精獣神
「笑うな!」
一頻り笑った後に感興が冷めて真顔になる。
彼女と出会いまだ余り歳月が経っていなかった。
やはり似ていると思う。顔も雰囲気も信念さえも。
昔を思い出すのは悪い傾向だ。懐かしい名残を自分はずっと忘れられずにいた。
「〝ませた少女〟だ」
「僕が聞いているのは……あっ!?」
蝶彩の額にたった今、青は口づけをした。先程の仕返しだと言わんばかりに、さも満足げな笑みを零す。
「式神、お前とは一度勝負をしたいと思っていた」
苛立ちで章来の眉がぴくぴくと動いた。
よかったな。蝶彩。こんなに好かれて。額の口づけ一つでこの反応か。
やれやれと肩を竦める。
「おう、奇遇だな。実は俺も言わなかったが、そう思っていたんだ」
章来が立ち上がるのと同時に青も立ち上がる。
両者の睨み合いが始まった。空気はぴりつく。
「俺は手加減なんかしてやらねぇからな」
「僕もだ」
この光景を蝶彩が見ていたならば、『幼稚臭い』の一言で見事に片づける気がする。知らず知らずの内に少女の事を考えていた。 青は苦笑を漏らし、不意に何かを感じて動きを止めた。
此方に何かが接近する。溢れる純粋な気を放つ正体は……。
「黒髪、強い精気を感じるか」
「強い精気?」
訝しげに章来は聞き返す。互いの燃えていた闘争心はいつの間にか消えていた。
「感じないのか」
気配や気の類は強すぎても、弱すぎても感じにくい時がある。気配、気を読むのは慣れたとしても容易ではない。
シャラン。シャラン……。
突如、澄んだ鈴の音が響いた。
「久しいな。人の子よ」
いつの間にか、眠っている蝶彩のそばに男とも女とも似つかぬ者がいた。着物は淡く輝き、袂は異様に長い。地につく程だ。
顔は中性的で髪も同様に長く銀色だ。前髪が仄かに水色がかる。帯に三つの丸い鈴が括りつけてあった。
「何者だ!?」
腰に差した刀の柄に章来が手を走らせ、すぐさま青は「待て」と止めた。
「精獣神か。初めてこの目で見た」
取り分け驚いた様子はなく、口元を面白そうに青が吊り上げる。この世にいれば予期せぬ展開に出会す。
「精獣神……」
呟いた章来は驚きで目前の光景に次の言葉を失った。書物に残る精獣神を己の目で見れたからだ。 精獣神、動物に神が宿ったとされる。姿形は通常の動物とどこも変わらず、精気と妖力が強いものが超越した神秘的な力を持つ。人の姿をとり人語さえ話せる。
異形と神聖な神は相見えぬ存在だ。妖が神より優れた存在にはなれない。無論、人も同じである。
「私の正体を見破るとは。そなた、式神にしては気配が変わっておる」
「俺の探索はどうでもいい。蝶彩に用があるのか」
初めて巡り会ったもの、即ち小賢しい精獣神に気配を読まれた。それは、青にとってこの上なく不快だ。
何故なら誰にも妖さえも、気配を読めないよう巧妙に隠している。鋭い蝶彩には既に読まれていたが。
精獣神は同意を示して鈴を鳴らす。鈴が澄んだ音色を奏でる。
「我はこの娘に恩があるのだ。返しきれぬ程のな」
口を閉ざした。鈴を揺らして片膝を突き、慈しむ顔で額に手を翳す。
「何をするつもりだ!!」
神に対して章来は臆せず声音が怒気を帯びる。あれは蝶彩を守ろうとする意思の表れだ。
「案ずるな。危害は加えん」
一瞬、精獣神は少年を見て僅かに微笑む。彼の興奮が収まった。
「あの精獣神に任せても問題ないだろ」
「分かった」
最後まで見守ると決めた。神が仮に少女を傷つけようとしたならば、容赦なくこの世から神を消す。青は本気だった。
こんな気持ちを起こさせる、存在自体が甚だしく不思議だ。何が何だか訳が分からなくなる。 こんな存在に邂逅できたのは奇跡か、定めか。
