あの日
夜風が吹き荒れる。一斉に木の葉がさざめいた。
黒い空には煌めく星の瞬き一つもない。辺りは完全な漆黒の闇で覆われている。
少女は一人寂しく、山奥の道で立ち尽くす。
手に二輪の小さな花を握り、雰囲気は危うげで尚且つ脆く壊れやすい。
長い藍色の髪は後ろで結われ、吹き続ける無情な風に靡く。少女は狩衣姿で袂が揺れ動いていた。
「冠世様。清輝……」
この場所へ来る度に数え切れない程、夕凪蝶彩は呟やいた。声音に悲しみと寂しさがあり、辛い気持ちが滲み出ている。
時が経過しても心は、ぽっかりと穴が空いたままで埋まる事はない。
大切な人を失った悲しみは深い。簡単には癒えなかった。
静寂に包まれたこの地で蝶彩はあの日、起こってしまった過去の出来事へ思いを馳せる。
今にも雨が降り出しそうな天候だった。空気は湿っぽく風は吹いておらず、灰色の雲が垂れ込める。
草が生え開けた平地に三人の姿がある。 一人は蝶彩で二人は男と少年だ。
先刻まで修行の一環として師匠から、体術を学び教えを受けていた。
日により修行内容が変わり、陰陽道に関する術、剣術、弓術など。
弟子へ様々な知識と知恵、戦いに必要な武道の技術を習得させ、師は自らが手本となる。
現在は一時的に中断して休憩に入ったばかりだ。
少女は修行の度に己の未熟を思い知る。これから、どんどん成長しなければならない。
呼吸を整えて、灸清輝が地べたへどかっと座った。薄い茶色の髪は乱れ、酷く疲れで体力と気力が消耗している。
不服そうな目が一点を睨む。頬を紅潮させ、興奮気味に言い放つ。
「俺はもう立派な陰陽師だ。妖だって一通り倒せる!なあ、親父。俺は優れた陰陽師だろ」
「自画自賛はよせ。お前はまだ陰陽師として半人前だ。いや、半人前以下か……」
清輝の父親である、冠世は呆れた視線を送った。表情は厳しい。
「半人前以下だと」
幾度も聞いた〝半人前以下〟にうんざりして、体を湧き上がる怒りで震わす。拳を強く握った。
「悔しいか」
「……」 無言を肯定と受け取り、不敵な笑みを浮かべ挑発する。
「殴ってみろよ。どうせお前は一発も俺に当てられない」
「クソ親父。お望み通りぼこぼこにしてやる!後から『許して下さい』と頼んでも手遅れだからな」
気色ばむ少年は挑発に乗った。雰囲気が殺気立っている。
「やめておけ、清輝」
静観していた蝶彩が二人の間へ割って入る。
「冠世様、小童相手に大人気ありません」
「馬鹿息子にはあれくらい、言ってやらんといかんのだ」
腕を組んで仁王立ちする男は暗褐色の瞳で息子を睨む。形相は恐ろしい鬼のようで、眉間には深い皺が刻まれていた。
「俺は馬鹿息子じゃない。親父、本気で殴るぞ。いいのか、殴って!!いいよな」
拳を振り上げて正面から突っ込む。
「甘い」
冠世の低い声が安易な判断力だと責める。
正面から突っ込んで敵うはずがない。指一本たりとも触れられないだろう。
浅く開いた口から吐息が漏れる。 素早い所作で蝶彩は清輝の背後へ回り込み、両腕を掴んで羽交い締めにした。
「離せ、離せ!」
「貴様は冠世様には敵わない。分かり切った事だ」
「うっせえなぁ。やってみないと分かんねぇだろ」
羽交い締めにしても尚、少年は体を揺すり離れようと抵抗する。
「クソ蝶彩。離せ!」
「私を汚くクソ呼ばわりするな」
知らず知らずの内に指へ力が入る。
「女の癖に馬鹿力だな」
