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一話・ヤクザvs魔法使い vol.5

 人の姿に戻ってしまったトリコを押さえつけるのは、楽な仕事だった。

 暴れながら泣き喚いているトリコを捕らえたジョン太は、やはり人の姿に戻ってその場に座り込んでしまった鯖丸に聞いた。

「何があったんだ」

「言いたくない」

 鯖丸は、俯いて黙り込んだ。

 力尽きたのか、少し落ち着いたのか、しばらくするとトリコは静かになった。

 辺りを見回して言った。

「あいつが居ない…」

 鯖丸はうなずいた。

「浅間なら、ジン君が連れて逃げたよ」

 トリコと戦っている間も、意外と周囲を見ていたらしい。

「浅間がここに居たのか。それに、ジン君って誰だ」

 ジョン太は尋ねた。

「後で話す」

 鯖丸は立ち上がり、畳に刺した刀を抜いて、床の間に落ちていた鞘に収めた。

「そうか」

 ジョン太は、トリコと鯖丸を交互に見てから、脱ぎ捨てたシャツを拾って、トリコに渡した。

 裸だったトリコは、素直にそれを着た。

「お前も、何か着た方がいいぞ。いくら遊郭でも、全裸でうろうろしてたら変態だからな」

 巨大化した時に破れた服は、どこかへ行ってしまっていた。

 上着と靴を脱いで来たのは正解だった。Tシャツとズボンより、遙かに値段が高い。

 あまり服を破くので、とうとう冬用の上着は買ってもらえなくなっていた。

 一年中仕事に使っている今のジャケットを破いたら、もう新しいのはもらえないかも知れない。

「ジョン太だって、裸じゃん」

 自分を棚に上げて、他人を非難しているおっちゃんに言った。

「俺は、パンツは履いてるし、ズボンも破れてねぇよ」

 自分で脱いだズボンを拾って、身に着けた。

「靴は、その辺に置いてあるんだけどな」

 全裸で靴だけ履いていたら、より高いステージの変態だ。

 部屋の中を探ったが、何しろ遊郭なので、出て来たのは派手な柄の着物と、白い半襟に目の覚める様な赤の長襦袢だった。

 仕方がないと言いながら、腰紐を引っ張り出して着物を着付け始めている。

 剣道部だから、今時の若者にしては着物に馴染みがあるのか、単に変なAVでも見たのか、不細工ながらもどうにか着れている。

 しかし、きちんと長襦袢を着て、着物を重ね着する必要がどこにあるんだ。

 帯まで結び始めてしまったが、疲れるのでもう突っ込まない事にした。

 トリコに着物を着せて、鯖丸にシャツを貸してやった方が良かったかも知れないが、全裸で上半身だけシャツを着た男なんぞ見たくもなかったので、ジョン太は全てをスルーした。

