終焉
蝶彩は白妙の冷たい手に自分の手を重ねる。まさに凍てつく雪その物だ。
今は肉体的な苦しみなんかどうでもいい。毅然と力強く言い放つ。
「白妙、やめろ!」
表情も雰囲気からも一切痛みを感じさせなかった。
掴む力が弱まり、力なく白妙は手を下ろす。
「……我が一番恐れているのは、お前を傷つけてしまう事だ」
頑なに目を合わせようとせず、声は弱々しく消え入る。
「逸らすな。此方を見ろ!」
蝶彩の言葉の響きには、有無を言わせぬ強引な響きがあった。
体に苦痛が巡る。未だ出血は止まらず、氷柱が刺さっている御陰で、多量の血は流れにくい。それがせめてもの救いだ。
痛みを感ずるのは構わない。何よりもそれが生きている証だから。死んでしまえば何も感じられなくなる。
否応なしに少女と目を合わせた。
絞り出すように言う。
「貴様の…願いを聞き入れてやる……」
苦渋の判断だった。
「本当か」
真意を尋ねる。安堵があり物悲しい。
「真だ」と首肯した。
幻術の雪は吹雪くどころか、知らぬ間に降りやんでいる。
蝶彩と白妙は暫く視線を外さず、じっと見つめ合っていた。「但し、私の条件を呑め」
「我が呑める条件ならば、呑んでやろう」
「銀色の瞳を見せて欲しい」
双眸を見張る。おかしみに誘われ、楽しげな笑声を上げて腹を押さえた。
「我にはお前の心が全く読めない」
瞳から紅の色がさっと引き冴えた銀色に戻った。あの日と変わらぬ瞳――。
蝶彩の中で様々な感情が蘇る。憎しみ、怒り、悲しみ、苦しみ、どれがどの感情なのか溶け合ってよく分からなかった。
「これで、前に進める……」
動いた時は皮肉だが終わりへと向かう。
少女は拳を握った。妖を殺める術は陰陽師である者なら、知っていて当然だ。
しかし、人でもなく妖でもない白妙を殺める術なんて、知るはずがない。
白妙は蝶彩の手を両手で包み込む。手を介して妖力が体内へ流れ入る感覚を感じた。不思議と不快ではなく心地よい。
「蝶彩、我の額に触れて『消えろ』とでも何なりと言え。お前ならそれが可能だ」
己の妖力を注ぎ、切に消滅を望む。
少女は耐えきれず俯いた。再び涙が溢れ出しそうになる。止め処もなく流れ出てしまえば、止められなくなってしまう。
ダメだ。泣くな。
眉根を寄せ唇を噛み締め血が滲む。口の中に広がった。
「さぁ、殺せ。我を殺せ」「貴様は…死ぬのではない。無に還るだけだ」
顔を上げた蝶彩の顔は、今にも泣き出しそうだった。ゆっくりと額へ手を伸ばす。白妙はその手に指を絡ませた。
「お前に伝えたい事がある」
ぐっと引き寄せ、耳元で囁いた。
その言葉が信じられなくて、問い返そうとすると指先で唇を押さえられた。妖しく微笑む。
妖艶な唇から指先を離し、柔らかな手つきで最後に頭を撫でた。惜しむように絡ませていた指を外す。
意思ではどうにもならず手が勝手に動く。白妙が術を使い、動かしていたからだ。
彼は蝶彩を信じている。仮にためらった時の策である。
止まらないと分かっていても、抗えぬのは悔しくもどかしい。願いを承諾すると決めたのに、弱い心は揺らいだ。
遂に手が額に触れた。白妙との鮮烈な出会い、流れ陽陰としての思い出、短かったようで長い年月が脳裏を駆け巡る。
透明な涙が少女の頬を伝う。泣いてしまうと自分が弱く、脆くなるような気がした。
「お前の欠点は優しさだ。無意味な優しさは捨てろ」
白妙の目は無情に光る。蝶彩の為を思い行く末を案じ言っていた。
