スカラベは夜に転がる
佐伯智也は、妻の便通を世界史の問題にしてしまった。
もちろん、最初からそんなつもりはなかった。彼はただ、朝の台所で、妻の由衣が撮った一枚の写真に添える言葉を考えていただけだった。白いカップの中で、抹茶ラテの泡がふくらみ、中心に小さな渦をつくっていた。渦の影は、よく見れば甲虫の背中にも、古代の印章にも、胎児にも見えた。由衣はそれを「いい偶然」と言い、智也は「象徴的だ」と言った。その時点で、二人はもう違う場所に立っていた。
テーブルには前夜の洗い残しの小皿が一枚あり、味噌汁の椀には油の膜が薄く張っていた。五月の光は、きれいなものも汚いものも区別せず、すべてを平等に明るくした。智也はその光が苦手だった。朝はいつも、世界が自分に説明を求めてくるような気がした。なぜ昨日のうちに皿を洗わなかったのか。なぜ博士課程をやめたのか。なぜ妻の沈黙に気づかないふりをしたのか。なぜ、ありがとうという短い言葉を、論文の序章のように長くしなければ言えないのか。
由衣はスマートフォンを智也の方へ向けた。
「これ、投稿しようと思って。何か一言ほしい」
智也は画面を覗き込み、まず露出を見た。構図を見た。カップの縁とテーブルの木目の角度を見た。写真家である妻に写真のことを語るのは、火災報知器に火の説明をするようなものだと分かっていたが、彼は分かっていてもやめられない男だった。
「光が柔らかい」
「それは知ってる」
「なら、妻に感謝」
由衣は眉を上げた。
「私が妻なんだけど」
「僕の目線なら」
「私のアカウントに、あなたの目線を載せるの?」
「視点の重層性が出る」
「出さなくていい」
智也は笑われていることに気づき、笑い返そうとした。だが彼の笑顔はいつも遅れる。笑う前に、笑っていい理由を探してしまうからだ。
由衣は体が丈夫ではなかった。大病というほどではない。けれども、毎日のように腹部の張りを気にし、トイレに長く座り、出ない日には少し黙った。智也はその沈黙を見ていた。しかし見ていることと、そばにいることは違った。彼は妻の不調を理解したいと思いながら、その理解をいつも外側から行おうとした。症状名、食物繊維、腸内細菌、カフェイン、蠕動運動。言葉が増えるほど、妻の腹の中からは遠ざかった。
「カラフェの抹茶ラテ、なんか私には合うんだよね」由衣は言った。「飲むと、すっとする感じがある」
智也はノートの端に、カラフェ、抹茶ラテ、便通、と書いた。由衣はその手元を見て、小さくため息をついた。
「記録しなくていい」
「再現性があるなら記録した方がいい」
「夫婦の会話に査読を持ち込まないで」
夫婦の会話。智也はその言葉に少しだけ傷ついた。夫婦というものが、彼にはいまだに分からなかった。結婚して十一年になるのに、分からなかった。書類上の関係、生活費の分担、同じ冷蔵庫を使うこと、休日に別々の本を読むこと、親戚に同じ苗字で呼ばれること。それらを足しても、彼の中ではまだ夫婦にならない。夫婦とは何か、と考え始めると、いつも答えは遠のいた。由衣はたぶん、そんなことは考えていない。考えずにできる人だけが、本当に夫婦になれるのかもしれなかった。
彼は写真に添える文を考えた。
「妻に感謝。カラフェの抹茶ラテは、排出を促す」
由衣は味噌汁を吹きそうになった。
「やめて。店に迷惑」
「事実では?」
「私の身体に起きたことを、世界の真理みたいに言わないで」
その言葉は冗談の形をしていたが、智也には細い針のように刺さった。自分はまた、誰かの身体を論文の材料にしようとしているのか。そう思った瞬間、彼は反省するより先に、反論を探していた。個別の経験から普遍へ。私的体験から文化記号へ。身体感覚から宗教象徴へ。それは研究の基本ではないか。そう言い返せる。けれど、言い返せることと、言っていいことは違う。智也はその違いを、いつも言ったあとで学んだ。
「じゃあ、こうだ」彼は言った。「妻に感謝。カラフェの抹茶ラテから始まったのは、便通の話ではなく、排出がいかに身体、言語、信仰、欲望をつなぐかという研究だった」
由衣はゆっくり顔を上げた。
「写真のキャプションだよ?」
「博士論文のエピグラフにもなる」
「ならない」
なる、と智也は思った。たぶん、なる。彼の中で、何かが転がり始めていた。糞球のように、恥ずかしく、丸く、止めどなく。
スカラベ。
その言葉が口からこぼれた。
「スカラベだ」
「抹茶ラテだよ」
「スカラベは糞球を転がす。古代エジプトでは太陽の運行と再生の象徴だった。排出されたものが、世界を回す」
「世界じゃなくて、私のお腹の話」
由衣はスマートフォンを伏せ、冷めた味噌汁をすすった。その横顔は疲れていた。智也はそれを見て、言葉を止めた。止めたが、思考は止まらなかった。彼の思考はいつも、誰かがもう聞いていない場所で最も元気になる。
語源はどうだろう、と彼は考えた。スカラベとスカトロ。似ている。似ているが、似ているものほど危ない。似ているからつなげたくなる。つなげたい欲望こそ疑わなければならない。大学院時代、鷲尾教授は何度もそう言った。面白い仮説ほど、まず殺せ。殺しても生き残ったものだけが、研究になる。
智也は博士課程をやめてから十年近く、鷲尾の声を頭の中で飼っていた。声はいつも冷たい。冷たいが、正しい。正しさとは、ときに愛情より残酷だった。
その朝、由衣は写真を投稿しなかった。智也は出勤前にノートパソコンを開き、スカラベ、スカトロ、語源、と検索した。画面の光が彼の顔を青白くした。由衣は玄関で靴を履きながら、背中越しに言った。
「智也」
「何?」
「私の体の話をするときは、私を置いていかないで」
ドアが閉まったあと、その言葉だけが部屋に残った。智也は検索窓に打ち込んだ文字を見つめた。置いていくつもりはなかった。だが、つもりがないという言い訳ほど、役に立たないものはない。
カフェ・カラフェは、駅から少し離れた古い商店街の端にあった。シャッターの降りた店が目立つ通りで、そこだけが呼吸をしているように見えた。入口のガラスには、白い手書き文字で Carafe と書かれている。水差しという意味だと、智也は前に調べたことがあった。容器。注ぐもの。受け止めるもの。空であることに価値があるもの。
由衣はカラフェを好きだった。味だけではない。椅子の高さ、窓から入る光、店主の春子が客の話を聞きすぎない距離、トイレの小さな花瓶、そういう全部が好きだと言った。智也は最初、それを「居心地の設計」と呼んだ。由衣は「そういうところ」と言った。そういうところ、という言葉には、夫を責める音と、諦める音が混じっていた。
店主の真壁春子は五十八歳で、白髪を隠さず、背筋がまっすぐだった。元看護師だと由衣から聞いていた。看護師だった人には独特の気配がある、と智也は思う。人の身体を見慣れているが、人を身体だけにしない。痛みを知っているが、痛みに寄りかかりすぎない。春子の「いらっしゃい」は、客を歓迎するというより、いまここに座っていていいと許可する声だった。
窓辺には小さなスカラベの置物があった。青緑の釉薬がかかり、背中に細い線が彫られている。智也はそれを見るたび、店の中に古代の影が少しだけ差しているように感じた。春子は「エジプト土産」とだけ言っていた。深い理由はないのかもしれない。だが、深い理由のないものに意味を見つけることこそ、人間の悪癖であり才能でもある。
その日、由衣はいつもの席に座り、抹茶ラテを注文した。智也には白湯が出された。