俄に風が吹いた。葉はざわざわと音を鳴らし、各々が揺れ踊る。
精獣神は人差し指を立て不可解且つ複雑な術式を描く。
術式は印を結ぶ変わりに用いられ、術を発動させる為に必要な文字の式。組み合わせは膨大にあり、文字には力と意味がある。
主が攻撃式、治癒式、発動式だ。
陰陽師でない精獣神が易々と使っていた。神なら理解し、巧みに扱えて当然なのだろう。
「あれは術式だ。知っているか?黒髪」
「術式くらい知っている。現在ではその文字を知る者も少なく、書物や巻物に残る紋様みたいな文字の理解、解読は不可能に近い。それに手間もかかる。だから、余り使う者はいない」
小馬鹿にした青の投げかけに、章来はむっとしながらも答える。
描かれた形ある文字式は光を放つ、蝶彩の中へすっと吸い込まれて消えた。
額に翳したままだった指先が白く輝く。
額から胴、下半身へ浮かした手を滑らすように動かす。
額にあった掠り傷、氷柱が貫通した腹部、刀で突かれた脇腹、脛の傷、瞬時に傷口は塞がった。治癒は内部まで作用している。
青と章来は感嘆の声を上げず見入った。術式の凄さに圧迫される。
蝶彩の手を両手で握り締め、美しい精獣神は瞳を閉じた。
暗い闇の中を少女は漂っていた。光もなく黒一色の世界。
ただ静けさに支配されている。ここは現ではない。夢か精神の奥深く。
目覚めようとしても、ダメで依然と暗闇がある。「人の子よ」
声が響いた。男とも女とも似つかぬ声だった。何とも懐かしい。
すると一筋の光明が差した。その明るい光に引き寄せられ、漂う蝶彩は近づく。
闇が薄くなり気づけば辺りは木々が生い茂って、地にも一面に草が青々と生えている。
広大な夜空に皓々と照る月が出ていた。清らかな月をぼんやりと眺めて少女は気づく。
脳裏を掠めたある記憶と目前に広がった、景色は全くと言っていい程に同じだ。
「私の前に姿を現してくれ」
シャラン。シャラン……。
忘れもしない鈴の音。心に染み渡る。どこまでも澄み切った、穢れを知らない涼やかな音色。鈴の音が意味する事は――。
蝶彩は背中に温もりを感じた。振り返らず首に回された手に触れる。
「また助けてくれたのか」
精獣神がここに現れたという事は、あの時のように再び助けに来た。
問いかけに頷く代わりに鈴を鳴らした。
「何ゆえ、私を助けた?」
「恩があるからだ。返しきれぬ程のな」
声音は穏やかで優しい。〝このもの〟が〝何もの〟であるか、薄々正体を悟り始めていた。
「そなた、この景色に見覚えはあるか」
清らかな月を視界に収めた蝶彩は徐に話し出す。
「私が貴様と初めて出会った場所だ」 あの日は見る者の目を奪い釘付けにする、とても月が綺麗な夜だった。
蝶彩が冠世と清輝に出会って間もない頃、妖退治の途中で情けないが、二人とはぐれてしまった事があった。しかも山奥である。
後で散々清輝に『お前は迷いの達人か』と言われた。その言葉に渋面した覚えがある。
道も分からず当てもなく、さ迷っていた少女は一匹の狼に出会った。酷い怪我を身に負っている。
力なく地面へ横たわり、毛色は珍しい月光に光る銀色。腹に鋭い爪で裂かれたような生々しい傷。
ここまで力を振り絞って進んだのか、地には滴った血で赤い線ができていた。
毛は赤く染ってぐっしょりと濡れ、傷口からはどんどん新しい血が流れ出る。
蝶彩は思い出すだけで胸が痛む。記憶には鮮明に残る。
「覚えておるか。あの時に申した言葉を」
シャラン。シャラン……。
鳴り響く鈴の音が「覚えている」と言った。