人に優しさは必要だ。しかし、必ず邪魔な時がやって来る。戦闘に於て甘さは破滅を招く。
「私は、捨てぬ。優しさを捨てれば、何も残らなくなる」
いつの日か、優しさが桎梏になり邪魔になったとしても、捨てるつもりは更々ない。
人を助け、喜ばせ、温かみも与えられ、思いやりや慈しみが溢れている。
「最後の最後までお前は、我の思い通りにならない」 湧き立つ感情を受け入れ、心の底から楽しげに笑う。この世に存在したいと願う未練は微塵もなかった。
「私には貴様がどこを見ているのか、全然分からぬ。それに加え、心も何を思っているのか、理解できん」
全てを見通し、通じ合うなんて無理だ。
銀色の双眸に映る自分を目にした蝶彩は微笑む。不自然でも歪でも構わずに――。
涙は流れ続ける。過去に止めてしまったものが今、溢れ出ていた。
「再び…巡り会う、その日まで暫しの…別れだ」
震えた声は弱々しかった。蝶彩の手が真っ白に光り輝く。
「ああ、別れだ」
白妙は満面に笑みを湛えて唇だけを五回動かした。
有り難う。
声なき言葉が伝わって胸が痛い。だが、とても快かった。
別れは永遠ではない。どんな形でもまた巡り会える。心からそう信じていた。
蝶彩の頬に触れた瞬間、白妙の指先が脆い雪に変わり、腕、肩、胴、段々と全身へ広がって散る。それは儚くも綺麗だ。
結局、真の正体は分からず仕舞で謎だけが残る。
神聖な神あるいは歪んだ世が、創り出すものは決して失敗作ではない。何かしらの意味があり生まれた。
幻術世界は音もなく崩壊し始める。
腹部に刺さっていた氷柱が消え、止まっていた血は一気に流れた。
「蝶彩……」
倒れかけた少女を青が抱き留める。「決着はついたぞ」
無言で声を出さず唇を引き結ぶ。言いたい言葉がありすぎて、何も話せぬようだ。
程なくして幻術世界は消え、この世に存在する現実が姿を現した。
眩い光を浴びた眩しさで眉を寄せ、蝶彩は暫く双眸を閉じる。薄目を開けた。
空は夜空ではなく、疾うに太陽が昇っていた。朝が訪れていたのだ。清新な気が満ちる。
葉の隙間から光は差し込み、時折風が吹き梢を揺らした。
「綺麗だな」
差し込む光を眺めて柔らかな笑みを作る。美しき景色に心が安らぐ。
「汝はただの馬鹿だろ。痛くないのか。苦しくないのか。どうして笑っていられるんだ!」
腹部から出血は酷くなる一方で、確実に体内にある血は無くなっていた。この状態が続けば死ぬ。
「蝶彩の馬鹿、阿呆、馬鹿、阿呆!ば、か……」
口汚く青が罵る。悲しみよりも遥かに怒りが上回り強い。
口を閉ざし続けただ聞いた。
今まで呆然と立ち尽くしていた、章来が何とか言葉を発する。
「ぼろぼろじゃないか」
千々に乱れる感情を必死に押し殺す。
「章来、私は大丈夫だ」
「どこが、どこが大丈夫だって?怪我を負った状態だぞ。夕凪、ふざけんのも大概にしろよ!!」 悲しみと怒りが入り交じった表情。大粒の涙が章来の瞳から零れ落ちた。
「泣くな。男が、見苦しい」
「泣いてない。目に…砂が入ったんだ」
無造作に拳で涙を拭う。拭っても新たに流れ、顔はくしゃくしゃである。
蝶彩は自力で立ち青から離れた。遅い足取りで少年の所へ歩み寄る。
動く度に赤い血が垂れ落ちた。
「涙は大切な人にだけ見せろ。勿体ない」
涙というものは己の悲しみ、苦しみ、悔しさ、弱さ。そして誰かに対する思いでもある。
自分の身より人の身について考え、相手の立場、気持ちを理解できる心。
そんな温かい思いを曝け出した彼は優しい。