「落ち着くものを、って言ったら白湯が出てくるの、すごくない?」由衣は笑った。
「僕はそんなに興奮して見える?」
「見える」
春子はカウンターの向こうで、何も聞いていない顔をしていた。聞いていない顔ができる人は、たいてい聞いている。
智也はスカラベの置物を指さした。
「あれ、糞虫ですよね」
店内の空気が一瞬だけ止まった。隣の席の老人が新聞から目を上げた。由衣が智也の靴を踏んだ。
「うちでは幸運の虫って呼んでます」春子は言った。
智也は顔が熱くなった。間違ったことは言っていない。だが、間違っていないことを、間違った場所で言う才能が自分にはある。それは才能ではなく欠陥だと、由衣なら言うだろう。
「すみません」
「いいのよ。糞も幸運も、同じ虫が運ぶことがありますから」
春子はそう言って、由衣の前に抹茶ラテを置いた。泡の表面には、今日はただの丸い光が乗っていた。由衣はカップを両手で包み、最初のひと口を静かに飲んだ。その顔に、ほんの少しだけ安堵が広がる。智也はその変化を見逃さなかった。見逃さなかったが、それをどう扱えばいいのか分からなかった。
誰かの安堵を見ると、彼はいつも記録したくなる。記録すれば守れるような気がする。名前をつければ失われないような気がする。だが、安堵は標本ではない。ピンで刺した瞬間に死ぬ蝶のように、言葉で固定した瞬間に失われるものもある。
「智也くん」春子が言った。「研究、まだしてるの?」
くん、と呼ばれるほど親しいわけではない。けれど春子は、人との距離を年齢で調整するのがうまかった。智也は少し背中を伸ばした。
「している、とは言えません。調べもの程度です」
「調べものも、続ければ研究よ」
その言葉は優しかった。優しい言葉ほど、智也には怖かった。優しさは、期待と似ている。期待は、いつか失望に変わる。彼は大学院を去ったとき、その変化の音を聞いた。自分の中で、誰かの中で、ゆっくりと。
「今、何を?」春子が聞いた。
由衣がカップを置いた。
「聞かない方がいいです」
「スカラベとスカトロの語源的関係について」智也は言った。
春子は一秒だけ黙り、それから声を出して笑った。嘲笑ではなかった。腹の底から空気が抜けるような、身体に正直な笑いだった。由衣も笑った。隣の老人も、新聞の陰でたぶん笑った。
智也は恥ずかしかった。しかし、その恥は悪くなかった。人前で転んだときの恥ではなく、重い荷物を少しだけ下ろしたときの恥に近かった。
「いいじゃない」春子は言った。「人間、出るものからは逃げられないもの」
出るもの。涙。汗。声。言葉。怒り。血。便。秘密。愛情。どれも身体の中に閉じ込めておけない。閉じ込めようとすれば腐る。智也は白湯を飲んだ。何の味もしないはずなのに、喉を通る熱だけが妙にはっきりしていた。
由衣は窓辺のスカラベを撮った。シャッター音が小さく鳴った。
「写真、使っていい?」智也は聞いた。
「何に?」
「研究ノート」
「私を置いていかないなら」
智也は頷いた。頷いたあとで、自分がその約束を守れるのか不安になった。彼は約束を破る人間ではないと思っていた。だが、約束を破る人間の多くも、たぶん自分をそうは思っていない。
青井律に連絡したのは、その日の夜だった。
律は大学院時代の同期で、いまは非常勤講師をしながら、クィア心理学とマイノリティ・ストレスの研究を続けていた。智也の中で、律はいつも少し未来の人だった。自分より先に傷つき、自分より先に怒り、自分より先に諦めずにいる人。律はノンバイナリーであることを公言していたが、そのことを智也はどう扱えばいいのか、いまだに慎重になりすぎることがあった。慎重さは敬意にもなるし、壁にもなる。智也はしばしば、その二つを取り違えた。
メールではなく、メッセージを送った。件名をつけると論文になるからだ。
「変な相談がある。スカラベとスカトロ、排出表象、性的マイノリティ心理学の接続可能性について話を聞きたい」
送信してから、彼は自分の文面を読み返し、頭を抱えた。変な相談がある、で始めたのに、結局すべてを言っている。由衣はソファで写真の整理をしていた。
「律さんに送ったの?」
「送った」
「なんて?」
智也が読み上げると、由衣はしばらく無言だった。
「友だちって、ありがたいね」
「まだ返事はない」
「返事が来たら、さらにありがたいね」
十分ほどして、律から返信が来た。
「まず結論。性的マイノリティとスカトロを雑に結びつけたら怒る。そこを分けるなら話す。あと、なぜそのテーマに妻が出てくるのか、説明が必要」
智也は画面を由衣に見せた。
「正しい」由衣は言った。
「うん」
「怒られる前提で会いに行きな」
「怒られるのは苦手だ」
「怒られるうちが花だよ」
その言い方は古かったが、由衣が言うと不思議と古びなかった。智也は律に、会って話したい、と返した。場所はカラフェがいい、と由衣が言った。律は「変なテーマには変な場所が必要」と返してきた。
翌週、三人はカラフェの奥の席に座った。律は黒いシャツに薄いグレーのジャケットを羽織り、短く切った髪を耳にかけていた。昔から、律は無駄な装飾をしない人だった。けれど、何も飾っていないわけではない。自分の輪郭を他人に勝手に描かせないための、静かな防衛が服装にも声にもあった。
「久しぶり」律は言った。
「久しぶり」智也は言った。
「で、便の話?」
由衣が笑った。智也は水を飲んだ。
「便の話から始まるけど、便の話だけではない」
「そう言う人ほど、たいてい便の話をしてる」
「否定できない」
律はノートを開いた。表紙には何も書かれていなかった。
「まず線を引こう。スカトロジーは排泄物に関する言説や表象を含む。性的文脈で使われることもある。でも、性的マイノリティは性的指向や性自認の問題であって、特定の性嗜好やキンクと同一ではない。ここを混ぜた瞬間、研究ではなく偏見になる」
「分かってる」
「分かってる人は、最初のメッセージにその断りを書く」
智也は黙った。律の声は穏やかだったが、逃げ道を塞ぐ力があった。
由衣が口を開いた。
「私、そこがちょっと怖かった。自分の体の話が、いつの間にか誰かを傷つける話になるのが」
律は由衣を見た。その視線には、相手の言葉を奪わないための間があった。
「怖いと思うのは健全です。身体の話は、すぐに他人の身体を巻き込みますから」
智也はその言葉をノートに書こうとして、やめた。書くとまた、律の言葉を所有してしまう気がした。
律は続けた。
「でも、接続自体はできる。排泄は、境界の問題だから。内と外、清潔と不潔、見せるものと隠すもの、正常と異常。性的マイノリティの心理学でも、社会が何を隠させるか、何を恥じさせるかは大きな問題になる。ただし、接続するのは差別や恥の構造であって、欲望の内容ではない」
智也は心の中で、今の一文を何度も繰り返した。接続するのは構造であって、内容ではない。彼の研究は、そこを間違えれば終わる。彼自身も、たぶんそこを間違える人間だった。
彼は昔から、似ているものを同じだと思いたがった。父が黙ると怒っているのだと思った。母が笑うと許しているのだと思った。由衣が元気そうにしていると、もう大丈夫なのだと思った。律が静かに話すと、傷ついていないのだと思った。似ている。だから同じ。世界をそうやって縮めて、自分が扱える大きさにしてきた。
「語源は?」律が聞いた。
「同根とは言えない。スカトロはギリシャ語の糞に由来する系統。スカラベは甲虫、あるいは外来語的な系統で、直接の語源的接続は確認できない」
「なら、そこは棄却で」
