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二話・魔法少女ミラクルるりか 前編

 久し振りに、公園前の駅に降りた。

 普段から、十キロは徒歩圏内で、電車なんかめったに使わなかった鯖丸は、そこが以前住んでいたアパートの前だと気が付いたのは、無人駅に降りてからだった。

 引っ越してからもう、二ヶ月ちょっとが過ぎている。

 教授のお供で学会に出ていたので、就活の時に買ったスーツを着ていた。

 最近こんなに貧乏な理由は、絶対これと面接受けに行った時の旅費だ。

 働いてお金を稼ぎたいのに、働く前からこんなに金がかかるとは、どういう嫌がらせだ。

 とはいえ、一着まともな服を手に入れたのは、何かと便利ではあった。

 とりあえず、何かあったらこれ着とけば間違いない。

 ぼさぼさで伸ばしっぱなしの髪の毛も、有坂がきちんとまとめて括ってくれたので、今日の武藤君は、かつて無い程きっちりしていた。

 付き合いの長い教授や同級生にさえ「誰?」と聞かれたくらいだ。

 まさに、絵に描いた様な「馬子にも衣装」。

 そういう、ご自慢の一張羅(とはいえ、量販店の安売り品だが)を汚したくなかったので、帰り道は電車を使った。

 空は、午後から曇天だった。

 歩いて帰ったら、たぶん降られる。

 そう思って電車に乗ったのに、微妙に間に合わなかった。

 ぽつぽつと降り始めた雨は、あっという間に土砂降りの夕立に変わっていた。

 仕方がないので、駅のベンチに掛けて、雨が止むのを待つ事にした。

 町内の老人会提供と書かれた、変な柄の手作り座布団が設置されたベンチに座って、ぼんやりと公園を眺めた。

 以前のアパートなら、徒歩一分、走って三十秒の距離だ。

 今頃気が付いたけど、何て便利な所に住んでたんだろう。

 四年も居たので、それなりに愛着のある場所だった。

 雨は、しばらく降り続いて、上がった。

 駅を降りて、狭い道路を横切った。

 土手から見下ろした場所にあると思っていたアパートが、消えていた。

 何もかもが綺麗さっぱり無くなって、むき出しになった地面を、雨がしっとりした色に染めていた。

「こんな狭かったんだ」

 空き地とすら呼べない様な、最初から何も無かった様な場所だった。

 こんな場所に古びたアパートがあった事は、いずれきっと、誰にも分からなくなるだろう。

 色々な事が、少しずつ変わって行く。

 悪い事ではないはずなのに、何だか寂しかった。





 ケータイが、買った時から初期設定のままになっている着メロを流していた。

 有坂カオルは目を覚まして、隣で寝ている武藤玲司を見た。

 昨夜は深夜までバイトだったらしく、いつ帰って来て隣で寝始めたのか、全く記憶が無かった。

 引っ越しを機に同棲を始めて二ヶ月が経っている。

「玲司君、ケータイ鳴ってる」

 声をかけたが、起きる気配は無かった。

 きっと予定より遅い時間に帰ったのだろう。

 枕に顔を埋めて、気持ちよさそうに寝続けている。

 ここ数日、人前に出る様なバイトが入っていないせいか、無精ヒゲも伸びっぱなしで、半開きになった口から、よだれが垂れている。

 何、この油断し切った姿は。

 先日スーツとか着て学会に行ってた時は、かなり格好良かったのに。

 一応鳴り終わったケータイを手に取って、相手が誰だか確認した。

 所長と表示が出ている。

 これ、出ないとマズイ、バイトの呼び出しかも。

 思いながら隅の方に表示が出ている時計を見て、一気に目が覚めた。

 十時を回っている。自分も、昨夜はそこそこ遅かったので、寝過ごしてしまった。

「玲司君、起きて」

 肩を揺すると、やっと目を覚ました。

「えー何?もうちょっと寝かしてよ」

 ぼんやりした顔で起き上がってから、差し出されたケータイを見て顔色を変えた。

 うわ、やべぇとか言いながら、こちらからかけ直している。

「所長、鯖丸です。すいません、すぐに出れなくて」

「ああ、別にいいよ。急がないから」

 所長の声は、メールではなく電話で連絡して来たにしては、緊張感を欠いていた。

「サキュバスが、また家出した。今年は、君と三希谷に任せようと思うんだが」

「え…?」

 ケータイを持ったまま、鯖丸は硬直した。


 戒能悠木奈ことサキュバスは、毎年定期的に家出を繰り返している。

 父親の雄治は、地元では有名な実業家で、西谷商会のお得意様でもあり、様々な便宜も図ってくれている。

 精神的に問題を抱えている娘の確保は、年中行事になっていた。

 サキュバスの確保は、厄介だ。

 魔力はそれ程高くないが、半径百メートルという、魔法使いとしては驚異的な攻撃範囲を持っている。

 更には、男相手なら、本名を押さえられようが、相手の魔力が格上だろうが、精神を支配し、精気を搾り取る。

 そう言う訳で、サキュバスの確保は、女が当たるというのが慣習になっていた。

 一度だけ、人手がなかった時に、ジョン太と所長と一緒に、サキュバスを捕まえに行った事がある。

