中絶
僕は病院の屋上でベンチに座りながら、鮭弁当を食べていた。
自分自身なぜこんな場所で弁当を食べているのかわからなかった。
不思議に思いながら鮭弁当を食べていると、正面に見える塔屋のドアが開いた。
開いたドアからパジャマ姿の子供が僕の方に向かって歩いてきた。
ああ、そうかと僕は気づいた。
自分がここにいる理由を。
『堕ろすことにしたの』
真冬の空の下、冷えた両手を息で温めながら、あの人はそう言った。
僕は忘れていない。
ここは僕の世界なんだ。
ちょうど彼の年齢も。
「どうした? わざわざこんなとこまで出てきて」
「おじさんが呼んだんでしょ」
「僕はまだ27だぞ」
「おじさんじゃん」
「まあ、君からみればそうか」僕は納得して「隣に座りなよ」と左の空いたスペースに彼を促した。
「元気でやってるのか?」
「まあまあ」
「そっか」
僕はご飯を口に運び、もしゃもしゃと食べた。
彼は足をぶらつかせるだけで、何も言わなかった。
2人の沈黙がしばらく続いた。
僕は無心に弁当を食べていたし、彼はその間、ずっと足をぶらつかせていた。
弁当を食べ終わると、ゴミをレジ袋に入れてベンチの下に置いた。
ペットボトルのお茶を飲んで一息つく。
空が青かった。
なんの悩みもないような突き抜けた青空だった。
迷いなく広がる青空が羨ましく思えた。
僕はペットボトルのキャップを閉めて、彼の言葉を待った。
結構な時間が経った後に彼は口を開いた。
「俺はいらなかったのかな」
「そうだよ」と僕は間を置かずに答えた。
中途半端にする気もなく、そのまま言葉を続けた。子供とは思わない。1人の人間として。
「君の両親はただSEXを楽しみたいだけだったんだ。君なんて欲しくなかったし、必要なかった。邪魔だったんだよ。遊びたい年齢だっただろうしね。君を堕ろしても、数ヶ月後には何食わぬ顔でSEXを楽しんでたさ。それに経済的なこともあるかもしれない。子供を育てるのにはお金がかかるからね。お金はみんな大好きでしょ。誰だってお金で苦労したくはないんだよ。あとは自覚と自信もなかったんじゃないかな。自分が親になるなんて想像してなかったんだろうね。だからうまく家庭を築く自信もなかった。そういったいろんな理由があると思う。君の両親がどんなことを話し合ったのか僕にはわからないけどね」
彼はふーんと言っただけで、心ここにあらずのような感じだった。
僕は少し思うところがあった。
彼に対する僕の意思をここで伝えておきたかった。
「君が両親のことをどう思っているのかわからないけれど、僕は君の両親に幸せになって欲しいと思ってる。だからもし君が両親を憎んだり、恨んだりしているのなら、僕は全力で君と闘わないといけない。言葉の力はそっちの世界にも届くからね。それでもいいなら好きにすればいい」
彼は何も悪くないのに、僕の考えを強引に押し付けるようなことを言ってしまった。
ただ僕も自分に嘘はつけなかった。たとえ彼にどんな酷いことを言ったとしても。
「おじさん」彼は静かに言った。
「なんだい?」
「よく喋るね」
ずいぶん冷静なところがあの人に似ているような気がした。
「よく言われる」と僕は言った。
「俺はそんなこと思ってないよ」彼はそう言った。
「そっか。それならいいけど」
僕もまったく関係がないわけじゃない。
僕の行動次第ではこの子の未来を変えられた。
「ごめんな、何もしてやれなくて」
あの時、もし僕に力があったなら。
彼は僕の好きな人の子供だったんだ。
本当にあの人のことが好きだったのなら、僕が言えばよかった。
たとえ他の男の子供だろうと。
『堕ろす必要ないよ。僕の子供として育てる。僕と結婚しよう』
言えなかった。
僕にとってあの人の存在はしょせんその程度だったのかと自分を疑った。
どうして彼氏から強引に奪ってでも一緒に生きる選択をしなかったのか。
それだけじゃない。彼の父親にしてもそうだ。
父親の胸ぐらを掴んで、
『お前の子供だろうが! 自分の彼女と子供を幸せにするぐらいの覚悟をみせてみろよ!』
そう言えたはずだ。僕は2人の恋愛を長く見守っていたのだから。
なのに僕は2人に何も言えなかった。
きっと今、あの時とまったく同じ状況になっても、僕は言えないと思う。
結局僕は何も変わっていない。
僕も、彼の存在を消した1人だった。
「ねぇおじさん、ひとつ聞いていい?」彼の静かな口調が僕を落ち着かせる。
「なんでもどうぞ」
「おじさんはなんのために生きてるの?」
彼は僕を通して、自分の存在の意味を知ろうとしていた。
生まれる前に存在を消された人たちは一体なんのためにいたのか。
彼がいなくなってから、僕はずっと考えていた。
僕は彼の質問に答えた。
「いろんな人に影響を与えるためさ。僕は必死に生きて、できるだけたくさんの人に影響を与えていきたいと思っている。それは君だって同じだよ。君は生まれてこなかったけれど、たしかに存在して、こうして僕に影響を与えている。僕だけじゃない。君の両親はもちろん、お医者さんや看護師さんにも影響を与えている。その他にもきっと大勢いると思う。人はね、そうやってお互いに影響を及ぼしあって生きてるんだ。生きる意味、存在した意味がそこにあるんだよ」
僕はそう言って、「ちょっと子供には難しい話だったかな」と彼を急に子供扱いした。
彼は何かを考えてる面持ちで「それぐらいわかるよ」と言った。
「さすが天才は違うな」と僕は言った。
「まあね。おじさん、今何時?」
「部屋の掃除」と僕は答えた。
「そういうのいいから」とずいぶん冷静に怒られた。最近の子には冗談が通じないらしい。僕は腕時計を見て「2時21分」と言った。
「そろそろ戻る。みんなとゲームして遊ぶ約束してるんだ」
「桃鉄か? 友達減らすなよ」
「ポケモンだよ」
「そっか。楽しんできな」
彼は勢いをつけてベンチから立ち上がり、僕の正面に陣取った。
「またね、おじさん」
「またな。チンチンはちゃんと皮を剥いて洗えよ」
微笑んだ彼の姿が少しずつ薄くなっていった。
彼の体と背景がひとつになろうとした瞬間、どこからか風が吹いた。
風は彼を霧散させ、彼は僕の前から消失した。
彼がいなくなり、僕はまた空を見上げた。
突き抜けた青空を見ながらつぶやく。
「いつか君のことを書くよ。僕の文章は何年も何十年も遺る。君はこの世界に生まれてはこなかったけれど、君が僕に与えてくれた影響をずっと遺すから」
そうやって僕はまた自分を正当化しようと、言い訳を重ねた。
完成日不詳
2015年12月24日 追記
クリスマスイブやね。
家族といる方も、恋人といる方も、友達といる方も、1人でいる方も、みんなの幸せを願ってる。 英星