仮面の男
エグムント領、タターク山脈。高地であるが故の荒野。
俺は行方不明のオリビアを求めて、ここまでやってきてしまった。
もともと、エグムント領は領地として機能していないと有名だ。兵士とか軍とかいう概念が希薄で、配下の魔族たちは思い思いに行動しているらしい。そんなわけだから、国境の警備兵なんて存在しない。むしろ敵は大歓迎とでも言いたげですらある。
だからこそ、俺がこうして易々と侵入を果たすことができたわけだが。今回は少し……事情が違うようだ。
砕かれた岩盤。
地面に開けられた大穴。
転がる魔族の死体。
ここで、何かがあった。巨大な力を持つ何者かが暴風雨のように荒れ狂い、争っていた形跡だ。
「…………」
俺は……気を引き締めていた。
思った以上にまずい状況かもしれない。
だが今のところ、ここに来て大きな音が聞こえてくることはない。仮に争いがあったとしても、それはもう終結しているのかもしれない。
警戒しながら進んでいた俺の前に現れたのは、一人の男った。
仮面の男。
魔王たちが集結したあの日、魔王エグムントに剣を突きつけた彼の部下だ。
「オリビアっ!」
彼の腕に抱きかかえられていたのは、オリビアだった。俺が用意したワンピースは無残にも破かれ、残された下着は鮮血に塗れていた。
俺は彼に駆け寄った。
「あ、あんた、魔王エグムントの配下だったよな? この子を連れてきてくれてありがとう」
俺は彼からオリビアを受け取った。これほどの血にまみれているにも関わらず、彼女はまるで昼寝でもしているかのように安らかな寝息をたてていた。怪我はどこにも見られない。
「エグムント様が死んだ」
仮面の男が、神妙な声色で語り掛けてきた。その手は悲しさからなのだろうか、かすかに震えていた。
あの男が……死んだ?
イルマと並び称させる最強の魔王が、死んだ?
「あのお方はオリビアを79回殺した。あと少し、6回殺せていれば決着がついたのに……」
「殺した? オリビアは殺しても復活するのか?」
「……力が、足りなかった」
仮面の奥から溢れだす涙。あるいはこの男、俺と会話しているつもりなどないのかもしれない。
愛する主を失い、悲しみに暮れる慟哭。言葉ではない、それは叫び。
「俺は……失敗してしまったんだ」
仮面の奥の瞳が、今、確かに俺を捉えた。
「この先の魔王は、イルマまでは無風。力のないバルトメウスやパウルはもとより、クラーラでも彼女に太刀打ちできない。カルステンはそもそも争う気がない」
やっぱり、そうなるのか。
エグムントはイルマに並ぶぐらい強い魔王と言われている。その彼が負けたのであれば、イルマ以外にオリビアを止められるはずがない。
これは、警告を受けてるってことだよな? イルマの仲間(と見なされている)俺が、エグムントの配下であるこの男に。
俺は一応イルマの奴隷という身分だからな。適当に話を合わせておかないと。
「……イルマ様は誰にも負けない。他の魔族が、そして俺自身だって助けを惜しまないだろうが、その助けすらいらないはずだ。この件は報告だけしておく」
「そんな上っ面の話をしているんじゃない。俺はお前の心に語り掛けているんだ」
「……?」
「お前は魔王に忠誠を誓っていないのだろう?」
見え透いた演技はばれていたらしい。まあ普通、人間が魔王に従うわけないよな?
「……俺はもう、お前を助けない」
……?
「何の話だ? 『お前を助けない』? 俺は今まで、お前に助けられていたのか?」
「……俺は仲間たちをまとめて、この地から立ち去る。あとはアレックス将軍に進言して、この領地を制圧すればいい」
「待て、お前は何をっ!」
再び問いただそうと、彼の肩を掴もうとした……その瞬間。
気がつけば、仮面の男は消えていた。
「一体、何だったんだ?」
あの男の言葉は謎が多い。しかし、魔王エグムントがオリビアによって殺されてしまったというのは、おそらくは事実なのだろう。
俺の手の中で眠るこのかわいらしい少女が、魔王を殺した? あのエグムントを?
信じられない。
信じられるわけがない。
でも、この無慈悲な現実は確かにこの荒唐無稽な説を現実のものと説明している。
「……むにゃむにゃ、お兄ちゃん」
オリビアが寝言を言っている。まるで生まれたての赤ん坊が甘えるように、俺に縋り付いてきた。
「…………」
疲れた。
とりあえず、冒険者ギルドに戻ろう。
魔王エグムント、死亡。
魔族にとって凶報であり、人類にとって朗報であるこのニュースは、瞬く間に世界中へと広がった。
中でも、同様に殺されてしまう可能性のある魔王たちの衝撃は、ひときわ大きいものであった。
魔王エグムント領タターク山脈西方、シェルト大森林にて。
肥沃な広葉樹林に覆われたこの大森林は、魔王クラーラの領地である。豊かな大自然には数多くの四大精霊が飛び交い、エルフや獣に近い魔族など森の住人が安らかに暮らすそんな場所。
人間はいない。クラーラは人を支配することに興味がないのだ。もっとも、配下の魔物が人間たちに高圧的な態度で接することがあるため、彼女の意思が世間に正しく伝わっているかは分からないが。
魔王クラーラは座っていた。そびえたつ巨木の根がまるで柱のように乱立するその場所は、この大森林における彼女の部屋である。その根の隅、何もないただの地面に座り込んでいる。
「あ、あの魔王エグムントが負けた? 次の次は私の番なんだよ?」
魔王クラーラは震えていた。
どちらかと言えば力を持つ方の魔王ではあるが、その強さはエグムントの足元にも及ばない。
「怖い、怖いよぉ」
死。
その瞬間を妄想し、彼女の怯えは最高潮に達していた。
「……助けて、助けてよぉヨウ君」
森の奥深く、彼女の震えた声が木霊した。
ここで魔王集結編を終了します。
数多くの魔王とその従者たちが登場する回であり、書いている僕としても大変気を使う章でした。
ちゃんとキャラがかけている……と信じたい。