険悪な雰囲気
「彼女は意外に無防備だから」
「何の報告ですか!?」
それを聞いて密かに納得している自分がいた。
青は接近して蝶彩の肩に容易く手を回し腕も掴んだ。千柚はいとも簡単に触れていた。
「僕の弟子なんだし、これくらいやって欲しいな」
千柚が指先を唇につけてみせた。唇を奪えと。
想像してかっと身体が熱くなる。
「無理です!!」
確実に接吻すれば、少女に嫌われる所では済まない気がする。生涯蔑ろだ。
「章来は意気地がない。手本はいるか?」
ぺろっと口唇を舐める男の目は本気だった。
「冗談、きついですよ。仮に本気だとして、いくら師匠でも絶対許しませんから」
章来の声は怒気を含む。眉根を寄せ、きっと睨みつけて駆ける。
「おい!勝手に行くな。止まれ」
腹の底から出した。少年の大声は恐ろしい程に響き渡っていた。
蝶彩は青の手をやっと振り解き立ち止まった。耳に章来の声が聞こえたのだ。
行き成り走らされた所為で、息が上がっている。
「えぇー。もう終わり?」
不満を露わにする口調。青は一切息が上がっていない。
「唐突に…走らせ、るな」
心臓はどくどくと激しく脈を打つ。息を整えて辺りを見渡すと、草木が生い茂る見慣れた風景が広がっていた。
少女の目には空間が裂けた黒い裂け目が見える。広大な空にも狭間は存在する。
晴れた空に不吉な亀裂が走り、快い気持ちは台無しだ。歪みと呼ばれ、やがて時が経過し、狭間になってしまう。
妖はこの世とあの世の入り口となる、狭間を利用してこの世にやって来る。
開け放たれたまま閉まらない〝負の狭間〟と呼ばれるものがある。
「あれがなくなれば、平和な世に一歩でも近づけるかもな」
青の瞳にも蝶彩と全く同じ狭間と歪みが映っていた。
「夢の世だな」
静かに囁く。
人と妖、双方の存在があってこそ、この世は成り立つ。揺るがぬ理は絶対的だ。
譬え妖がこの世から消えたとしても、平安と言えるのか。人がいれば醜い争いを起こす。自分の利しか考えず甘さ故、目を背け他人を顧みぬ。
遠い過去、現在、そして行く末には真の平和はない。あったとしても仮初めだろう。
「遅いぞ。黒髪」
気配を感じて背後を向き、青は馬鹿にするように手を振った。
「勝手に…駆け出した、お前が、言うな!」
肩で息して章来は蝶彩と青の間に割って入る。
「綺羅様はまだか?」
意図的に消された気配は読みにくい。微かに感じられる時もあるが、気配読みはまだまだだと省みる。
「師匠ならすぐに来る」
彼の言葉通り間もなく姿を現した。
気づけば蝶彩は千柚の腕の中に、すっぽりと収まっている。
背中から抱かれ、首は手が巻きついていた。
突然背後をとられた訳は術を使ったからだ。
腕の中から抜けようと試みるが無駄だった。少年に変じても力は格段に優れて強くない。本物の男に負けるのは当然だが、少女はそれが悔しい。
「驚きました?」
「少々、喫驚致しました。短歩術を使えるのですか」
「はい、お察しの通り」
「私は瞬術が使えます。短歩術は知っておりますが、実際に試した事はありません。手解き願いませぬか?」
以前は瞬術の方が大幅な移動が可能で、優れているとされた。しかし、妖力の消耗が激しい欠点があり、短歩術を改善としてつくった。
短歩術は短い間に限らた空間、場所を移動できる。妖力の消耗は少ないと術書に記されていた。
「僕の手解きで宜しければ教えますよ」
千柚は蝶彩から離れて悪びれた様子もない。
「夕凪!そんな不届き者に頼むな。僕が教えてやる」
「黒髪に教えて貰え。蝶彩」
章来は師匠を「不届き者」呼ばわりし、青は苛立っている。二人から険悪な雰囲気が漂う。
「章来……。式神くん……?驚かせたくて、ちょっと後ろから両腕を回しただけだよ」




