駆け引きの始まり
バルトメウス領スツーカ、錬金術師シャリーの研究室にて。
「シャリー君、どこにいるのかね?」
魔王バルトメウスは研究室の中にいた。研究の進捗状況を彼女から聞こうとやってきたのだった。後ろにはダニエルが付いている。
周囲のカプセルには恐ろしい形相の人造生物たちが眠っている。バルトメウスでさえ少し怯えてしまうほどだ。力のないダニエルはなおさらだろう。
「か、会長。ここ、なんだか不気味ですね」
「まったくだねダニエル君。しかしその不気味な生き物たちが、私の味方として戦ってくれると思うと心強くないかね?」
「それはそうですけど……」
「……ん?」
部屋の奥へと歩いていたバルトメウスは、唐突にその足を止めた。
「カプセルが、壊れて……」
ガラスが割れ、中からは黄色い液体が漏れ出している。這い出した何者かの足跡が……床に。
不意に、バルトメウスは恐ろしい気配を感じた。はっとして振り返ると、ダニエルの後ろに立つ……異形の生物が。
自然ではありえないような長いツメを持つクマ。おそらくはシャリーが生み出した人造生物だろう。
「ダニエルさん、逃げてくださいっ!」
背後から現れたのは錬金術師シャリー。その杖を振るい、人造生物の爪を受け止める。
「お姉ちゃんっ!」
「はーい」
同時に、彼女の後ろにいた将軍クレアが跳躍する。赤い炎を纏った剣で異形の生物を切り上げた。
この世のものとは思えない悲鳴を上げた人造生物は、気を失うかのように壁へと倒れ込んだ。
「一体何が起こっているのかね? シャリー君」
「……暴走ですっ! カプセルの中の魔物たちが、制御不能に陥ってしまいました」
見ると、人造生物は先ほどの一体だけではない。隣の部屋からぞろぞろと溢れるように出現している。
「ひいいいいい、会長、大変です。すぐに逃げなきゃ!」
「…………」
「会長?」
人造生物に囲まれたバルトメウスは、しかしその冷静さを失うことなくシャリーにこう言った。
「生き物たちの暴走は君の命令なのだろう?」
瞬間、空気が凍った。
誰もが、バルトメウスの言葉に息を呑んだ。ありえない、信じられないとでも言いたげに、非難の視線すら向けていた。
まず最初に反応したのはシャリーだった。
「はい?」
「あまり私を見くびらないでもらいたい。君の考えていることなどお見通しだよ」
事実、バルトメウスは知っていた。錬金術師シャリーが己の生み出した生物を使い反乱を起こそうとしていたことを。
バルトメウスは指を鳴らした。ふわり、とその音に呼応するように現れたのは白い人魂。シャリーが研究の手伝いにと使役しているアンデッドであった。
「君が使役している低レベルの人魂は、腐ってもアンデッド。魔王たる私は彼らから常に報告を受けていた。今日この日、君が人造生物たちの暴走と偽り反乱を起こすことも、魔王イルマに人造魔王を差し向けることも、すべて聞き及んでいる」
「…………」
「しゃ、シャリー?」
クレアは怯えた様子で自らの妹を見た。
どうやら彼女は無関係らしいと、バルトメウスは心の中でそっと息を漏らした。
「そうですか、知っていたのですか」
言うや否や、距離を詰めてくるシャリー。その杖がこちらを向いている。
速い。
魔王バルトメウスはあまり強い魔王ではない。だが『魔族』というカテゴリー内のランキングでいえば、間違いなく上位に位置しているだろう。
そんな彼だからこそ分かる、彼女が並大抵の強さでないことを。
「それで、知っていたらどうするんですか? あなたの力で私を止めるんですか? できますか?」
「しゃ、シャリー? 何言ってるの? この魔王さんは、私たちを生き返えらせてくれたんだよ? それなのに、どうして……」
「お姉ちゃんには私の気持ちは分からないです。私は……陛下に」
「シャリー……」
バルトメウスは深いため息をついた。髑髏の歯から、水色の煙がまるでタバコのように漏れ出していく。
「あまり配下を縛るやり方は好きではないのだがね……」
バルトメウスは懐から魔具――〈契約の書〉を取り出した。ヨウと約束を交わすために使用した本だ。
「それで私を縛るんですか? 私がその紙にサインをするとお思いで?」
「ふふふ……サインなど必要ないよ。これを取り出したのは、君に分かりやすく理解してもらうためさ。これを覚えているかね?」
〈契約の書〉の中から取り出した二枚の紙。紙質は魔具であるこの本と瓜二つ、それもそのはずもともとはこの本に収められていたものを千切ったのだから。
『雇用契約書』と書かれたその紙は、バルトメウスが初めて二人と出会った時に書かせた書類であった。
「私と君が最初に出会った時、すでに駆け引きは始まっていたのだよ」
「……同じ、紙?」
「理解が早くて助かる。つまりこの雇用契約書は、〈契約の書〉によって作られたもの。それにサインした君たち二人は、書かれた内容に従わなければならないのだよ」
笑うバルトメウス。しかしそんな彼の様子を見ても、シャリーは動揺を表に出すことはなかった。
「見え透いた脅しですね。私はその紙に書かれた内容を確認しました。給与水準や労働時間はあまり厚遇とは言えないと感じましたが、何かを命じたりといった文章は――」
「動くなっ!」
魔王バルトメウスは右手を上げながら突然声を荒げた。
「あ……うっ!」
驚きのあまり動こうとした様子のクレアは、しかし金縛りにでもあったかのように一歩も動けずにいた。シャリーもまた微動だにしない。
「しゃ、シャリー、。どうして……私、体が……」
「…………」
「見たまえ」
魔王バルトメウスは雇用契約書の左上を指さした。本来であれば用紙の隅は空白地帯になっているはずなのだが、そこには小さくこう書かれていた。
――魔王バルトメウスが右手を上げた時、シャリー(クレア)はその命に従わなければならない。
「嘘っ、あたしそんな書き込みなんて見てない」
「……お姉ちゃん、あれはきっと後で書き足した文章です」
正解だ。
「この紙に書かれた内容には従わなければならない。たとえそれが、サインした後に書き足された内容だとしても……」
魔具、〈契約の書〉は極めて有用な道具である。
その強制力は強者によって破られる可能性があるものの、それには相当の労力が必要だ。仮に破られるとしても、かなりの時間稼ぎになるだろう。
命令は成った。時間はいくらでもある。
バルトメウスはそう考え、次の一手を構想するのだった。
また次の話まで持ち越しでした。
こう、あれよこれよと書いていたらきりがないですね。