリスの声が重なって響き渡る。ああ、帰って来たと目を閉じるのだが、とおるの面影と彼の噂話、それに遮られたさっきの親戚の話が気になって眠れない。葵は起き上がると、少女時代によくしたように、窓をそっと開けてひやりとする瓦屋根へと足を踏み出した。

 それなりに数はある住宅街の向こうに水田が広がり、自宅のすぐ後ろには林、夜空とほぼ同一化して真っ黒に溶ける山々の峰がある。葵は瓦屋根に慎重に寝ころび、上を見上げて吐息を突いた。真っ黒な夜空にきらめく星また星の海だった。

 この満天から落ちてくるきらめきの洪水の中、葵は考えていた。今は静かに命なく横たわっているあの兄に女?お葬式には顔を見せるだろうか?それは、一人や二人の恋人はいたかもしれない。四歳違いの兄は、昔からよくもてた。地元で名前の知れた会社で働き始めてからは尚更だ。縁談も降るようにあって、三十歳。わが兄ながら、顔だちも整っていて優しかった。親戚の鮫たち曰く、選り好みをしすぎて少し行き遅れた自慢の娘を持つ親たちが、先を争って望む優良物件だ。会社の子を妊娠でもさせて、反対されて結婚できなかったとか?ありそうでありそうでない。兄は、根は真面目だった。父や母の機嫌を損ねるようなことをしたことは一度だってない。でも人は見かけによらない?兄に限ってって、そういう人こそ、やるのだろうか?


 朝起きて、葵は少し茫然とした。家の中は、まるで手がついておらず、めちゃめちゃだった。親戚の女たちが少しは片付けていてくれたが、それも台所と葬儀の準備までのことまでだった。葵は切れた電球を変え、トイレを掃除して、いい加減に巻かれてあった冬もののカーペットをきちんと巻き直してカバーをかけた。風呂場のすみまで掃除をし、こんな葬儀のどさくさに紛れてやってきたあやしい男に応対して健康食品の営業を追い返した。

(お兄ちゃんだったらこんなに騒がずにスマートに追い返してくれただろうな)

 どんな押し売りにも、子供を連れた宗教の勧誘にも丁寧に温和な物腰で頭を下げて帰ってもらう兄は確かに素敵だったと葵も思う。だが相手は女というだけでなめてかかってくる。面倒くさいと思わせるのが一番だった。なのに、右隣のうちのおばさんはあきれたように言う。

「あん人、班長さんの同級生よ、あまり喧嘩みたいなこつせんと。すいませんの、うちはよかですって、そうまで言うならちっと買ってあげればよかとよ、おつきあいで」

 疲れるなあ、もう。実家って。太一の所に帰りたい。こうなると、あんな黙り込んでしまう男や、挨拶をしても無視される隣人の方が、ずっとましだったと思う。

 あれから太一からは、どう?とメッセージが来ていて、葬儀の準備で大変、こっちの親戚はみな、相変わらずだよと返信をした。

 おばあちゃんは、庄屋のひとり娘だったと言う。父の姉、伯母の話だ。

 田畑がいっぱいあって。蝶よ花よと育てられて、五人兄弟の末娘よ。嫁に行くこと以外、何も考えなくていいってね。会社の重役の息子だったおじいちゃんと、お姑さんが早くに亡くなってるから、苦労しなくていいだろうなんて。苦労しないから、結局浮世離れしちゃうのよ。

 葬儀はあっという間だった。葵は、兄にちゃんとお別れできた気がしなかった。まだ異世界に身を置いていた。

 おばあちゃんはあれ、太宰曰く『スウプをお飲みになった』てタイプだったってさ。田舎の農家でスウプもないもんだと葵は思う。半士半農だとかって。昔は士族だったけど、農家もやってたってそういうタイプだって。戦後のあの時代にも、少しは資産が残っていたらしくって。壺撫でていたわよ。太一にそんな話をしたこともあった。

 で、その子供の5人とも、散々甘やかされて、変なプライドを植えつけられて育ったのね。

 お父さんはお父さんで、長男の長男の長男よ。さらに兄はその長男。まあ、何世代か前の長男は死んじゃって、次男の長男を養子にもらったってとかはあるってさ。そういう価値観が当たり前で育ってきて、どこか他人を軽蔑したように話すの。今は普通の家庭なのに、気持ちが追い付かないの。

 葵がどんなに話してみても、太一にはまるでぴんときていないようだった。

「そんなの、本当にあるの?そんな家庭を近くで見たことが一度もないから、想像もつかないよ。本の中か、戦争前の話じゃないの?」

 横浜よりの神奈川、東海道線沿線で生まれ育った彼は、根深い因習がまだ生き残っている世界なんて、知らないのだ。ネットやパソコンや、ガンダムのプラモデルの方が彼にはずっと身近だった。歴史が好きで、よく歴史の本を借りてきては読んでいた。その歴史は印字されたもの、遠い空想の世界であって、決して現実ではない。

 二階の葵の隣が兄の部屋だ。扉が開いていて、何気なく足を踏み入れ、葵はぎょっとした。

 母が兄の部屋の真ん中へ正座して、体を前後に揺らしていた。腰は深く折れ、額が床につきそうなほどで、後頭部が両手で覆われていた。


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