ワールズエンドのその先で from Messiah
かつての大事変で崩れ、新たに建て直された新しいカヘンシティの時計台の下で、私はとある人物を待っていた。
「……遅いなぁ」
晴れた空を見上げる。空を見ている時だけは、父と母がそこにいるかのように感じることができる。
私が12歳の時、父と母は大事変を収束させた立役者となった。しかし同時にその犠牲となって亡くなった。
突然の両親の死をすんなり受け入れられるわけがなかったが、それでも必死に姉弟は4人で寄り添い合うようにして生きてきた。最初は幼いリラやヒカルは父と母が死んだことを理解出来なかったし、サクラは理解していたからこそずっと泣いていたから、一番年上の私は涙をこらえて妹と弟を励ますしかなかった。明日すら見えない暗闇の中に常に立たされているようなあの苦しみは、おそらく一生忘れられない。
その苦しみを誰かに話したいと何度も思った。けれど、父と母と共に戦い、2人によって逃がされ、一人だけ生き延びたショウさんはそれ以上の苦しみを抱えていた。父と母が亡くってしばらくショウの家に身を寄せていた時期があった。その時幾度となく深夜にショウさんがうなされ、一人泣く声を聞いた。私よりもショウさんはずっと大人なのに、その声はまるで幼い子供の号哭のようだった。その号哭を聞くと、とてもじゃないが自分の苦しみを話すことなんてできなかった。
それでも当時の私はその苦しみを一人で解決することなんてできず、どうしようもなくなった時、とある人物から連絡をもらったのだった。
最初はその人に会うのはとても気が引けたし、父と母―――特に父に罪悪感を感じた。
でもその時の私にはその人がどうしても必要だった。それ以降、私とその人は定期的に会うようになったのだった。
ぼんやりと空を眺めていると、遠くに人の気配を感じた。ゆっくり振り返るとそこには控えめな笑みを湛えた待ち人―――コウ・トライトンさんがいた。黒い髪に黒い瞳、それはこの国に住む人としては特に珍しくもない容貌。しかし、圧倒的に目を惹くのは黒髪に映える金髪―――私と、そして亡くなった母と同じだ。
彼は私の母、レミと同じスカイ一族。そして私の本当の父親。
「……待ったか?」
「うーん、少しだけ。でも大丈夫ですよ」
「そうか。ならいいんだ」
サクラたちはもちろん、ショウさんですら彼のことは知らない。私も彼と初めて会ったのは6年前の父と母の葬儀のときだった。
―――私が彼の存在を知ったのは、昔、母が一度だけ自分が辿ってきた人生について話してくれたときだった。
母は自分がMessiahであったこと、スカイ一族に嫁いだこと、私の育ての父でかつての仲間であるレイと再会したことなど、辿ってきた想像以上に過酷な人生を話してくれた。その中で私は育ての父であるレイとの子供ではなく、コウ・トライトンという人との間にできた子供だということを知った。最初は当然ショックだった。自分だけほかの姉弟と父親が違うということを知った時は、突然自分は本当の家族ではないと言われたような気分だった。
でも、そんな私に母は泣きながら感謝を述べたのだった。自分の人生で最も辛い時期にあなたは生まれたけれど、それが自分の生きる希望になった、と。それだけで悲しい気持ちは消え失せた。その言葉だけで十分だった。
それ以降も私はレイ・スパイスが父親だと思って生きてきたし、血の繋がりも考えずに生きてきた。
しかし、本当の父親の存在が気になっていなかったといえば嘘になる。自分に血を分けてくれた人。話せなくてもいいから、せめて顔だけでも見たい。心の奥でそう思っていた。
だから彼から話しかけてくれた時、父と母の葬儀の時ではあったけれど、話しかけてくれたことだけは嬉しかったのだ。
私達はしばらく歩いて近くのレストランへと足を運んだ。彼が仕事でよく使うらしいこのレストランを実は私も密かに気に入っている。
「君に最後に会ったのは、半年前だったか?」
ぎこちない口調で彼が尋ねる。私も彼も、未だに互いの距離感が掴めていない。他人ではないけれど、親子としては接することは出来ない。
「はい。前もここに連れてきてくれましたよね?」
「そうだったな。前回気に入ってくれたと思ったから今回もここにしたんだが……よかったか?」
「えぇ、もちろん。実は、ここの料理があまりに美味しかったから、あなたと行った後に友達とも何度か来たんです」
「そうなのか。それは嬉しいな」
つり気味の目は、普段はきつい印象を受けるけれど、笑えば目元に年相応のしわが刻まれ、とても優しい印象になる。その笑顔はどことなく母に似ているような気がした。
「……母とも、食事に行ったことあるんですか?」