 大変な目に遭った。二度とごめんだ。

 とはいえ、戒能雄治は金払いのいい客だった。

 引っ越したり、同棲を始めたりで、色々物入りだ。

 塾の講師とか、コンビニの店員とか、ビルの清掃とかでなく、ぱーっと稼げる仕事は、断りたくない。

「所長、せめてもう一人女手があれば、行けるんですけど」

 鯖丸は、一応抗議した。

 三希谷一人では、何とも頼りない。トリコなら最強だが、今日はジョン太と組んで出払っている様子だ。

 まぁそれ以前に、トリコが居れば、俺が出るまでもないけどな…と思い直した。

「斑さんは出られないんですか」

 西谷商会中四国支所で、所長と事務の斉藤さんを除けば、後女性なのは斑だけだ。

「平田とオーサカに出張だ。諦めろ」

 所長は言った。

「それで、行くの、行かないの」

 断れば、自分が三希谷と行くつもりらしい。

「いえ…行きます。行きますけど、大丈夫かなぁ」

 ちらりと、隣に立っている三希谷を見た。

 新卒で入社して、まだ二ヶ月の新人だ。

 魔力は、所長と同じくらい高いらしいし、皆が口を揃えて魔界に入ると凄いと言っているが、どう見ても頼りない感じの女の子だ。

 四年制の大学を出ているので、年は一つ下のはずだ。

 地味で、大人しそうな雰囲気ではあるが、何となく、ちょっと変わった娘だなという感じはする。

「三希谷の事なら心配するな。お前は、危なくなったら、暁とか鯖子とか、色々手はあるだろう」

 別人格の暁は、最近全く表に出ていなかった。

 以前サキュバスと対した時は、ゲイで女に全然興味のない暁に助けてもらったが、たぶんもう、表に出て来る気はないのだろう。

 その方がいいのだが、サキュバスが相手となると、話は別だ。

「あの…暁はもう出て来ないつもりみたいだし、鯖子は、体は女だけど中身は俺なんで、やっぱりヤバイんじゃないでしょうか」

「ふうん」

 所長はうなずいた。

「まぁ、がんばれ」

 頑張ったら、どうにかなるのかよ。

「私もがんばりますから、よろしくお願いします」

 三希谷は、頭を下げた。

「ああ、こちらこそよろしく」

 つられて頭を下げた。


 これからすぐに出られるかと聞かれたので、鯖丸はうなずいた。

 今日は何の予定もないし、三日後くらいまでは、いざとなったら断れるバイトしか入っていない。

 学校の方も、ここ数日ならどうにかなるはずだ。

 三希谷は、もうやる気満々だったらしく、二三泊は出来そうなキャスター付きバッグに、荷物を用意していた。

「じゃあ一回俺ん家に戻って、支度して来るけど、いいかな」

 一月前にレストアに出したので、一応立ち直ったジムニーのハンドルを握って、鯖丸は聞いた。

「いいともー」

 変なリアクションだ。

 あまり、馴染みのないタイプだな、この娘。

 近くに路駐して家に戻ると、有坂も出掛ける支度をしている所だった。

「これから学校?」

 聞くと、うなずいた。

「通り道だから送るよ。俺、仕事で魔界に入るから」

 仕事用の服に、手早く着替えて、二人で部屋を出た。

 アパートの階段を下り始めた所で、何となくしまったと思った。

 よく考えたら、三希谷は若い女の子だ。

 有坂は、育ちが良くて性格もいいが、割と嫉妬深いタイプだ。

 AVを持っているのさえ許せないらしく、どんなに巧妙に隠しても、すぐに見つかって捨てられてしまう。

 仕事とはいえ、最低一泊くらいはする事になるのに、どう言い訳すればいいのか…。

 案の定、車に乗っている若い女を見つけて、有坂は不振な顔をした。

 意外な事に、三希谷は一瞬で状況を把握したらしく、一度車を降りて後部座席に移った。

「始めまして。鯖丸先輩とお仕事ご一緒させていただく、三希谷です」

 後部座席から挨拶した。

「はぁ…あの、有坂です」

 色々聞かれる前に、三希谷は自分で説明した。

「先輩の彼女さんですよねぇ。あのぅ、私も彼氏とか居るんで、ていうか、リンク張ったばかりで超ラブラブなんで、一緒に仕事してても、全然大丈夫ですから」

「そうなの」

 有坂が、リアクションに困っている。あんまり周囲には居ないタイプだ。

「ええっ、リンクって、誰とだよ」

 驚いて聞き返した。

「ハートさんですよぅ。いやーん、恥ずかしい」

 うわー、予想外の組み合わせ。

 割と気が合うみたいな感じだったが、まさかリンクまでしてしまうとは…。

「知らなかった…」

 通い慣れた大学の正門前で、有坂と別れて魔界に向かった。

 起きるのが遅かったので、朝食兼昼食で、いつもの定食屋に久し振りに寄った。

 女の子を連れて行くには、ちょっときびしい店だが、三希谷は物怖じしないで、自分の食べたいものを的確に選んでいる。

 この店にそんな物があったとは、長年通っていて知らなかったデザートまでちゃっかりチョイスして、満足そうに食事を始めた。

 鯖丸は、嬉しそうに焼きプリンをスプーンですくっている三希谷に、前から聞きたかった事を聞いた。

「三希谷さん、前から気になってたんだけど」