「棄却する」
「棄却した上で、なぜ研究するの?」
智也は答えに詰まった。語源が同じなら、話は簡単だった。発見があり、主張があり、論文になる。だが同根ではない。では何が残るのか。似ていると思った自分の欲望だけが残る。その欲望を研究対象にする勇気があるか。
由衣が抹茶ラテを飲んでいた。唇の端に泡が少しつき、彼女は指で拭った。その何気ない動作を、智也は美しいと思った。美しいと思った瞬間、恥ずかしくなった。妻の身体を美しいと思うことすら、彼はどこかで観察にしてしまう。
「たぶん」智也は言った。「僕は、汚いとされるものが、どうして再生や祈りに変わるのかを知りたい」
「それなら、自分が何を汚いと思ってきたのかも書くべきだね」律は言った。
その言葉は、春子が置いた白湯より熱かった。
智也が博士課程をやめた理由は、経済的なものでも、家庭の事情でも、単純な能力不足でもなかった。いや、どれも少しずつ本当だった。だが本当の中心には、もっと情けないものがあった。彼は、自分の書いたものが誰かに読まれることに耐えられなかった。
院生のころ、智也は古代宗教における身体表象を研究していた。死体、ミイラ、腐敗、再生、供物、香油。人間が身体の終わりをどう飾り、どう否定し、どう神聖化するか。テーマは悪くなかった。資料も読んだ。語学もやった。発表もした。だが、研究室で原稿を読み上げるたび、彼は自分の内臓を机の上に並べているような気持ちになった。質問されると、答えるのではなく、切開されているように感じた。
鷲尾教授は厳しかった。厳しいが、公平だった。面白い、しかし雑だ。着眼点はよい、しかし資料への敬意が足りない。君は概念を急がせる。対象がまだ歩いているのに、結論だけ先に走らせる。鷲尾はそう言った。智也はそのたび、うなずいた。うなずきながら、心の中で何かが少しずつ閉じていった。
最後の発表の日、彼はスライドの三枚目で言葉が出なくなった。死者の身体をめぐる宗教的再編成について説明するはずだった。だが、画面に映したミイラの写真を見た瞬間、自分が死者を利用しているような気がした。研究とは利用なのか。理解とは暴力なのか。問いが頭の中で膨らみ、喉を塞いだ。沈黙は数秒だったのか、数分だったのか分からない。鷲尾が「今日はここまでにしよう」と言った。その声は優しかった。優しかったから、智也は終わったと思った。
それから彼は大学を去り、編集プロダクションで校正の仕事を始めた。他人の文章の誤字を直す仕事は、安心だった。自分の思想を出さなくていい。誰かの主張の句読点だけを整えればいい。正しさは小さく、責任も小さい。生活は穏やかだった。穏やかすぎて、ときどき息がしにくかった。
由衣と結婚したのは、そのころだった。由衣は智也の失敗を大げさに慰めなかった。ただ、食器棚の位置を一緒に決め、カーテンの色で少し揉め、夜中にコンビニでアイスを買った。智也はその普通さに救われた。だが救われた人間は、救ってくれた相手に何を返せばいいのか分からなくなる。彼は由衣に感謝していた。感謝していたが、感謝を言葉にすると、借金の額を読み上げるような気がして言えなかった。
今回の研究めいたものが彼を興奮させたのは、テーマが奇妙だからではない。失敗した場所に、もう一度戻れる気がしたからだ。スカラベ。糞。再生。身体。恥。古代宗教。すべてがかつての研究と遠くでつながっている。彼はそのつながりを感じた瞬間、年齢を忘れた。四十二歳の男が、二十代の院生のように夜更かしして文献を探す。滑稽だった。だが、滑稽であることは、必ずしも間違いではなかった。
問題は、彼がまた一人で走り始めたことだった。
由衣は最初、笑って見ていた。智也が古代エジプトの神ケプリについて調べ、スカラベの印章の画像を集め、ギリシャ語辞典を開き、スカトロジーの語源を確認する姿を、呆れながらもどこか嬉しそうに見ていた。彼女は夫が何かに夢中になる顔を知っていた。その顔は、生活の中ではあまり見られなかった。レジ袋を畳むときや、公共料金を払うときや、冷蔵庫の奥でしなびた小松菜を見つけるとき、智也はいつも少し遠くにいた。だが調べものをしているときだけ、彼は世界の真ん中に戻ってくる。
由衣はその顔が好きだった。好きだからこそ、怖かった。智也が世界の真ん中に戻るとき、彼女はしばしば外側に置かれた。彼は感謝を言うために研究を始めたはずなのに、気づけば妻の不調も、抹茶ラテも、カラフェの空気も、すべて「素材」になっていた。
ある夜、由衣は風呂上がりに腹をさすりながら、寝室に入ってきた。智也は机に向かい、「排出表象における境界侵犯と再聖化」という見出しを打っていた。
「ねえ」
「うん」
「今日、ちょっとしんどい」
「お腹?」
「うん」
「水分は?」
「飲んだ」
「食物繊維は?」
「そういうのじゃなくて」
智也は振り返った。由衣はベッドの端に座っていた。髪が濡れて、肩にタオルをかけている。顔色は悪くない。だが、悪くないという判断がすでに間違っているのかもしれなかった。
「どうしてほしい?」
智也はできるだけ優しく聞いたつもりだった。由衣は少し笑った。
「その聞き方、仕事みたい」
「ごめん」
「ただ、隣にいてほしい」
智也はノートパソコンを閉じた。閉じるまでに一秒遅れた。その一秒を、由衣は見ていた。見ていないふりをした。夫婦は、相手の小さな遅れを見逃すふりで成り立っているところがある。見逃すふりを積み重ねると優しさになることもあるし、沈黙の負債になることもある。
智也はベッドに座り、由衣の背中に手を置いた。薄いパジャマ越しに体温が伝わる。人の体は、思っているより温かい。彼はその当たり前のことに、いつも驚く。文献の中の身体は冷えている。古代の身体、神話の身体、分類された身体、診断された身体。それらは言葉の中で整っている。しかし、目の前の妻の身体は整っていない。張り、痛み、安心、恥、苛立ち、信頼が、同じ皮膚の下で混ざっている。
「研究、やめた方がいい?」智也は聞いた。
由衣はしばらく黙っていた。
「やめなくていい」
「でも」
「やめるかどうかじゃなくて、私の話を私の外で完成させないで」
智也はその言葉を聞き、何か言おうとした。謝罪、説明、約束。候補はいくつもあった。だが、どれも少し違った。彼はただ、由衣の背中をさすった。由衣は目を閉じた。
その夜、智也は久しぶりに夢を見た。自分が巨大な図書館の中で、糞球を転がしている夢だった。糞球は重く、通路の角で何度も棚にぶつかった。棚から本が落ちる。落ちた本のページには、由衣の写真が貼られていた。拾おうとすると、写真の中の由衣がこちらを見て、「それは私のもの」と言った。目が覚めると、隣で由衣が眠っていた。智也は暗闇の中で、小さく「ごめん」と言った。由衣は眠ったまま、少しだけ寝返りを打った。
三谷圭という編集者が現れたのは、智也が研究ノートを五万字ほど書いたころだった。三谷は二十九歳で、いつも少し急いでいるような歩き方をした。出版社の文芸企画部にいるが、実際には文芸と実用書とウェブ記事と炎上の境界を軽々とまたいで生きている。智也の勤務先に外注案件を持ち込むことがあり、その縁で顔見知りだった。
ある日、三谷は打ち合わせのあと、智也の机に置かれた資料を見つけた。そこには「スカラベとスカトロジーをめぐる比較記号論的試論」と仮題が書かれていた。
「佐伯さん、これ何ですか」
「個人的な調べものです」
「めちゃくちゃ面白いじゃないですか」
「面白いと言うとき、君はたいてい危険な顔をしている」