私が母のことを尋ねると、彼の表情が少し強ばった。
「いや……彼女とは、そういうことはなかったな。私と彼女は……」
彼は目を伏せた。
「……そういう関係では、なかったからな。それに、彼女と過ごせたのは本当に短い間だった」
「2年、でしたっけ」
「……いや、2年もなかったはずだ。君が1歳になる前に、私は出て行ったはずだから」
「……そうなんですね」
母のことを聞くと、彼はいつも困ったような顔をする。それは、自分が母の事を話していいのかと悩んでいるように見えた。
彼が躊躇する気持ちもわかるつもりだ。私も、父ですら知らない母の過去を彼だけが知っている。どこまで話していいのか本人に聞きたくても、その本人はもういない。
だけど、私はもっと母のことを知りたい。母が一体どんな気持ちで私を身篭り、産み育てたのか。その答えを本人から聞くことは永遠にできないけれど、彼ならその答えの断片を知っているのではないかと思った。だから、こうして彼が困ってしまうのを知っていながら、私は彼に会う度に母のことを聞いてしまう。
自分によく似た目元が悲しげに曇るのを見ると罪悪感を感じた。もうこの話はやめようと思ったその時、彼が小さな声で呟いた。
「……外に食事に行かなくても、彼女は料理が上手かったから、それでよかったんだ」
「え……?」
はっとして彼の顔を見る。彼はやはりまだ困ったような顔をしていたけれど、その眼差しは柔らかなものだった。その眼差しが、母の話をすることが嫌なわけではないと、言っているように思った。
「嫁いできた時には既に色んな料理が作れて、私はびっくりしたものだ。自分よりいくつか年下の娘が、こんなにしっかりしているのか、と」
初めて彼の方から母の話題をだされ、胸の鼓動が早まった。驚きすぎてまともなことも言えず、しばらく言いよどむ。
「……そんなに上手かったんですか?」
やっと出てきたのはそんなつまらない言葉だったけれど、彼は優しく微笑み頷いた。
「あぁ。料理の腕前なら君の方がよく知っているだろうけど……彼女が君を身篭っていた時、私はひどく感動したことがあったんだ」
―――それは私が初めて聞く、彼と母が夫婦だったころの話だった。
遠い昔のことを回想しているのだろう。彼は遠くを見つめるような目をしていた。
「……彼女の悪阻はひどくて、ずっと寝込んでいて動くことすらできなかった。それは見ているだけで辛かったよ。それなのに彼女は、少しでも動ける時は家事をしたり料理を作ったりしてくれた。特に料理だが、これでも私は医者だったから、悪阻の時は匂いに敏感になるということは常識の範疇ではあるけれど知っていた。だからむしろ無理をして欲しくなかったから休むよう言っていたんだ。でも彼女は責任感が強いから……だから、無理をしてでも頑張ってくれたんだ。健気でとても切ないと思ったよ」
彼の話を聞きながら、当時の母の姿を想像してみる。初めての妊娠で、自分の身体なのに自分のことがわからなくなって、体調も悪化の一途を辿る中、それでも懸命に一人で家事をこなそうと奮闘する、まだ幼さの残る少女。確かに健気でとても切ない。一体母はどんな気持ちでそんな日々を過ごしたのだろう。腹の中の子供の私のことを、恨んだ日もあっただろう。
「……そんなある日、仕事を終えて家に帰るととてもいい匂いがしたんだ。まさかと思ったらそのまさかで、彼女がイノシシの肉を焼いていた。その日の夕食が豪勢だったのは、今日は体調がいいから今まで家事ができなかったお詫びだったらしい。その料理を食べたとき、とても優しい気持ちになった。美味しいだけじゃない。……気持ちがこもっていると感じたんだ」
「だから、母は料理が上手いんですね。味だけじゃなくて、気持ちを込めるのが上手だから」
「あぁ。……今思えば、私と彼女の生活ではあの頃が一番幸せだったのかもしれないな」
その横顔は穏やかなものだったけれどどこか寂しげで、彼の中にはまだ母と過ごした日々がちゃんと残っているのだと感じた。それが嬉しくて、でも切ない。
「……スカイ一族かぁ。スカイタウンに住んでるんですよね。行ってみたいなぁ……」
2人の暮らしの断片を垣間見て、母はちゃんと幸せだったのだと安心した。母にとって嫁いだその期間は確かに辛いものだったのかもしれない。けれどそれは決して不幸ではなかった。それを知れただけで十分だと思った。
一方、私の無意識のつぶやきを聞いた彼はしばし考えこみ、そして意を決したように私に言った。
「なら、一緒に行ってみるか。スカイタウン」
「えっ」
その返事はさすがに予想しておらず、思わず声が上ずってしまった。
スカイタウンは母が生まれたところであり、母が私を産んだ場所でもある。行きたくない理由なんてない。