それを聞いた蝶彩は更に腕をぐっと握り手を離した。
異様な気配に恐る恐る彼が振り返った。
「悪かったよ。ひょっとして怒ってる?俺、気に障る事を言ったか」
「縛」
俯いた少女が印を結び、小さな声で囁いた。
身体の動きが止まり清輝は固まる。まるで石のようだ。
縛は妖の動きを封じる術である。 術は数多も存在しており、適合したものを陰陽師は選ぶ。戦闘を有利に運ぶ為、思いのまま使い熟し妖を退治する。
時として新たな術も巧みに作り出す。無論、陰陽師が使うそれは人に作用が及ぶ。
「貴様は知っておるだろう。私が女呼ばわりされるのを好かんと……」
「えっと、そうだったけ?アハハ、忘れてた」
「馬鹿力」と言われても、取り立てて問題ではない。ただ蝶彩は「女の癖に」と言われた事に怒っているのだ。
顔を上げ双眸は冷たく光っていた。
「謝罪を述べよ」
清輝は頬を引きつらせ視線を泳がす。
「申、し訳…ありません」
短い沈黙があった後に、
「以後、言葉には気をつけろ」
蝶彩は清輝を許して縛を解いた。
「何だ。つまらん。彼奴に一蹴噛ましてやれ。蝶彩」
不満そうな顔の冠世が此方を見遣った。
「冠世様は清輝をどう思われているのですか?」
考えた素振りを見せず率直に言い切る。「半人前以下だ」
「……何でだよ」
拳を握り締めて悔しさと怒りで肩を震わす。きっと少年は父親を睨みつけた。
「俺は親父に、認めて貰いたいだけなんだ」
身を翻して勢いよく駆け出した。
「清輝!!」
蝶彩が追いかけようとする。冠世の力強い手が肩を掴んだ。
「追うな」
彼の認められたいと思う気持ちは分かる。
人は高みを目指し誰だって、誰かに認められたいと強く思うのだ。その気持ちが心を大きく成長させる。
陰陽師であり師匠。そして父親でもある、冠世の背中を見て育つ、清輝はその思いが人一倍強い。容易には越えられないと頭で理解していても。
「彼奴も私もまだまだ取るに足らぬ未熟です。陰陽道を習い始めたあの頃よりも、目に見えて清輝は強くなりました。一言でも誉め……」 冠世は言葉を制して、少女の頭に手を置きくしゃっと撫でた。
「確かにあの頃より術と武術の腕前は上達した。成長して強くなった。だが、まだまだ彼奴は半人前以下だ」
小さくなった清輝の背を眺める、冠世の表情は穏やかで慈愛に満ちていた。心から息子の成長を親として願っている。これが子を愛する親の心だ。
「清輝には俺を超えて貰わんと困る」
「冠世様らしいお言葉です。ですが、時には素直になって下さい。必要な事だと私は思います」
年に似合わず、艶やかに微笑み蝶彩は駆け出す。
「敵わんな。蝶彩には……」
一人呟いて暫し冠世は苦笑していた。
冠世と清輝は三年前から故郷を離れて転々と旅をしていた。目的は陰陽道の修行と世を脅かす妖退治だ。
故郷は緑豊かで長閑な村だと教えられている。
二人と蝶彩が出会った場所は、珍しくもない山道で齢は五歳の時だった。
今年で少女は齢が八になり、清輝と同い年である。
現在、三人は村人の好意で夕村に身を置いていた。夕村は山麓に位置し、近辺には数々の村が存在している。 元を辿れば夕村は冠世達との旅途中、食料を分けて貰う為に立ち寄った場所だった。
その年は気候不順で作物の実りが悪い、凶作に見舞われたにも拘わらず、村長は惜しまないで分け与えてくれた。
近頃、作物が何ものかに荒らされ困却していると村長から話を聞き、放っておけない質の冠世は力を貸すと決めた。