「便と神と性の話ですよ。売れます」
「売る話ではない」
「でも読まれない研究って、存在してないのと同じじゃないですか」
智也はその言葉に反応しそうになった。読まれない研究。存在していない。彼が最も聞きたくなく、同時にどこかで信じている言葉だった。三谷は人の弱いところを正確に突く。たぶん計算ではない。計算ではないから、余計にたちが悪い。
「まだ仮説段階です。語源的同根説は棄却方向。主題はむしろ、糞便表象が身体の境界と再生の想像力にどう関わるかで」
「タイトル、難しいですね」
「簡単にする必要はない」
「いや、入口は簡単な方がいいですよ。たとえば、『妻の便秘から始まったスカラベ論』とか」
智也は顔をしかめた。
「妻を入口にしないでください」
「でも実際、入口なんですよね?」
入口。由衣は入口ではない。そう言いたかった。だが、研究ノートの最初のページには、たしかに由衣の抹茶ラテの写真が貼ってある。妻に感謝、という言葉もある。智也は自分の中の矛盾を見つけ、黙った。
三谷はその沈黙を、商業的な同意と誤解した。
「一回、企画書にしてみません? 文芸誌の特集とか、ウェブ連載とか。今、身体性とかケアとかクィアとか、全部関心高いですし」
「雑に並べないでください」
「雑に見せて、ちゃんと読ませるんです」
「逆です。ちゃんと見せて、ちゃんと読ませる」
「それだと読まれません」
読まれない。存在していない。智也はまたその言葉を聞いた。三谷が去ったあとも、机の上には彼の声が残った。若い編集者の軽薄さを軽蔑することは簡単だった。だが、その軽薄さの中に、自分が失ったものが少しあることも分かっていた。外へ出す力。恥を市場に投げる力。傷つく前に笑わせる力。
数日後、事態は智也の知らない場所で転がり始めた。三谷が社内の企画会議で、智也の研究ノートをもとにした案を口頭で紹介した。そこにいた誰かが面白がり、さらに別の誰かが断片をSNSに書いた。「性的マイノリティとスカトロ趣味を古代エジプトから読み解くヤバい論文企画があるらしい」。その一文は、火種としては十分すぎた。
最初に気づいたのは律だった。
「これ、あなたの件?」
メッセージとともに送られてきたスクリーンショットを見て、智也は胃が冷えた。文章は短い。短いからこそ悪い。短い言葉は、文脈を殺して走る。そこには、律が最初に引いた線がすべて消えていた。性的マイノリティとキンクの混同。研究ではなく偏見。智也が最も避けるべきだった誤読が、最も安い形で流通していた。
由衣はスマートフォンを見て、顔色を変えた。
「私のことも書かれてる」
別の投稿には、「妻の便秘をきっかけにした研究らしい」とあった。匿名の笑いがいくつもぶら下がっていた。妻かわいそう。キモい。こういう男いる。学問のふりした変態。性的少数者を巻き込むな。便秘ラテ飲んでろ。
智也は画面を閉じた。閉じても、読んだ言葉は消えなかった。言葉は排出物に似ている、と彼は思った。一度外に出ると、もう体内には戻せない。誰かが踏む。誰かが拾う。誰かが投げる。誰かが肥料にする。自分が出したものではない言葉まで、自分の匂いを帯びて戻ってくる。
「ごめん」智也は言った。
由衣は答えなかった。
「三谷さんに確認する。僕はそんな企画を」
「そういうことじゃない」
由衣の声は低かった。怒鳴らない怒りは、部屋の温度を下げる。
「私、あなたに話したんだよ。お腹のこと。恥ずかしいけど、あなたには言えると思って話した。それが、知らない人たちの笑いものになるの、きつい」
「僕が書いたわけじゃない」
言った瞬間、智也は自分の言葉を殴りたくなった。由衣の顔が少しだけ閉じた。扉が音もなく閉まるように。
「そうだね」
「違う、今のは」
「書いたわけじゃない。漏らしたわけじゃない。悪意はなかった。そういう話、もういい」
由衣は寝室へ行った。ドアは閉めなかった。閉めないことが、かえって智也にはこたえた。完全に拒絶されたわけではない。だからこそ、どうすればいいのか分からない。
彼は三谷に電話をかけた。三谷はすぐに出た。
「佐伯さん、すみません。ちょっと誤解が」
「誤解ではなく、漏洩です」
「社内の雑談レベルで」
「雑談で人を傷つけることはあります」
「はい。本当にすみません。ただ、僕もまさか外に出るとは」
まさか。智也はその言葉を聞きながら、自分も同じ種類の人間だと思った。まさか妻が傷つくとは。まさか律が怒るとは。まさか文脈が消えるとは。まさか。まさかは、想像しなかった人間の免罪符ではない。
「企画はなしです」智也は言った。
「もちろんです。ただ、火消しを」
「火消しは僕がします」
電話を切ると、律から新しいメッセージが来ていた。
「明日、話せる?」
怒っているのだろう。怒っていて当然だった。智也は「話したい」と返した。返してから、手が震えていることに気づいた。彼は誰かに怒られることを恐れているのではなかった。誰かの怒りが正当であることを、恐れていた。
翌日のカラフェは雨だった。窓ガラスに水滴が流れ、店内の音はいつもより柔らかかった。雨の日のカフェには、世界から一時的に退避した人たちの気配がある。濡れた傘、湿った靴下、低い声。春子は智也を見ると、何も聞かずに白湯を出した。
律はすでに奥の席にいた。由衣は来なかった。来られない、とだけ言った。智也はそれを責める権利がない。
「まず」智也は座るなり言った。「ごめん」
律は頷いた。
「謝罪は受け取る。でも、それで終わりにはしない」
「分かってる」
「今回の問題は、誰かが誤解したことだけじゃない。誤解されやすい構造を、あなたが最初に作ったことでもある」
智也は反論しなかった。反論できる部分はあった。自分は混同を避けようとしていた。語源的同根説も棄却していた。律の助言も受けていた。だが、それでも、外から見れば危ういテーマだった。危ういテーマを扱うなら、危うさが伝わらないようにする責任ではなく、危うさを正確に扱う責任がある。
「私はね」律は言った。「こういう炎上そのものに慣れてる。慣れたくなかったけど、慣れた。クィアな身体や欲望は、いつも誰かに説明される。病理化されたり、商品化されたり、面白がられたり、守るふりで黙らされたりする。だから、またか、と思う。でも、またか、で済ませるたびに少しずつ疲れる」
律の声は落ち着いていた。その落ち着きが、疲労の深さを示していた。
智也は、自分が律のことを何も知らないと感じた。大学院で同じ机を囲み、同じ教授に叱られ、同じ学食でカレーを食べた。それでも知らない。律がどれだけの言葉を飲み込み、どれだけの場で説明を求められ、どれだけの笑いに耐えてきたのか。知らないまま、友人だと思っていた。
「律」
「うん」
「僕は、自分が差別的ではないと思っていた」
「多くの差別は、差別的ではないと思っている人がする」
「そうだね」
「でも、あなたが悪人だと言いたいわけじゃない。悪人じゃなくても人は傷つける。むしろ悪人じゃない人の方が、自分のしたことを見つめるのに時間がかかる」
雨の音が強くなった。春子がカウンターでカップを拭いている。店内の他の客は、二人の会話を聞いていないふりをしていた。聞いていないふりの優しさが、ここにもあった。
「研究をやめるべきかな」智也は言った。
律は首を横に振った。
「それは、逃げ方として楽すぎる」
「楽ではない」
「楽だよ。やめれば、自分は反省した気になれる。傷つけた人の前からテーマを消して、自分の痛みだけを抱えればいい。でも、消されたテーマの周りには、まだ傷ついた人がいる」