意識が揺らぐ。彼の所へ行き着く前に、足をもつれさせ倒れた。立ち上がろうとしても全く力が入らない。
「もう動くな」
慌てて一目散に駆け寄る章来。
「お前は無茶をしすぎなんだ」
心配と憤りが言葉の端々に窺える。
「汝ほど愚かな人間はこの世にいない」
どこか蔑む響きが含まれ、青はのうのうとしている。表情に消しきれない陰りがあった。
「心配して、おるのか」
「当たり前だ。心配している」 素直な気持ちを口にした青は、辛うじて顔を動かせた、蝶彩の双眸を見つめる。案じる眼差しは真剣だった。
「章来、頼む。仰向けにして欲しい」
「蝶彩ちゃん。俺の存在がありながら、何で黒髪に頼む?」
薄らいでいく意識を保ち、音にならぬ溜息を吐いた。
「式神は黙っていろ。夕凪は僕に頼んだ」
勝ち誇った笑みを浮かべる、章来を青が厭わしげに睨みつけた。
「ならば、二人でやれ。手早くな」
それを聞いた二人は思い切り顔をしかめ、頑なに嫌だと表す。
「もうよい。頼んだ私が愚かだった」
力を振り絞り、少女は起き上がって仰向けになった。呼吸は荒い。心臓が早鐘みたいに激しく打つ。
治癒術は難易度が高い。全ての怪我を一気に治す事は、術者にかなり負担がかかる。致命傷になる程に負担は大きく、妖力と気力を消耗し疲労困憊する。
「……夕暮れ時になったら起こせ。傷は…治さなくてよい」
「起こしてやるから安心して眠れ。蝶彩」
青は光る手をさっと動かす。腹部から流れ出ていた血が止まった。
「これ以上、出血すると命に関わるからな」
「済まぬ」
「謝るな」
遠退く意識に抗えず、蝶彩は静かに瞳を閉じた。「夕凪、ゆっくり休めよ」
既に章来の声は届いていない。疲れきった少女の意識は闇に覆われていた。
青は双眸を閉ざした蝶彩を見入る。
細い眉、長い睫、すっとした鼻筋、整った容貌。
「眠っていれば、ただの少女だな」
囁き声で呟く。
華奢な体なのに助けを必要とせず、凛々しく戦った。
雪のように綺麗な肌は今は血色が悪い。
こんな状況でも眠り顔は美しく目が離せなかった。
藍色の髪に触れようとすると、透かさず章来が手の甲を叩いた。
じんとする痛みに縦皺を入れ、邪魔された行為が腹立たしい。
「黒髪の分際で生意気だ。いいだろ。減るもんじゃねぇし」
「ダメだ」
章来は眠る蝶彩を見つめ、数秒の時が経過した後に口を開く。
「あの幻術空間で何が起こった?」
「俺に聞くな。第一汝の為なんかに話すと思うか」
青は淡々と答えた。口止めをされている訳ではない。だが、明かすつもりは更々なかった。
「ふざけるな」
低く言い放った。「ふざけていない。そんなに知りたいのなら、本人から聞けば済むだろ」
「僕が聞いても彼奴は、教えてくれなさそうだ。もういい」
憂いに満ちた瞳で章来は蝶彩を見つめ続けた。少女に問い質したい事はたくさんあるが、無理に真実を知ろうとする、浅薄な行為はしないだろう。
「蝶彩が心配か」
「当たり前だ」
「好きだから?」
「……」
少年の頬にさっと赤みが差す。その反応に青は吹き出し、意地悪く笑う。
「分かりやすい奴」
「ち、違う!!好きとか嫌いとかは関係なく、人を心配して悪いか」
正直な頬は更に赤みを増していた。
「純粋だねぇー」
「面白がるな」
青にとって章来はからかい甲斐がある、滑稽な存在だった。
「式神は…夕凪をどう思ってるんだ……」
語尾に近づくにつれ、声は小さくなった。
「フッ。ハハハ、ハハハハハ」
真面目に尋ねるなんて愚かで無意味だ。だが、悪い気はしない。