荒らした正体は動物の仕業ではなく、小物の妖だった。それを師匠と弟子として微力ながら蝶彩、清輝も手伝い退治した。
明くる日、被害にあった田畑を村人と共に耕して皆から感謝された。
それ以来、三人は友好を深め、村にいて当然の必要な人材となった。
清輝の気配を追い、山道を歩く。青々と茂る草木が目に鮮やかだ。
最近になって蝶彩はあらゆるものの気配が、読み取れるようになった。これも冠世がしてくれた修行の御陰だろう。
山道を歩いていると、幼い時の記憶が呼び覚まされる。
それは悲しい記憶だ。思い出してしまった過去を振り払い立ち止まった。
巨大な大木が蝶彩を威圧し高く立つ。太い幹には緑色の苔が生え、毎年内に一つずつ年輪を増やし生きている。
移りゆく季節を幾年も経験して、数え切れない程の木々から強い精気を感じた。
突然今まで辿っていた、清輝の気配が途絶えた。
「下りてこい。清輝。たった今、気配を消しても遅いぞ」 蝶彩の声に答える者はいない。辺りに再び静寂が訪れた。
少年はこの近辺に身を潜めている。疾うに少女はお見通しだ。
そして一本の木を見上げた。
「三秒だけ待ってやる。もし下りてこなければ、この木を術で倒す。一、二……」
「待て!早まるな。下りるから」
単なる脅かしに動揺した声が上がり、清輝は枝から悠々と地面へ着地した。
目元が赤く腫れている。何を意味するのか見れば察しがついた。
「貴様、泣いておったのか」
「悪いか。男が泣いて」
決まりが悪いのか外方を向く。
「冠世様に認められたい気持ちは私にもある。だが、認められるだけが全てではない。急いた所でなにも見出せぬ。時間をかけてもよいだろ」
「けど……」
藍色の瞳に見据えられた少年は言葉を失う。
「あの頃よりも清輝は強くなった。それで十分ではないか。私は貴様の努力を知っておる」
少女の柔らかな笑みに清輝は見惚れ、一気に顔が赤くなる。さながら夕焼けみたいだ。「どうした?顔が真っ赤だぞ。熱でもあるのか」
「ね、熱なんてない」
心配して額に手を触れようとすると、清輝は早業並みにくるっと背を向けた。
「無理は感心せぬ」
「平気ったら平気だ。俺を信用しろ」
怪訝そうに蝶彩は少年の背中を見つめていた。が、微かに流れてきた妙な気配に周囲を見渡す。
空間に黒い亀裂が走っている。
「気をつけろ。狭間が開くぞ」
「いいよな。お前には狭間が見えて。俺は見えないのに」
妖はこの世とあの世の狭間を利用してこの世へやって来る。
どちらでもない世に元々妖は存在し、開かれたり、閉じたりする狭間を通じないとこの世へはやって来れない。
稀に陰陽師でその狭間を見れる者もいる。圧倒的に大半が可視は不可能だ。
「匂うぞ。人の子だ、人の子がいる」
「しかも二人いるぞ」
空間の亀裂が広がり、更に裂けて二体の妖が現れた。一体目は全身灰色の皮膚で覆われ、二体目は全身黒色だ。 どちらも頭でっかちで大きな目が一つ。口が裂け手足には長く鋭い爪を持っている。
人は妖を名付けるが数多も存するそれ等、全ての命名は叶わぬ。
「初めて目にした妖だ。冠世様は知っているだろうか」
口元を歪めた少年はぶっきら棒に答える。
「たぶん。親父なら知ってるんじゃねぇ」
冠世は蝶彩や清輝よりも多くの異形と戦い、知識も豊富だ。これまで少女は師から妖の名を教えて貰うか、書物から読み取り記憶に止めていた。
