博愛の少年
これは、まだヨウがこの世界に転移したばかりの頃の話。
魔王クラーラはグルガンド王国へとやってきていた。
当時、魔王クレーメンスに支配されていたこの王国は、治安が悪かった。クラーラもそのことは知っていたが、だからといってここに来るのをやめなかった。
彼女は好きだった。人の多く集まるこの場所で、様々な人間を観察することが。
人型魔族のクラーラであるが、緑の髪は自然のそれとはまったく異なるために非常に目立っている。だが、魔王である彼女の顔を知る者は少ない。せいぜい、『変な髪の色に染めてるな』と思われている程度だった。
目的地を決めているわけではないから、ふらふらと道を歩いていた。
だから、気が付かなかった。
自分が、一般市民であれば決して訪れないような裏路地にやってきてしまったことを。
「へへへへ」
裏路地の狭い道を塞ぐように、四人の男が立っていた。
薄汚れたシャツに、やや鼻につく臭いを放つ体。頭髪はまるで獣ようにボサボサで、浮浪者を彷彿とさせる外見だった。
「何か御用ですか?」
「お嬢ちゃん、こんなところで一人で歩いてちゃあぶねーぜ。俺らが安全な場所まで案内にしてやるよ」
「結構です」
「つれねーなおい。優しく声かけてる時ぐれー、素直に騙されてくれねーとこっちはがっかりだぜ」
「兄者、もういいだろ。ここだ、ここでやろうぜ」
涎を垂らし、舌なめずりするようにクラーラを見つめる彼らは明らかに信用のおける人間ではなかった。
「止めてください」
けん制するように、強く宣言する。
「私はあなた方よりはるかに強いです。どうかその卑しい欲望を押えて、ここから立ち去ってください」
それは、クラーラにとって真剣そのものの発言だった。しかし当の男たちは、まるで面白い洒落を聞いたかのように盛大に吹き出した。
「はぁっ、おい、聞いたかお前ら! このお嬢ちゃん、俺らよりもつえーらしいぜ!」
「はははっ、そいつぁ気をつけなきゃな」
「やべぇよ、やべぇよ俺。強がってる女見てると、我慢が……」
男たちは醜悪な笑みを浮かべた。クラーラの発言をまったく信じていないのだろう。
そんな彼らを見て、クラーラはため息をついた。
なぜ、人は争うのだろうか?
否、人だけではない。魔族に至ってはその傾向が顕著だ。
争いは何も生まない。互いを傷つけ、罵りあい、不愉快になって何の得があるのだろうか?
クラーラは力を持つ魔王である。その気になれば、この柄の悪い男たちを殺すことだってたやすい。
だが、それは彼女の主義に反する。
「止めてください」
そう言うことしかできない。
(ここに……来ない方がよかったのかな?)
クラーラは心の中で涙を流した。どれだけ善意を示して、どれだけ博愛を説いても、無理な時がある。
人は……そして魔族は分かり合えないのかもしれない。
そうして、悲観にくれていたその時。
「大丈夫か?」
一人の男が、やってきた。
簡素な胸当てを身に着けた、どこにでもいそうな少年だ。ある程度引き締まった体は、彼がそれ相応に強いことを示しているのだろう。腰には剣を下げている。
クラーラは慌てた。この少年が助けに入ってきてくれたことはとてもうれしいが、それによって争いが始まってしまえば元も子もない。
クラーラは彼の袖をつかんだ。
「……ケンカは、やめてください」
「分かってる」
少年はクラーラに向かってほほ笑むと、改めて男たちえと視線を移した。
どこか強者のオーラを纏った彼に、男たちは多勢であるにも関わらず一瞬だけたじろいだ。
「お、おう……兄ちゃん。やる気か? こっちは四人なんだぜ」
「構わない」
少年が前に出た。男たちは身構える。
「俺を殴れ」
そう、少年は言ったのだった。
「俺をお前たちの好きなように殴ってくれていい。気のすむまでやってくれていい。金が欲しいなら多少は用意できる。だからこの子には手を出さないで、穏便にことを済ませて欲しい」
「……はぁ?」
男たちは呆気に取られていた。