「はい?」

 三希谷は、顔を上げた。

「魔界名は、何て云うの」


 魔界に入って、うっかり本名を呼んでしまわない様に、仕事仲間は皆、外界でも余程の不都合がなければ、魔界名で呼び合うのが慣習だった。

 それなのに、中四国支所の皆は、三希谷だけ本名で呼んでいる。

 新人だからとか、そういう理由では無さそうだった。

「魔法少女ミラクルるりか」

 この春に始まった、新作アニメのタイトルみたいな言葉が、すらすらと出て来た。

「ええと」

 サンマの塩焼きを丸食いしながら、鯖丸は言い淀んだ。

「それは、どの辺からが魔界名?」

「全部ですよ」

 平然と、三希谷は答えた。

「長いよ」

 鯖丸は抗議した。

「るりかでいいんじゃない」

「そう呼んでもらって、差し支えはないですが、正式には魔法少女ミラクルるりかです」

「そうなんだ」

 深く抗議しない方が、いいかも知れない。

 領収証をもらって、定食屋を出た。

 どういうジャンルの変人なんだ、この娘は。

 無言で運転していると、逆に質問された。

「あのう、先輩はジョン太さんとリンクしてるって聞いたんですけど」

「そうだけど…」

「聞いていいですか」

 何か、疑問があるらしい。

「いいよ、何」

「お二人は、どっちが受けなんですか」

 鯖丸は、ハンドルに突っ伏した。

 今分かった。こいつ腐女子だ。それもばりばりの。

「ジョン太」

 鯖丸は、勝手に決定した。まぁ、あながち間違っているとは言えないが、本人が居たら全力で否定されるだろう。

「うわー、意外。でも、何となく分かる気もします」

 分かるな、そんな事。

「すっごいですねぇ。普通なら先輩が受けですよ。でも、そこがいい」

 いいんだ…。

「それ、ジョン太には言うなよ」

 鯖丸は、釘を刺した。

「分かりました。オジサンにもプライドがありますもんね。一見受けっぽい年下に翻弄される渋い中年。恥ずかしいと思ってるから、否定はしても流される。それもまたいい」

 妄想が暴走している。

 確実に、ジョン太は何も思ってない。

「そうかもねぇ。へたれだから、あいつ」

 仕事を円滑に進行させる為、鯖丸は腐女子の魔法少女に迎合した。

「本人の前では言うなよ」

 一応、自分の保身に走った。


 倉庫の中は、相変わらず埃っぽくて、前近代の白熱灯が照明に使われていた。

 自分の装備は刀だけなので、素早く手に取った鯖丸は、三希谷こと魔法少女ミラクルるりかを振り返った。

「着替えるなら、外で待ってるけど」

 三希谷…るりかの服装は、普段着だった。

 いつもはそれなりに社会人っぽい服装で出勤して来るのだが、魔界に入るのが前提らしく、今日は野暮ったいTシャツの上に、これも野暮な感じのパーカーを重ね着して、スニーカーを履いている。

「いいえ、中に入ったら、この服からギミックを作りますから、大丈夫です」

 ギミックって何だ?と思った。

 今まで接した事のないタイプの魔女かも知れない。

 ジムニーで境界を抜けた。るりかの外見には、特に変化はない。

 遺跡の様な工業街に入るまでは、二人とも無言だった。


 ビジネスホテル草薙は、今日も繁盛していた

 外界で作るとコストのかかる、小規模だが精度と技術の必要な工業部品を作る職人と、外界の企業から来た技術者が、相変わらず狭いホテルのロビーで話し込んでいる。

 サキュバスを捕まえる為に、以前ここに泊まってから、三年程が過ぎている。

 実は、ゼミの倉田教授に頼まれて、部品の発注で入った事はあるが、バイトでは久し振りだ。

「すいません。一部屋しか空いてなくて」

 西谷商会の定宿は、満室に近いらしかった。

 ネットどころか電話での予約も出来ないので、ある程度は仕方ない。

 サキュバスは、家出をするとたいがいこの街へ来る。

 ここで待つのが定番だったが、鯖丸はちょっと躊躇した。

「近所に空いてる宿とかありますか」

 フロントで聞いてみた。

「ええ、紹介しましょうか」

 フロントの男も、一見カップルに見えるが、実は仕事で来ている事は了解しているらしく、うなずいた。

「ええと、ベッドが別なら大丈夫ですけど、その辺は?」

 るりかが聞いている。

「空いてるのはツインルームですよ」

 フロントの男は微笑んだ。

「じゃあ、それで」

 勝手に決めて、出された紙に魔界名と所属会社を書き込み始めた。

 うわぁぁぁ、こんな事有坂にバレたら、殺される。

 勝手に、鯖丸の魔界名まで書き込んだるりかは、フロントの男に差し出した。

 よく見ると、鯖丸の鯖が旧字体だし、何でそんな物が設定してあるのか分からない年齢欄も、間違っていた。

 あれ…俺って、るりかとタメ年なの?

 渡されたキーを持って、魔界なのに不思議と動いているエレベーターに乗った。

「あのねぇ…」

「契約の定宿以外に泊まると、割引が利かないんですよ」

 それくらいは知っている。いつまでもダメなバイトじゃないんだし。

 でも、千円ぐらいの経費節減の為に、男と相部屋でいいのか?