「でも……」
しかし、彼はスカイ一族から破門された身。訪れて大丈夫なのだろうか。そのことが気がかりでうやむやな返事しかできずにいると、彼は私の心中を察したのだろう。
「大丈夫。もう18年も経つんだ。時効だろう」
そう言って彼は笑った。
きっと本当は行きたくないはずだ。破門された理由も詳しくは知らないが、医療ミスで人を死なせてしまったからだと母から聞いた。嫌な思い出もあるだろう。
それでも彼は私のために連れて行ってくれるというのだ。そんな彼の優しいところに、母は惹かれたのだろうと思った。
「……それじゃあ、お願いします」
「あぁ。それなら来週、また時計台の下で」
「はい」
そして私も、彼がそういう人だからこそ、今でも定期的に会いたいと思うのだろう。
―――そして約束の一週間後。彼は約束通りに時計台の下にやってきた。その表情は少し怯えているように見えたけれど、私は何も言えなかった。
「あの船に乗れば、すぐにスカイタウンに着く」
ぽつりぽつりと会話をしながら港へとやってきて、彼は奥に見える船を指さしながらそう言った。彼の指差す先にあった船は、外国へ行くものよりは小さいけれど、国内へ行くものにしては随分と大きかった。
「随分大きいですね」
「私がいた頃はスカイ一族は秘密主義の一族だったが、最近は観光を始めたらしい」
「あぁ、なるほど……」
だから、彼もスカイタウンに行こうと思えたわけか。
彼はただ笑っただけだったけれど、それでも古巣へ行くのはやはり怖いのだろう。その笑顔の奥にはかすかに恐怖の色が浮かんでいるように見えた。
申し訳ないと思いつつ、それでも行きたいという気持ちが抑えきれない。そんな私の気持ちを彼はきっと察している。
彼はそれ以上何も言わず、手早く乗船券を買ってきて私に船に乗るよう促した。実は今回が私にとって初めての船旅であり、かつカヘンシティの外への旅でもある。
カヘンシティからスカイタウンまでは思っていたより時間がかかり、出発から3時間経ってようやく港に着いた。しゃがれた船内アナウンスを聞くと、なぜか唐突に懐かしい気持ちになった。
船に乗っていた客が全員降りてから、私たちは船から降りた。海風が頬を撫でる。
―――ここが、母が、私が、彼が生まれた場所。どこを見ても海が見え、カヘンシティとは全く違うデザインの建物が立ち並ぶ伝統的な街並み。全く覚えていないけれど、私はかつてここに住んでいたのだと思うと、胸が高鳴った。
「……私はここに20年と少し住んでいた」
彼は独り言のように言った。その表情は被っている帽子のせいでよく見えなかったけれど、どんな顔をしているのかは想像できた。そういう想像は容易にできるようになるほど私は彼と会ってきたのだと思ったけれど、きっとそういうことではない。
―――もし、私だったら。そう考えたら容易く想像できたのだ。こういうふとした瞬間に、やはり私は彼の娘なのだと感じることが最近はよくある。嬉しいような、父に申し訳ないような、そんな複雑な気持ちを抱えたまま私は彼の後について行く。
同じ船に乗ってきた観光客とは別方向に私達は向かう。辺りを見回せば、教科書などで見たことのある造りの家が立ち並んでいた。
「ここら辺まで来ると、一族の者しか住んでいないはずだ」
彼の言う通り、すれ違う人は皆私と彼と同じ金髪が髪の脇から生えていた。生まれてから今日まで、この金髪が生えた人なんて母と彼しか出会ったことがなく、学園でも好奇の目で見られてきた。それなのにここではむしろそれが当たり前なのだ。そう思うと少し嬉しくなった。
しばらく周りを見ながらゆっくり歩いていると、ふいに彼は一軒の家の前で立ち止まった。人が住んでいる気配はなかったが、こじんまりとした可愛らしい家だった。
「ここは?」
「ここは……私と彼女が、共に暮らした家だ」
「それって、つまり……」
「君はここで生まれた」
心臓がかつてないほど大きく波打った。
私はかつて、ここに住んでいたのだ。記憶はないけれど、たしかにここに母と彼と3人で住んでいたのだ。
「……古い家なのに、よく残ってましたね」
この家は、私たちがここにいたという証拠。残っていることがただただ嬉しかった。
「あぁ。一族の決まりで、一度建てた家は誰も住まなくなってから50年経たないと取り壊しできないんだ。その家にその持ち主の魂が戻ってくると考えられているからな」
その気持ちは彼も同じなのだろう。彼は、目の前の家を優しげな眼差しで見つめている。彼と母の短い結婚生活の舞台もここだったのだ。母が今にも扉を開けて出てきそうな気がした。
「そうなんですね」
「あぁ。……まぁ、魂じゃなく、本人が戻ってくるなんて珍しいにも程があるんだろうけども」
