大乱の幕開け
魔王バルトメウスとシャリーは対峙している。〈契約の書〉により、彼女は動けなくなった……はずだった。
だがシャリーは一歩前に歩いた。
「なっ!」
バルトメウスの胸からは一本の杖が生えていた。一瞬にして近づいてきたシャリーが、彼の体を杖で貫いたのだ。
貫かれたのだ。
「あ……あ……あぁ……」
スケルトンに肺はない。しかし体を異物で貫かれたその感覚は、もはや冷静な思考を遮ってしまうほどであった。
体に力が入らない。
「な、なぜ……〈契約の書〉が……」
確かに、〈契約の書〉の命令を覆すことは可能だ。それはかつて『仕事』に関して制約を受けたダニエルが証明している。
しかしそれは強靭な精神力をもってしてやっと抵抗できるというレベル。たとえ魔王であろうとも、何のアクションもなく〈契約の書〉の束縛を逃れることなど不可能なはずだ。
「人魂の話を聞いたときは肝を冷やしました」
「何の……話だ?」
錬金術師シャリーは自らの手を振った。するとそこから、まるで薄皮が剥がれ落ちるように白い靄のようなものが出現した。
人魂だ。
「手に人魂を張り付けていたんです。あの日、鉛筆を持ちサインしていたのは私でなくこの子だった。そういう話です」
バルトメウスは己のうかつさを呪った。
シャリーは手で鉛筆を掴み文章を書いていた。だがその左手にアンデッドが張り付いていたのだとしたら、サインをしたのは彼女ではなくなる。
しかしそれは同時に二つの事実を意味する。一つはシャリーがバルトメウスを警戒していたこと、もう一つは魔具の発動条件について理解していたこと。
「君は、気がついていたのかね? 〈契約の書〉に」
「私、魔具には詳しいんです。残念でしたね」
バルトメウスはめまいがした。
シャリーの方が一枚上手だったのだ。こうも完璧に欺かれるのは本当に久々だった。
「ひいいいいいいいいっ!」
ダニエルが逃げ出した。情けなく見えるものの、責任感の強い彼のことだ。おそらくは誰かに助けを求めに行ったのだろう。
「私を……どうす、るつもりかね?」
「これでも、私を生き返らせてくれたことには感謝してるんです。命までは取りません」
ふと、バルトメウスは杖の先にあるものを見つけてしまった。
水色の糸だ。
魔王たるバルトメウスの根幹を成す力の象徴、『水糸』である。
「今回はカルステンさんがいませんからね。虹色の竪琴から力を得るために、あなたの『水糸』を拝借します」
シャリーは水糸をその手で掴み、己の体へと取り込んだ。
「さて……アイシクルニードルっ!」
言葉に従い、バルトメウスの周囲につららのような水色の氷が出現した。それは骨の隙間を縫うように突き刺さり、彼を床から動けないようにしてしまう。
「なぜ君が……魔法を?」
「魔法ではありません。水糸の力を借りて扱うことのできる、私たちアースバイン帝国では『疑似魔法』と呼んでいました」
「…………」
バルトメウスはもはや何も言えなかった。人間がここまで戦えるなどと思っていなかったのだ。
アースバイン帝国。それは魔族と互角に戦い合う……というレベルではなく、明らかに超えてすらいる。
「グレイシャーランスっ!」
シャリーの疑似魔法によって巨大な氷塊が出現し、研究所の壁が壊された。
外には人造生物と……加えてアンデッドが集まっていた。
アースバインのアンデッドたちだ。いずれもシャリー肝いりで製造された『精霊剣』を持っている。目覚めたての意識レベルが低かった状態は終わり、すでに人間とそん色ないほどの自我と思考をもつ人々だ。
「聞きなさい、誇り高きアースバインの英霊たちよっ!」
しん、と静まりかえる。シャリーの命令に絶対服従の人造生物はもとより、アースバインのアンデッドたちもまたかつての高官に従っているようだ。
「私たちは、今、魔王バルトメウスの力によって蘇りました。現在では帝国は滅び、人類の生存圏は縮まっています。陛下がご存命であったのなら、決してこのようなことにはなりませんでした」
そうだ、そうだという声が広がっていく。魔王バルトメウス領で働いていたこのアンデッドたちは、すでに旅人や仲間のアンデッドから世界に関する情報を得ていた。
魔王に押される人類。滅びゆく諸王国。それがこの世界の現状。
「アースバインに栄光あれっ! 不甲斐ない子孫たちに代わり、私たちがこの世界に力を示すのですっ!」
「「アースバインに栄光あれっ!」」
掲げた剣は幾重にも重なり、さながら草原のようですらあった。アースバインの英霊たちは怒声をあげ、この世界に力を示そうとしている。
「しゃ、シャリー」
事の成り行きを把握していないクレアは、妹の言葉にただただ狼狽するしかなかったようだ。彼女はダニエルにみっちりしごかれていたので、この陰謀にはまったく関わっていないらしい。
「お姉ちゃんは何も考えなくていいんです。ゆっくりしていてください」
もとより、シャリーも彼女の力を当てにしてはいなかったのだろう。彼女はどちらかといえばバルトメウスに好意的だったうえ、あまり深く考えるタイプの人間ではない。帝国の栄光や人類のプライドなどにこだわりがないのかもしれない。だからこそ、シャリーはこの話を持ち掛けなかった?
あるいは、自らが失敗したときの保険か。大切な姉だけでも生かそうとする、妹の慈悲か。
バルトメウスには結論が出せなかった。
シャリーが杖で床を叩いた。すると、人造生物たちの奥からとある二体が現れた。
帝国の叡智、人造魔王たちだ。
「あなたたちに命令します。魔族たちの象徴。魔王イルマを倒すのです。行きなさいっ!」
声に従い、二体の人造魔王は駆け出した。
目指すは、魔王イルマの滞在するムーア領。
ここからはしばらくまじめな話が続くんです。
4/11 身代わりホムンクルスの話を削除。