モラトリアム
――ある一人の少女がいた。
深き森、シェルト大森林に生まれたその魔族は、少女であり純真だった。
精霊が魔族化した存在である、スピリットと呼ばれる種族。他種族と群れる機会もなく、ずっと森の中で過ごしていた。
分け隔てなく妖精や精霊たちに触れ、何年も話をした。自分と彼女たちが違う種族であるという認識すらなかったと思う。
やがて、強大な力を持つ彼女は魔王に選ばれた。
魔王の力、魔法を求めて多くの魔族が仲間になった。
いつの間にか、少女の住む場所は領地となり、多くの魔族が彼女の傘下に収まった。
王の一角を占めるようになった彼女ではあったが、その心は幼き日より何も変わっていない。
争いなく森で暮らしていたゆえの、平和。
他種族と分け隔てなく会話をしていたゆえの、平等。
その言葉が、彼女の原動力となった。
俺たちはイルマのいるムーア領へと戻った。
領地は俺がいなくなった時と変わらず、平穏を保っているようだった。イルマは何もしなかったらしい。
とりあえず、胸を撫で下ろす。
廊下を歩き、執務室前のドアへとたどり着いた俺。そこには、まるで主人の帰りを待つ子犬のような青い髪の少女がいた。
オリビアだ。
「お兄ちゃん!」
花の咲いたような笑みを浮かべ、俺に抱きついてきた。
同時に、顔を強張らせるクラーラ。それは単純に嫉妬とかそういう問題ではなく、己の命を奪われてしまうかもしれないという……恐怖からのものだろう。
「…………」
俺は、どうしていいか分からなかった。
魔王バルトメウス領で見てしまった、彼女の姿を思い出す。
化け物。
バルトメウスはオリビアをそう呼んでいた。あの圧倒的な強さと、そして理性を失った姿は、無関係であるはずの俺に……少なからず恐怖を植え付けた。
この子が……あのバルトメウスを……。
「……お兄ちゃん?」
いや、今のオリビアは普通の状態だ。そんな風に化け物扱いするのは間違ってる。
そう……頭では分かっているつもりだった。
でも、彼女の頭を撫でようとしていた手が 笑みを浮かべようとした口が、優しい声を出そうとした喉が……どうしようもないほどの震えてしまっていた。
「う……ううっ、うえええええええええええん」
どうやら俺は相当怖い顔をしていたらしい。オリビアが泣き出してしまった。
はっとして正気に戻る俺。
「ご、ごめん。また今度遊ぼうな」
適当に頭を撫でて、彼女を慰める。
「えぐっ、ぐすん。絶対、だよ」
オリビアは目頭を押さえながら、廊下の先へと走っていった。
胸が痛い。
あの子はきっと悪くない。魔王を殺したいなんて思っているわけじゃない。でも、なぜかそういう風に生まれてきてしまったのだ。
彼女を縛る運命の鎖から、解き放つことはできないのだろうか?
執務室に入ると、そこにはイルマがいた。
公爵令嬢の姿をした彼女は、その赤い髪が良く映えるドレスを身に着けた、そんな少女である。
黙っていればそれだけで淑女を思わせるような出で立ちではあるが、しかし彼女が俺たちに対してそんなそぶりを見せるはずもなかった。
「ん、誰かと思えば森林王ではないか。どうした? 先日の礼でも言いに来たのか?」
ぶっきらぼうに、そんなことを言う。
俺の手柄はイルマの手柄。彼女の中では自分たちがクラーラを助けたことになっているらしい。
傲慢な奴だ。
「イルマ」
クラーラが前に出た。
「ヨウ君を解放して」
「また、その件か」
魔王イルマは苛立たしげに身に着けていた帽子のつばを握りつぶした。
「こいつは私の奴隷だ。生かそうが殺そうが苦しめようが弄ぼうが、すべてこの魔王イルマの思うがまま。それについてとやかく言われる筋合いはない。もし、それでもなおその男を欲しているというなら……」
ぞくり、と俺は背筋が震えてしまった。魔王イルマから放たれた殺気のせいだ。
なんて気迫だ。気の弱い人間であるなら、それだけで心臓が止まってしまいそうなほどの迫力がある。
「私から奪ってみろ。力を示せ魔王クラーラ」
「…………」
クラーラは無言のままその手を振った。すると、何もなかったはずの床から緑の生い茂った木が生えてきた。
おそらくは精霊の力を借りているのだろう。木の枝がクラーラの手に収束し、一本の木刀のようなものを作り上げる。
剣先をイルマへと向けるクラーラ。宣戦布告といったところだろうか。
クラーラはイルマより弱い。
それは、おそらく誰しも知っていることだ。最強である魔王イルマに敵う生き物など……存在しない。
「や、やめろってっ! こいつに勝てるわけがないだろ!」
「ヨウ君は黙ってて」
クラーラが駆けた。
速い。