私と彼。共に一族からは破門された身。そんな私たちがここで暮らしていたという痕跡がまだ残っているなんて、想像もしていなかった。温かい気持ちが心の奥でじんわりと広がる。
しばらく無言でその家を眺めていた彼が、何か言おうと私の方を向いた時だった。
「コウ……?」
突然彼の名を呼ぶ声がして、反射的に辺りを見回す。声の主は私の正面、彼の背後に立っていた。初老の女性で、まるで幽霊でも見たかのような顔をしていたが、決して怯えている様子ではなかった。
彼の方もその女性のことを知っているらしく、ひどく驚いた様子で彼女のことを呆然と見つめていた。
2人の間に流れるなんとも言えない空気。彼が私に何を言おうとしたのかなど、もはや聞ける雰囲気ではない。
先に口を開いたのは女性の方だった。震える声で、絞り出すように言葉を発した。
「コウ……やっぱり、コウよね……?」
「カナコ、様……」
「やっぱりコウなのね……!あぁ、ごめんなさい、コウ。私はあなたに謝らなくてはいけないのよ……!」
カナコ、と彼に呼ばれたその女性の瞳は、彼が自分の思っている“コウ”で間違いないとわかった瞬間見開かれ、そしてみるみる大粒の涙を貯め出す。
彼女はゆっくりとこちらへと歩み寄る。彼はそれを拒むことはなかったが、彼の方から歩み寄るようなこともしなかった。
「……カナコ様、お久しぶりです。私はコウで間違いありませんが、20年近くも前に別れた人間のことをよく覚えていらっしゃいましたね」
彼が表情を微塵も変えずに言い放つ。しかしそんな皮肉のこもった彼の言い方すら彼女は気にしない様子で、ただひたすら泣き続けた。それは痛々しく、異様な光景で、通りすがる一族の人ですら怪訝な顔で2人を見ていた。
とはいえ私はどうすることもできなかったので、ただひたすら無言でその場に立ちつくす他なかった。
なんとか落ち着き、顔を上げた時、彼女はようやく私の存在に気づいたらしい。私を見て、彼を見た時と同じような驚いた顔をした。それこそ、本物の幽霊を見たかのような驚きようだった。
「レミ……?」
「え……」
震える声で彼女は確かにそう言った。
―――レミ。その名前を持つ人を私は1人しか知らない。私の母だ。つまり彼女もまた、母のことを知る人物ということなのだろうか。
私は一族のことなどほとんど知らないけれど、学園の授業で何らかの民族に属していれば、私たち一般の人とは全く違う掟の中で、全く違う人生が待ち受けているということは習った。
母がスカイ一族にいたのは、旅に出るまでの幼い間と、彼に嫁いで私を産んだ数年間だけだったはず。しかし、一度一族から抜けた人が、再び嫁ぐ形で一族に戻ってくるなどそうそうあることではないだろうから、おそらく母は一族でも異色の存在だったのだろう。
そんな母とそっくりな私を見て、驚くのも無理はない。彼女は私の中に母の面影を見たのかもしれない。しかし残念ながら私は私であり、母ではない。
スカイ一族は、彼が言うように閉じられた民族だ。観光を始め、外部から人が入るようになったとはいえ、母が亡くなったことを知らない可能性だってある。実際スカイ一族の人々は、彼も含め、母がMessiahだったことすら知らなかったらしい。
それを考慮しても、どう説明するのが一番いいのかわからず悶々としていると、彼女が小さな声で呟いた。
「いえ、違うわ……」
何が違うのだろう。そう思いながらも口には出さず、とりあえず首をかしげた。
どういうことかはわからないが、見た目から判断するにそれなりに年をとっているようだし、もしかすると誰か他の知り合いを母と勘違いしたのかもしれない。彼を見て、彼の妻であった母の名前が咄嗟に出てきただけ、という可能性も十分にある。それなら弁解する必要はないと思ったその時だった。彼女ははっきり、その名前を呼んだ。
「……あなたは、サナ?」
一瞬、呼吸が止まるかと思った。比喩ではなく、本当に。
―――サナ。この人は確かにそう言った。聞き間違えるわけがない、自分の名前。
どくん、とまたひとつ心臓が跳ねた。
「は、はい……」
何も考えられなくなって、ただ、震える声で返事をすることしか出来なかった。
しばらくすると、頭の中でぐるぐると疑問が湧き始めた。なんでこの人は私がサナだとわかったのだろう。確かに私も一族にいたことはあるけれど、それは1歳にもならなかった遠い昔のことで、今の私を見て、私がサナだと判断することなんてできるはずがないのに。
「……カナコ様、申し訳ありませんが、もしよければどこか座れる場所に行きませんか。彼女も長旅で疲れているようですから」
「えぇ、そうね。気が回らなくて申し訳ないわ」
「いえ、そんなことは……」