「別に、気にしません。先輩も、浮気するつもりなんか無いでしょう」

「うん、そうだけど。まぁ、一応…」

 しばらくるりかを眺めた鯖丸は、まぁいいかと呟いた。


 ホテルの部屋は、以前泊まった時と同じで、普通だった。

 あの頃はジョン太と一緒で、引率されて色々教えてもらう立場だったが、今は自分がジョン太のポジションだ。

 時の流れって不思議だなぁ…と思う。

 魔界はともかく、ビジネスホテルには慣れているらしいるりかは、二つあるベッドの一方を自分用と決めて、キャスター付きバッグから中身を取り出して並べ始めた。

 こいつ、ジョン太と同類で、着替えには神経質なタイプだな…と思った。

 あれから学習しているので、同行するのが女の子だし、二枚くらいは着替えを持っている。

 周りが神経質なのではなくて、自分が無神経だという事実には、思い至っていない。

 ここまで来たらもう、一生気が付かない方がいいかも知れない。

 荷ほどきが終わったらしいるりかに、言った。

「じゃあ、サキュバスを捜しに行こうか。毎度の事なんで、居場所はすぐ分かると思うよ」


 サキュバスの行方は、魔力を探知するとか、痕跡を捜すとか、そういう魔法使いっぽい方法ではなく、地味な聞き込みですぐに見つかった。

 見つけるのは、毎年困難では無い。捕まえるのが厄介なのだ。

 話をしてくれたラーメン屋のオヤジは、毎度ご苦労さんな事だねぇと二人に言った。

 すっかり年中行事になってしまっている。

「今年は廃工場の奥に居るらしいよ。まぁ、あんまり悪さをせん内に、連れて行ってくれ」

 自分の常連客も、サキュバスに捕まってしまっているとオヤジは言った。

「兄ちゃんも気を付けてな」

 捕まってしまったら、シャレにならない事は、身をもって知っているので、鯖丸はうなずいた。

「じゃあ、行こうか。おっちゃん、領収証ちょうだい」

 立ち上がった鯖丸は、るりかがまだ、頼んだラーメンを半分しか食べ終わっていないのを見て、諦めた様に座り直した。

「早くしてね」

 ふーふーしながら、ちょっとずつ麺をすすっているるりかに、言った。

「ダメだよ兄ちゃん。男ならそれくらい待ってやる度量を持たないと」

 ラーメン屋のオヤジはたしなめた。

「いや…仕事中なんですけど」

 異常に食うのが早い鯖丸と、おっとりしているるりかは、全然行動パターンがかみ合わない様だった。

 先が思いやられる。


 廃工場に行くのは、初めてだった。

 もっとも、ここは街全体が廃工場と言えなくもない。

 昔の工場を骨組みにして作られた街は、廃墟マニアや工場マニアには垂涎ものの光景だった。

 太いパイプが絡み合い、訳の分からないコンベアが空中を走り回り、目的が見当も付かない煙突と、何を貯めてあったのか不明のアナログなメーターが付いたタンクが取り囲んでいる。

 魔界で写真が撮れない事は分かっているのに、諦めきれないマニアが、どうにかして撮影しようと、機材を持ち込んでいる姿もあった。

 気の毒に。

 どうせ、高価なカメラを盗まれて、外界で売り飛ばされるのがオチだ。

 廃工場は、街の奥にある薄暗い場所だった。

 海が近くて、潮の香りがする。

 配管で埋め尽くされた向こうに、海岸と小さな船着き場が見えた。

 右手は管理棟だったらしい建物で、少し離れた場所にある小高い丘の斜面には、廃棄された石油備蓄基地があった。

 船着き場と管理棟を見たとたん、鯖丸はしまったと思った。

 昔はともかく、ここが今、どんな目的に使われているか、分かってしまったのだ。

 案の定、管理棟からはカタギに見えない男が一人、外へ出て来た。

 違法な品物や人を、外界と行き来させているヤクザの組事務所か出張所だ。

「まずいな。あいつらと顔合わせたくないんだけど」

 最近、すっかりヤクザ屋さんの業界では、名前が通ってしまっている。

 それも、あんまり嬉しくない意味で。

 幸い、組事務所に回されている手配書の似顔絵は、全く似ていなかった。

 実物の十倍くらい男前なのだ。

 それを入手して見せてくれた浜上刑事は「秋本君とごっちゃになってるみたいだね」と言った。

 超男前の友人には気の毒だが、自分的には好都合だ。

 とはいえ、日本刀を持った若い男という情報だけで、バレないとも限らない。

「じゃあ、私見て来ましょうか」

 るりかが、大胆な事を言った。

 ヤクザが怖くないのか、この娘は。

 止める間もなく、るりかは物陰から出て、ヤクザの方へ歩いて行った。

 外へ出て来た男は、煙草を吸おうと思っただけらしく、壁にもたれて煙を吐きながら、何をするでもない様子でぼんやり立っている。

 極道まで分煙に神経質になっているとは、世も末だ。

「あのぅ、すいません」

 るりかが、男に声をかけた。何やってんだ、あのバカ。

 バカにバカと思われているとは全く知らないるりかは、続けた。

「この辺りにサキュバスが来てるって聞いたんですけど、ご存じないですか」

 男はぼんやりと、この場に似つかわしくない地味な小娘を見た。

「サキュバスに何の用だ、嬢ちゃん」

「お友達なんです」

 るりかは、適当な事を言い始めた。

「心配だから、早く帰って来て欲しいなと思って」

 男は、疑わしげな顔でるりかを見た。

 ああもう、まずい事になって来たよ。

 鯖丸が出て行こうとした時、管理棟の奥から聞き覚えのある声がした。

「何じゃ、騒がしいのお」

 眠そうな顔でぼりぼり頭を掻きながら出て来たのは、羽柴仁だった。

 本格的にまずい事になって来た。

 その場で、姿を変えてから少し身なりを整えて、物陰から出た。

 魔法を使う時の気配を察知した羽柴と、もう一人の男は、こちらを向いた。

「ジン君、久し振りー」

 鯖丸こと鯖子は、にっこり笑った。


「おう、マキちゃんじゃないか」

 羽柴は、露骨に嬉しそうな顔をした。

 いや、同性だから分かる。あいつ今、エロい事考えてる。絶対そうだ。

 羽柴仁とは、仕事で何度も小競り合いがあった。

 最後に会ったのは、観光街での一斉摘発だったが、羽柴は逃げおおせていた。

 女に変身する能力は、その時のどさくさで最近身に付けた物だが、羽柴は自分の正体には気が付いていない様だった。

 それどころか、好意を持たれている節がある。

「やっぱりこっちに居ったんじゃのう」

 羽柴に、口から出任せのマキという名前を名乗って、普段は工業街に居ると言ったのは、実際には工業街に来る事は、ほとんど無いからだ。

 自分でも、そんな事を言ったのは忘れかけていた。

「知り合いか」

 るりかを指差して言った。

「うん。あたしらパートナーなんだ。今ちょっと仕事中でね」

 るりかの方を睨んで、余計な事を言うなとアイコンタクトを送った。

 通じたかどうか不安だ。

「なんじゃ、マキちゃんレズビアンか」

 羽柴ががっかりしている。

「リンクはしてないわよぅ」

 しまった。そうだと言っておけば良かった。

 多少は羽柴に、色目を使われなくなるかも知れないのに。

「あたし達、頼まれてサキュバスを捜してるの。ちょっとしたお小遣い稼ぎでね」

 腕の立つプレイヤーに、非公式で仕事を頼む者は多い。

 ほとんどプロになってしまっている者も居れば、魔界でスリルを楽しむのが目的のプレイヤーが、そんな事をするのは邪道だと言う者も居る。

 プレイヤーにもそれなりのポリシーがあるのだ。

 これで自分は、節操のない邪道なプレイヤーという設定になってしまった。

 ヤクザと付き合うには、その方がいいかも知れない。別に付き合いたくもないんだけど。

「そりゃ困ったのう」

 羽柴は、腕を組んだ。

 何が?