「いい匂いの女は旨そうだ。それに比べて男は不味そうだ」
「おい、そこの妖。口を慎め。俺が不味そうだって、ふざけんな!!」
灰色の妖をじろりと睨み、凄まじい剣幕で清輝が怒鳴った。
「黙れ。不味そうな男」
「黙れ。黙れ」
二体の妖は下品な声を立てて笑い出した。
「……むかつく。絶対にやる」
「落ち着け。馬鹿げた挑発に乗るな。来るぞ」
黒色の妖が鋭い爪を振り上げ蝶彩を襲う。身を反らし回避した。
清輝は灰色の妖が繰り出す、攻撃を紙一重で避ける。 長い爪を使って闇雲に切り裂く。空を切り裂いただけで一本も少女には掠らない。
人語が話せる妖は知能が高いと思われがちだが、その判断材料は間違いだ。
思慮に欠けた行動は読みやすい。冷静に対応すれば問題なく勝てる。
余裕たっぷりな少年は、続け様の引っ掻きを数歩後退りながら逃れた。
「決めた。女は黒の獲物だ」
下舐めずりして涎を垂らす。
「いや、譲れ。灰の獲物だ。不味そうな男より、美味そうな女の方がいい」
黒と灰、どうやら妖同士で呼び合う名のようである。
「見るからに不味そうな男なんて、喰らう価値すらないわ」
「こうなれば早い者勝ちだ」
「あぁー!不味そう、不味そう……。うるさいんだよ」
清輝が地団駄を踏む。
「俺ってそんなに美味しくなさそうか」
「私に聞くな」
戦闘中にも拘わらず、彼の緊迫感に欠ける言葉が滑稽で呆れてしまう。
懐から呪符を三枚取り、蝶彩は妖力を込めた。「紅蓮の炎になり燃えよ」
狙いを定めて呪符を投げた。忽ち呪符は激しく燃え立つ紅蓮の炎へと変わる。
残念ながら三つの炎がかわされた。体に比べて不相応な頭を持つ、妖は意外に俊敏だ。
灰が頭を低くして突っ込む。それを黒も真似して突っ込んでくる。
目標となった少女は慌てず避け、しつこく頭突きが続いた。
背後と前方にいる事を確認して接近を待つ。ぎりぎりまで引きつけ地を蹴って空中へ跳ね上がる。
急に止まれず勢い余って頭と頭がぶつかり倒れた。
「好い気味だ」
清輝が馬鹿にしてくすっと笑う。
「どこを見ている!」
「お前こそどこを見ている!」
「石頭め」
「石頭め」
額と額をくっつけて間抜けにも言い合いを始めた。「敵を忘れて諍いなど下らぬ」
消滅術の印を結ぼうとした蝶彩の手を少年が止めた。
「俺は不味そうと言われたままだ。このまま終わってたまるか」
膝を折り何をするつもりか石を掴む。有りっ丈の力で投げつけた。
石は黒の顔面に当たった。痛みで奇声を発する。
「やったのはどちらだ!」
しかめた顔は一層醜く歯軋りして、ばたばたと地面を踏み鳴らす。
何気なく視線を向けてきた彼と目が合う。
「微弱な人の分際で生意気だ」
「我等を見くびるなよ」
灰に目配せして「吐くか、吐くか」と不気味に繰り返した。
「貴様の悪事を擦りつけるな」
「彼奴が勘違いしたんだ」
そして妖達が動き出す。
同時に裂けた口を開けて、紫色の瘴気を吐いた。
「結!」
蝶彩はその場を凌ぐ為、一時的に結界を張る。透明な球体に二人が包まれた。
結界は目に映るもの、目に映らないもの。二種類あり陰陽師は意図的に使い分ける。 結界術を物にすれば形を球体、正方形、菱形など大きさも変えて、自由自在に作る事が可能だ。
黒と灰が瘴気を吐き続けた。周囲は濃い紫色の煙で覆われ、景色が見えなくなった。濃霧が立ち込めている状況に近い。