身体能力が高いだけではない。彼女が足を踏むちょうどその地点には、小さな木のようなものが瞬時に生えている。おそらくは木々の踏み場を利用してさらに速度を上げているのだろう。例の精霊にしか分からない言葉を口にしているようにも見えるから、協力を得ているらしい。
「――〈森剣創生〉」
おそらくはハイレベルスキルにすら匹敵するほどの魔法。イルマの周囲に突如として出現した木々から、いくつもの剣が出現した。
イルマは無言のまま拳を突き出した。ただそれだけで、まるで剣山のように幾重にも連なった剣たちが……破壊されてしまった。
きらきらと、まるで粉雪のように散っていく刃。それはとても幻想的で、それでいてはかない光景だった。
その、刃が散る景色の中に――
「……っ!」
クラーラが突撃した。
100を超える剣はすべておとり。本当の一撃は、魔王クラーラ自身が持つ剣による刺突。
だが――
「そ……そんなっ!」
「ふっ、まだまだだな」
それすらも、赤の力王には及ばなかった。
クラーラの刺突はイルマの右手によって防がれた。彼女は剣を掴んですらいない。ただ、その薬指の腹で受け止めているだけ。
わずかに、ほんのわずかではあるがイルマの指から血が流れている。おそらく薄皮一枚を抜けて画鋲の先端が刺さるぐらいには効いているのだろう。
魔王クラーラは吹き飛ばされた。
「が……はっ……」
部屋の柱に打ち付けられたクラーラは、体を震わせながら起き上がろうとしている。しかし誰がどう見ても満身創痍な彼女の動きは、もはや瀕死といっても過言ではない。
クラーラはイルマを傷つけた。
だがそれが、魔王クラーラの限界。
世界最強を誇るこの魔王に、手傷を負わせた。それはとても名誉であり称えられることではあるが、同時に力の差を示していた。
もう、勝負はついてるんだ。
なのに……。
「負けない……」
クラーラはその身を起き上がらせた。
やめてくれ。
もう、それ以上は……。
「ヨウ君を、助けてみせる。絶対に……諦めない」
その意思は不死鳥のように何度でも蘇る。俺のために……。
俺は悲しさで心が張り裂けそうだった。
俺にそんな価値はない。この前クラーラがシャリーに襲われたのだって、俺が人造魔王の材料を持って行かなければ起こらなかった事件だったかもしれない。
俺が彼女を助けたわけじゃないんだ。俺なんて……風が吹けば飛んでいくだけの情けない男。
それなのに……この子は。
「気持ち悪い。興が削がれた」
必死のクラーラを見た魔王イルマは、つまらなさげにそう呟いた。
「その男が欲しいならくれてやる。好きにしろ」
こういう人情的な話が嫌いなのかもしれない。イルマの好きな闘争や力とは正反対の意思だからな。
俺はクラーラに駆け寄った。
「クラーラっ! 大丈夫か?」
「……え、へへ。ごめんね。魔王なのに……情けないところ見せちゃって。嫌いにならないでね?」
「馬鹿、無理しすぎだっ!」
分からない。
どうしてこの子は、俺にこうも優しくしてくれるのだろうか?
「これで、一緒にいられるね。あ、ヨウ君が嫌なら、一人でいなくなっても……いいけど。でも……私は……」
「いや、何かあてがあるわけじゃないからな。しばらくはクラーラと一緒にいるよ。迷惑か?」
「め、迷惑だなんてそんな。望んでるぐらいだよ」
俺は決めた。
ここまで好意を示してくれた彼女を、無視することなんてできない。
俺たち二人は手を握り合った。
「アニキ、何事でやすか?」
これだけの音だ。周囲にも漏れていたのは当然で、焦ったサイモンが執務室に入ってきた。
「なんでもない、少し喧嘩してただけだ。あとで片付けておいてくれ」
「え、いや、アニキ?」
どう見ても喧嘩程度ではすまないその部屋の惨状に、サイモンは狼狽するばかりだった。
しかし俺は、そのまま部屋を出て行った。
俺は領地の運営をサイモンら直属の騎士たちに任せ、しばらくは自由に動き回ることとなった。
すべては、クラーラと一緒に過ごすため。
でも俺は知っている。
そしてクラーラも知っている。
残された時間が……少ないことに。
魔王バルトメウスが残した、オリビアの記録。その統計によって示されるモラトリアムは――あと一週間。
魔王の天敵、オリビアがクラーラに牙をむく。その日は……近い。
彼女は死ぬべきではない。
なんとか……しなければ。
身代わり魔具のヨウ君「あぎゃああああああああああ、苦しい! どうですかイルマ様? 俺の苦しんでる姿に満足してくれましたか」
イルマ「お前……頭大丈夫か?」
こんなギャグがあったんですがそういう流れじゃないのでカットしました。
4/29 冒頭のクラーラの説明を追加。