「どうすればいい」
「書き直す。中心を変える。あなたの発見ではなく、あなたの誤読可能性を含めて書く。妻の身体を入口ではなく、あなたが入口にしてしまった事実を書く。性的マイノリティを欲望の珍しさとしてではなく、社会が恥をどう配分するかの問題として扱う。あと、カフェの名前は出さない」
「抹茶ラテは?」
「抹茶ラテは、象徴としては残せる。でも効能としては書かない」
智也は少し笑った。律も少しだけ笑った。
「笑えるところが残っていてよかった」律は言った。
「笑っていいのか分からない」
「笑いは、許可制じゃない。ただ、誰を踏んで笑っているかは見た方がいい」
その言葉は、智也の中に深く沈んだ。笑いは軽いものではなかった。笑いは、重いものを持ち上げる力でもあり、誰かの上に重さを置く力でもある。
帰り際、春子が智也に小さな紙袋を渡した。
「由衣さんに」
中には焼き菓子が二つ入っていた。
「ありがとうございます」
「謝るとき、甘いものだけでは足りないけどね」
「はい」
「でも、何も持たずに行くよりはいい」
春子は笑った。智也は紙袋を持って店を出た。雨はまだ降っていた。傘を差すと、世界が薄い膜で隔てられた。彼はその膜の下を歩きながら、何度も言葉を考えた。由衣に何を言うべきか。ごめん。傷つけた。君の話を僕のものにした。研究を言い訳にした。ありがとうを言うために、ありがとうから逃げた。
どれも正しい。正しいが、足りない。正しい言葉だけでは、人は戻ってこない。
由衣は家にいた。リビングの床に写真を広げ、黙って選別していた。カラフェの窓、抹茶ラテ、スカラベの置物、商店街の雨、智也の横顔。智也は自分の写真を見て、嫌な気持ちになった。写真の中の自分は、思っていたより寂しそうだった。人は自分の顔を、鏡より写真で知らされることがある。鏡の前では表情を作る。写真には、作る前の顔が残る。
「ただいま」
「おかえり」
会話は普通だった。普通だから怖かった。怒りのあとに来る普通は、雪のように音を吸う。
「春子さんから」
智也は紙袋を差し出した。由衣は中を見て、「あとで食べる」と言った。
智也は床に座った。写真の一枚に、由衣の手が写っていた。カップを持つ手。爪は短く、指先に少し荒れがある。彼はその手を何度も見てきた。米を研ぐ手。カメラを構える手。腹をさする手。夜中に布団を引き上げる手。怒ってテーブルを叩きかけて、叩かずに止める手。
「由衣」
「うん」
「ごめん」
「うん」
「僕は、君の体の話を、僕の研究の入口にした」
由衣は写真から目を離さなかった。
「うん」
「ありがとうと言いたかったのに、ありがとうを論文にした。感謝を、そのまま言うのが怖かった」
由衣の手が止まった。
「なんで怖いの」
智也はすぐには答えられなかった。なぜ怖いのか。感謝はいい言葉のはずだ。だが彼にとって感謝は、相手に自分の不足を認めることだった。あなたがいなければ困る。あなたに助けられている。あなたに返せていない。あなたを失うのが怖い。それらを全部含んだ言葉が、ありがとうだった。短すぎるから、怖かった。
「感謝すると、自分が弱いことがばれる気がする」
「ばれてるよ」
由衣は即答した。智也は少し笑った。由衣も、ほんの少し口元を動かした。
「ばれてるなら、言えばよかった」
「そうだよ」
「ごめん」
「謝罪は受け取る。でも、私はまだ怒ってる」
「うん」
「私の便秘の話が知らない人に笑われたことも嫌だった。でも、それ以上に嫌だったのは、あなたが最初に『僕が書いたわけじゃない』って言ったこと」
「最低だった」
「最低というか、寂しかった」
最低より寂しいの方が、智也にはこたえた。最低なら自分を罰すれば済む。寂しいは、相手の中にできた空洞だ。その空洞を、こちらの反省だけでは埋められない。
由衣は写真を一枚取り上げた。そこには、カラフェのトイレのドアが写っていた。古い木のドア。小さな真鍮の鍵。花瓶の影。
「この写真、好きなんだ」
「トイレのドア?」
「うん。トイレって、一人になる場所でしょ。でも、外に誰かが待ってることもある。恥ずかしい場所だけど、安心する場所でもある」
智也は写真を見た。ドアは閉まっている。閉まっているから、中にいる人は守られている。閉まっているから、外にいる人は待つしかない。
「夫婦も、そうかも」由衣は言った。
「ドア?」
「入れない場所がある。開けてほしいときもある。でも、勝手に開けられたら嫌」
智也は頷いた。自分は何度も、由衣のドアを研究という鍵で開けようとしたのかもしれない。
「由衣」
「何」
「写真、使わせてほしい。でも、君が嫌なら使わない。使うなら、君の言葉も一緒に置きたい」
「私の言葉?」
「うん」
「じゃあ、こう書いて」
由衣は少し考えた。
「これは便秘の写真ではない。私が、自分の身体を少し嫌いじゃなくなった日の写真である」
智也は息を止めた。由衣の言葉は、彼のどんな理論よりも正確だった。
「書いていい?」
「いい。でも、私の言葉として」
「分かった」
その夜、二人は春子の焼き菓子を食べた。甘すぎず、少し硬かった。由衣は半分残し、明日の朝に食べると言った。智也は食べ終わった包み紙を、すぐに捨てずにしばらく見ていた。捨てることと失うことは違う。残すことと大切にすることも違う。彼はようやく、その区別を少し学び始めていた。
智也は研究ノートのタイトルを変えた。
「スカラベとスカトロジーをめぐる比較記号論的試論」から、「恥の置き場所」にした。学術論文としては弱い。だが、いまの彼には正直だった。副題として、「排出、再生、境界、そして語源的誤認の倫理」と付けた。副題が長い、と由衣は笑った。智也は、そこは譲れない、と言った。二人は久しぶりに、同じところで笑った。
書き直しは苦しかった。最初の版では、彼は世界を説明しようとしていた。古代エジプトから現代心理学まで、一本の線でつなごうとしていた。だが、律に指摘された通り、その線はときに乱暴だった。線を引くことは、つながっていないものを踏み越えることでもある。彼は何度も段落を削った。面白いが危ない比喩を消した。言い切りを弱めた。弱めることは逃げではないと、自分に言い聞かせた。強い断定は、しばしば弱い根拠を隠す鎧になる。
語源の章では、スカトロジーとスカラベは同根ではないと明記した。似た音に引き寄せられたのは研究対象ではなく、研究者自身である、と書いた。その一文を書くのに、三十分かかった。自分の誤りを本文に入れるのは、衣服の裏地を表にして歩くような恥ずかしさがあった。しかし、その恥ずかしさこそが今回のテーマなのだと気づいたとき、彼は少し楽になった。
古代エジプトの章では、スカラベを「汚物を神聖化した例」と単純化しないように注意した。糞球を転がす虫が太陽や再生と結びつく。その飛躍は美しい。だが、美しい飛躍は、後世の者が勝手に作ることもある。彼は「そう見える」と「そうだった」を分けた。鷲尾の声が頭の中で、少しだけ黙った。
性的マイノリティ心理学の章では、律に何度も読んでもらった。律は赤字で容赦なく返してきた。「ここは欲望の内容に寄りすぎ」「ここはマイノリティを象徴に使っている」「ここはよい。ただし事例が必要」「ここで自分の位置を書くべき」。智也は赤字を見るたび胃が痛くなったが、同時に、赤字があることに救われた。読まれている。否定されている。つまり、まだ続いている。