すぐそこで彼と彼女がしている会話が、とてもとても遠くに聞こえる。
「行こう」
彼にそう促され、何も考えずにただ彼と彼女の後をついて行く。周りの人が私たちを見て何かこそこそと噂しているのが視界の片隅に入った。きっといい話ではないだろう。でも、そんなことを気にする余裕は今の私にはなかった。
彼女に連れてこられたのは、周りの家よりも何倍も大きな豪邸だった。どうやらここは彼女の家らしい。
彼と彼女の話を聞いていてわかったことは、彼女はスカイ一族の族長の家族だということ。つまり、この家はスカイ一族にとっての王宮のようなものらしかった。
建築様式こそ違うが、大きさだけでいえば、グラス王国の国政の舞台であり、国王キヨ・ド・グラス様をはじめとするロイヤルファミリーの住むグラス城の城下町、富豪ばかりが住むローズシティにある目がくらみそうなほど派手で豪奢な邸宅と変わらないほどだ。どこの世界でも長が豪邸に住むのは変わらないらしい。
「座ってちょうだい。とはいっても、族長はいないのだけれどね。ちょうどほかの一族との会談に行っていて、しばらく留守なのよ」
客室らしきところに通された私達は、彼女に促されるままその場に座った。一度退出した彼女は、すぐにお盆にお茶とお菓子を乗せて戻ってきた。
彼が気まずい雰囲気の中、口を開いた。
「族長は、まだミツ様が?」
「いえ……夫は5年前に大病を患い、そのまま亡くなったわ。今の族長は長男のセンよ」
「そうですか、センが……」
「そういえば、センとあなたは同い年だったわね」
「はい。……すいません、何もできなくて」
「そんなことはいいのよ。……確かに、あなたほど優秀な医者がいれば、あの人は助かったのかもしれない。でも、そうね……きっと、然るべき報いなのよ。あなたを理不尽な理由で破門したのは、私たちだもの」
「そんな、理不尽だなんて……」
彼女の表情が苦しそうに歪んだ。
「違うの。私、本当はもう知っているのよ。あなたが本当は、医療ミスなんて起こしていなかったって」
「え……」
彼らが話しているのは、おそらく彼が一族を破門された時のこと。そういえば母ですら、彼が破門された理由を詳しくは知らなかった。ただ、医療ミスとだけしか聞かされなかったらしい。
母と彼のことを話したのは一度だけだが、直感的に、この話はもしかすると母も知らないことなのかもしれないと思った。
しかし正直なところ、話がよくわかっていない私とは違い、彼には彼女のその言葉が衝撃的すぎたらしい。何も言えない様子で、呆然と宙の一点を見つめている。こんな彼を見たのは初めてだった。
「あの……どういうことですか……?」
その場に硬直している彼の代わりにそう尋ねる。彼女は私のことを見て、しかしすぐに申し訳なさそうに視線を外した。
「……コウが破門された日、その日の夜遅くにレミがあなたを連れてここへやって来たの」
微動だにしなかった彼の瞳が、激しく揺れた。
「……まだ1歳にもならない幼子を抱えた娘が、突然独りになってしまったんだもの、不安でいっぱいだったのだと思うわ。私達はどうにかあなた達を助けたくて、家に招き入れた。でも、レミは助けを求めに来たわけではなく……自分たちも破門するよう懇願してきた」
彼が勢いよく彼女を見た。その顔には動揺の色が浮かんでいた。
「そんなに早く、彼女は、この町を去ったんですか……?」
彼のそう尋ねる声は震えていた。彼は母が一族から抜けたことは知っていても、いつ抜けたかまでは知らなかったのだろう。
「……えぇ。まるで逃げるかのようにね。最初は正気を失っているのだと思って、冷静になるように言ったの。でも、レミの瞳には決意が見えた。……彼女は本当に強い娘だったわ。その決意を見た夫は、彼女たちを破門した」
彼は何か言いたそうに口を開いたが、結局なにも言わなかった。正しくは、言えなかったのかもしれない。彼の苦しそうな表情が物語っていた。
彼女は一度息を吐き、そして話を続けた。
「……それから10年が過ぎたころだったかしら。とある医者が私たちのところへやって来たの。―――シュウ・カルデアといえば、あなたもわかるわよね、コウ」
その名前を聞いた途端、彼の瞳が再び激しく揺れた。
「彼は、まさか……」
「……えぇ。彼はずっとその秘密を独りで抱えてきた。でも、耐えられなくなったのよ。―――医療ミスを犯したのは自分で、コウは上司として責任をとっただけだいう秘密を抱えることにね」
今度は私が何も言えなかった。否、彼が今まで抱えてきたその思いを考えると、何も言うことが出来なかった、という方が正しいかもしれない。
彼は医療ミスを犯したわけではなかった。むしろ彼は、部下のために自分が責任を取るという選択を、自ら下したのだ。
