追う者と追われる者
走った。走り続けた。素足をえぐる石にも、四肢を切り裂く枝にも構わず、一心不乱に両足を動かす。肺も心臓も度重なる酷使に悲鳴をあげていたが、背後から迫り来る追手の気配がリオウに立ち止まることを許さなかった。
今は走ることが生きる事だった。
「止まれ! でなければ撃つ!」
銃声が足下に弾け、リオウの体はもんどりうって前方に転がった。炸裂音に痺れた耳が回復するよりも先に跳ね起きるも、すぐに崩れ落ちて地面に逆戻りする。足首に鋭い痛みが走った。弾は命中していないようだったが、倒れた拍子に足をくじいたらしい。これでは、もう満足に逃げることも叶わない。
リオウは追手に向き直った。脂汗が滲む。どうやら、ここが逃避行の終着駅らしい。
「動くな」
暗い木立の間に浮かび上がる銃口。その後ろに控える二つの眼と共にリオウに据えられて、ひたと動かない。
「動けば、撃つ」
一歩、二歩。追跡者は間合いをつめる。
ジャキ、と撃鉄を起こす音がした。深夜の森にリオウと追手の呼気が混じり、二人は暫し銃を間に対峙した。
「……私を殺すの?」
沈黙を破ったのは追われる者の方だった。己を見下ろす視線と銃口を、受け止め、返し、問いを放った。
恐怖はあった。怯えを見せる事で自分自身を貶める恐怖がそれに勝っただけだ。
どのみち命を明け渡さなければならないというのなら、それ以上をも明け渡してはならない。それが、誇りや挟持などとは呼べない、ただのくだらない意地であったとしても。
「死にたいのか?」
追手は問いに問いで返した。答えを待たずに銃口をリオウの眉間に押し当て、引き金に指をかける。反射的に閉じようとする両目を必死に押し留め、リオウは踏みとどまった。眼を逸らさず、最後の瞬間まで開き続ける。それだけに専心することで、眼前に迫った死の恐怖に囚われまいとした。
長い、リオウにとっては永遠とも思える十数秒の果てに、銃は下ろされた。
「命乞いはしない、か。それが貴族の意地とでもいうのか」
吐き捨てるように、言った。
「お前一人のために小隊は全滅した。アザドもムタリも皆死んだ…俺が最後のひとりだ」
その声は抑制されていたものの、感情のほとばしりを隠せていない。
その時になって、ようやくリオウは気づいた。雲間に縫った月明かりに照らされるその顔の意外な程の若さ、いや、幼さに。男ではない。少年……それも十代後半に達しているかどうかさえ疑わしい。
「……彼等の血と犠牲の上に得たあなたを殺せる筈もない。俺達の任務はあなたの奪取、生きて連れ帰ること。たとえ、最後の一兵になっても」
だが、と付け加える。
「もしまた逃亡を企てたり不穏な動きがあれば、手足の一本や二本は覚悟して頂きたい。我々が必要なのは、必ずしも五体満足なあなたではない」
リオウは唇を噛み締める。脅しのためではなかった。
年端もゆかぬ少年が銃を片手に、躊躇いも気負いもなく、そんな恫喝を口にする。口に出来る。そこに至るまでの経緯を考えてしまう自分。相手に憐れなど感じる立場でもないというのに。
「……なぜ、あなたのような子供が?」
「子供?」
追手の少年は笑った。侮蔑のような、だが、怒りよりは痛ましさを感じさせる笑いだった。
「お優しいことだな。自分を拉致した人間にすら、慈悲の心を忘れない……帝国がそれほど人道的であったなら、俺は今ここにはいなかった。村を焼き、女を犯し、乳飲み子から老人まで虐殺したのは帝国の連中だった筈じゃないのか?それを命じた者の娘が、よくそんな、人を憐れむような口が聞ける」
少年の手が胸ぐらを掴む。絹の裂ける音が暗夜に響いた。
