再び
どんなに走っても走っても周囲の光景は、闇に包まれた木々が続く道のみ。暗闇は不安を増幅させる要素だ。
焦りに襲われ、急き立てられる。精神がぐらつき、平常心を保つ事が困難だった。
少しでも早く前へ。もどかしいが夕村に向かう。
自分の足音と乱れた呼吸が聞こえる。既に疲れ始めていた。
急ぐ時に限って蝶彩は木の根で足を引っかけ無様に転ぶ。痛みなんかどうでもいい。その内消える。
幸い足首は捻らず、よろけながら立ち上がり歩みを進めた。
こんな間にも刻一刻と火は広がり、村はどんどん燃えているのだ。
煙が朦々と立ち込め、熱い炎は身を焼く。助けを求める村人達が浮かぶ。
これ以上何かを失うのは嫌だ。怖い、恐ろしい……。
少女の手からどんどん光が零れ落ちていく。大切な人がそばから消えてしまうのだ。
陽陰は無事だろうか。彼まで失ったら――。考えを振り払い、力強く駆けた。
妖が火事を引き起こしたに違いない。平穏を壊し奪う異形共が憎い。
冷たい風が頬を冷やした。心に恐怖が澱となり溜まる。
「蝶彩」
幼い声が少女を呼び止めた。心臓に衝撃を受けて驚く。耳に残るこの声は忘れもしない。
「清輝……」
後方を顧みると薄い茶色の髪をした、狩衣姿の少年が立っていた。
「蝶彩」 名を呼ぶ清輝は思い出にある彼と同じだ。でも、懐かしさは生じない。偽者だから。
文句を言いながらも稽古につき合ってくれた。ダメな所を的確に告げ、助言と忠告は為になった。
武術の基本は冠世から学んだが、最初の相手は清輝だった。当然幾年も前から武術を習う少年には勝てなかった。
悔しさを糧にして日々修行に励んだ。風が強くても雨や雪が降っても。
今も初めて刀勝負で勝利した日の事を鮮明に覚えている。喜び湧いた。
にこやかに笑う顔が突如歪む。ぱっくりと傷口は開き血が迸る。見る見る着物は血で染まった。
過去の強烈な記憶が呼び覚まされ震える。冷静な判断ができず惑う。
「嫌、だ。嫌だ!」
蝶彩は頭を抱えてその場に膝を突く。呼吸ができているのに息苦しかった。
赤い血に染まって死んだ。否、無力を理由にして死なせた。どれ程悔やんでも死者は戻らぬ。
倒れた少年は二度と体を動かさなかった。
「痛い!」
ぴくりとも動かなかった彼が行き成り立ち上がる。
たどたどしい足取りで近づき、恨めしそうに視線を突き刺す。
暗褐色の瞳が怒りと憎しみに燃えていた。
「なぁ、どうしてあの時、助けてくれなかったんだ」
血が地面にぽたぽたと落ちる。赤い滴が跡を残した。
「お前を信じていた。俺は裏切られた」「来るな!」
違う。直ちに否定する。
「痛い、苦しいんだ。蝶彩、今度は助けてくれ。見捨てるのか」
弱々しく手を伸ばす清輝。少女はじっと見つめた。顔が苦痛に歪み悶える。
「また俺を見殺しにするのか」
違う。これは……。
「幻影だ。貴様は清輝ではない!!」
熱り立ち鋭い双眸で幻影を睨みつける。目にした瞬間から分かっていた。
動揺して弱さにつけ込まれ、こんな状況に陥った。
さっと偽りの幻影が崩れる。一際激しい風が吹き荒れた。
風に少女は目を細めて妖気が漂い始めたのを感じた。次第に濃くなっていく。
「やっと気づきましたね。いや、始めから気づいていましたか」
視線を宙に向け、声が聞こえた方へ呪符を投げつける。とっさの判断で効力は弱いが動き封じを施した。
姿を現す黒髪の男が呪符を握り、忽ち青白い炎に変えた。
「失敗して残念ですね。蝶彩」
ゆったりとした所作で舞い降りる。
瞬時に状況を繋ぎ合わせ思考した。
「私に幻術をかけたな」
幻術は人の目をくらまし、幻影をつくる。現実には実在しないものをあるように見せ、しない音も感知させてしまう。 蝶彩が認識した煙と清輝は幻影だった。
見せられた幻影に夕村が燃えていると、勝手に思い違いをしたのだ。
平静を失い、自身が幻術にかかった事実に気づかず、血で彩られ死んだ、幼き頃の清輝により余計心を乱された。
「理解したようですね」
陽陰は口元に喜色を漂わす。いつか来るであろう、この時をずっと待ち望んでいたようだ。
「蝶彩の手を触れた瞬間に幻術をかけました。時が経てば、術が発動するように」
真意を見抜こうとしても無駄に終わる。微かな感情すら読めなかった。
「何ゆえ、私に幻術をかけた」
嬉々とした表情を浮かべる。
わざわざ幻術をかけた必要性、訳が全く以て予測できない。
「知りたいですか?それは…ふふ。ハハハ、アハ、ハハハ、アハハ、ハハ」
こんなに笑い狂った彼を見た経験はなかった。背筋が寒気立ち戦慄を覚える。
双眸を閉じて不気味に笑い続け、次に開いた時、美しい銀色の瞳になっていた。
あの銀色の瞳を蝶彩が忘れるはずがない。大切な者達を奪った元凶。
「白妙……」
漆黒の髪が白銀に変わり、墨染めの着物から色が消えて真っ白になる。白い羽衣がすっと現れ、腕に纏わりつく。
「本来の姿で会うのはあの時以来だ」
白妙は依然と変わらず、若々しく美しい青年の容姿をしていた。「白妙か陽陰か。貴様はどちらで呼ばれたい」
蝶彩は不思議と怒りも憎しみも感じていない。心は静かで落ち着き、すぐに行動が可能な状態だ。
あれ程までに怒りを感じ、憎悪を燃やした対象が目前にいる。だが、何故か殺したい衝動には駆られなかった。
眉一つ動かさず白妙の眼差しは無機である。
「好きな方で呼べばいい」
銀色の双眸がより冷え冷えと見せていた。
「私を殺す好機は数知れずあっただろう。どうして殺さなかった」
「始めは殺すつもりだった」
足音を響かせ緩慢な動きで白妙は歩く。
白色の霜が地表に形成され、雪が降り出す。深々と降る雪はあっと言う間に積もった。
辺りを見渡せば、白銀の世界が広がっている。
「綺麗な幻術だ」
蝶彩は手の平を広げた。危うげに落下し、体温で儚く溶ける雪を無心に眺めた。
口から息が漏れ、まさしく空気は冬に感ずる寒さだ。
「やはり、お前は凡人なんかと異なっているな」
微苦笑を浮かべ、白妙は立ち止まった。
「我の妖力を自身の物にし、死の呪いまでも解いてしまった。信じ難い事実に驚き、僅かでも蝶彩に興味を抱いたのだ。だから、気まぐれを起した。流れ陽陰として近づいた。人にこんな思い抱いたのはお前だけ……」
手に雪でつくった薄く真っ白な花弁を出現させ、息を吹きかけた。花弁は落ちてくる雪と交ざり宙を舞う。




