過失
急に大牛立が追う足音が聞こえなくなった。
刹那。地を振動させ、目の前に着地する。章来を飛び越えて先回りしたのだ。
拳が突き出された。外して下が窪む。固い表面は見る見る窪んでいく。
すばしっこい動きで翻弄し続け、妖の息が切れ始める。
此方に手が伸びてきた。この時を待っていた。腕の縁に沿って切っ先が走る。
体内に妖力を巡らせ、朗々と言い放つ。
「闇流斬撃」
白刃が黒く、まさに闇に染まった。空を二刀の長刀で斬る所作をした。
やがて大牛立の下から上まで流れるような傷口が開く。巨体はふらつき膝を折る。
暗い闇に紛れた流れる闇色の斬撃が内部をも傷つけた。
斧が落ちうつ伏せで動かなくなる。
終わった。章来は息を吐き座り込む。妖一体にこの様ではダメだ。
もっと強くなりたい。いつも心底で思い望む。それは追いつき、追い抜きたい人の存在があるから。
新たな気配を感じ取った。また妖か……。数多の夜は異形共で溢れかえる嫌な日だ。
柄を握り気合いを入れる。
大きな羽の派手な色と模様は毒々しく、同じ彩りと同じ模様は一つとしてない。触角は糸状、羽毛状、櫛歯状など。水分を飲む為に適した口吻と通常は閉ざされ、人畜を喰らう瞬間に開く口がある。
「よかったな。式神、お前の勘が的中して」 皮肉を響きに潜ませ呟いた。眉間に皺ができ、痺蛾を射殺す勢いで睨んだ。
戦いに於て接近戦は命取りとなる。飛ぶ時に絶えず痺れ粉を羽から撒き散らし、獲物を痺れさせて自由を奪い喰らう。
少しでも浴びた場合、次第に痺れが回り、個人差はあるが数分で麻痺状態から回復する。死因にはならない。
長刀を一本鞘へ納めた。片手で印を結ぶ。袂から取った呪符は妖力に満ち、飛ぶ対象でも狙いの箇所、羽に貼りつく。
「汝、仇を成すものよ。直ちに石となれ」
硬質な灰色の石に変わっていき、重みで落下した。叩きつけられる頃、完全に石化して衝撃で砕けた。
自分は術の才より剣術の方が勝る。どちらも磨き途中だ。
立方体の結界を張り、同時に三体消滅させる。
予期せぬ風が吹く。章来は間の悪さと運の悪さを嘆いた。
向かい風は痺れ粉を運び更に飛ばす。痺れ粉の恐ろしい所は不可視で浴びた感覚がない。
痺蛾が急降下する。章来は幹に隠れた。
「氷散」
投げつけた呪符が腹部に付着して凍る。ばらばらに散った。
六体退治した。新しい痺蛾が来る気配はなく、逆に静けさが不気味で気づけば蝶彩を心配していた。
繭の数はもっとあった。今頃、彼女も戦っているはずだ。
大牛立の死骸と斧が消えて、どこにも見当たらなかった。
過失という文字が頭を掠め、焦りが焦りを呼ぶ。
勝手に終わったと思い込み、愚かな少年は油断した。あの傷を負って死んだと。 どこだ。どこにいる。
木々が過失を嘲笑うかの如く揺れる。木の葉がざわざわと音を立てた。
喉が渇き、心臓は脈打つ。覆う闇に圧迫感を覚えた。
足と手が痺れ始める。痺れの初期段階だ。ここから次第に進行が早くなる。
後ろか。
振り向かず本能で避けた。もし振り向いていたら首が胴体と離れる。一秒でも無駄な時間を与えれば死ぬ。
殺気が消えた。闇に姿を暗ます。
訪れた静寂。長刀は中段の構えを維持する。深呼吸して心音を聞き落ち着こうと努めた。
大牛立は完全に気配を絶ち、息も殺し、存在事態を無と同化させる。
茂みががさっと鳴った。身構えたが違う。判断を誤った。
あれは敵を欺く為の手段である。故意に石を投げ、茂みが鳴ったにすぎない。
首筋に迫る楔状の刃を細い刀身が阻む。有りっ丈の力を出し防いだ。
手の痺れで落としそうになり、その事実が二度目は無理だと雄弁に物語る。
横様に薙ぐ。斧の背が戻ってきた。
身を捻り直撃は免れた。左肩を掠る。
痺れで片足の感覚がなくなっていた。よろけて転ぶ。
長刀を支えに立ち上がった。この足では戦いに支障を来す。
狙いが定まった軌道で斧が命を奪いにくる。
「消水泡」 水泡となって呆気なく斧が消える。
「妖異小々滅」
大牛立が縮み、大きかった背の高さが章来と同じになり、どんどん小さくなる。寸法は親指程で豆くらいなった。仕舞いには見えなくなってしまう。
「助けて貰ったら、言う言葉があるだろ」
青い髪、菊の花の刺青が目を引く。同性から見てもやけに綺麗な顔。苛立つ生意気な存在。
斜に見下ろして青が腕を組む。
「お前が勝手に僕を助けただけだ」
不服な章来は口が裂けても、お礼を言うつもりは更々ない。
斧を水泡に変えた。悔しいが水術は優れている事実だけ認める。
「痺れ粉にやられたのか」
