ざわめく
「綺羅様、どうかなされましたか?」
数秒の間があった後に反応する。
「誰も構ってくれないので、とても悲しく、とても寂しかったのです」
身を捻りわざわざ蝶彩の姿を確かめた。心配をかけまいと上辺だけ作る笑み。笑顔に見せかけた。
眉を寄せ一つの事を思い煩う。藍色の瞳にはそんな姿が映った。
「師匠、危険です。前を向いて下さい」
おかしな師匠の様子に章来は、険しい顔つきを和らげて訝しむ。
「思い煩う行為はやめた方がいいですよ
「章来、僕は…思い煩ってなんかいない」
曖昧な笑みを再び浮かべて、眉間に深い皺を刻む。
忠告を聞かず、今度は愛弟子を見た。
「考え事をする時や思い煩う時。大概、師匠は眉間に深い皺を刻みますよね。ごまかしても無駄です。弟子の僕は気づいていましたから」
「深い皺は余計だ!」
ふっと息を吐き千柚は前を向いた。蹄と地面が触れ合い、律動的な音が繰り返される。
暫し静かな時が流れて蝶彩は理由もなく、心中に浮かんだ言葉を述べた。
「不吉な予感がするのですか」
後ろ姿で千柚が首肯した後、誰も口を開かない。重々しい沈黙が続く。
視界の端を何本もの木々が通り過ぎ、それを幾度も飽く程目にした。
疾うに日は傾き始め、青い空が淡い橙色がかっている。
紙馬は疲れを知らず、前脚と後脚を緩やかなに動かす。蝶彩は少しずつ溜まっていた疲労を堪え、手綱をぐっと握る。
「蝶彩」
出し抜けに青が耳元で囁く。真剣な響きに斬れる刃のような鋭さが隠れていた。
「長髪が感じる不吉な予感は、強ち嘘じゃないぞ」
背筋に寒気が走り、鳥肌が立つ。青が口にした言葉を反芻して目を細める。
心は不安でざわめく。鼓動が激しくなった。
冷たい風が吹き、容赦なく頬を突き刺す。その風に運ばれ、嗅覚は不快を催す臭いを感じ取る。
「これは……」
呆然と呟き章来が瞠目する。身は前のめりで腰を浮かす。勇ましい覇気に溢れる声を辺りに響かせ、栗毛の腹を蹴り走らせた。早くも行動へ移る。
「全く…僕の弟子は無鉄砲だ。蝶彩、章来を宜しく頼みます」
「はい!」
返答は力強い。気を引き締める。少年姿の蝶彩はきりっとして美しくも凛々しい。
「振り落とされぬように、しかと掴まっておれ。青」
「おお」
元気に承知する声を上げた青が首へ両手を回した。腕にぎゅっと力が籠もる。
「私の…首を絞めるな。殺す気か」
「えへへ。悪い、悪い」
わざとらしく笑って少女の腰に掴まる。
「疾風の如く頼んだぞ。白毛」
白毛がヒヒンと嘶き、直後、全力で疾走し始めた。ぐんぐん加速していく。
凄まじい風に長い髪は大いに靡き、呼吸が途切れ途切れになる。手綱を強く握り、薄目を開けているのがやっとだった。
「風は最高だ。気持ちいい」
この状況を心から楽しむ青は、面白半分だが残りの半分は真剣である。
気分的に蝶彩には楽しむ余裕すらない。
白毛は頼み通り疾風の如く駆けた。
不吉な気配が次第に強まり、嗅ぎたくない臭いが鼻につく。
死の色が濃い空気は悄然とさせ、平常心を掻き乱す。
殺された人の生々しい血の臭いがやたらと漂う。
先へ進めば目にしたくない光景が広がっている。どんな心持ちでいればいいのか、曖昧で分からない。心臓は鈍く脈打ち、鉛のように重い感覚がする。
蝶彩は遠方に物凄い速さで、黒毛を走らせる章来の姿を捉えた。
追いつく事に専念する。白毛を前へ前へと急がせた。
距離の差がどんどん縮まり、やっと隣に並んだ。章来に一言文句を言おうと口を開きかけてやめる。
死の気配と血の臭い、二つの根源を遠目で認識した。
道一面に千々として散らばる、ものの正体が双眸に映る。
手綱を引き絞り、白毛が全身を高々とさせ止まった。危うく少女は落ちそうになり、掴まっている青がうまい具合に均衡を保った。




