自我
蝶彩に守る術は完全なかった。
迫る脅威。唇を噛み締めて反射的に目を瞑る。
一瞬だけ蝶彩は情けなく死を覚悟した。
そんな安易な道を選び、諦めた己にどうしようもない怒りと悔しさを覚えた。
弱さを嫌い、強くなったにも拘わらず、力の無さを意識して失望感に襲われる。
「蝶彩は馬鹿か、大馬鹿者か!!」
息を呑むような緊張と衝撃。双眸を開けると目前には青がいた。
どんな術かは見当がつかない。指先で雪の勢力を押さえている。血がぽたぽたと落ちた。
「消えろ。雪は嫌いだ……」
瞬く間に雪が水となる。鋭さを無くした液体へと変わった。
「手出しはしていない。少しばかり手が滑っただけ」
少女を責める辛辣な眼差しは送らず、切れた指先をくわえ、青はけろりとしていた。
助けられなければ、確実に命を失っていた。身が凍る思いだ。
「済まぬ。青……」
胸の鼓動が速い。一瞬でも死を覚悟した心を深く恥じた。
「以後、手が滑ったは通用せぬぞ」
「へいへい、承知致しました」
青は一歩後ろへ下がる動作で、「手出しはしません」と示した。だが、結局彼は危険が迫った時に再び自ら動くだろう。思いやる優しさに温かみを感じた。
「貴様と邂逅できてよかった」 美しい瞳を蝶彩は目と脳裏に刻み駆け出した。心の底から青に出会えた事を感謝している。
「おい……?」
困惑して呼び止める言葉は聞こえず、藍色の双眸には白妙しか映っていない。
「白妙、私は貴様を救う。救ってやる!」
力強い声音には不可能を可能としてしまう。そう思わす気持ちが籠もっている。
少女は白妙と対峙する。気を抜けば殺される。
まだ死ぬわけにはいかない。死にたくなかった。この世をまだ見ていたい。
世には綺麗な所、穢れた所が幾つも存在する。それは仕方ない。人と妖が存在する世なのだから――。
「捕らえよ」
幻術の雪が白妙の声で意思を持ち、降り積もった雪が津波のように蝶彩を襲う。
妖力を体内へ込めて自分に術をかける。
「浮」
地を蹴り跳ぶ。すっと上にいき体は浮いていた。浮術がかかっている為、今重さはなく花弁より軽い。
どんどん上昇し、通常では有り得ない高さまで跳ぶ。
少女を捕まえようと勢い激しく大量の雪が追う。まるで生きた雪の波だ。急激に速度が上がり、足に巻きつこうとする。
その刹那……。
意思を持つ雪は行き成り方向転換した。
白妙の本当の狙いは自分ではなく青だった。 迫り来る脅威に動じず青は依然と固まったままだ。気配から焦りと恐れが微かに読み取れる。
白妙は小首を傾げ、さも愉快げにクスクスと笑う。
『消えろ。雪は嫌いだ……』
その言葉が脳裏を過る。最初は術の相性が悪い。それ故、単に言ったと考えていた。
どうやら、他に違う隠れた意味があったようだ。
浮術の効力を弱め、ゆっくりと落下しながら懐にある最後の呪符を掴む。
妖力に加え念を込めた。二つが籠もるとより力は強くなる。
「青、後ろへ下がっておれ」
蝶彩は守りたい思いが籠もった、呪符を白妙が操る雪に向けて投げつけた。
「紅蓮の炎よ。白銀の魔を焼き払え!」
呪符が眩く輝き燃え出す。火の玉くらいの大きさになり徐々に膨張して、より巨大な紅蓮の炎となった。
勢いを増し加速した巨大な炎は、青を飲み込もうする白銀の魔に衝突。空気が急激に暖められ、雪は見る見る溶け出した。
液体になり白い湯気を立て蒸発する。白銀の魔は紅蓮の炎によって、焼き払われたのだ。
炎は呪符へ姿を戻し、仕舞いには灰となり消えた。
地に危うげなく下り立った蝶彩は、白妙の存在を確認して青をちらりと見た。
「無事でよかった」
「……汝に助けられた」