そんな選択を自らできるなんて、彼はなんて強い人なのだろう。涙が無意識のうちに頬を伝った。
「なんで……そんなこと……」
私の問いかけに、彼は囁くような声で答えた。
「……彼には、妊娠中の妻がいたんだ」
絞り出されたその一言で、彼の優しさと苦悩が痛いほど伝わってくるような気がした。
彼はおそらくそのシュウという男性に、自分と母を重ねたのだろう。私と母を捨てたわけではなく、ただ、無事に我が子が産まれた自分より、これから子供が生まれる彼の未来を選んだのだ。彼は残酷なほど優しい。
「でも……」
それなのに、どうして、と思ってしまう私はなんてわがままなのだろう。
父のことが嫌な訳では無い。それどころか父にはいくら感謝しても足りないと思っている。血の繋がらない他人の娘を、自分の娘として育ててくれたのだ。私の育ての父がレイ・スパイスでよかったと心の底から思っている。
でも、父と母が死に、彼と再会して何度か会ううちに、もし彼のことを“お父さん”と呼べたらと思わずにはいられなくなった。公言できない分、心の中で彼のことを父親として認めれば認めるほど、その想いは強くなる一方だ。
「……でも、なんで、自分の家族が悲しむって、そう、思わなかったの……?」
「それは……」
わかっている。彼は私たちを捨てたわけではない。頭では十分すぎるほど理解している。それでも、聞かずにはいられなかった。
「母は……最初に、あなたの事を話してくれた時、泣いたんです。あなたの事を話した時だけ……泣いたんですよ……?あなたは、母があなたの事を、好きじゃなかったと、思っているの……?」
「……当時の私には、そう思うしか最善の方法が思いつかなかった」
「なんで!母は、ちゃんと、あなたの事を……愛していたのに……!」
私のその言葉を聞いた瞬間、彼は堰を切ったように泣きだした。
初めて見た彼のなく姿は、かつて聞いてしまったショウさん号哭のようだった。
私の瞳からも、彼の瞳からも、涙が溢れて止まらなくなった。何も言えず、ただひたすら涙を流した。こんなに泣いたのは、父と母が死んだとショウさんに告げられたあの時以来かもしれない。
カナコさんは気をつかってくれたらしい。いつの間にか部屋を出て行ったらしく、部屋には私と彼の2人きりだった。
しばらく泣いて涙が収まった頃、彼が重い口を開いた。
「……彼女の……レミの気持ちを、疑った訳では無い。でも……彼女もまた、残酷なほど優しい女性だった」
「……だから、自分への思いを偽りだと、そう思ったんですか」
「……そう思うことで、自分を正当化したんだ。それに、彼女には仲間がいて、カナコ様達もいて、君もいて……独りになるのは自分だけでいいと思った」
止まったはずの涙が一筋、頬を伝った。
「そんなのあんまりです。あなたは独りになって、どうするつもりだったの……?」
「私は……彼女と君を置いてきてしまった自分への罰として、永遠に影で生きていくと決めていた。実際、その後10年以上は一族の特徴である金髪も切り落として、潜りの医者として生きていた。……そんな中、あの事変が起こった」
彼は、何度かつまりながらも、スカイ一族を抜けたあとの自分の暮らしについて話してくた。
―――彼が潜りの医者として有名になりつつあった頃、あの事変で自分の患者が大勢死んだ。患者を失って途方に暮れていたその最中、事変を収束させるためにかつての妻であった母が動いていることを知った。彼女を見て、何も出来ない自分を恥ずかしく思い、自分に出来ることを考えていた矢先、事変終わりを迎えたが、母が亡くなったということをニュースで知った。そして、2人の葬儀の喪主が国王様と私であることを知り、会いに行った。その葬儀も、行っていいものかと悩みに悩み抜いた末に参列した。
彼は何も隠すことなく、すべてを話してくれた。自分の考えてきたこと、後悔、懺悔、苦しみなど、すべてを。
苦労したのは母だけではない。むしろ、母は父と偶然再会できて、とても幸運だったのだと思った。彼はずっと、光の届かない場所で生きてきたし、これからもそこで生きていくつもりなのだ。
「それじゃあ……あなたが、救われないじゃないですか……」
私の力ではどうすることも出来ない現実が悔しい。拳を握って俯いていると、彼がぎこちない手つきで私の頭を撫でた。
「そんなことはない。少なくとも今の私は、君と会うことが、生きていく上での救いだ」
その言葉を聞いた途端、また涙が溢れた。
彼は一体、どんな思いで私と会ってくれているのだろう。私以上に母と父に罪悪感を抱きながら、私に自分と母の過去を語ってくれた。それは決して幸せに溢れたものではなかったことはわかっている。けれどそれはむしろ、彼にとっては苦痛の方が多かったに違いないのに。