 微妙に、嫌な予感がする。

「それじゃ、今度はマキちゃんと敵同士じゃのう」

「どういう意味」

 羽柴は答えなかったが、答えはすぐに分かった、

 後ろにある管理棟から、ゆっくりと現れたのは、他でもないサキュバス、戒能悠木奈だった。


 鯖丸は、思わず一歩下がった。

 羽柴や他の男達が、普通の状態で横に居るのだから、サキュバスの魔法は発動していないはずだが、嫌な記憶で背筋が凍り付いた。

 そりゃ、清い童貞だった頃に、淫乱魔女に捕まって触手責めにされた過去があったら、誰だってびびる。

 あやうくインポになる所だった。

 あれから三年程過ぎているが、サキュバスの外見は全く変わっていなかった。

 どちらかというと若返っている。

 魔法整形かも知れないが、彼女くらいのお金持ちだと、高価な美容目的のアンチエイジング治療を受けている可能性もあった。

 見た目は、自分より年下に見える。

 体にぴったりしたレザーのパンツとブーツを履いて、同じ素材のビスチェの上から、パンクな感じの革ジャンを羽織っている。

「あら、西谷の所の子じゃないわね」

 サキュバスは言った。

 野暮ったい格好のるりかと、すっぴんで雑な格好の鯖丸を、ちらりと見た。

 くそう、今絶対勝ったと思ったな、この女。俺の方が乳でかいし、足も長いぞ。

 鯖丸は、要らん闘争心を燃やした。

 負けん気なのも考え物だ。

「お父様も色々考えるのねぇ」

 だるそうな口調で言った。

「ジン君、それ、危ない。横に居て大丈夫なの?犯される」

 ダメ元で、羽柴をこっち側に付けようとしたが、まぁ無理だった。

「この人とは協力関係にあるの」

 サキュバスは、羽柴の腕に手を回した。

「お父様に言っといて。今度はもう、帰る気はないって」

 この場はとにかく、一度退いた方がいい。

「そう…そういうケバい女がいいのね」

 じりっと後ずさって、るりかの手を掴んだ鯖丸は、言った。

「ジン君なんか大嫌い!!」

 捨てゼリフを残して、鯖丸は猛スピードでるりかの手を引いて駆け去った。

 ああもう、乳がでかいと走りにくい。

「待てぇ、誤解じゃマキちゃん」

 背後で羽柴の叫び声がした。

「先輩、私はいつまでこの小芝居に付き合えばいいんですか」

 引っ張られながら、るりかはつぶやいた。


 ホテルに戻って、ミーティングに入った。

「はぁーい、センパイ」

 るりかは、何か発言する為に手を上げた。

「はい、るりかちゃん」

 鯖丸は指名した。

「ノーブラはまずいと思います」

「そんな話してねぇだろ」

 もう男に戻った鯖丸は、不機嫌に言った。

「それから、もうちょっと可愛い服を着て、お化粧もした方がいいです」

「今はそんな話してないだろ。ていうか、何でだよ」

 ボケ二人で飽和状態になったせいか、鯖丸のポジションがツッコミに近付きつつあった。

「それで、ジン君をたらし込んで来てください」

「ああ、なるほど」

 うなずきかけてから、鯖丸は我に返った。

「出来るかぁ!!」

「ええー、せっかく無駄に大きいおっぱいは使いましょうよぅ。顔なんて塗ればどうにでもなるし」

 るりかは、恐ろしい事を言った。

「お前がやれよ。ジン君にやられちゃったらどうしてくれるんだ。特に確認はしてないけど、俺絶対処女だもん」

 るりかは、にやーと笑った。

「先輩、何事も経験です」

「お前、所長より鬼だな」

 鯖丸は、全力で他の方法を考えたが、とりあえず羽柴とサキュバスが何をするつもりなのか探るには、一番手っ取り早い手段だという結論しか出なかった。

 お互いのベッドの上で座り込んで向かい合った二人は、しばし沈黙した。

「危なくなったら、逃げるからな」

 鯖丸は言った。

「キスまでなら…」

「何ねむたい事言ってるんです、先輩」

「いや、ほんと勘弁してください」

 とうとう泣きが入った。先輩の面目、丸つぶれだ。

 こいつと居ると、俺、だんだんジョン太の立ち位置に近付いてないか…?と、鯖丸はちらっと思った。


 工業街には、ジャンクパーツからジャンクフードまで、ジャンクな物なら何でもある。

 るりかに連れられて街へ出た鯖丸は、露天の後ろ側に並ぶ商店街を廻っていた。

 街の性質上、ファッション関係の店は少ない。

 そもそも、私服はフリマでしか買わない鯖丸は、洋服屋に入った事もあまり無かった。

 新品で買うのは、下着と靴下くらいで、それも、破れを繕ったり、ゴムを換えたりして、異常に長く愛用している。

 就活用のスーツを買う時は、友人の迫田に付いて来てもらったが、値札を見て倒れそうになった記憶がある。

 目の前の、ちゃらちゃらして布地の少ない衣装が、こんな値段なのは、絶対詐欺だ。

 大体、前から思っていたが、女物のパンティーの、究極まで生地をケチっているくせに、信じられない強気の値段設定は何なんだ。

 どうせ必要経費で戒能の所に請求書が行くのだから、特に気にする事もないのだが、貧乏性は恐ろしい。

 本物の貧乏と貧乏性の二重苦の鯖丸は、ブラジャーの値札を見て、気を失いそうになった。

「女の子って大変だな」

「普通はもっと安いのもあるんです」

 るりかは言った。

「先輩の胸が非常識に大きいから、普通サイズの安いやつじゃ合わないんですよ」

「トリコって大変なんだな…」

 見る分にはただ楽しいだけなのだが、色々苦労があるらしい。

 更衣室に一緒に入ったるりかは、下着を着せてから、次々と選んだ服を試して行った。

 女になった時の自分の体は、まだじっくり見た事がなかった。