「戻るぞ。まだヤクザども捕まえる仕事が残ってるからな」

「うん」

 奇妙なオカマになってしまった鯖丸は、畳の上に座り込んでいるトリコを見た。

「トリコは、しばらく休んでた方がいいよ」

 ジョン太に向かって言ってから、トリコに向き直った。

「一人で大丈夫?」

 返事はなかったが、浅間が逃げてしまった今なら、きっともう、無茶な真似はしないだろう。

「後でまた来るから」

 帯に刀を差して、鯖丸はジョン太の後に続いた。


 所長達とは、すぐに合流できた。

 踏み込んで来た機動隊に囲まれたヤクザ達が、遊興地区の外へ連行されて行く。

 暗くなり始めて、遊郭には風情のある明かりが灯り始めていたが、こんな大騒ぎの起きた場所へ女を買いに来る勇者は、さすがに居ない様だった。

 騒ぎがあらかた収まったので、土方警部もやって来ていた。

 キテレツな格好になっている鯖丸を、驚いた様に見たが、このバカにいちいち突っ込んでいたら、疲れるだけだというのを短期間で学習したらしく、何も言わなかった。

「四人程取り逃がした」

 土方警部は言った。

 実際にこの場から逃げおおせた者はもっと多いが、逮捕予定者のリストに入っていた親分衆や幹部連中の取りこぼしは、四人程度で済んだらしかった。

「ハヤタの所と、斑と平田とハートは、警察と一緒に捜索に出ている。お前達は、今の内に食事と仮眠を済ませておいてくれ。後で交代するから」

 所長は指示を出したが、魔界は、狭いようで広い。

 逃げた者が捕まるとは、思っていない様な、投げやりな口調だった。

 機動隊は、逮捕者を連行し終えると、もう撤収する様子だった。

 きちっと整列して、外へ出て行く。

 少数だが居る負傷者は、残って回復魔法をかけられていた。

 隊列の先頭に居た一号が、こちらを見た。

 目が合ったので、鯖丸は軽く会釈した。

 一号は、無言で視線を反らせた。

 全身が小刻みに震えている。

「彼が笑っているの、初めて見たよ」

 土方警部は、呆れた風に言った。

「笑ってるんですか、あれ」

 鯖丸は、ため息をついた。

 そりゃ、笑われるだろう。そんな、何かが劣化した浮浪雲みたいな格好してたら。

「ゲートに戻って、着替え取って来ます」

「車で行け。すぐに戻って来いよ」

 所長は、ポケットから四駆のスペアキーを取り出した。


 雛菊は、破壊された廊下を歩いていた。

 言われた通り、宴席からヤクザ達を誘い出し続けていたので、結界を張った部屋の中には、かなりの人数がひとかたまりに倒れていた。

 警察官を捕まえて事情を話し、全員を連行してもらってから、雛菊はトリコを捜していた。

 宴席に呼ばれた女達は、自分の店に戻り始めていた。

 この店に籍を置いている遊女達も、女将に連れられて別館に避難した様子だ。

 このまま、店に戻らないで外へ出ようと思っていた。

 警察の人と一緒に外へ出れば、追われて連れ戻されたりはしないだろう。

 外へ出たからと云って、楽しい生活が待っている訳ではないのは分かっていたが。

 めちゃくちゃになった座敷の奥を覗き込んだ。

 部屋の隅に、トリコが居た。

 男物の大きなシャツ一枚の姿で、寒いのか小さく体を縮めて、眠り込んでいる。

 辛そうな寝顔だった。

 何があったのか知らないが、しばらく寝かせてあげた方がいいなと思った。

 壊れずに残っていた行燈に、指先で魔力を充填して灯し、布団を捜した。

 部屋にある布団は、破れて、破片まみれになっていたので、隣の部屋から新しいのを持って来て、被せた。

 トリコは、顔を歪めて少し身じろぎしたが、また眠ってしまった。

 何か、辛い事があったんだろうなと思った。

 誰だって、皆そうだ。


 羽柴仁は、浅間を連れて、逃げていた。

 警察と魔法使いは、遊興地区の外まで、捜索範囲を広げていた。

 ここまでやるとは思っていなかったので、羽柴は舌打ちした。

 いっそ、クイックシルバーは捨てて行こうかと思い始めた時、背後から声がかかった。

「お客さん、どうしたね」

 おでん屋のオヤジだった。

「丁度良かった」

 羽柴は、クイックシルバーを指差した。

「これ、しばらく預かってもらえんか。只とは言わんから」

 オヤジは、思案している様子だった。

「なに、わしとちごうてカタギ…でもないと思うが、ヤクザとは違う。変な女に追われとるだけじゃ」

「女関係のトラブルには見えんが、まぁ、いいでしょ。見つかっても責任は持ちませんよ」

「それでええわ」

 ちくわを一本つまんだ羽柴は、ポケットから紙幣を出して、置いた。

「つりは要らんで」

「まいど」

 オヤジはにっこり笑ってから、まだ動けない浅間を、屋台の下に押し込んだ。

 身軽になった羽柴は、あっという間に人波の中に消えた。


 人の気配が近付いたので、雛菊は目を覚ました。

 辺りはもう、すっかり夜になっていた。

 行燈の明かりをかざすと、何かを小脇に抱えた男が、こちらを覗き込んでいた。

 いつの間にか眠り込んでしまったらしい。

 店からの使いが、自分を連れ戻しに来たのかと思って、雛菊は後ずさった。

「ずっと付いててくれたんだ」

 男は言って、背負った刀を外し、包みを足下に置いて、腰を下ろした。

「ありがとう。トリコの知り合い?」

 姐さん、本当はそんな名前だったのかと思った。

 魔界で名乗るのだから、本名ではないだろうが。

「これ、仕出しの弁当」