「……ありがとうございます。私も、あなたに会えるのを救いとして、父と母が死んでからは生きてきたんです」
私がそういうと、彼は震える声で
「……そうか」
と言って、笑った。その笑顔は、自分の父親に使うのはおかしいのかもしれないが、本当に花のようだと思った。
その笑顔を見た瞬間、私は彼の娘でよかったと、心の底から思ったのだった。
それからしばらくして、カナコさんが部屋へと戻ってきた。
「大丈夫かしら、2人とも」
「すいません、ご迷惑をおかけして……」
「いいのよ。元はと言えば、私たちが悪いんだもの。本当に、辛い思いをさせてごめんなさいね、コウ、サナ」
カナコさんの目尻には涙が浮かんでいた。
きっとこの人もまた、苦しみを抱えて今日まで生きてきたのだろう。彼女もとても強い人なのだと思った。
日帰りのつもりだったが、気付けば外は既に真っ暗で、帰りの船もなくなってしまっていたので、彼女の厚意で家に泊まらせてもらうことになった。出してくれた食事は、普段私たちが食べているものと大差なかったけれど、魚が多く使われているのが港町らしかった。彼女の料理は、母の味を彷彿とさせた。
食事の最中、私は彼女に尋ねた。
「……そういえば、なんで私がサナだとわかったんですか?」
すると彼女は困ったように笑った。
「あぁ……そうね。実は本当に勘なのよ」
「え、そうなんですか?」
「えぇ。強いていうなら……実は、私はあなたが産まれた時、あなたを取り上げたの。あの時に感じた雰囲気というのかしら、そういうものをあなたから感じたの。……なんて、理由になってないわね、これじゃ」
「……いえ、十分です」
彼女のその答えが嬉しくて、私は笑った。
本当に十分だった。彼女は、私が彼と母の娘だと知っているのだ。私がここで生まれたことを知っているのだ。それだけで満ち足りた気持ちになれた。
翌日、朝食をいただいてから私たちは彼女の家を後にした。
「サナ、コウ」
家を去る間際、彼女の優しい声が私たちを呼んだ。
「なんでしょうか、カナコ様」
彼女の呼びかけに返事をした彼は、ゆっくりと彼女に歩み寄った。すると彼女は、懐から出した古い鍵を彼に手渡した。
「あなたとレミとサナの家のものよ。よければ持って行ってちょうだい」
「しかし……」
「大丈夫、合鍵を持っているから。……あなた達の大切な家は私がこれからも綺麗にするわ。またいらっしゃい」
そう言って笑った彼女の目は、どことなく母に似ているような気がした。
彼女の家を後にして、もう一度だけ彼と母と私が住んでいた家に来た。しかし、鍵は使わなかった。外から眺めているだけでも、懐かしく思えた。
「……君さえよければ、また来よう」
唐突にそう言った彼の声は、緊張を含んでいた。それがおかしくて少し笑みが漏れた。
「なんだ」
彼が不満げに尋ねる。なんで彼はそんなに自信がないのだろう。私が彼の誘いを断るはずがないのに。
「いえ、なんでも。もちろん、また行きたいです」
そう言って笑った私の顔を見て、彼も安心したように笑った。
船に乗り込んでしばらくした頃、彼がカバンの中から紙の束を取り出した。
「これを、君に」
少し色あせたその紙の束を束ねている紐を、震える指で解く。その紙に書かれた文字が見えた時、体を光に貫かれたような衝撃が走った。
「お母さんの……」
その文字は、見慣れた母の文字だった。癖のない綺麗な手本のような文字。表には“コウ様へ”としか書いていないが、懐かしくて涙が出た。
「……あの事変の少し前、突然彼女から手紙が届いたんだ」
彼が私の手に握られている手紙を指さした。
「届いた時はびっくりしたし、どうやって私の居場所を突き止めたのか心底謎だったが、彼女ならやりかねないと思って、少し笑ってしまったよ」
「なんで……?」
「彼女は昔、私と離縁するために、私のことを探し出したんだ。なんの手がかりもなかっただろうに、いとも簡単に。その時にどうやったのか尋ねたら、彼女は曖昧な顔をしてMessiahだから、としか言わなかったけどな」
「へぇ……」
母はそんなことができるのか。母ができるということは、父もMessiahだったのだからできるのだろう。父と母について知らないことがたくさんあったのだと、今更思う。
「……離縁したいなら、普通は離縁証明書を書く必要があるが、何らかの一族に属していれば、破門などで離れ離れになることは別に珍しいことではない。だから、役所に報告すれば離縁扱いになるんだ。そんなこと、彼女が知らないはずがないのに、彼女はそれでも私のことを探しに来た」
「ふふっ、お母さんらしいですね……けじめはちゃんとつけたかったんだと思います」
