兄の死
電話のベルが鳴り響いた時、葵は湯に浸かっていた。のんびりと雑誌を読んでいたのだ。毎日仕事に追われてて、こんな時間を持つのも久しぶりなんだから邪魔しないでほしいんだ。
数えたわけではないが、軽く七回は超えて鳴り止まないベルに、葵は風呂から「取って!」と怒鳴った。できる限り低い声で。だがもともと細い彼女の声は、外から響くベルの音と一緒になって、風呂場を耳障りな反響で満たしただけだった。
まだ二回ベルが聞こえ、それからやっと重い足取りが響き、太一が床を踏む音が聞こえた。本当に腰が重いんだから。風呂に入った時に見た姿勢のままで、パソコンの前に根が張り付いたように座り込んでいた。ネットゲームしてたら何も見えない聞こえない言わないって状態になっちゃうんだから。外食したらしたで、携帯ばっかりいじってさ。
ベルの音が近づいてきた。風呂場のドアが開いて、腕とともに鳴っているままの子機が突き出される。
ここはもともと葵の借りた部屋で、太一は後から転がり込んできた立場だった。だから彼は、今も葵の親戚友人一同をおそれ、決して自分から電話は取らない。
舌打ちしながら葵は手早くそばにおいてあったタオルで指を拭き、電話をつかむ。
つかんでいる瞬間にも、切れてしまえばいいのに、どんだけ鳴ってんだ?とわずらわしく思いながら、受信ボタンを押すと、飛び込んでくる切羽詰った声は母のものだった。すっと背筋が寒くなる。良かった太一ちゃんが取らなくて。田舎暮らしから離れたことなど一度もない母は、同棲なんてまったく認められない性格だもの。それがもう二十七歳の、母の感覚から言えばやや行き遅れの娘でもだ。
アオイちゃん、お兄ちゃんが、と電話は言った。
『お兄ちゃんがね…』
「え、また?」
タオルでふいているのに、流れ落ちる汗をぬぐいながら、葵はいらだたしげに首を振った。ショートカットに切り揃えた髪から水滴がしたたる。
『聞いて葵。先生が…先生がね、心肺停止でもう三時間以上経っとるからって』
「ああそう」
電話が突然、静まり返った。葵は言葉を捜した。風呂でのぼせた熱い頭に、正確な情報をまとめるのは困難だった。
「うん、わかってるよ」
自分でも驚くようなせりふが汗がつたうくちびるから突然飛び出して、呆然とした。いつかそういうことが起きる可能性は否定できないと思っていたから、私は驚かない。ここ一年ほど、何度か自殺めいた事を繰り返していた欝病の兄。すうっと肩の感覚がなくなっていった。
「え…?ママ…お兄ちゃん、おにいちゃん…」
葵は蚊の鳴くような声を出していた。
「死んだの?」
空港で葵を待っていたのは、父親だった。
母はなきがらから離れられないのだ、と父は言った。そういう父の顔色も真っ青というよりは灰色で頬はこけ、髭はそっていないわけではないのだろうが、不自然にまばらだった。死相だ、と葵は思った。今この場で倒れて息絶えるんじゃないだろうか。服装もちぐはぐだった。夏物のシャツには皺がよっており、ズボンもクリーニングされていない様子だった。母がそんな事にまで気を回すことができない状態なのだろう。
母はなきがらから離れられないのだと父は言った。
「それ、さっきも聞いたよ」
葵は用心深く口をはさんだ。うなずきながら父の顔がゆがむ。母が離れられないのは無理もない。なきがらにすがっていないとしたら不思議なくらいだ。兄はいつでも母の一番のお気に入りだった。命そのものだったといってもいい。その命が失われたら、あとに残るのは抜け殻じゃないだろうか。人が生きたまま命を失ったら、どんなことになるのだろう。
二人は車中でじっと黙っていた。葵は外に目をやった。この七月に、新緑をすっかり抜けて盛りとなった緑はあまりにも力があり輝かしく、兄の生命が既にないことなど、葵の心には受け入れがたい。羽田から飛行機で二時間、空港からまた二時間もかかる間にたっぷりと目にすることのできる郷里の山々、所々に公共事業で建設したと見える新しい舗装の高速道路が視界に現れては消えても、森の枝振り、木立の緑は何一つ変わらない。この景色に対してだけいつでも胸が躍ると同時に、また帰ってきたと心は沈み、これから待つものが恐ろしくもあり、不吉だがある種の高揚感もあった。
それから葵は、さっきまで自分を取り巻いていた現実、仕事や太一の事を考えた。この非現実の空間から少しでも逃れたくて。ありもしない可能性が現実になった世界の中にただ身を置いていると、叫び出してしまいそうだった。
「太一ちゃん。悪いけど」
スーツケースに手あたり次第に服と下着を詰め込みながら、葵は早口に言った。
「ごめん。家賃当分払えなくなりそうだから、いない間、代わりに払っといて」
「えっ、お兄さんは?お葬式での帰省そんなに長くなりそう?」
「わたしね、くびだって」
会話がかみあっていない。どうして彼がそうなるのか、ひどく気落ちしたようにぼんやり言った。