「あなたは、この端切れひとつで、どれだけの人間が飢餓から救われるかご存知か?あなた方が王宮で絹やレースに埋もれて他愛もない遊びに興じる間、無為に無法に死んでいく何千何万という人間のことを考えたことはあるか?一年の三分の一を賦役に駆り出され、毎朝毎晩働いて得た収穫の五分の二は、国庫に納め、凶作ともなれば次の年に播く種すら残らない。基本税を払えずとあらば、鞭打ちの刑。少しでも意義を唱えれば、土地は没収。逆らえば、斬首……中央に訴えても、取り合ってすらもらえない。それどころかコウシンでの農民蜂起は地方行政官を血祭りに上げたあと、帝国によって徹底的に叩きつぶされた。分かるか?徹底的に、だ」
少年の食いつくような瞳には、いつしか想起された憎しみが宿っていた。リオウという、格好の捌け口を得て。
「虫けらのように踏みつぶされるのが嫌ならば、武器を取るしかない。押し付けられた支配をよしとしなければ、戦う他はない。戦えば村は焼かれ、人は死ぬ。だけれども隷属よりはましだ。斬られ、犯され、弄ばれて殺された者達の記憶を背負って、大人しく服従して生きるよりは」
喰いつくような言葉、視線。目をそらせなかった。そらすべきではないと感じた。
彼の言葉をリオウは否定しきれない。だが彼等の怒りに同情することと、認める事は同じではない。受容する事が出来ないのなら、それはただの同情、無責任な憐憫でしかない。
「だからレジスタンスに入ったとでもいうの?」
冷えた抑揚に、少年の顔がかすかに引きつった。
「殺されたものへの弔いに、生き残った人間達がその墓標に血をそそぐ事で、彼等が浮かばれるとでもいうの?」
どんなイデオロギーも、主義主張も、簡単な事実を変えることはできない。銃は命を殺すために、弾丸は生き物の体に食い込むためにある。生きている人間のために人を殺すならまだしも、死んだ人間のためにそうする事に、どんな意味があると言うのか。
「そんなことはっ」
少年が声を荒げる。
「目の前で親兄弟を嬲り殺しにされた事も、村を焼かれた事もない人間の戯言だ。最初に撃ったのは連中だ。俺達じゃない。復讐は必然だ。死んだ者のために。残された者のためにも」
「そうやって、奪われたから奪って、殺されたから殺し返していたら、報復の連鎖は終わらない。自分の家族や村を奪われたから、他の誰かのそれを奪っていいと言うのなら、世界は今にあなた達のような人だらけになる」
「報復の連鎖だと? 笑わせるな。俺達は何もしやしなかった。ただ静かに暮らしていただけだ。暮らし続けたかっただけだ。そこに、いきなり、割り込んで来た連中に、どうして俺達を蹂躙する権利がある? 殺す権利がある? それでも、黙って、我慢をしてろとお前はいうのか? 報復は報復を産む。だから、にやついた笑いを浮かべて家族を嬲り殺しにした連中を許せっていうのか?」
お前に分かる筈がない、と少年は言う。
その通りだ。自分は、親兄弟を目の前で殺されたこともなければ、村を焼かれたこともない。 そもそも、人生のほとんどを帝都で過ごしてきたリオウに、農村や部落での生活を、その内に営まれていた喜怒哀楽を、突然崩れ落ちた日常の痛みを、分かれる筈もない。
「……それでも、あなた達のした事が正当化される訳じゃない。関係のない人を巻き込んで殺す理由にはならない」
自分を守るために死んでいった命。ずっと自分に仕えて来た侍女もいれば、名も知らぬままの兵士達もあった。彼等が流した血に多くを負う者として、リオウは今、ここにいる。そして、その引き金をひいたのは、他ならぬ目前の少年と、その仲間だった。
「あいつ等は軍人だ。組織の一端に位置する以上、自分達の所属する組織がどういうものか、それを知っていて当然だ。知っていて、そこにいたのなら、俺達がどうこう言われる筋合いの問題じゃない」
「全員が軍属だったわけじゃないわ」
「ああ」少年が答える。「あんたを筆頭としてな。貴族と、その犬共。軍人よりなお始末が悪い、寄生虫」