「あぁ、そうだろうな。……手紙を開いてごらん」
彼はまた手紙を指さした。
「……開けてもいいんですか?」
「あぁ。ちゃんと、知らせるべきだと思いながらこの数年間過ごしてきた。家の前で伝えようと思ったら、カナコ様が来たから伝えられなかったが……この旅の中で必ず、と決めていたからな」
なるほど、彼が家の前で言いかけたのは、この手紙のことだったのか。疑問が解けて少しすっきりした。
そして、依然震えている手で手紙を開いた。
上にも下にもびっしりと書かれた文字。間違いない、母の文字だ。
「……彼女らしいだろう」
手紙を読んでいると、そんな彼の声が聞こえた。確かに母らしい。私の涙が手紙にいくつものしみを作る。目の前がぼやけて正直何も読めない。しかし、読む手を止めることはできなかった。
―――コウ様へ。
突然のお手紙と、住所を勝手に調べてしまったことをお許しください。ただ、どうしても貴方に伝えなければならないことがあるんです。
貴方と離縁して10年以上が経ちました。その間に私は、かつての仲間のレイ・スパイスと結婚し、サナの他に3人の子供を産みました。私はもう4人の子の母親です。
それは重々承知しています。でも、私はまた戦わなければなりません。自分の運命を呪ってもどうにもならないけれど、正直やめたくて仕方がないし、子供たちと別れることがとても怖い。でも、それを仲間や子供たちの前でいうことは出来ません。現国王陛下のキヨ様はやめてもいいと仰ってくださいましたが、それはきっと許されないことなのです。なぜなら、殺されたクラーク様は私の実祖父だからです。彼の死を突き止めたいと、今はちゃんと自分の意思をもって思っています。
でも、おそらく私は死ぬでしょう。まだ幼い子供たちを残して死にたくはないけれど、きっとそれは無理なことなのです。
きっと夫も死ぬと思います。そうなった時、まず真っ先に心配なのは子供たちのことです。子供たちことはとりあえず、ザ・ワールド学園の寮母をしている旧知の友人に頼みました。しかし、きっと子供たちは苦労してしまう。特にサナは……。
あの子は本当に強くて、優しい子に育ちました。大きくなればなるほど、貴方にそっくりになっていきます。だから、私たちが死んだら、自分のことは二の次で、妹たちのことを第一に考えるでしょう。でも、それじゃあサナは苦しいまま……。
だから、本当にわがままだけどお願いします。サナに会いに行ってください。サナは貴方の存在を知っていて、ちゃんと受け入れてくれています。きっと貴方の存在が、彼女の救いになると思うのです。
それと、本当に申し訳ないのですが、住所を調べた時に、貴方が誰とも再婚していないことを知りました。貴方はやさしいから、きっと私たちのことを考えてくれているんですよね。ごめんなさい。でも、もういいんです。貴方の優しさは十分伝わってきたし、私はちゃんと、貴方が医療ミスではなく、部下のことを庇ったことも知っているから。そんな貴方だから、幸せになって欲しいんです。
最後に、今になってようやく、私は貴方のことを愛していたのだと気付きました。遅すぎるけれど、分からないまま死ぬよりはよっぽどいい。私は貴方との間にサナという子供を作ることが出来て、本当に幸せです。ありがとうございました。
サナと貴方と暮らした2年弱は、私の人生の宝です。
ふいてもふいても涙が溢れる。昨日あれだけ泣いたのに、まだ涙が残っているなんて知らなかった。自分でもびっくりするほど泣いた。
「……彼女のこの手紙は、私にとっても救いなんだ。だから、彼女が最期に望んだことはなんでもすると誓った」
涙で視界がぼやける。しかし必死に彼のことを見た。優しく微笑む彼の目尻にも涙が浮かんでいた。
「でも、1つだけ。……君に会いに行くのは、彼女が望んだからではない。今はちゃんと、自分が望んでいるからだ」
―――あぁ、なんて彼は優しいのだろう。彼は優しすぎる。その優しさは時に残酷だが、それでも私は彼の優しさに救われている。
「ありがとう……っ!」
涙を流す私のことを、彼は戸惑い気味に抱きしめた。その感覚が懐かしくて思えて、私は自然と笑顔になった。
これからも彼と会いたいと思った。“お父さん”と呼ぶことはできなくても、彼は十分すぎるほど私の父親なのだ。
まず、ここまで読んでくださりありがとうございます!
Messiahを書いていたのが2年以上前のことなのですが、最近ふとその後のストーリーを書きたいなぁ、と思って、この話を書きました。
サナにとってもコウにとってもレミという女性の存在は大きくて、だからこそ2人ともレミが亡くなった後は寄り添いながら生きていてほしいと思います。
本当にありがとうございました。