曖昧に笑い、感情を閉じ込めた。その顔は過去に触れるなとでも言っているようだ。「貴様は通常の式神とはどこか違う。この戦いを終えたら、青の過去を話せ」
直感が告げている。何かを背負う彼は式神で在り続け、巡りに巡って召喚した少女と出会った。
これも奇しき縁の定めか。
「蝶彩ちゃん、俺に拒否権は?」
感情を閉じ込めたと思えば、すぐにふざけた態度をとる。
「ある訳なかろう」
身を反らし、白妙が動かす刀の切っ先を避けた。が、間に合わず前髪を数本切られた。
「離れた所で静観していろ」
「言われなくても」
無造作に頭の後ろで両手を組み、青の姿が薄れ消えた。無となって成り行きを静観するようだ。
白妙の刀捌きは目を慣らしても速い。蝶彩は予測不可能な攻撃を寸前で躱していた。
避ける度に脇腹が悲鳴を上げ、痛みに気を取られ、集中を乱せば命取りだ。
刀が頬を掠める。一筋の赤い線ができ血は流れた。
「血……」
白妙は満足げに呟く。血を見て胸を躍らせ、顔は喜悦満面である。
次第に集中力が途切れていった。
先刻までは脇腹の痛みを忘れ、今は酷く苦痛に思える。おまけに今度は斬られた脛が余計に疼く。
少女の体にはがたが来ていた。 身を反らして切っ先を躱す。一撃、二撃、三撃。容赦ない攻撃が続く。
足を庇いながら跳び退る。
「沈め」
急に足場が不安定になり、雪の底へ沈み始めた。
両足は自由に動かせず、抜けなくなっている。幻術の雪が刺すように冷たく痛む。
呪符は全て使い一枚もなかった。この状況を乗りきらなければ殺される。生を諦める愚かな事は断じてしない。
白妙は刀を肩の付近で構えた。獲物をどうやって仕留めるか決めたらしい。
と、その時。髪を撫でられた。
はっとして蝶彩は髪に触れた。脳裏で窮地を乗り切る機知の閃きが浮かぶ。
白妙は大きく踏み込み、少女の懐へ突っ込んだ。刀を勢いに任せて前方へ突き刺す。
「うっぐぅぅ……」
苦しみで呻き、胸部を貫通した刃を歪む顔で確かめた。
「蝶彩!」
名を呼ぶのとほぼ同時に青い髪の式神が姿を現す。
胸部から血が流れ、力を振り絞る。白妙の腹部を蹴り上げた。
身をひらりと避けて後方へ跳ぶ。
膝を突く蝶彩に慌てた青は近づき、体を支えた。
刀身を伝って赤い鮮血が滴り落ちる。
「もういいだろ」 声音にはよくやったという響きがある。
「出てこいよ。蝶彩ちゃん」
「私の名にちゃんをつけるな」
たった今まで誰もいなかった、空間に突如として蝶彩の姿が出現した。
「貴様に助けられた。感謝するぞ」
「借りは返す質なんでね」
つんと澄ましている。彼に髪を触れられた瞬間に気づいた。変わり身を創る事を。呪人形は呪符がなければ創れない。
それに比べて変わり身は妖力と術者の髪、血、爪を使えば創る事は可能だ。しかし、現実味が欠ける重大な欠点があった。
欠点を補う為、変わり身に幻術を組み合わせ惑し、一時的だが己の姿を認識不能にした。
白妙は微動だにせず、目の動きで二人の少女を見比べる。
印を切り術を解いた。生々しい血を流した偽りの自分は消え、刀と長い藍色の髪が落ちた。
「青、約束して欲しい。私は決して死なぬ。それ故、ここから先に何が起きようとも驚くな。ただ私を信じろ」
真剣な顔つきの蝶彩は歩き出した。白妙が待つように立っている。
心に決めた。すぐにでも決着をつけると。雪を踏む度、特有の音が鳴った。
「驚くなって…驚くなって何だよ!」
青の澄んだ声音だけが虚しく響いた。
振り返りたい衝動を抑え、歩みを進める。一度止まれば決意が揺らいでしまう。