「慶弔休暇、取れなかったんだ」
まるであなたが慶弔休暇取れなかったような落胆ぶりね。
「五年も勤めてさ、バカみたい。お世話になった課長に一言言うこともできなかったし」
「訴えてもいいんじゃない?それって、ひどいよ」
太一は時々、浮世離れしたことを主張する。
「訴えるって、そんなのは時間と金のあるやつがすることなの!わたしはとりあえず帰ってお葬式出てから、また帰ってきて職探ししないといけない。失業保険の申請だってやらないといけないし」
「葵ちゃんらしくないね」
「わたしらしいって、どういうの」
「そんなにすぐに、あきらめちゃうの」
勘弁してほしかった。もういっぱいいっぱいなのよ。
太一が肩を落とした。
「そりゃそうだ」
ふと、葵は顔を上げた。
「今さ、あたしらすごいしゃべったよね」
「そうかな」
「そうだよ、一ヶ月ぶりぐらいだよ、こんなにしゃべったの」
「そんなこともないと思うけど」
家はいつでも暗かった。太一は休日、夕方になっても陽が落ちたことに気付きもしないように電気もつけず、暗がりでパソコンのディスプレイに向かっていた。ぼそぼそとした聞こえるか聞こえないかよくわからない返事。外食はお金がかかるから、最近は二人で出かけることもなくセックスもない。何のために彼がここにいるのか、葵にもよくわからなくなっていた。
「とりあえず家賃の振込先、ここに置いとくから。わたし振込手数料かかるのいやだから、自分で直接大家さんに持って行ってたの。でもそんなこと言ってられないし」
「え、でも君が借りてるんだから、君が払わないと駄目じゃないの」
「駄目なわけないじゃない、お金だったら何だっていいんだよ」
「そういうの、法に触れるんじゃなかったっけ…。貸した部屋を又貸しできないっていうの。そんなに長く帰ってるの?」
「法とかどうとか、今どうでもいい!ああもういいよ、好きにして。私がいない間に出て行くなり新しい部屋借りるなりすればいいじゃん!」
「もう帰ってこないつもりなの?」
「知るわけない!」
腹立ち紛れに、トランクを蹴飛ばした。
葵は、チケットショップで航空券を探した。片道の切符しか買わなかった。
駅の階段を駆け下りていくと、駅前にはこの時間帯にいつもいる、自転車で走り回るピエロの格好をしたおじさんがいる。
「みなさん、おはようございます!二〇一四年七月十五日火曜日!今日もみなさんにいいことがありますように!」
少しぎょっとするけれど、誰にも害があるわけじゃないから、なんとなく見ないふりをしながら周辺の人も受け入れてしまっている。ただ今は、今だけは、そんな幸せと言う名の親切を、押し売りしないでほしかった。
げっそりやつれた父に連れられ玄関を入ると、母がすぐそこに立っていた。あまりの唐突さにぎょっとした。エプロンの中に手を包んで、その手が震えていた。
「早いよねって、言ったとね」
何を言ってるのか、まったく理解ができない。まさかおかしくなったのか、と頭をかすめた。
「今、夏だから、お葬式早いよねって言ったと。あんたにな、人の心ってものがなかと?どうしてそげなこつにばかり頭が回るん?」
母は玄関の真ん中で泣き崩れた。前からは親戚一同、後ろからはご近所の野次馬の目が痛い。ふと自虐的な笑みが浮かぶ。
「そうね、あたしが変わりに死んだほうが良かったよね」
「そげな事言うもんじゃないとよ」父が苦い顔でたしなめた。
こともない日々には、この閉塞を打ち破り破壊する天変地異が起きてくれたなら、そんな風に思っていた。失われた時のことなど知りもせず、無知だからこそなのだと理解もせずに。
葵は仏間で兄と対面をした。
かたく、氷のように冷たくこわばった体が、他人のようだ。涙が出ない。喉に詰まったまま、息ができない。悲しみよりも恐怖が先に立っていた。生の対極にある死が恐ろしい。
あんなに生き生きしてたお兄ちゃん、大好きだったお兄ちゃん、格好良くて物静かで穏やかで、勉強ができて、何だってできるのにちっとも威張らない。叫べない、泣けない、喋れない。ただ強ばっていて、よろよろその場から、この非現実の空間から逃げ出した。
逃げても、待っているのはさらに残酷な空間で、リビングには聞きたくもないささやきが絶えず満ちている。
──従兄はお通夜には間に合うかわからん。今から航空券取って…会社にも説明せな。
──こんなこつならもちろん密葬ね。
──密葬なんてそんな恥ずかしかこつ、出来るわけがなか。
ああ、こういう人たちだった。田舎暮らしの気持ち悪さ。外聞なんて、恥ずかしいなんて、関係なくない?兄貴が見世物になる方がましなんだ。
葵は耳を塞ぎたかった。
何年か前に無謀にも何かに投稿してみたもの
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全体的に暗い。田舎Disな感じ、方言わかんない。