魔王エグムント
魔王がこの地に集結する。
その恐ろしくも信じられない事態に、俺の胃痛はとどまることを知らなかった。
つ、辛い……。
今回、ムーア領には魔王とその配下の魔族たちが集まってくる。しかし鬼やらアンデットやらサキュバスがうようよとこの地にやってきたら、人間たちは大パニックだ。
だが、実際にそんなことにはならないだろう。なぜなら、ここに集まる魔族の多くは人間に化けているからだ。
これはイルマが決めたルールらしい。〈人化〉することによって、戦意がないことの証明にもなり得るからだ。マティアスに聞いた話だが、〈人化〉すると戦闘力は大いに下がってしまうらしい。そういえばモーガンの奴も、戦うときには元の姿に戻ってたよな。
もっとも、〈人化〉せずとも人型を取る魔族がいるのは周知のとおり。そういう奴はそのままの姿でやってくるだろう。加えて、そんな魔族たちは例外なく強いらしい。
なんでも、創世神が自らに似せて作ったのが人であり、その人に近い形をしている魔族が高位な存在であるらしい。なんかどっかで聞いたことある理論だな、これ。
寝室からバルコニーに出る。朝日を浴びたいとか飛び降りたいとかそういう意図はなく、ここから下の様子を窺うためだった。
屋敷の入り口近くに、数十人程度の人々が集まっている。
表向き、彼らはどこかの貴族とその付き添いという身分で新領主に挨拶へやってきたことになっている。しかし……。
「あれは青の破壊王エグムント様です」
と、隣にいた老執事風の魔族――マティアスが言った。
「わたくしは下で応対をしてきます。あなたもお嬢様の奴隷なら、粗相のないように」
粗相というか、そもそもかかわり合いたくないし。遠くから眺めているだけにしておこう。
集団の中でもひときわ目立つあの若者。おそらく彼が魔王だろう。
まるで染め上げたかのような青い髪。服装もシャツとズボンだけで、全然締まっていない。周囲に仲間たちと笑ったり、おどけて肩を叩いたりしながら楽しそうに歩いている。
なんかすごい軽そうな感じだな。『破壊』とかいう名前がついてるから、もっと筋肉ムキムキで禿げたオッサンかと思ってた。『力こそは……正義』みたいな。ってこれじゃあイルマと被ってるか。
青の破壊王エグムント。
イルマやクレーメンスと同じく、グルガンド王国に領地が接する魔王の一人。赤の魔王とともに最高級の力を持つとされる魔王である。
その力は絶大。しかし争いを好みすぎる性格ゆえか、奪い取った領地から搾取したり支配したりといったことはしない。そもそも敵地を占領したという意識があるのかすら疑問だ。戦いたいがために戦争を仕掛けている気配すらある。
『王国』にとってはあまり脅威とは言えない。しかしその戦闘好きゆえに、これまで決して少なくない数の兵士が犠牲になってきた。
いずれ俺も、あの男と戦うことになるのだろうか?
ま、まずい、今目が合ったぞ。
俺はとっさに目を逸らした。なんといっても相手は魔王。今の俺では瞬殺されてしまう。
おそるおそる、バルコニーの下から魔王の姿を確認しようと……ちらりと確認した。
きっ消えた!
背後から、誰かの息が聞こえる。まさか、あれほどの距離を一瞬で詰めて……俺の背後に?
「ハァハァハァ」
息が……聞こえて……?
「あ、あの……青の破壊王エグムント様ですよね?」
「おう、そうだぜ」
「や、止めてくれませんか? 俺のお尻を揉むの」
青の破壊王、なぜか俺の尻を触っている。撫でるように、鷲掴みするように。その手つきはまるで電車の痴漢みたいだった。
ち、痴漢したいなら女の人でやってください! いや、女の人でも駄目か。
「おいおいおぃ、ヨウちゃん。イルマは良くて俺は駄目なのかぁおい?」
「え……あ、あの?」
「こ……こいつはすげーわ。百人に一人の逸材だぜ。俺のハーレムに入れねぇーとな、イルマの奴、いくら金貨を積めば譲ってくれんのかな」
「あ、あの? 言ってる意味が分からないんですけど」
「…………ハァハァ」
魔王エグムント。俺の臀部を触るのに夢中でもはや会話すら成り立たない模様。
うぅ、生暖かいこいつの息が気持ち悪いよぉ。
「……あ」
俺は……気がついてしまった。
イルマは公式には男。そして俺は彼女……もとい彼の愛玩奴隷。
つまりイルマも俺もホモ!
……と、魔族たちに思われているのだとしたら?
「…………」
うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!
なんだこれ? 俺このままイルマに金貨で売られちゃうの? 僕は今日からエグムントさんの奴隷として生きてくの?
いやだあああああああああああ!
などと心の中で叫んでいたら、唐突に救世主が現れた。
「……と」
エグムントが跳躍する。
彼が立っていた立っていた場所には、剣先が突きつけられていた。
剣を持っているのは仮面の男。おそらく、先ほどまでエグムントが会話をしていた連れの魔族だろう。
人型の魔族だな。背丈は俺ぐらいの、黒髪の男。
「…………」
仮面の男は喋らない。
でもなんだろう、この男。どこかで会ったことがあるような……
「わりぃわりぃ、憧れのヨウちゃんに会っちまったもんだから、ついつい夢中になっちまってな」
エグムントが笑いながら男を抱き寄せた。仮面の男は何も言わず、されるがままにその胸に体を預ける。
「行くぜ」
こくり、と頷く仮面さん。
君たち、どういう関係なの?
青の破壊王エグムント、到着。
途方もない不快感を与えたこの魔王を、俺は決して忘れないだろう。
ただ、一瞬で俺の背後へと回ったあの動き。加えて、配下の剣を回避したあの能力。
〈人化〉をしていればあそこまで体を動かせない。おそらく、イルマと同じように人型の魔族なのだろう。
そして当然ではあるが……強い。動きを見ていれば分かる。イルマと同じように……底が知れない。