 鏡には、平凡な顔だが、筋肉質で引き締まって、手足の長い女が映っていた。

 自分が、こんなに母親に似ていたとは知らなかった。

 胸に付いた古傷は、男だった時はどうという事も無かったが、こうなって見ると乳房の形が少し変わってしまう程の跡を残していた。

「これはジン君、引くかな」

「見せる必要はないでしょう」

 るりかは言った。

「危なくなったら、助けに行きますよ」

 ジン君と一発やって来いというのは、ジョークだったらしい。

 しかし、助けに行くって…そんな、自分の力に自信があるのか。

「後は靴ですねぇ」

 るりかは言った。

「サイズ、分かりますか」

「いや…全然」

 足下を見下ろして、るりかと自分の足を見比べた鯖丸は言った。

「もしかして、女物じゃ合わないかも」


 26センチの女物の靴を捜すのは、けっこう困難だった。

 欧米では珍しくないが、日本にはあまり無いサイズだ。

「先輩、元々何センチなんです」

 店の在庫を吐き出させた挙げ句、妥協して一足を選んだるりかは言った。

「28.5」

 あんまり言いたくない口調だ。

 大きいサイズの店じゃないと、置いていないサイズなのだ。

 おかげで、毎年学祭のフリマに出品していた、同じサイズの先輩が卒業して以来、新しい靴が買えない。

 仕事用はともかく、私用で履いているスニーカーはぼろぼろになっている。

 こんなの履いてるのは、俺と、少林サッカーの主役くらいだ。

 何事も、普通が一番だなぁ…と、鯖丸は思った。

 どうせ勘定は戒能持ちだけど。

 いっそ水増しの領収証切らせて、差額を懐に入れてやろうかと一瞬思った。

 るりかが、手を引いて靴屋を連れ出したので、悪い企みは中断した。

 次に、美容院に連れ込まれて、お洒落な感じの美容師に『シャギーが入って軽い感じ』という、謎の呪文のような髪型にされた。

 放ったらかしなんて、信じられないと言われながら、眉毛の形まで整えられてしまった。

 これ、家に帰ってから、有坂に何て説明しよう。

 ホテルに戻ったるりかは、キャスター付きバッグから化粧道具一式を出して来て、念入りにメイクを始めた。

 完成品になったマキちゃんは、ユニットバスの鏡で、自分の姿を確認した。

 しげしげと鏡を覗き込んだ鯖丸は、つぶやいた。

「女って詐欺だな」


「何でこんな事になったんだろう…」

 飲み屋の並んだ界隈を歩きながら、鯖丸はつぶやいた。

 それは、例によって何事も深く考えなかったからだ。

「俺って意外と、状況に流されるタイプだったんだな」

 こんな格好で刀を持っていると超絶変なので、丸腰にされてしまった。

 おまけに、慣れない下着は体を締め付けて居心地が悪いし、ヒールのある靴は歩きにくい。

「泣き言を言わないでください。ほら、ジン君来ましたよ」

 るりかは、鯖丸の背中を押した。

「もっと胸の谷間を強調して。自分で見ても嬉しいなって云う感じで、寄せて上げてー」

「別に、巨乳好きじゃないんだけど」

 それは、好きになった相手がたまたま巨乳なら別にいいが、見た目だけの好みで云えば、普通がいい。

 何ていうかこう、手の平の窪みにぴったり収まる感じの…。

 トリコだとでか過ぎるし、有坂はちっちゃいし、うわ、るりかが丁度そんな感じだ。

「ジン君はきっと、巨乳好きですよ。ファイトー」

「一発〜」

 弱々しく合いの手を入れて、るりかから離れた。

 羽柴がこちらに気が付いた。

 ポケットに手を突っ込み、煙草をくわえて、狭い通りを歩いて来る。

 普通の極道の様に、肩をいからせたり、周囲を威嚇したりしていない。

 完全に肩の力を抜いた、自然体な歩き方だが、いつでも瞬間的に次の動作へ移れる身のこなしだ。

 こいつ、たぶん魔法使わなくてもそこそこ強いだろうな…と思った。

「マキちゃんか」

 羽柴がこちらに気付いた。

「何じゃその格好は。色仕掛けのつもりか」

「そうなんだけど」

 一応認めた。あんまり、無理な設定にすると、後が大変だ。

「ダメかな?」


 たいがい経験した事だが、立場が逆になるとキモい。

 羽柴に連れて来られたのは、工業街の別荘地だった。

 以前、サキュバスに拉致監禁されていた、戒能の別荘からも程近い。

 一介の、弱小暴力団員だった羽柴が、こんな所に出入り出来るのは、奇妙だった。

 何か、後ろ盾があるに違いない。

 歩きにくいパンプスと、体を締め付ける、慣れない下着の感触にイライラしながら、鯖丸はどうにか平静を保っていた。

 別荘の並ぶ地区にあるリゾートホテルは、この周辺で仕事をしている外界の企業の重役が、主な顧客になっている。

 はっきり言って、弱小組織のヤクザには、無縁な場所だ。

 暴力団組織が、魔界で質素な生活をしているという意味ではなく、ジャンルが違うのだ。

 ヤクザなら、観光街や、中央街の奥にある無法地帯の方が顔が利く。

 羽柴が何をしようとしているのか、だんだん分からなくなって来た。

「まぁ、座れや」

 ソファーを指差されたので、腰掛けた。

「何ぞ飲むか」

「うん」

 大股開きでがっとソファーに掛けてから、はっと気が付いて両足を揃えた。

 幸い、キャビネットからグラスと酒を出している羽柴は、こちらに背を向けている。

 セーフだ。

 目の前に、琥珀色の液体が入ったグラスが置かれた。

 ウィスキーって、味が苦手なんだけどなぁと思いながら、勧められるままに飲んだ。

 全然違う酒だが、アルコール度は同じくらい高そうだ。