「貴様の得意な浄化術を使う時が来た。瘴気の浄化は任せたぞ」
蝶彩は清輝を信じ、彼も少女を信じて頼りにしていた。二人は見えない絆で繋がる仲だ。
「おう。あの頭でっかちに一泡吹かせてやるぜ」
清輝はにっと歯を覗かせて印を結び始めた。
「清き光よ。穢れを祓い給え」
袂から出した呪符を口にくわえ、両手の平を打ち合わせた。ふっと息を吐く。
澄んだ光が煙のように呪符から流れ出る。青白い光は目に眩く、速やかに周囲を覆った。
瘴気が簡単に飲み込まれ、数秒後は浄化されて消滅した。
浄化は穢れを清め、綺麗に消し去る。陰陽道では基本の術だ。
「眩しい。苦しい」
「光は、嫌いだ……」
黒と灰は苦しさの余りのた打ち回る。
殆どの妖が浄化で放出される清浄な光が大嫌いだ。澄み切った清さを受けつけず拒む。 指で五芒星を描いて蝶彩は声を張り上げた。
「滅。(めつ)急急如律令」
妖の足元に五芒星の光線が出現する。瞬く間に二体は原形を止めず、粉々となり消滅した。
「一人で片づけるなよ。蝶彩」
妖に不味そうと言われた事を清輝は、未だ根に持っていたのか、幾度も「一発殴りたかった」とぼやく。
「結果的に片づいたのだからよいではないか。根に持つ未練がましい男は嫌いだ」
「なっ、根に持ってなんか」
この時、蝶彩は一言も清輝の話を聞いておらず、瘴気で侵された木々へ目を向けている。
瘴気は人に害を齎す。無論、生き物や草木にも悪影響を与える。
人が瘴気を吸った場合は目眩、嘔吐、頭痛など酷いと熱病を発症し、生き物や草木が吸った場合は精気がなくなり枯れる。嫌でも生命が終わってしまう。
周辺の草木は枯れてしまった。青々とした時の強く満ち溢れる精気は感じられず、生命の源泉たる元気が疾うに失われていた。
「お前が思い悩むなよ。悪いのは瘴気を吐いた妖だ。蝶彩の所為じゃない」
「分かっておる」
怒気を含んだ声音で蝶彩は言い放ち、悲しみと怒り、どう仕様もならぬ思いが入り交じる。 彼に苛立ちをぶつけるのは間違いだと頭で理解していた。
「何だよ、その態度は!せっかく慰めてやったのに……」
むっとした表情で清輝がそそくさと歩き出す。
最後に木々をちらっと一瞥し、「済まぬ」と消え入りそうな声で囁いた。
枯れた木々が再び生き生きと成長する事は二度となく、生命を奪われ早い終を辿った。
何もしてあげられない。故にやるせなさが心を蝕み痛ます。
清輝は一度も後ろを振り返らず進み、少し離れた後ろを蝶彩はゆっくりとついて歩く。
一言謝りたいが中々口を開けない。
少女は自覚していた。頑なで我を通そうとする所があると。時に人の忠告や情勢の変化などを無視してしまう。
ここは先に謝るべきか……。
迷う内に時が経ち、もやもやと心に蟠る感情が足を鈍らせた。
ぴたりと歩みを止めて清輝が大声を出す。
「ああ、もう!!」
無造作に背後を向いた。暗褐色の瞳を細くして腕を組む。
「俺は別に怒ってないぞ」
「真か!?」
早々と近づいた蝶彩は顔を目と鼻の先まで寄せ双眸を凝視する。
少年は突然の出来事に怯み目を逸らした。
「本当だ。嘘じゃない」
「私は優しい清輝が好きだぞ」
「軽々しく好きって言うな。ま、真に受けるだろ」
至近距離にどぎまぎして胸を押さえた。
「真に受けるとは何をだ?」
視線を動揺で泳がす清輝は、「お前は鈍感すぎる」と頬を大層赤く染めていた。
「顔が真っ赤だぞ。やはり、熱があるのでは」
「熱なんか…ない」
