何も知らない
「一つ、聞いていいか?」
「何だ」
ふざけた態度はすっかり奥に潜み、真剣な眼差しが目を射抜く。
急変した青の態度に章来は、どきっと心臓が脈打つ。
彼には驚かされる。大抵へらへらして軽薄なくせに。
「彼奴は過去に誰かを失っているのか」
「いや、知らない」
どうしてそんな問いをするか、問い質してみたい気持ちはあった。結局聞かず胸に仕舞う。
「あっそう。汝は知っているようで、何も長髪の事を知らないんだな」
一言も否定できない。夢から覚めた現実を知った気分は、衝撃より寂しさが上回る。
千柚と出会い、十年が経っていた。知っているのは、表面だけで内面は全く知らない。何も……。悔しいが彼の言う通りだ。
「よし、黒髪。ここから山の下まで競争しようぜ。汝が負けたら、蝶彩から手を引け」
いつの間にか真剣な雰囲気は消え失せていた。勝負を持ちかけてくる。
「おい!!変な事を抜かすな。勝手に決めるな」
「じゃ、お先に」
後ろ姿で手を振り、青は駆け出す。大木の幹と幹を蹴り楽々と枝に乗る。
止まっていたのは数秒で次の枝まで跳躍し、どんどん先に行ってしまった。
「待て、式神!」
制止を素直に待つ者はいない。既に届いていなかった。
感情を抑える。もどかしさで章来は自分自身に舌打ちをした。
狭い山道とは打って変わり、目前には開けた道が続いている。
頂には数え切れない程、大木が生えていた。それに対して周囲には、並みの大きさの木々が青々と茂る。
「綺羅様、おろして下さいませ」
「残念です。もっと蝶彩を抱えていたかった」
間近に千柚の顔がある。普通のおなごなら頬を赤らめる位置だ。
双眸にはきりりとした容貌の自分が二人映る。
瞳の奥底にずっと忘れられぬ、根づく深い悲しみが隠れていた。少女はこの瞳を知っている。自分も彼と同じ悲しみを味わった。
蝶彩を地に下ろして千柚は、恥ずかしそうに両手で頬を覆う。
「こんなに熱い視線を送られたのは初めてです」
「熱い視線は送っておりませぬ」
浅く開いた口から吐息が漏れた。おどけとも本気ともとれる言動。青と同様に男の人柄は掴み所がなく飄々とする。
「綺羅様が抱えている悲しみは、きっと深いのでしょう。ですが、綺羅様は独りではありませぬ。それをお忘れなきように――」
哀愁が漂い儚く笑う。底知れぬ蝕むような悲しみはこんなにも、人の胸を苦しめ、悩まし、痛ませる。
「蝶彩ー!!」
叫び声が耳に聞こえて見遣り、両手を振る青と少し遅れて追う章来がいた。
「貴様等、遅いぞ」
朗々たる美声はよく通った。二人は一目散に凄まじい速さで駆けている。
青と章来の距離は縮まり、仕舞には同等に肩を並べた。
蝶彩の目前で急に立ち止まる。口を揃えて言う。
「どちらが早かった!?」
青の呼吸は今まで走っていたとは、思えないくらい乱れが少ない。それに対して章来の気色には僅かな疲れが滲み、荒い息を吐き出す。
「さほど差はない。同等だった」
「何言ってんだ。汝の目は節穴か。俺の方が絶対に黒髪よりも速かった」
「いいや、僕の方が確実に速かったぞ。式神」
「負けが悔しすぎる余り幻覚を見たんだろ」
「お前は素直に負けを認めろ」
呆れる少女を余所に二人は言い争い睨み合う。
「勝ち負けは勝負でつけようぜ」
「ああ、僕の勝ちは目に見えているけどな」
「ほぉん。自信満々だな。童」
青は不敵に顎を吊り上げる。
挑発的な態度に章来は怒りで肩を震わせた。
「得にならん戯れは、都に着いてからやれ」
激しく睨み合う彼等の間に割って入った。同時にふんと外方を向く。