由衣は写真と言葉を選んだ。彼女は智也の原稿をすべて読むわけではなかった。読んでほしい、と智也は思ったが、無理に渡さなかった。由衣には由衣の距離がある。ある晩、由衣は一枚の写真を見せた。カラフェの窓に映る智也の背中だった。背中の向こうに、スカラベの置物がぼんやり写っている。
「これ、最後に使ったら?」
「僕の背中?」
「うん。顔じゃない方がいい。顔だと、あなたが分かりすぎる」
「背中なら?」
「分からなさが残る」
分からなさが残る。智也はその言葉が気に入った。研究は分かるためにするものだと思っていた。だが、分からなさを正しく残すことも、研究の仕事かもしれない。夫婦も、友人も、身体も、古代も、欲望も、すべて分かりきることはない。分かったふりをしないことが、尊重の始まりになる。
書き直した原稿を鷲尾に送るまで、智也は三日迷った。メールの下書きを作り、消し、また作った。件名は「ご無沙汰しております」では弱い気がした。「研究ノートのご相談」は厚かましい気がした。最終的に、「未完の原稿について」とした。本文には、博士課程を離れてからのこと、今回の経緯、炎上、書き直し、指導を請う資格が自分にあるのか分からないことを書いた。
送信ボタンを押したあと、智也はしばらく椅子から立てなかった。送ってしまった。出してしまった。言葉はもう戻らない。排出されたものは、世界の側に属する。
返事は翌朝来た。
「読みます。面白いが、おそらくまだ雑でしょう。日時を決めましょう」
智也はそのメールを何度も読んだ。面白いが、おそらくまだ雑でしょう。十年前と同じだった。同じであることが、こんなにありがたいとは思わなかった。
鷲尾啓介は、大学の研究室ではなく、上野の喫茶店を指定した。店内は古く、椅子の背もたれが低く、コーヒーは濃かった。鷲尾は六十四歳になっていたが、智也の記憶より小さく見えた。人は老いると小さくなるのではなく、こちらの恐怖が少し縮むのかもしれない。
「久しぶりです」智也は言った。
「十年は久しぶりのうちに入るね」
鷲尾は原稿を紙に印刷して持ってきていた。赤い付箋がいくつも貼られている。智也の胃が反射的に縮んだ。
「まず」鷲尾は言った。「面白い」
智也は息を止めた。
「そして、雑だ」
息を吐いた。予想通りだった。予想通りでも、痛みは減らない。
「雑なところは三つ。一つ、古代エジプトの宗教表象を現代の心理概念へ接続する際の中間項が足りない。二つ、語源的誤認を研究者の欲望として扱う視点はよいが、自己批評がまだ自己弁護に寄っている。三つ、妻の写真と言葉が強すぎて、本文が負けている」
「本文が負けている」
「そう。君の理論より、奥さんの一文の方が深い」
智也は笑うべきか傷つくべきか迷った。たぶん両方だった。
「昔から、君は大きな橋を架けたがる。橋を架けることは悪くない。ただ、橋脚を置かない。だから読者は途中で落ちる」
「橋脚」
「歴史的媒介、社会的制度、言説の変遷、個別事例。そういうものだ。スカラベから現代の恥へ飛ぶな。糞便表象が宗教、医学、衛生、道徳、性の言説の中でどう配置され直したのか。その段階を見せなさい」
智也はノートを取った。鷲尾の言葉は厳しいが、方向がある。方向のある厳しさは、痛くても歩ける。
「ただし」鷲尾はコーヒーを飲んだ。「今回の原稿には、昔の君になかったものがある」
「何でしょうか」
「恥だ」
智也は顔を上げた。
「昔の君は、恥を対象にしていた。今の君は、自分の恥を少しだけ本文に入れている。研究者が自分を出しすぎるのは危険だが、完全に消えることもまた嘘だ。今回は、その嘘が少し薄くなっている」
智也は言葉を失った。褒められたのかどうか分からない。だが、何かを見てもらえた気がした。
「博士論文にしたいのか」鷲尾が聞いた。
「分かりません」
「分からないなら、まだ言うな。博士論文という言葉は、人を酔わせる。まず、書き物として完成させなさい。妻に読ませる。律さんに読ませる。カフェの店主にも、必要なら読ませる。対象にした人々に、読まれることから逃げるな」
読まれることから逃げるな。その言葉は、十年前の発表室へまっすぐ戻っていった。智也はあの日、読まれることから逃げた。質問されることから逃げた。死者を利用することが怖いと言いながら、本当は自分が傷つくのを怖がっていたのかもしれない。
「先生」
「何」
「僕は、研究者に戻れますか」
鷲尾はすぐには答えなかった。窓の外を見て、通り過ぎる人の傘を目で追った。
「戻る場所だと思っているうちは、戻れない」
「どういう意味ですか」
「研究は身分ではない。行為だ。書き、読み、疑い、直し、他人に差し出す。その行為をしているなら、君はすでに研究している。肩書きが戻るかどうかは、別の話だ」
智也はその言葉を、胸の奥で受け止めた。救いのようで、責任のようでもあった。肩書きのせいにできない。大学にいないから研究できない、博士課程を去ったから終わった、そういう言い訳が静かに剥がれていく。
喫茶店を出ると、雨は止んでいた。歩道の端に小さな黒い虫がいた。甲虫かどうかも分からない。智也は立ち止まり、踏まないように足を避けた。鷲尾が横で言った。
「虫を見ている暇があるなら、文献を読みなさい」
昔なら、その言葉に縮こまっただろう。今は少し笑えた。
「はい」
智也は虫を見送った。虫は何も転がしていなかった。ただ、濡れたアスファルトをゆっくり歩いていた。
春子には、原稿を渡すのが一番難しかった。
律は研究者だから読める。鷲尾は指導者だから読む。由衣は当事者だから読む権利がある。だが春子は、カフェの店主だ。彼女の店が物語の場所になり、彼女の置物が象徴になり、彼女の白湯が何度も智也を救った。だからこそ、読んでもらうべきなのか、それとも巻き込まないべきなのか、智也には分からなかった。
由衣は言った。
「春子さんは、たぶん読まなくても分かる人だよ」
「じゃあ渡さない方がいい?」
「それを決めるのは春子さんじゃない?」
正しい。智也はいつも、相手を守るふりをして、相手の選択を先取りしようとする。渡すかどうかではなく、読むかどうかを春子が選べるようにする。それが筋だった。
カラフェの閉店間際、智也は封筒を持って店に行った。店内には客が一人だけいて、窓辺で本を読んでいた。春子はカウンターで明日の仕込みをしていた。
「これ」智也は封筒を出した。「原稿です。店のことも、少し出てきます。無理に読まなくていいです。ただ、読まないという選択も含めて、春子さんに渡すべきだと思いました」
春子は手を拭き、封筒を受け取った。
「ありがとう」
「こちらこそ、すみません」
「謝るのは、読んでからにするわ」
春子は封筒をカウンターの下に置いた。
「智也くんは、何をそんなに怖がっているの?」
突然の質問だった。智也は答えに詰まった。
「怖がって見えますか」
「見える」
「読まれることです」
「読まれたいのに?」
「はい」
春子は小さく頷いた。
「人の身体も、文章も、似ているところがあるわね。出さないと苦しい。でも出すと、誰かに見られる」
智也は思わず笑った。
「本当に元看護師なんですね」
「何それ」
「いえ。すみません」
春子は棚から小さな青緑のスカラベを取り、カウンターに置いた。
「これね、エジプトに行った患者さんからもらったの」
「患者さん」
「看護師をしていたころ、長く入退院を繰り返していた人。病気のことは言えないけど、身体が自分の思うようにならない人だった。いつもトイレのことを気にしていてね。外出も怖がっていた。でも、退院してしばらくしてから、旅行に行ったの。帰ってきて、これをくれた。『汚いと思っていたものが、向こうでは太陽を運んでいた』って笑ってた」
