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「封印の運命」という小説がある。
舞台は現代日本、しかし魔法が存在するというファンタジーな世界である。魔法の存在は一般には知られておらず、限られた人間しか使用することができない。
主人公の一之瀬裕也は普通の高校3年生だが、それは本人に自覚がないだけである。
魔法、その中でも特殊な封印魔法を使える唯一の存在であり、その能力によって様々な事件に巻き込まれていく。
「俺はその小説の中で、主人公を裏切る親友なんだ」
目の前の彼――二宮彰はそう重々しく口を開いた。
梅雨に入り、傘が手放せない6月。私、遠野咲耶は雨にうんざりしながら学校から家へと向かっていた。
今日は梅雨の中休みだと言っていたのはなんだったんだろうか。授業中、雨が降り始めたのを見たクラスメイト達はげんなりしていた。
折り畳み傘を持ってきていて良かったと思いながら、いつもの公園の前を通り過ぎようとしてふと、足を止めた。入り口のベンチの上にノートが開きっぱなしで置かれていたからだ。
誰かが忘れていったのだろうか。このままでは濡れてしまうと思い、私は公園に入ってノートを拾い上げた。
「え……」
持ち主の名前を探そうとして、開かれていたページを何気なく覗いて思わずぎょっとした。
そこには数人の生徒の名前と、彼らに関する個人情報が事細かに書かれている。それはあまり交友関係が広くない私でも知っている名前ばかりで、全員整った容姿をしている者達ばかりであった。
……もしかして、このノートは彼らのストーカーのものではないだろうか。
クラス、部活、趣味あたりまでならまだしも、家族との関係や幼少の頃の話など、他人が易々と知って良いものではないことまで書き込まれている。
「あっ、そのノート!」
持ち主を探すより警察に持っていった方がいいかもしれない、と思案していた時、背後から聞き覚えのある声が響き、私は驚きに肩を揺らした。
「二宮君」
走ってきたのか息を切らしてこちらへ向かってくるのは、一組の二宮彰だった。
ものすごく必死の形相で手元のノートを凝視すると、酷く言い辛そうに口を開く。
「遠野さん、そのノート……見た?」
「二宮君の物なの?」
「見た?」
繰り返し問う彼の顔色がどんどん悪くなっていく。
私が「ごめん、見た」と言って頷くとやっぱり、と肩を落とした。
「あの二宮君……」
「違うんだ誤解だこれには訳があるんだ!」
“二宮君ってストーカーなの?”と勢いで聞こうとした言葉は遮られ、捲し立てられた否定の言葉に飲み込まれた。なんだか浮気を疑っている彼女と、それに言い訳している彼氏のような光景である。
それならば、どんなに良かったか。
二宮君は暫し唸っていたが、やがてゆっくりとした動きでこちらを見た。
その目には決意の光が宿っている。
「実は俺、前世の記憶があるんだ」
私の好きな人は、ストーカーではなかったが、中二病だったようだ。
私は二宮君が好きだった。
1年の時、同じクラスで同じ委員会。特に意識もせず話すようになった。
私達の高校はそれなりに偏差値の高い学校であったが、彼はあまり勉強が得意ではないらしく、委員会――図書委員の仕事の合間などに宿題を見てあげることもしばしばあった。
特に何かがきっかけだったわけじゃない。即座に好きな所を挙げることもできない。
でも、いつの間にか「ああ、好きだな」と思うようになった。
特別見た目が良い訳じゃない。それならばいつも彼の隣にいる一之瀬君の方が余程かっこいい。
特別性格が良い訳じゃない。親友にはどこが良いのか、と首を傾げられる。
でも、好きなのだ。
そして、そんな二宮君の家に私はいた。
正直言ってどうしてこうなった、としか言いようがない。
衝撃的な一言を残した二宮君がこんな天気だし、詳しい話は外でできないから、と連れてこられたのが、ここである。
私を連れてきた二宮君に、彼のお母さんは一言「あらあら」と意味深な笑みを浮かべたのを見て、私は俯いた。彼の表情を見たくなかったからだ。
私が彼女だと誤解されて嫌そうな顔をしているところは見たくなかった。
だって、彼が好きな子は別にいるのだ。
部屋に案内されて、思わずきょろきょろと失礼ながら部屋を観察してしまう。思っていたよりもずっと綺麗で驚いた。私が来ることなど想定外だったはずなのだから、慌てて掃除した訳ではないだろう。私の部屋の方が余程片付いていない。
「いきなり変なこと言ってごめん。でも、聞いてほしいんだ」
そう言って切り出された話はとても膨大で、酷く荒唐無稽なものだった。
いわく、自分――二宮彰には前世の記憶がある。
そして私達がいるこの世界は前世に存在した小説「封印の運命」のものである。
現代なのに魔法が使え、しかし一般人には知られていない世界であると。
軽く流すべきか、真剣に受け止めるべきか、あるいは病院を勧めるべきなのか。
考えているうちに話は進んでいく。
主人公は一之瀬裕也。一組の有名人、そして二宮君の親友である。彼の名前はノートでも一番上に書かれていた。
彼が高校3年生の4月から、この物語は始まるらしい。つまり今年だ。
見た目よし、性格よし、男女ともに好かれる人間で、なるほど確かに主人公っぽいと納得した。