 さてはジン君、こっちの企みはお見通しみたいな顔をしながら、内心潰してやっちゃう気だな。

 鯖丸はちらりと振り返って、豪華なキャビネットを見た。

 天板に置かれている瓶には、Calvadosと書かれていて、どうやらそういう名前の酒らしい。

 キャビネットの中には、クリスタルのグラスと、高そうな洋酒の瓶が並んでいる。

 部屋も豪華な造りだったが、ホテルのはずなのにベッドが無い。

 続き部屋になっている別室があるらしい。

 海を見渡せる窓の外には、半円形のバルコニーがあって、テーブルと椅子が置かれていた。

 海風を受けたレースのカーテンが、時折やわらかくゆらめいている。

「うわー、お城みたいな部屋ねぇ」

 正直なところを言うと、羽柴は笑いながら隣に座った。

「ええ部屋じゃが、お城はないじゃろ。マキちゃんは変わっとるのう」

「だって、うち貧乏なんだもん」

 現実から遠のくと、嘘が破綻しやすい。

 この辺が無難な路線だ。

「だからお金稼ぎたいの。サキュバスはあたしに頂戴、お願い」

「こっちも仕事じゃけんのう」

 羽柴がグラスを空けたので、鯖丸は電光石火で立ち上がり、天板に置きっぱなしになっていた、リンゴで作ったおフランスのブランデーを掴んで、ソファーに戻った。

「そう言わないで、超お願い」

 だばだばと羽柴のグラスに酒を注いだ。

「マキちゃん、君、色仕掛けには向いてないわ」

 たっぷり…というか、下品な分量を注がれたグラスを、羽柴は眉をひそめて眺めた。

「知ってるわよう」

 鯖丸は、むくれた振りをして、一気にグラスを空けた。

 羽柴は、最初と同じ適量を注いでくれたので、更に一気飲みしてから、羽柴にしなだれかかった。

「やだもう。ジン君も飲んで」

 部屋の照明が、それ程明るくないのは幸いだった。

 顔が全然赤くないのがバレにくい。

 羽柴は、嫌々たぷたぷのグラスを空けた。

「変な借金でもあるんなら、わしが話つけちゃろか」

「それはいいの。取り立てやってた松田組が潰れたから、踏み倒すつもりー」

 二ヶ月前の一斉摘発で、外界に本拠を置く新興組織の松田組は壊滅状態に陥っていた。

 おかげで、羽柴が属する蒲生組の様な、魔界を主なシノギの場所にしている昔気質の組が、少し盛り返して来ている。

「債権は別の組に流れとるはずじゃ。まぁ、外界の組なら、こっちまで取り立てには来んじゃろうが」

 こっちはこっちで、わしらがきちっと仕切っとるけんのぅ…と、羽柴は言った。

 魔界出身の羽柴は、地元に古くから根付いている組織の一員だという事に、プライドがあるらしい。

「ジン君頼もしいー」

 鯖丸は、必殺技を使った。

 ジン君の腕にぎゅっとしがみついて、無駄に大きいおっぱいを押しつける『秘技、おっぱいボンバー』。

 土方警部は表向き嫌がっていたが、これが嫌いな男が居ようか…否、絶対居ない。

 頭悪そうな技名はともかく、嫌いな人も少しは居ると思う。

 あまり、自分の性癖を一般化しない方が身の為である。

 幸い、ジン君は多数派だった。

 これはやれるなと考えているのが、手に取る様に分かる。

「サキュバスの事も、どうにかならない?」

「うーん」

 もう一杯お酌して、自分のグラスにも注ぎ、先に一気飲みして見せた。

 プライド命の極道が、飲み比べで女に負ける訳にはいかないのだろう。

 羽柴も自分のグラスを空にした。

「サキュバスがスポンサーなのは、何となく分かるんだ」

 必殺技を継続しつつ、鯖丸は言った。

「普通、こんな所自由に使えないもんね。スポンサーが連れて行かれたら困ると思うけど」

 もう、がんがん飲ます事にした。

 その分、自分もがんがん飲む事になるのだが、今まで、けっこう飲んでも一度も酔っぱらった事すらないので、酒の強さには自信があった。

「でも、サキュバスの財源は戒能でしょ。あたしはそこから依頼受けてるから、確保に必要なら、口座を凍結する位の事は、してもらえるの」

「あの女も、エロいだけのアホじゃないわ」

 羽柴は言った。

「自分で自由に使える資金くらい、確保しとるで」

 今回は、いつもの家出と違って、もう帰るつもりはないと言っていた。

 本当だとしたら、計画的な家出なのかも知れない。

「まぁ、わしらとしては、約束守ったらええだけじゃ。その辺は詳しく聞いとらんけどな」

「サキュバスの他に誰か居るのね」

 羽柴は、傍目にもだいぶ酔って来た。

 鯖丸はもう、無遠慮な質問に切り替えた。

「あたしがそいつを排除したら、ジン君も約束を破らないで済むんじゃないの。教えて」

「そら、無理じゃ」

 空になった瓶を放り出して、鯖丸は新しい酒の封を切った。

 どういう仕組みかは知らないが、こちらがガンガン飲むと、羽柴も釣られて飲む形式が出来上がっている。

「マキちゃんはな…自分の魔力に相当自信がある様じゃが、相手が悪い。向こうは政府公認魔導士じゃ」

「え…」

 驚いたのは、強力な相手が敵に回るからでは無かった。

 ガチンコの魔力勝負なら、もう、その辺の政府公認魔導士相手に、負ける訳ない。

 困るのは、相手が公的な拘束力と支配力を持っている組織の一員だという事だ。

 個人相手なのか、組織相手なのか、その辺を確かめなくてはならない。

「そんな外界の組織が、ここで何してるの」

「秘密じゃ。マキちゃんでも言えん事があるわい」

 ジン君、ちょっと酔って来たらしいが、まだ意識は確かだ。

 鯖丸は、キャビネットから酒瓶を二三本取り出して、がっとテーブルに置いた。

「じゃあ勝負して」