春子はスカラベの背中を指で撫でた。
「その人はもういないけど、これを見ると、身体って不自由で、恥ずかしくて、でも最後までその人のものなんだなと思う」
智也は黙って聞いた。春子の話は、どの文献よりも静かに重かった。彼女は患者を症例にしない。思い出を美談にしない。ただ、そこにいた人の重さを、手のひらに乗る虫の形で保っている。
「原稿に、この話を書いてもいいですか」
「だめ」春子は即答した。
智也は背筋を伸ばした。
「はい」
「まだ、だめ。あなたが書きたいと思ったうちは、だめ」
「どうなったら、いいんですか」
「書かなくても大事にできるようになったら、考える」
智也は頷いた。書くことは大事にする方法の一つだが、すべてではない。書かないことで守られるものもある。研究者にとって、それは敗北のように感じられる。だが、人間にとっては必要な沈黙だった。
帰り際、春子は言った。
「由衣さんに、今度新しいラテを試してもらいたいって伝えて」
「便通に効くやつですか」
春子はにっこり笑った。
「幸運に効くやつ」
智也は笑った。笑いながら、少し泣きそうになった。幸運。糞虫を幸運の虫と呼ぶこと。効能ではなく祈りとして飲み物を出すこと。彼にはまだ、そういう言葉の使い方が下手だった。
炎上は、数日で別の話題に移った。ネットの怒りは長く続くようでいて、実際には次の燃料を求めて移動する。残された灰を片づけるのは、いつも燃やされた側だ。三谷は正式に謝罪し、企画は消えた。社内で注意を受けたらしい。智也は三谷を許したわけではないが、三谷一人を悪役にする気にもなれなかった。軽薄さは個人の性格であると同時に、速さを価値にする場所の空気でもある。
三谷は一度、カラフェに来た。春子に頭を下げ、由衣にも謝った。由衣は「私に謝るなら、もう人の身体をネタの入口にしないでください」と言った。三谷は何度も頷いた。その頷きがどこまで届いたのか、智也には分からない。だが由衣はそれ以上責めなかった。責めることにも体力がいる。
律との関係は、以前より少し変わった。智也は律に気軽に「分かる」と言わなくなった。律も智也に遠慮なく「それは違う」と言うようになった。友情が深まった、という言い方は簡単すぎる。むしろ、二人の間には適切な段差ができた。段差があるから、相手の場所が見える。平らにしてしまうことだけが親密さではない。
由衣は写真展に向けて準備を始めた。タイトルは「閉じたドアの明るさ」。トイレのドア、カーテン、窓、カップ、手、背中。身体そのものはほとんど写っていない。それなのに、どの写真にも身体の気配があった。見えないからこそ、そこにある。智也はその写真群を見て、自分の原稿より先に、由衣の展示が完成していると思った。
「すごいね」彼は言った。
「語彙が少ない」由衣は言った。
「見えない身体が写ってる」
「それは使える」
「使っていいよ」
「あなたの言葉として?」
「君の展示に、僕の目線を載せるのは怖い」
「学習してる」
二人は笑った。
夜、智也は原稿の最終章を書いた。タイトルは「妻に感謝」だった。何度も変えようとしたが、結局そこに戻った。最初は照れ隠しの言葉だった。途中で、研究の口実になった。炎上の中で、妻を傷つける入口にもなった。だが、それでも捨てられなかった。言葉は汚れる。汚れた言葉を、洗って使い直すことはできるのか。彼はそれを試したかった。
最終章で、彼はこう書いた。
ありがとうという言葉は、短すぎるためにしばしば逃げ場になる。私は感謝を言う代わりに、感謝の構造を説明しようとした。妻の身体を、妻自身から少しだけ奪った。研究とは対象への接近であると同時に、対象を自分の言葉に置き換える暴力を含む。その暴力をなくすことはできないかもしれない。だが、暴力があることを忘れた瞬間、研究は最も粗雑になる。スカラベとスカトロジーは語源的には同根ではない。けれど、私がそれをつなげたいと思った事実は残る。その欲望は、汚いものを神聖にしたいという願いであると同時に、自分の恥を誰かに許してほしいという願いでもあった。
書きながら、智也は何度も手を止めた。自己批評は、書き方を間違えると自己陶酔になる。自分を裁く言葉に酔うこともできる。彼はそこから逃げるため、由衣の言葉を思い出した。私の話を私の外で完成させないで。完成させないこと。未完のまま差し出すこと。
原稿の最後に、由衣の写真と言葉を置いた。
これは便秘の写真ではない。私が、自分の身体を少し嫌いじゃなくなった日の写真である。
その下に、智也は一行だけ添えた。
妻に感謝。
それ以上は書かなかった。書きたくなったが、書かなかった。沈黙もまた、引用の形式になりうる。
発表の日、会場は大学の小さな講義室だった。公開研究会という名目で、聴衆は二十人ほど。鷲尾が声をかけた若手研究者、律の知人、三谷、春子、由衣。智也は壇上に立ち、手元の紙を見た。十年前、彼は発表の途中で声を失った。今日はどうだろう。喉は乾いている。手も震えている。だが、逃げたいとは思わなかった。逃げたい気持ちがないのではなく、逃げたい気持ちごと立っていられた。
「本日は、『恥の置き場所』という題で話します」
声は少し上ずった。由衣が客席の後ろで、静かに頷いた。律は腕を組んでいた。鷲尾は目を閉じて聞いている。寝ているのかもしれない。昔からそうだった。寝ているように見えて、あとで最も鋭い質問をする。
智也は、まず語源的同根説を棄却した。そこから始めることに意味があった。発見ではなく、誤認から始める。似ている音に引き寄せられた自分の欲望を認める。聴衆の何人かがメモを取った。
次に、スカラベの象徴について話した。糞球を転がす虫が、太陽や再生の象徴として読まれてきたこと。ただし、そこに現代人のロマンを過剰に投影しないこと。汚穢と神聖は単純な反転ではなく、文化の中で複雑に配置されること。
そして、排出を境界の問題として扱った。内と外、清潔と不潔、語れるものと語れないもの。人は排出する身体を持つ限り、完全に清潔な主体にはなれない。だからこそ、社会は排出を隠し、管理し、笑い、罰し、ときに祈りに変える。
性的マイノリティ心理学への接続では、律の言葉を引用した。接続するのは欲望の内容ではなく、恥を配分する社会構造である。智也はそう言い、客席の律を見た。律は小さく頷いた。それだけで十分だった。
最後に、由衣の写真を映した。カラフェの抹茶ラテ。泡の上に、偶然できた小さな影。会場に軽い笑いが起きた。笑いは、馬鹿にする笑いではなかった。緊張がほどける音だった。
「この写真は、妻の私的な身体感覚から始まりました。私はそれを研究の入口にし、結果として妻を傷つけました。ここで提示したいのは、妻の体験の一般化ではありません。むしろ、一般化しようとする私自身の欲望と、その危うさです」
智也は一度、息を吸った。
「私たちは、恥ずかしいものをどう扱うかで、他者との距離を決めているのかもしれません。隠すこと。笑うこと。研究すること。祈ること。黙ること。どれも間違いではない。ただ、誰の恥を、誰の言葉で、どこに置くのか。その問いを失ったとき、私たちは簡単に他人の身体を奪ってしまう」
最後のページをめくる。
「妻に感謝」
それだけ言って、智也は発表を終えた。
拍手は大きくなかった。だが、途切れなかった。智也は頭を下げた。頭を上げると、由衣が泣いていた。泣いていることを隠すために、カメラを構えていた。レンズの向こうから、彼女は夫を見ていた。智也は初めて、撮られることから逃げなかった。