そしてメインヒロインの桐生まどか。今年の4月に編入してきた非常に可愛らしい女の子だ。しっかり者ではきはきと話す彼女に好感をもつ生徒は多い。
そう、彼のように。
彼女の名前を聞いた時、胸にちくりと針が刺さったような痛みを感じた。二宮君は桐生まどかのことが好きだ。違うクラスでそんなに会う頻度が高くない私でも、何度か彼女に目を向けて「可愛いなあ」と呟いているのを聞いているのだから。
心なしか、小説の中の彼女について話す彼は生き生きとしているようにも見える。主人公である一之瀬とよく痴話喧嘩をし、彼が辛い時は黙って傍にいる。やけに力を込めて熱弁している二宮君を見ないように、早く彼女の話が終わらないかと手を握りしめた。
一之瀬の幼馴染の早川弥生。最初は命を狙われるが、後に仲間になる2年の御堂涼香。正直色々言われたがあまり覚えていない。彼女らとは話したこともないうえ、どんな人間かもほとんど知らない。せいぜい美人だなーと思っていたくらいであった。
そういえば、御堂涼香は最近よく3年の教室に出没しているらしい。それを聞くと、
「裕也にべったりだからな」
とのこと。実際物理的にべったりしているわけではないらしいが、あのクールビューティーという言葉が相応しい彼女が頻繁に会いに行っている時点で周囲の人達から見ると、べったりしているように見えるらしい。
最近の一之瀬裕也はそういう意味でも有名だ。周りに3人の、しかも美人ばかりを侍らせていると。しかしながら同性からの信頼も厚いので、一之瀬なら仕方がない、むしろ漫画の世界がここにある、と感動している人さえいるらしい。あっ小説らしいですよ。
それも2年の時は幼馴染が一緒にいるだけであったのが、3年に上がって2か月でこの光景である。二宮君の話が真実味を帯びてくる。
そして1年の星谷美玖。実は委員会の後輩である。特別親しくはないが、当番が一緒の時はそれなりに話す方で、今までの人達の中では一番よく知っている。
「でも星谷さんって、一之瀬君と関わりあったの?」
「星谷美玖はこれから仲間になるんだ」
彼女は作中のとある事件をきっかけに魔法が使えるようになるらしい。そしてその事件が起こるのが6月、つまり今月なのだと言う。
「それから最後に、俺だ」
「二宮君も登場人物なの!?」
確かに主人公の親友ならば、重要なキャラクターになるのではないか。しかし、彼はなんというか、話を聞いてきた彼らと比べるとあまりにも、普通なのである。
「どんな役なの?」
私が聞くと彼は目を逸らした。
「主人公――裕也を妬んで裏切る役」
「……」
「でも結局、魔王の復活と同時に殺されるんだ」
「ま、魔王とか出てくるんだ……」
深刻そうな彼とは裏腹に、若干芽生え始めていた信じようとする気持ちが薄れていく。
だって、魔王。魔法だけでもどうかと思うのに、魔王。
しかしそれを口に出すことはできなかった。二宮君がぽつりぽつりとまた話始めたからだ。
「桐生まどかに惚れていた二宮彰は、ホワイトデーに二人が両想いになるのを見て嫉妬に狂う。それで主人公を裏切るんだ」
「えっ」
彼女に惚れて、裏切る?
だって彼は、現実でも桐生さんが好きで。
それじゃあこのままじゃ、彼は、そのストーリーの通りに死んでしまうのか?
固まった私に気づかず、彼は続けた。
「この世界があの小説の世界だって気づいたのは4月にまどかを見た時だった。まどかを見て、妙に納得したんだ。俺は元々この高校に入るつもりなんてなかった、というか入試に受かるような成績じゃなかった。それなのに何故か周りの人はみんな俺がこの高校に入ることを疑ってないんだ。入学できても当然のような反応をする。そして二年で当たり前のように裕也と友人になって、気づいたときには物語が始まっていた」
強制力、という言葉が浮かんだ。
想像もできないくらい恐ろしいだろう。自分が死ぬ日が決まっている。それが逃れられないなんてこと。
「今まで、ストーリーと食い違うようなことはなかったの?」
「今のところ細かいことならいくつかあるけど、最終的にはシナリオ通りになってる。もしかしたら生き残ることができるかもしれないが、どうなるか分からない」
3月になってみないと。そう言う二宮君はとても疲れた顔をしていた。
たった2か月でこの状態なのだ。3月まで、まるで死刑宣告を受けたかのように過ごしていくなんて、耐えられるはずもない。
「……暗い話になっちゃってごめん。でも聞いてくれてありがとう。大分楽になった」
私は既に気持ちを固めていた。
「私も協力する」
「えっ」
「二宮君が死なないように、私も協力するよ。話くらい聞けるし、万が一裏切りそうになったら全力で止める!」
前世だとか小説だとか、はっきり言って彼の話を信じたわけではない。でもそのことでこんなに苦しんでいるのは確かだ。
支えになりたい。話を信じてもいないのにそんなことを思うのは、好きな人に近づきたいと思うただの打算からかもしれない。それでも、こんな状態の彼を放っておくことなんかできない。
「本当、に?」
「もし二宮君が一之瀬君を裏切りそうになったら、殴ってでも止めてあげるから!」
実際、彼が嫉妬に狂っている所なんかを見たら、全力で殴ってしまいそうである。
拳を握りしめて力強くそう言うと二宮君はようやくちょっとだけ笑った。
「……ありがとう」