「『私は力のない未熟な陰陽師だ。血は止められるだろう。痛みも消せる。だが傷を完全には治せない』と、申してそなたは幾度も詫び泣いた」
「泣いたは余計だ。忘れろ……。まさかあの時の狼が精獣神だったとはな」
蝶彩は邂逅できた喜びを胸に秘め、手を握り締める。気づけば「済まぬ」と詫びていた。
「貴様には二度も助けられた。しかし、私は一度も助けとなっていない」
「それは違うぞ」
首に回している手を外す。蝶彩の前に精獣神は姿を見せ、鈴が鳴り髪と袂は風に靡く。
「確かにそなたは、私を完全には癒せなかった。でも、泣いてくれた」 藍色の目が離せなくなる。月光を浴びた姿は今まで見てきた、どんなものより美しい。
白銀の髪をした白妙と重なって見えた。
「精獣神、名は何と申すのだ?」
「人は永遠、乃至は神と呼ぶ。真の名はない」
表情に寂しさが表れた。神と呼ばれても感情を持つ。全くそれを持たぬ神も存在すると思うが。
妖も喜怒哀楽がない訳ではなく強い欲、憎しみ、飢えなどという負の感情。圧倒的に大半がそれに支配されている。
人と妖そして神。違いは様々あり、しかし共通点が一つもないとは、きっぱり断定できなかった。
「私が命名してもよいか」
「好きにしろ」
「〝月が照らす夜〟に私と貴様は出会った。それ故、月夜だ。この瞬間から自由に名乗ればいい」
和やかな気持ちが広がる。優しく蝶彩は微笑む。相応しい名が頭で思いつき真によかった。
「月夜か。いい名だ。感謝するぞ。蝶彩」
鈴がシャラン、シャランと鳴る。
最後に月夜は少女へ悦を含む穏やかな微笑を贈り、薄まる煙のようにすっと姿が闇へ紛れた。
閉じていた瞳を精獣神は漸く開け、握っている手を名残惜しげに離す。
「出番は終わった」
青と章来は成り行きをただ見守っていた。 精獣神が蝶彩の手に触れた時、青は思わず眉を寄せ、章来はむすっとした。
手を介して眠る意識へ呼びかけたようだ。
無意識に呼びかける行為は、どんなに優れた陰陽師でも容易ではない。
意識に干渉する事自体が困難を極め、その理由は並ならぬ集中力の維持が、必要だからである。
「そなた等、よければ記憶してくれんか。私の名は月夜だ」
「あぁ、覚えといてやる」
「夕凪の怪我を治してくれた事に感謝する」
出し抜けに風が吹き荒れた。幾度も澄み切った音が鳴る。
「さらばだ」
月夜は高く澄んだ鈴の音を奏しながら颯爽と身を翻す。後ろ姿は徐々に薄れて、五歩も進まぬ内に消え失せた。
「どうやら、蝶彩は神の寵愛を受けているらしい」
過去に精獣神とは知らず、親切心で月夜を助けた事があるようだ。
青は口元を綻ばし、当然の如く少女の隣に寝そべった。
白い真珠みたいな頬に触れようと手を伸ばす。刀の柄で思い切り甲を突かれた。
「いってぇな!」
「手が滑った」
刀を鞘ごと持った章来は素知らぬ顔で平然した。
「ふざけやがって」
その態度が青の中で怒りを沸き上がらせた。「勝負……。やり損ねたよな」
「今からやるか。式神、泣きべそをかいても僕の所為にするなよ」
「はぁ?泣きべそをかくのはどっちだろうな。女々しく泣いて『ごめんなさい』って喚くなよ。弱、弱、弱すぎる黒髪くん」
「僕は強いぞ!!」
青と章来は再び、激しい睨み合いを再開した。両者一歩も譲らず互角である。
「先に力尽きて倒れた方が負けだ」
「勝敗は目に見えている」
「敗者は汝で決まりだな」
「お前だ」
この少年には何が何でも絶対に負けたくないと、青は密かに闘争心を燃やしていた。
程なくして二人の負けられない、矜持を賭けた勝負が始まったのだ。




