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3/3

事件



 これ以上は限界なのかもしれない。


 女子生徒を宥めて帰したあと、セリアは静かにそう思った。

 思っていたよりもずっと早いが、少し強引にでも踏み込まなければならないのかもしれない。

 あの震えながら伸ばされた指先。

 あの抑えきれない感情。


 ——もう「噂」で済ませていい段階ではない。


 リリア嬢の姿を探して廊下を歩きながら、セリアは小さく息を吐いた。


(直接、話を聞こう)


 そう決めて間もなく、窓際に佇むリリアの姿を見つけた。

 ひとりで立っている。けれど静かに見えるだけで、どこか張り詰めた気配がある。


「リリー」


 声をかけると、リリアの肩が小さく跳ねた。振り返った顔には、いつもの柔らかな笑み。


 ——けれど少しだけ遅れて作られたような笑みだった。


「セリア様……どうかなさいましたか?」

「少しだけ時間を貰えるかな」


 やんわりとした声音で言えば、リリアは素直に頷いた。

 中庭へ向かう人気のない回廊へ並んで歩く。

 しばらく他愛ない会話を続けてから、セリアはふっと声を落とした。


「最近、少し周りが騒がしいだろう?」


 リリアの足が止まりかけて、すぐに歩調を戻す。


「……そうですね」

「困っていることはない?」


 問いは柔らかい。けれど逃がさない角度で投げられた。

 リリアは一瞬だけ黙り込み、それから慌てたように首を振る。


「いいえ、何も。皆さん親切にしてくださいますし……私なんて、むしろ恵まれているくらいで……」


 言葉が少し早い。

 整いすぎている。

 セリアは横目で彼女を見た。


「本当に?」

「はい。本当に。……大丈夫です」


 にこりと笑う。完璧な笑顔。けれど。

 その指先が、わずかに震えていた。


「……そうか」


 セリアはそれ以上追及しなかった。ただ静かに微笑む。


「困ったことがあったら、いつでも言っておくれ」

「ありがとうございます、セリア様」


 リリアは深く頭を下げ、そしてそのまま去っていく。

 足早に。逃げるように。

 その背を見送りながら、セリアは目を細めた。


(嘘だ)


 理由は分からない。けれど確信だけが残った。

 ——その瞬間。

 遠くから鋭い声が響いた。


「どうしてなんだよ!!」


 セリアの視線が跳ねる。声は建物の裏手からだった。

 荒い感情がむき出しの、聞き過ごせない響き。

 セリアは即座に走り出した。周囲に人がいないのを確認し、階段を一段飛ばしで駆け下りる。

 足音が石壁に反響する。

 一階へ降りると、はっきりと揉める声が聞こえた。

 外へ出る。

 建物の影。

 そこにいたのは——

 リリアと男子生徒。

 男子は肩で息をしながら、リリアを睨みつけていた。

 追い詰められた表情。混乱。怒り。焦燥。悲しみ。


「どうしてなんだよ……!」


 リリアは何も言えず、ただ立ち尽くしている。

 止めに入るべきか迷った、その瞬間、男子の腕が振り上げられた。

 セリアはそれを見て咄嗟に物陰から飛び出した。


「どんな理由があったとしても、令嬢に手を上げるのは見過ごせないかな」


 男子生徒の腕を掴みそのまま後ろへ捻り上げる。


「う、あ……!」


 抵抗はない。

 代わりに嗚咽が漏れた。


「だって……なんで……」


 涙がぼろぼろと落ちる。

 セリアは短く息を吐いた。


(さて……これは本格的に面倒だな)


 そう思った瞬間。

 背後から聞き慣れた声が響いた。


「お前は一体何をやってるんだ」


 振り返るれば、レオンハルト殿下と見知った顔の教師。

 セリアは小さく笑った。


「殿下、ちょうど良いところに」

「ちょうど良くない。説明しろ」


 眉間に深い皺。

 セリアは男子を教師へ引き渡し、状況を簡潔に説明した。

 その後、事情聴取は後日へ持ち越されることになり、男子とリリアは教師に連れられて去っていった。

 静けさが戻る。

 殿下がため息をついた。


「無茶するなって言っただろ」

「したつもりはないんですけど」

「無くてもだ。セリアはどれだけ格好良くても女なんだ。純粋な力じゃ——」


 言い終わる前に、セリアは体を捻った。拘束を外し、殿下の膝裏を押す。不意を突かれた殿下が片膝をついた。


「残念でしたね! それじゃ私は捕まりませんよ!」


 笑って駆け出す。


 ――耳が熱い。


 それに気付かれなかったことを、セリアは少しだけ願った。





(レオンハルト殿下視点)


 軽い足音が遠ざかっていく。石畳を蹴る乾いた音が、やけに長く耳に残った。レオンハルトはそれを聞きながら、自分の右手をじっと見つめた。さっきまでそこにあった感触を、確かめるようにゆっくりと指を動かす。

 いつも見ているはずの相手だ。

 隣に立つことも、エスコートで手を重ねることもある。触れる機会など珍しくもない。


 ……それなのに。


 思っていたよりも、ずっと細かった。

 折れてしまいそうなほど頼りない、というわけではない。けれど、あの瞬間に感じた軽さとしなやかさが、妙に指先に残って離れなかった。

 はぁー、と息を吐く。

 肺の奥に溜まっていた何かを吐き出すように、ゆっくりと。


「……少しからかいすぎたか?」


 誰に聞かせるでもなく呟く。

 返事などあるはずもないのに、なぜか言葉にしないと落ち着かなかった。

 押された勢いで地面に着いた膝が、じんわりと痛む。衣服についた砂を払おうとして、ふと苦笑が漏れた。

 王族に躊躇いなく膝をつかせるなど、普通ならあり得ない。とんだじゃじゃ馬だ。


 ……だが。


 それを咎める気は、少しも起きなかった。むしろ妙に納得してしまった自分がいる。ああいうことをするのが、いかにも彼女らしいと。

 ゆっくりと立ち上がり、無意識にもう一度右手を見る。


 何も残っていないはずなのに、感触だけが微かに続いている気がした。


「帰るか」


 誰もいない空間に向けてそう言い、視線を持ち上げる。

 沈みかけた太陽が、空を赤く染めていた。

 建物の影も、石畳も、遠くの塔の輪郭までもが、静かな赤に溶けていく。

 その色を眺めながら、レオンハルトはふと目を細めた。


 ……妙に、落ち着かない。


 理由までは分からないまま、彼はしばらくその場に立ち尽くしていた。




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