 自分と羽柴のグラスに、再び下品な分量の酒を注いだ。

「あたしが勝ったら、サキュバス連れて帰るのに、協力して」

「負けたらどうするんじゃ」

 羽柴も、負けるつもりはないらしい。

「それは…」

 ちょっと迷ってから、決心した。

「ジン君の好きにしていいわ」

 どうせ、俺が負ける訳ない。大丈夫だ。

 鯖丸はたかをくくった。

「よっしゃ、その勝負受けた」

 全く同じ事を考えている羽柴は、グラスを握った。

「後悔するなよ」

「そっちこそ」

 こんなの絶対、色仕掛けじゃない。


 鯖丸は、明け方近くに目を覚ました。

 しばらく状況が飲み込めなくて、ぼんやりと天井を眺めた。

 どうやら、寝てしまったらしい。

 目を擦って起き上がろうとする目の前に、羽柴の顔があった。

 なぜかパンツ一丁の裸で、自分の肩に手を回して、すやすやと眠りこけている。

「何やってたんだ…俺」

 じわじわと記憶が戻って来た。

 確か、ジン君が先によれよれになって、勝ったと思った辺りまでは憶えている。

 羽柴は、まだ勝負も付いていないのに、色々な情報をべらべらしゃべってくれた。

 その辺はどうにか思い出せる。

 それから後が、分からない。

「そうか…俺も、いっぱい飲むと酔っ払うんだな」

 当たり前の事に感心しながら、起き上がってぼりぼり頭を掻いた。

 ソファーから離れてドアを開け、トイレとバスルームを探した。

 トイレは、別室にあった。

 広い洗面所は、違う扉の向こうにあって、その奥には猫足のバスタブが置かれた浴室がある。

 信じられない豪華な造りだ。

 顔を洗って、ついでに水を飲んでから、ふわふわに仕上げられたタオルで顔を拭いて、いつもの習慣で首からかけた。

 目の前の鏡に、眠そうな見慣れた顔が映っていた。

 あくびをかみ殺しながら二三秒眺めて、ふいに我に返った。

 男に戻ってる。何時からだ。

 羽柴の様子を見に戻ろうとして、裸なのに気が付いた。

 ほんとに、何時からだ。

 バスタオルと一緒にバスローブが重ねてあったので、とりあえず着た。

 部屋に戻ると、羽柴はまだ、前後不覚で眠りこけていて、背中の刺青だけがこっちを睨んでいた。

 ソファーの周囲には、昨夜着ていた女物の服と下着が脱ぎ散らかしてあった。

 男に戻ってしまって、寝苦しいから無意識に脱ぎ捨てたのだ。

 絶対そうだ。そうであってくれ。

「起きろコラァ」

 足の裏で軽く蹴ると、羽柴は短く呻いてから目を開けた。

「すまん、もうちょっと寝さしてくれや」

 顔をしかめながら半身を起こした羽柴は、こちらをじっと見た。

「ええと…マキちゃん」

 目の前の、マキちゃんに良く似ているが、全く違う物体としばらく見つめ合った羽柴は、いきなり跳ね起きた。

「貴様、西谷の所のマグロ!!」

「サバだ」

 鯖丸は訂正した。

「じゃあ、マキちゃんは…」

「俺がマキちゃんです」

 鯖丸は言い切った。

「うえっ」

 羽柴が吐きそうになったのは、二日酔いのせいなのか、マキちゃんがごつい男だったせいなのか、よく分からない。

 両方かも知れなかった。

「ほら、水」

 その辺にあった水差しを掴んで差し出すと、羽柴は何の確認もせずに中身を飲み干した。

 それから、両手で口を押さえて、洗面所に駆け込んだ。

 多少は気の毒に思いながら、鯖丸はその間に脱いだ服と靴を拾い集めた。

 また使う機会があるかも知れないし、何しろ彼の基準では高価だったからだ。

 羽柴は、青白い顔で、涙目になってふらふらしながら戻って来た。

 プライド命の極道が、こんな姿を曝すなんて、そうとう辛いのだろう。

 これは、しばらく休ませないと、使い物にならないかも知れない。

「とりあえず、出掛ける支度をしろ」

 別に、同情する義理もないので、言った。

「それと、何か服貸して」


「何でわしが、貴様に協力せんといかんのじゃ」

 まだ青い顔をしたまま、羽柴は文句を言った。

「俺が勝ったからだ」

 鯖丸は言った。

「何か文句あるか」

「わしに勝ったのはマキちゃんじゃ」

「だから俺がマキちゃんです」

 鯖丸は念押しした。

「いやー、俺も微妙に二日酔いでさ。何か上手く変身出来ないんだけど、その内証拠見せてやるよ」

 まだ信じていない…というより、信じたくない羽柴に、ぐいっと詰め寄って耳元で囁いた。

「ちゃっちゃとせんと、犯すぞ」

 羽柴は硬直した。

「西谷のマグロはゲイ!!」

「サバだぁ」

 ゲイの部分を先に否定しないのも、どうかと思うが、羽柴には効果的だった。

 マキちゃんのままでジン君とやっちゃうより、男同士の方がマシだと思っている鯖丸の属性が、どの辺にあるのかは、本人にもよく分かっていない。

「騙しじゃろ、あんな約束チャラじゃ」

 羽柴はじりじり後ろへ下がった。

「犯すとか、冗談で言ったと思うか」

 ご自慢の悪い顔で、にやーと笑った。

「観光街でナンパして来た時、リンク張ろうって言ってたよね。今すぐそうしようか」

 普段の羽柴なら逃げられただろうが、こんなに弱っていては無理だった。

「お前なんかマキちゃんじゃないわ。たまたま顔が似とるだけの別人じゃ」

「それでもいいよ。は〜い、ご開帳」

 バスローブの前をはだけて見せた。

「嫌ぁぁぁ、ビッグマグナム黒岩先生!!」

「誰だそれ」

 悪魔将軍に続いて、新しい名前が付いたのだった。

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