目前には白妙がいる。近づく少女を冷たい真紅の双眸が直視していた。 正面から向き合う必要がある。これが蝶彩の本気だった。
恐れはない。恐れは負けだ。自由な行動を妨げる枷に成りうるから。
人生には恐怖心を捨て去り、強く在らなければならぬ時がやって来る。
蝶彩は目と鼻の先の白妙に手を伸ばす。体温が感じられない頬へ触れた。瞳が一瞬揺らぐ。
次の瞬間、唐突に事は起きた。耐え難い激痛が腹部に走る。
「夕凪…蝶彩だ。分か、るか」
「蝶彩!!」
「急所は…外、してく、れた…ようだな」
少女の腹部は白妙がつくった、鋭い氷柱で貫かれていた。
真っ赤な生き血が流れている。
「……ふざけんな。ふざけんなぁぁー!!」
青は湧き立つ怒りで震え悲痛に叫ぶ。たどたどしい足取りで此方へ歩み寄った。
「何が本気だ。汝は死ぬつもりか」
接近する気配に荒い呼吸で背後を向く。
揺るがぬ強い光が宿る、双眸を見た青は歩みを止めた。
蝶彩は近づく彼を目で止めたのだ。
「それでよい。うっ……」
突然襲った痛みに苦悶の表情を浮かべて身を屈める。
点々と血は滴って、絶え間なく新しい血が、狩衣を真っ赤に染めている。 我ながら無茶をしたな。他人事のように呆れ返る。
「自我を…引き、出した。私の、勝ちだ」
「我は負けた。お前の勝ちだ。実に愚かだな。我に触れるなんて」
何度も何度も艶やかな髪を優しく撫でた。白妙は「済まない」と謝罪を述べる。
「この世に存在した時から血を求めていた。どこから生まれたのか、得体の知れない己の存在も不明だ。そして血を求め、死を与え続ける意味と理由は分からない。ただ際限なく欲しがり奪い続けた。数多の妖と人を殺めた。自我が保てなくなったのは、最近になってからだ。血を渇望する余り、どんどん暗澹と狂った闇に飲まれ、支配され墜ちた。飢えと渇きは癒やされなかった」
「白妙、命の重さは、分かるか?」
氷柱が身を冷やす。激痛を耐え忍ぶ蝶彩は苦しみに満ちた息を吐く。
「我に問うか」
少女を抱えたまま豪快に笑う。陽陰の姿だった時は、こんなふうに笑わなかった。
軽やかな声音はどこか自責で苦々しいが、愉快な響きもある。
「答えを口にする資格はない」
抱き締めた蝶彩を引き離して、白妙は吸い込まれそうな藍色の瞳を見つめた。
縋る眼差しが痛烈な程ひしひしと伝わる。
「お願いだ。蝶彩。我の頼み……」
「口に、口にするな!!聞き入れたくない」
荒い口調で白妙の言葉を遮った。
願いを拒む。視界が歪んでいく。この感覚をあの日以来、忘れていた。
瞳から一筋の涙が流れる。一度溢れ出したものは止められず、体裁が悪くても嗚咽を漏らして泣いた。「我の為に泣いているのか。そんなお前、嫌いではないぞ」
「戯言を…申すな」
涙声で言う。ふっと笑われた。
「戯言ではない」
白妙の時は永久に止まったまま姿は美しい青年。彼には始まりも、終わりも、一生も全ての言葉が無意義だ。時の経過から逸脱された存在である。
「貴様、変わったな」
蝶彩の気持ちはとても穏やかだ。怒りや苦しみ、憎しみの先にあるものは、こんな気持ちであり温かい思い。
憎しみに狂わされていたならば、決して感じなかっただろう。
「蝶彩に出会えたからな」
喜怒哀楽を知り、闇に侵された心に光は差し、静かな安らぎが染み渡った。
暗い闇を明るい光が照らした。
「心というものはよいものだ」
少女の頭に触れようと手を伸ばす。が、その手が望み通り触れる事はない。
突然、白妙が頭を抱えて身悶えを始める。
「がっああぁぁ!」
「白妙!?」
痛みも何もかも忘れ名を呼んだ。
凄まじい力で手首を掴まれ、痛みに短く呻く。手首の骨を砕き折ろうとする。