「女にいいとこ見せたくて飛び込んできた考えなしか。貧弱坊やには、世間の辛さを教えてやんねーとな。おい、お前ら、やるぜ」
男の一人が少年に飛びかかった。しかしその攻撃を受けた彼は、何ら抵抗することなくその拳を受けてしまう。
二人、三人と男たちが続いていく。
「あ……ああ……ああ……」
クラーラは後悔に震えた。なぜ、どうしてこんなことになってしまったのかと、動揺を隠しきれなかった。
冷静であったなら、男を助けようとしただろう。しかし、今のクラーラにはそんなことを考えている余裕がなかった。
結局、その選択肢を思いついたころには、少年がボコボコに殴られていた。
「けっ、なんだよこいつ。気持ち悪ぃ奴だな」
「行こうぜ、なんかしらけちまった」
少年を暴行することに飽きた男たちは、クラーラのことなど忘れて路地裏の奥へと去っていった。
後に残ったのは、クラーラと少年だけ。
「どうして、こんな……」
信じられなかった。
この少年であれば、一人で四人を相手にすることができたかもしれない。仮にそうでなかったとしても、無抵抗のまま殴られ続けるなんて異常だ。
クラーラは地面に伏せる彼を抱き起した。
「嫌なんだ」
息を切らしながら、少年は答える。
「誰かを傷つけて、傷つけられて、そんな憎しみの連鎖が続くのは……。分かり合いたいんだ……」
少年の手が、クラーラの頬に触れた。
「君が無事で本当に良かった。あんな人たちに会って、ひどく心が揺らいでるかもしれない。でも、俺は言いたいんだ。人を思いやる心を、どうか忘れないで欲しい……って」
「あな……たは……」
感動した。
それは、クラーラの思想そのものだったのだから。
それから、クラーラは彼を背負って大通りへと出た。近くの療養所まで連れて行き、金を支払って治療に専念してもらうことにした。
その間、短い間ではあるがずっと彼と話をしていた。人を思いやる心や、どうすれば互いに理解しあえるかなど。
彼と話をしていると心が弾んだ。彼の優しさと自分の気持ちが一つになるとき、今までにない高揚感を抱いた。
あるいは、ずっと過ごしていたらそれは恋になっていたかもしれにない。
翌日、クラーラが療養所を訪れた時、彼はもういなかった。
もっと話がしたかったのに、と残念に思う。
その人は、どこかヨウに似ていた。
旧アースバイン帝国領、カラン砂漠西部にて。
魔王カルステンは砂の上に座っていた。
約24時間前、シェルト大森林で〈邂逅の時計〉を発動させた。そして身代わり魔具を放ったのち、即座に南東へと移動を開始した。事前に馬を用意していたので、かなり進むことができた。
ヨウたちが一日頑張ってもたどり着くことができない。そんな場所であった。
「終わった、かな」
懐中時計が砕けた。
〈邂逅の時計〉はループを発動させる魔具である。その絶大な力の代償として、一度使用すれば砕けて二度と使えなくなってしまう。
〈叡智の魔眼〉という最高レベルの鑑定スキルを持つカルステンだからこそ知り得る情報だ。
「やれやれ、うまくいって良かったよ」
切り札とも呼べる〈邂逅の時計〉であるが、残念ながら万能というわけではなく、いくつかの弱点が存在した。
一つは使用回数制限。一回しか使用できないため、設定や使用時期を誤れば目も当てられない結果になっただろう。
そして二つ目、ループの回数にも制限がある。
その回数は365回。一年が365日であることにちなんだ数値だろう。
〈邂逅の時計〉はループ中の詳しい内容を教えてくれない。ヨウたちがループ内でどのように行動し、どのように考えていたかなどを知ることは不可能だ。
ただ、その結末だけは知ることができる。時計が砕ければ成功、黒く染まってしまえば失敗らしい。
「さーて、これから忙しくなるぞー」
カルステンは意気揚々と北へと向かっていった。
これで森林王編は終わりになります。
いやほんと、長くなってしまいましたね。
このクラーラの回想シーンは、もうちょっと前の方に入れておいた方がよかったかも。