質疑で、鷲尾はやはり厳しかった。
「中間項がまだ足りない。特に近代衛生思想と性の病理化の接続が薄い」
会場が少し笑った。智也も笑った。
「はい。次の課題です」
「ただし、十年前よりは聞ける」
それは鷲尾なりの最大級の賛辞だった。智也は頭を下げた。
律は質問ではなくコメントをした。
「この発表は、危ういテーマを安全にしたわけではないと思います。危ういまま扱うための手つきについての発表だった。その点に意味があると思いました」
智也は、その言葉を聞いて、胸の奥が少しほどけた。
三谷は質問しなかった。終了後、廊下で深く頭を下げた。智也は「次に企画にするときは、まず読んでください」と言った。三谷は「はい」と言った。軽さが完全に消えたわけではない。でも、少し重さを知った顔をしていた。
春子は「白湯が必要ね」と言った。智也は笑った。
「今日は抹茶ラテでもいいです」
「由衣さんに聞いてからね」
由衣はカメラを下ろし、智也の方へ歩いてきた。何か言うのかと思ったが、彼女はただ、彼のネクタイを少し直した。
「曲がってた」
「ありがとう」
「うん」
短い会話だった。だが智也には、それで十分だった。ありがとうを説明しない。受け取られたかどうかを追跡しない。ただ、置く。相手の前に、押しつけずに置く。
数週間後、由衣の写真展が始まった。
会場は小さなギャラリーで、白い壁に十数点の写真が並んだ。「閉じたドアの明るさ」。トイレのドア、カラフェの窓、抹茶ラテ、手、背中、雨上がりの歩道。直接的な説明はほとんどない。キャプションも短い。だが、見る人はそれぞれの身体のどこかで、何かを思い出しているようだった。
智也は受付の近くに立ち、来場者の反応を見ていた。自分の発表より緊張した。由衣の作品が見られることは、自分が見られることとは違う種類の怖さだった。守りたいものほど、外に出たときに無力になる。だが、外に出なければ届かない。
律が来た。花ではなく、小さなカードを持っていた。
「展示、おめでとうございます」
「ありがとうございます」由衣は言った。
律は写真を一枚ずつ丁寧に見た。トイレのドアの前で長く立ち止まった。
「この写真、好きです」
「私も」由衣は言った。
「閉じているのに、拒絶じゃない」
由衣は嬉しそうに笑った。
春子も来た。店を早く閉めてきたらしい。スカラベの置物は店に置いてきた、と言った。
「持ってきたら、主張が強すぎるでしょう」
「たしかに」智也は言った。
鷲尾も来た。展示を一周し、最後に由衣へ向かって言った。
「ご主人の原稿より、こちらの方が完成度が高い」
由衣は声を出して笑った。
「ありがとうございます」
「先生」智也は言った。「本人の前で」
「本人のために言っている」
智也は反論できなかった。
展示の最後には、あの抹茶ラテの写真があった。キャプションは、由衣の言葉そのままだった。
これは便秘の写真ではない。私が、自分の身体を少し嫌いじゃなくなった日の写真である。
その下に、小さく、智也の一行が添えられていた。
妻に感謝。
由衣が入れると言ったのだ。智也は驚いた。使わなくていい、と言った。由衣は「使いたいから使う」と言った。彼女の言葉は、いつも所有権をはっきりさせる。私が選ぶ。私が置く。私が写す。
来場者の一人が、そのキャプションを見て小さく笑い、少しして泣いた。智也はその人を知らない。なぜ泣いたのかも分からない。分からないままでよかった。作品は、作った人の手を離れる。離れた先で、誰かの閉じたドアの前にそっと置かれることがある。
展示が終わった夜、二人はカラフェに寄った。春子は特別に、閉店後の店を開けてくれた。カウンターに二つの抹茶ラテと一杯の白湯が並んだ。
「白湯は誰のですか」智也が聞いた。
「念のため」春子が言った。
由衣は笑い、抹茶ラテを飲んだ。智也も同じものを飲んだ。甘く、苦く、温かかった。身体の中に入っていくものは、いつか形を変えて外に出る。その当たり前の循環が、以前より少しだけ怖くなくなっていた。
「智也」由衣が言った。
「何?」
「博士論文、まだ出すの?」
「分からない」
「分からないって言えるようになったね」
「成長した」
「自分で言うと減点」
「厳しい」
由衣はカップを置いた。
「でも、書き続ければいいと思う」
「うん」
「私のことを書くなら、私に読ませて」
「必ず」
「私のことを書かないなら」
「それでも読ませる」
「よろしい」
春子がカウンターの向こうで笑った。窓の外には夜の商店街があり、シャッターの閉まった店が並んでいた。カラフェだけに灯りがついている。小さな灯り。世界を救うほどではない。けれど、誰かが帰る場所を間違えない程度には明るい。
智也は窓辺のスカラベを見た。青緑の背中が、店内の光を受けて鈍く光っていた。彼はもう、それを単なる糞虫とも、神聖な象徴とも呼ばなかった。どちらでもあるし、どちらでも足りない。虫は虫であり、置物は置物であり、思い出は思い出であり、意味はその周りを人間が勝手に転がすものだった。
帰り道、雨は降っていなかった。歩道の端に、小さな黒い虫がいた。以前見たものと同じかどうかは分からない。智也は立ち止まった。由衣も立ち止まった。
「スカラベ?」由衣が聞いた。
「たぶん違う」
「調べないの?」
「今はいい」
虫は何も転がしていなかった。ただ、街灯の下をゆっくり横切っていく。由衣はカメラを構えなかった。智也もスマートフォンを出さなかった。二人は虫が暗がりへ消えるまで、黙って見ていた。
その沈黙は、空白ではなかった。説明されなかったもの、撮られなかったもの、書かれなかったものが、そこに静かに置かれていた。智也は由衣の手を取った。由衣は少し驚いた顔をしたが、手を離さなかった。
「ありがとう」智也は言った。
「何に?」
智也は考えた。抹茶ラテに。写真に。怒ってくれたことに。待ってくれたことに。読んでくれたことに。読まないでいてくれたことに。自分の身体を、自分の言葉で守ってくれたことに。いくらでも言えた。言おうと思えば、また長い論文になる。
だから彼は、短く言った。
「全部に」
由衣は呆れたように笑った。
「雑」
「面白いが、雑?」
「そう」
「直します」
「少しずつね」
二人は歩き出した。夜の道は、昼間よりも境界が曖昧だった。きれいなものと汚いもの、言えることと言えないこと、夫と妻、研究と生活、笑いと祈り。そのどれもが、はっきり分かれているようで、足元では混ざっていた。
智也は思った。人は、自分の中にあるものをすべて清潔に保つことはできない。言葉も、身体も、記憶も、欲望も、生活も、いつか濁る。濁ったものをなかったことにするのではなく、誰のものかを確かめ、どこに置くかを考え、ときには笑い、ときには黙り、ときには誰かと一緒に運ぶ。それくらいのことしかできない。
それくらいのことが、たぶん再生なのだ。
背後で、カラフェの灯りが消えた。商店街は暗くなったが、完全な闇ではなかった。どこかの家の窓が光っていた。自動販売機が低く唸っていた。遠くで電車が走る音がした。世界は何も解決しないまま、しかし少しだけ通りやすくなっていた。
智也は由衣の手の温度を感じながら、歩いた。何も転がしていないつもりだったが、たぶん何かを転がしていた。恥か、感謝か、言葉か、生活か。そのどれでもあり、どれでも足りない小さな球を、二人でゆっくり、夜の先へ押していた。