ぷいと横を向いて清輝は不機嫌そうに黙り込む。
そんな様子に小首を傾げる蝶彩は鈍感だ。少年の純粋な思いに微塵も気づいていなかった。
過ぎゆくこの瞬間が平和を実感させてくれる。自分には不相応で勿体無い。
誰しも幸せは長く続いて欲しいと願う。恵まれ心が満ち足りた状態にある一瞬一瞬に安らぎ、欲望を満たしたいが故拠り所を求む。
幸福で穏やかな時は離れ落ちる花弁と同じだ。前触れなくいつしか儚く散る。跡形すら残らぬ。
だからこそ、人は笑い合うのだろう。だからこそ、人は大切にするのだろう。
失ってしまうのが怖いから。失ってしまえば手遅れになるから。「いい機会だ。私は貴様に聞きたい事がある」
蝶彩の真っすぐな眼差しは清輝を捉えて、威圧されている訳ではないのに動けなくなる。
瞳の奥底には気高き強い光があり、見る者を惹きつけ心を奪う。
「冠世様を親として、陰陽師として、どう思っているのだ?」
大きく瞬きほっと胸を撫で下ろす。
「一瞬でも鈍感なお前に、ばれたと考えた俺が馬鹿だった」
安心しているがちょっぴり残念そうだ。
何を期待していたのか、本人に問い質せば教えてくれる可能性はある。
しかし、頑なな自分は時間をかけても答えを模索していくつもりだ。
「答えろ」
「……」
口元を固く引き結ぶ。少年はきっと刃向かい、飛び出した瞬間を脳裏に蘇らせている。
「親父は小さい頃からやんちゃだった俺をよく叱った。ただ怒るんじゃなくて、納得できる説明を諄々に諭す。善悪をしっかり弁えさせてくれた」
真面目な表情で話し、滲む懐かしさに満ちる。
「あんな性格だから、昔も今も誉め言葉は全然言わない。初めて誉められた日を鮮明に思い出せる。些細な事だったけど、嬉しくて堪らなかった。クソ親父は伝えないだけで母さんと俺、蝶彩も心の底から愛してる」
胸はじわりと温かいがそわそわした感情がある。それは彼へ羨望を感じ嫉妬していた。 請い願い欲しても手に入らぬ、取り戻せぬ存在を失った所為だ。 心が痛く張り裂けそうな苦しい時は必ず感情を押し殺す。そうすれば、次第に何も感じなくなる。
「陰陽師として一言で言い表すと、腹立たしいが立派だ。勿論、親としても尊敬している。知識があって知性にも富む大した模範――。背中を見て育った俺は気づけば、その背中を必死に追いかけていた」
冠世の父もまた独自に陰陽道を修めた陰陽師。そして、冠世から息子へ受け継がれていく。
「あんな事を言って飛び出したけど、親父に認めて貰うのは、気が遠くなる程先だろうな。未熟なのは自分自身が一番痛感してる。いつかあの背中を越えて、ぎゃふんと言ってやるんだ。『どうだ。参ったか』って」
一旦口にした言葉に責任を持つ清輝は有言実行する質だ。
夢は見るものではなく、叶えるもの。夢を叶えたとしてもそこが終点ではない。そこから始まる。より高い段階を目標とし、成長し続ける。
「貴様にとって冠世様は誇りなのだな」
蝶彩と目が合い、清輝は照れ臭いのを押し隠す。耳の赤みが決まりの悪さを雄弁に物語っていた。
「一度でも親にありのままの本心を打ち明かせ。言葉は伝える為にある」
「素直に伝えるって意外に難しいんだぞ」
「そうだな……」
少年の瞳に今、少女はどう映っているのだろうか。
包み隠さず曝け出し、真実の気持ちを相手に告げる。それをためらえば、場合によって生涯悔やむ。喪失感と共に生きていかなければならない。