引き連れた笑いが、あどけなさの残る十代半ばの顔を、歪ませた。
「……かわいそうな人」
憎しみに滾った瞳を同じ程の強さで見据えて言った。
「なんだと?」
「哀れだと言ったのよ。そうやって、現在を過去の文脈の中でしか捉えられないあなたが。自分が負わされただけの傷を、相手にも負わせずにはいられない、そうする事でしか癒される事のない、他人の未来も自分の未来も等しく閉ざしていく、壊すことしかできない、あなた達が」
「ふざけるなっ」少年が吠える。「お前等こそが過去の延長。排除すべき、汚染された土壌だ。この現実を作り出しているのは報復の連鎖なんかじゃない。この国を売り渡したお前達、売国奴だ。体制側が作り出した手前勝手な論理なんかに、俺は騙されない。そんな言葉では、『より良い世界』は創れない」
一連の少年の言葉の中で、その言葉だけが、ひどく空虚に響いた。くりかえし教えられ、唱えた教義のように。
「より良い世界?」
くぐもった笑いが、喉に絡む。
「笑わせないで。公共機関を爆破し、市街地でゲリラ戦を始めることが、そのための一歩だとでも? 革命を声高に叫び、市民を巻き添えにした挙句に、争乱以上のものを生んだテロリストなんていやしない。あなた達のしている事は、結局私達と同じ――――」
「うるさいっ!」
銃が少年の手から離れ、二人の足下に落ちた。首に少年の手がかかる。しかし、一度堰をきって流れ出したものは止まらない。
「敵だったから? 奪った側の連中だから? ただ、搾取を傍観し、レジスタンスに与しなかったから? あなた達が殺した人間達が、残された者達が、何も奪われなかったとでも言うの?」
「それをお前が言うのか?他でもないお前達がっ」
少年の顔が歪む。リオウの知る由のない、痛みを滲ませて。
「私をさらったことにしたって、そう。小隊が壊滅した時点で、失敗したってまだ分からないの? 今頃には、この一帯も囲まれていて、見つけられるのは時間の問題だわ。逃げ場なんてない。仮に、奇跡的に包囲網を突破したとして、閉鎖された関所を抜ける策があるとでも? あなたに残された道は、二つに一つ。私と共に帝国に下るか捕まるか、それとも今ここで私を殺し――」
「黙れ!」
少年の喉を締め上げる手に力がこもった。
「……あなただって、分かって…しょ。末端の兵士なん、て…ただの」
ただの捨て駒だって。
「黙れっ! 何も知らないくせに。戦死した同士への冒涜はゆるさない!」
「……っつ…」
器官が圧迫される。指が食い込む。息が出来ない。
「何も、何も知らないくせにっ――!」
意識を失うと思った瞬間、一気に喉の圧迫が消えた。拘束から解放されて、リオウは少年の手から、地面に投げ出された。新鮮な空気が肺に流れ込んできて、咳き込んだ。
少年はしばらく喘いでいた。自分の両手をぼんやりと見つめ、それから地面に這いつくばったリオウを見た。やがて、その黒眼から感情の熱が引いていき、動揺を覆い隠すと、最初と同じ抑揚のない声に戻っていった。
「……死にたくなければ口を慎むことだ」
少年は落ちた銃を回収し、それが会話の終わりを告げた。
少年は己の「任務」を果たすために、リオウは銃口に促されるままに歩き出した。
帝国軍の包囲の進む森の中を。
お読みいただきありがとうございます。
お察しの通り、これは長編の物語の導入部として書いたもので、これ自体を短編として出すのは…さすがに苦しいものがありますね。
この作品自体、昔に書いたものであり、続きを書くには勉強不足を痛感したので、お蔵入りにしてあったものですが、いつか完成させたいと思っております。
感想や評価などを頂ければ、作者は喜びと感謝の表現として、モニターの前で小躍りすることを、ここに確約いたします…少なくとも、キーボード上の指だけは。