藍色の髪は後ろで結われ、目鼻立ちが整う。人を魅惑する妖艶な容貌。気になる存在。
「風が吹いて…浴びたくなくても浴びたんだ」
「言い訳すんなよ。見苦しい」
立っていられなくなり、尻餅をついた。青が吹き出す。完璧馬鹿にしている。
「此奴は私の忠告に耳を傾けなかった、所為で痺れ粉を浴びた。愚か者だ。先刻まで満足に歩けなかったぞ」
「ははは。面白い冗談だな。蝶彩ちゃん」
険を含んだ目が余計な事を言うなと睨む。蝶彩は真顔で受け流す。「私は冗談ではなく真実を申した」
今の話から察しがつく。二人も痺蛾と戦ったらしい。
「これに懲りてしっかり人の話を聞くのだな」
「へいへい」
嫌々返事をして外方を向き、むっと顔で言動が幼い。
「フッ」
「今、黒髪が俺を馬鹿にして笑いやがった。酷い上に冷たい奴だな。そう思うだろ。蝶彩」
「貴様も馬鹿にしたであろう」
「あれ、そうだっけ?」
白々しく惚ける青。態度がいちいち腹立つ。
「黒髪がこんな状態だし、ちょうどいい。休むか」
腰を下ろして胡座をかく。風の向くまま気の向くままとはまさにこの事だ。
「僕は何とか頑張れば歩ける」
章来は手を握った。痺れが忌々しい。
「意地を張らずに休めよ」
「上から目線で物を言うな」
こんなふがいない姿を少女に見せたくなかった。どうせなら恰好いい姿を見せ、少しでも好感を持って欲しい。願望は叶わず内心落ち込む。「痺れが取れるまで休めばよい。妖が来ても私が退治する」
しゃんと伸びた背中は華奢でも力強く頼もしい。どんな困難にも打ち勝つ強さがある。
彼女の魅力は飾らない人柄と他を思う自然な優しさ。
無意識に見ていた章来は恥ずかしくなり、青の視線に気づいた。
「汝が今何を見ていたか、当ててやろうか」
「……」
押し黙って顔を背ける。対照的に言いたそうにどうしようかなと迷う。
「蝶彩、黒髪が見……」
「あああぁぁ!」
大声を出して後の言葉を掻き消す。
「どうかしたか」
訝る蝶彩が肩越しに振り返った。
「いや」
冷や冷やしながら藍色の双眸が早く逸れろと願った。鼓動が速い。
暫く小首を傾げ、漸う前を向いた。安堵の気持ちが生まれる。
「式神、ふざけるな」
押し殺した声で剣呑に章来が言う。
軽薄な笑みを口元に張りつけて片膝を立てた。面憎いまで平然とする。
暇そうな雰囲気が漂い、月光で淡く輝く景色を眺め、次第にある一点を見据えていた。 お前も見てるじゃないか。段々むかむかしてしかめる。
突風が吹き荒れる。草は踊り騒ぎ、落ち葉は空中へ舞う。
長い髪が靡いて袂を孕ませた。額に掛かった髪を掻き上げ、吹き抜ける風を一身に受けた。
横顔は心地よさで和やかに微笑む。
ただそれだけの事なのに見惚れてしまう。心が惹かれる。胸が高鳴る。
どこか去った風を名残惜しそうしていた。
「蝶彩」
名を呼ばれた少女はゆっくり青を見遣った。
「汝は風が好きなのか」
首肯して美声が発せられる。
「自由な風は何者にも束縛されぬ。誰の身にも平等に吹く。吹きたい時に湧き起こり、休みたい時は静寂を守る。私は風が羨ましい」
「そんなに羨ましいなら風になればいいだろ」
「無茶な事を申すな」
「喩えばの話だ」
二人が話を交わす。楽しげに。自分だけ取り残された錯覚に陥る。
話の糸口が見つけられず、章来は投げやりな気分になった。
「そろそろ立てるか。章来」
少女の心遣いが嬉しかったが、意に反した行動をする。「……いい、自力で立てる」
せっかく差し伸べてくれた手を断り、腰を上げた。向きになっている自分が嫌だ。
蝶彩が青と楽しげに会話するだけで、もやもやと不愉快になる。
「妖の気配はあっちだ」
未だ足は痺れていたが歩ければいい。
「どうしたんだ。急にやる気になって」
「僕は元からやる気だ」
一切青とは顔を合わさず、歩調を速めた。章来は現在どんな心境なのか、よく分からなかった。
長刀を片手に先を行く章来の空気がぴりつき近寄り難い。歩けるという事は痺れが緩和されたようだ。
何か気に障る行為をしてしまったのだろうか。考えても蝶彩は思い当たらず不可解な気持ちが胸中に残る。
「眉間に皺が寄ってるぞ」
青は真似をしているようで眉間に皺を作る。
くっきり三本できていた。
「それ程まで酷い顔はしておらん」
「俺の顔をさりげなく酷いって侮辱すんな。考え事の内容を教えろ」
一呼吸置いて不服ながら答える。
「人の心は分からぬと考えていた」
意志や感情、精神活動の元となる。時に偽り優しく思いやり、飾らぬ本当の気持ちも表す。
突如、我慢しきれなくなり青は豪快に笑い出した。




