事件
これ以上は限界なのかもしれない。
女子生徒を宥めて帰したあと、セリアは静かにそう思った。
思っていたよりもずっと早いが、少し強引にでも踏み込まなければならないのかもしれない。
あの震えながら伸ばされた指先。
あの抑えきれない感情。
——もう「噂」で済ませていい段階ではない。
リリア嬢の姿を探して廊下を歩きながら、セリアは小さく息を吐いた。
(直接、話を聞こう)
そう決めて間もなく、窓際に佇むリリアの姿を見つけた。
ひとりで立っている。けれど静かに見えるだけで、どこか張り詰めた気配がある。
「リリー」
声をかけると、リリアの肩が小さく跳ねた。振り返った顔には、いつもの柔らかな笑み。
——けれど少しだけ遅れて作られたような笑みだった。
「セリア様……どうかなさいましたか?」
「少しだけ時間を貰えるかな」
やんわりとした声音で言えば、リリアは素直に頷いた。
中庭へ向かう人気のない回廊へ並んで歩く。
しばらく他愛ない会話を続けてから、セリアはふっと声を落とした。
「最近、少し周りが騒がしいだろう?」
リリアの足が止まりかけて、すぐに歩調を戻す。
「……そうですね」
「困っていることはない?」
問いは柔らかい。けれど逃がさない角度で投げられた。
リリアは一瞬だけ黙り込み、それから慌てたように首を振る。
「いいえ、何も。皆さん親切にしてくださいますし……私なんて、むしろ恵まれているくらいで……」
言葉が少し早い。
整いすぎている。
セリアは横目で彼女を見た。
「本当に?」
「はい。本当に。……大丈夫です」
にこりと笑う。完璧な笑顔。けれど。
その指先が、わずかに震えていた。
「……そうか」
セリアはそれ以上追及しなかった。ただ静かに微笑む。
「困ったことがあったら、いつでも言っておくれ」
「ありがとうございます、セリア様」
リリアは深く頭を下げ、そしてそのまま去っていく。
足早に。逃げるように。
その背を見送りながら、セリアは目を細めた。
(嘘だ)
理由は分からない。けれど確信だけが残った。
——その瞬間。
遠くから鋭い声が響いた。
「どうしてなんだよ!!」
セリアの視線が跳ねる。声は建物の裏手からだった。
荒い感情がむき出しの、聞き過ごせない響き。
セリアは即座に走り出した。周囲に人がいないのを確認し、階段を一段飛ばしで駆け下りる。
足音が石壁に反響する。
一階へ降りると、はっきりと揉める声が聞こえた。
外へ出る。
建物の影。
そこにいたのは——
リリアと男子生徒。
男子は肩で息をしながら、リリアを睨みつけていた。
追い詰められた表情。混乱。怒り。焦燥。悲しみ。
「どうしてなんだよ……!」
リリアは何も言えず、ただ立ち尽くしている。
止めに入るべきか迷った、その瞬間、男子の腕が振り上げられた。
セリアはそれを見て咄嗟に物陰から飛び出した。
「どんな理由があったとしても、令嬢に手を上げるのは見過ごせないかな」
男子生徒の腕を掴みそのまま後ろへ捻り上げる。
「う、あ……!」
抵抗はない。
代わりに嗚咽が漏れた。
「だって……なんで……」
涙がぼろぼろと落ちる。
セリアは短く息を吐いた。
(さて……これは本格的に面倒だな)
そう思った瞬間。
背後から聞き慣れた声が響いた。
「お前は一体何をやってるんだ」
振り返るれば、レオンハルト殿下と見知った顔の教師。
セリアは小さく笑った。
「殿下、ちょうど良いところに」
「ちょうど良くない。説明しろ」
眉間に深い皺。
セリアは男子を教師へ引き渡し、状況を簡潔に説明した。
その後、事情聴取は後日へ持ち越されることになり、男子とリリアは教師に連れられて去っていった。
静けさが戻る。
殿下がため息をついた。
「無茶するなって言っただろ」
「したつもりはないんですけど」
「無くてもだ。セリアはどれだけ格好良くても女なんだ。純粋な力じゃ——」
言い終わる前に、セリアは体を捻った。拘束を外し、殿下の膝裏を押す。不意を突かれた殿下が片膝をついた。
「残念でしたね! それじゃ私は捕まりませんよ!」
笑って駆け出す。
――耳が熱い。
それに気付かれなかったことを、セリアは少しだけ願った。
*
(レオンハルト殿下視点)
軽い足音が遠ざかっていく。石畳を蹴る乾いた音が、やけに長く耳に残った。レオンハルトはそれを聞きながら、自分の右手をじっと見つめた。さっきまでそこにあった感触を、確かめるようにゆっくりと指を動かす。
いつも見ているはずの相手だ。
隣に立つことも、エスコートで手を重ねることもある。触れる機会など珍しくもない。
……それなのに。
思っていたよりも、ずっと細かった。
折れてしまいそうなほど頼りない、というわけではない。けれど、あの瞬間に感じた軽さとしなやかさが、妙に指先に残って離れなかった。
はぁー、と息を吐く。
肺の奥に溜まっていた何かを吐き出すように、ゆっくりと。
「……少しからかいすぎたか?」
誰に聞かせるでもなく呟く。
返事などあるはずもないのに、なぜか言葉にしないと落ち着かなかった。
押された勢いで地面に着いた膝が、じんわりと痛む。衣服についた砂を払おうとして、ふと苦笑が漏れた。
王族に躊躇いなく膝をつかせるなど、普通ならあり得ない。とんだじゃじゃ馬だ。
……だが。
それを咎める気は、少しも起きなかった。むしろ妙に納得してしまった自分がいる。ああいうことをするのが、いかにも彼女らしいと。
ゆっくりと立ち上がり、無意識にもう一度右手を見る。
何も残っていないはずなのに、感触だけが微かに続いている気がした。
「帰るか」
誰もいない空間に向けてそう言い、視線を持ち上げる。
沈みかけた太陽が、空を赤く染めていた。
建物の影も、石畳も、遠くの塔の輪郭までもが、静かな赤に溶けていく。
その色を眺めながら、レオンハルトはふと目を細めた。
……妙に、落ち着かない。
理由までは分からないまま、彼はしばらくその場に立ち尽くしていた。




