開いた狭間
「夕凪、どうかしたのか」
「否、心配はいらぬ」
章来には気づかれないように冷や汗を拭い、蝶彩はゆっくりだった歩調を少しずつ速めた。
ここから先は山道が狭くなり、立ち木が乱雑に生える。
この道を行き、早ければ十五分程で頂上へ行き着く。山麓とは違い、大木が密集している。
(汝も見たか)
突如、脳裏に伝わってきた念に心臓が鈍く跳ねた。
青も見ていたのだ。恐怖は恥ではなく正直な心が感ずるもの。しかし、人は感情に左右されやすい脆弱な生き物だ。
恐怖に震えた状態で鬼と戦えるのか、自問しても答えは得られなかった。
刹那――。
耳障りな音が響き、思考が停止した。狭間が開く音である。
「待て。夕凪、どこへ行く!?」
制止を無視して蝶彩は駆けていた。
足場が悪い急斜面を蹴って高く跳躍する。枝を掴み、勢いに任せて宙を飛んだ。身を丸め、太い枝へと着地した。
木が生える目前を見据えて安全な足場を確認し、枝から枝を軽やかに跳ぶ。
無数の気配がした。一際禍々しい気を放つ妖がいる。
確実に鬼ではない。胸には妙な確信があった。
進む勢いは止まらない。妖の気配が徐々に近くなっていく。
「一人で突っ走るな。蝶彩!」
後方から追って来た、青の怒鳴り声が聞こえた。音で跳び渡っていると安易に予測できる。
「章来と綺羅様は……?」
「大丈夫だ。こっちに向かってる」
少年の気配は感じられるが、千柚の気配は初めて会った時以来感じられない。
「汝は妖退治をするつもりか」
「愚問だな」
どんなに時間が惜しくても妖は放っておけず、逃げ果せる事は可能だが、それでは何の意味もない。
人に危害を加える対象は残らず退治する。
「蝶彩につき合わされる、俺って苦労してるよな。可哀想」
「貴様より私の方が苦労しておる」
「そうだっけ?」
「惚けるな」
最後に高く跳躍し、丈夫な枝へ飛び乗った。息を殺した蝶彩は辺りの様子を窺う。
大木が密集する頂上は禍々しい気に劣らない、強い精気に満ち溢れている。
幼き頃と同然に大木は太く威圧的で、人と妖も拒んでいた。
地には黒い蛙に似た妖が、ちょこまかと飛び跳ねる。体長は優に四十センチメートルを超える。
大きな頭と胴は直接繋がり、発達した後肢とやや小さい前肢。
四本の指はなく鋭い爪があり、膜状の水かきはなかった。
「蛙擬きか」
「あれを知っておるのか。ふざけた名だな」
「ああ、俺もそう思う。もう一方の妖は初めて見た」
青は空を飛ぶ奇怪な妖を指差した。
巨大な眼球に太長い円筒形の体が繋がる。大蛇に似た緑色の鱗に覆われ、六本の足、湾曲した掻爪を持つ。
「称して大目玉っていうのはどうだ」
「勝手に称さなくてもよい」
「えぇー。結構ぴったりな名だろ」
長い体をうねらせ、自由に飛んでいた。まだ此方の存在には気づいていない。
「先に蛙擬きとやらを片づけるか」
「ちゃちゃと終わらせようぜ。蝶彩ちゃん」
「私にちゃんはいらぬ」
言下に蝶彩は大木から飛び下り、地に着地する。懐に忍ばせてあった短刀を抜く。
この戦いで呪符を使わないと決め、妖力は最小限に抑えるとも決めた。
いつ鬼と出会してもいいように、どちらも残しておきたい。
短刀を構えて疾走する。数体の蛙擬きを一直線に斬り裂く。ぱっくりと斬れた。黒い血が飛び散る。
前肢の鋭い爪で引っ掻こうと狙う。それをかわし、後方から飛びかかった一体を踏みつけ、上手い具合に三体を一蹴した。
「俺が全ての動きを封じる」