 小脇に抱えていたのは、外界でよくあるタイプの、パックに入った弁当とお茶だった。

 二つある分の一個を、差し出した。

「はい、君の分。ええと…」

「雛菊です」

 この人、本当は姐さんとここで食事しようと思って、来たんじゃないかしらと雛菊は思った。

「あ、もしかしてくらき屋に居た?」

 それで、この男が誰だかやっと分かった。

 以前姐さんを捜しに来た、若い男だ。

 もっと幼い顔立ちだったのに、三年で随分変わってしまっていた。

 自分も変わってしまったはずだ。それも、あんまり良くない方に。

「そうかー、綺麗になって分かんなかったよ」

 予想していない事を言われた。

「あの…私はこれで」

 立ち去ろうと思ったが、引き止められた。

「ねぇ、時間があったらでいいんだけど、もうちょっとトリコと一緒に居てやってくれない」

「ええと、それは」

「お店の人に、怒られる?」

「いいえ。店は辞めて外へ戻るつもりでしたから」

「じゃあ、お願い」

 弁当は置いて、刀だけ掴んで立ち上がった。

「あ…でも」

「大丈夫、弁当はもう一個ぐらいもらえるから」

 別に、そんな事は心配してない。

「悪いけど頼んだよ」

「はい」

 雛菊がうなずくと、男は少し安心した様子で、立ち去った。


 捜索は、明け方まで続いた。

 まだ観光街の中に居た幹部二人と、一緒に逃げていた構成員が数名捕まった。

 取りこぼしが二名なら、この規模の摘発としては上出来だ。

 トリコは、途中から起きて来て、捜索に加わっていた。

 鯖丸は、しばらく迷ったが、浅間とのいざこざは、所長には話さなかった。

 ただ、浅間がこの場所に居た事だけは報告した。

 所長の事だから、何かがあったとは思っているだろうが、特に咎められる様な事は無かった。

 トリコは、始終無言で、黙々と捜索に当たっていた。


 警察官達には、まだ事後処理が残っている様子だったが、西谷商会とハヤタ探偵事務所の面々は、撤収にかかっていた。

 皆、あまり寝ていないので、眠そうだ。

 一騒動あった観光街は、騒然としていたが、街を出るといつもの牧歌的な風景が広がっていた。

 こんな時にはいつも爆睡している鯖丸が、四駆の荷台で深刻な顔をして座り込んでいるのを、ジョン太はちらりと見た。

「話せよ」

 ジョン太は言った。

「後で話すって、言っただろう」

「うん」

 荷台に乗っているのは、二人だけだった。

 大型の四駆も、ジムニー程では無いが、かなり古い型のダットラだ。

 走行音もうるさいし、車内の人間には聞かれないだろう。話すなら今だ。

 後ろの窓から、斑と平田と並んで、俯いて座っているトリコを見た。

「浅間を殺すつもりだったらしい」

 言いたくはなかったが、リンクを張っている上に、勘の鋭いジョン太には、どうせバレる。

「そうか」

 ジョン太は、うなずいてから、しばらく黙り込んだ。

「あいつも、めんどくせぇ女だな」

 少ししてから言った。

「うん、俺もそう思う」

 一応、付け加えた。

「人の事は言えないけど」

「よく止めてくれたな」

 ジョン太は、少し笑った。

 何だかよく分からないが、初めて、ジョン太に少しだけ大人扱いされた気がした。

「止めたのはジョン太だろ」

 鯖丸は言った。

「物理的にはそうだな」

 ジョン太が、身体強化魔法を使える事すら知らなかった。

 院生になってから、魔界での仕事は減っている。

 多分もう、トリコと一緒に仕事をした時間は、ジョン太の方が圧倒的に多いだろう。

 本当のトリコの相棒はジョン太だ。自分は、来年の今頃にはここに居ない。

「お前が居なかったら、怪我させないで止めるのは無理だったよ」

 ジョン太は言った。

 どう返事していいのか分からなくて、鯖丸は黙り込んだ。


 帰りのハンドルは、鯖丸ではなくジョン太が握った。

 クセのあるジムニーの運転に、一番慣れているのは鯖丸だったが、ジョン太は、二三日寝ないでも平気なハイブリットだ。

 帰り道で居眠り運転でもされたら、大事だと思ったのだろう。

 後部座席でエンジンの振動に揺られていると、本当に眠くなって来た。

 寝てしまう前に、有坂にメールを送った。

『これから帰るけど、いっぱい魔法使ったから、今日は来ないで。また明日』

 送信が終わってから、ケータイを仕舞おうとごそごそポケットを探った。

 窓にもたれて寝ていた様に見えたトリコが、少し顔を上げた。

「ごめん、起こした?」

「いや…起きてた」

 トリコは、何か言いたげにこちらを見た。

 それから、細い手を伸ばして、鯖丸のごつい手を握った。

「悪い…ちょっとだけ」

「うん」

 鯖丸は、トリコの肩を抱いた。

 憶えているより、ずっと小さくて頼りなく思えた。

 あの頃より、ずっと大きくなっているはずなのに。


 ジョン太がルームミラーをのぞいた時には、二人はお互い寄りかかる様にして、居眠りをしていた。

 こいつらの関係って、未だに良く分からん。

 お互い嫌いでもないくせに別れたり、そうかと思うと、こんな仲良さそうに眠ってたり。

 タイヤが、ギャップを拾って車体が少し揺れた。

 トリコは、少し目を開けたが、鯖丸が隣に居るのを確認すると、また、安心した様に眠り込んでしまった。

 それは、以前恋人同士だった男女ではなく、何だか仲のいい姉と弟の様に見えた。


 家に帰ると、有坂が居た。

 まだ半分寝たまま戻って来た鯖丸は、そこでやっと目が覚めた。

「えー、今日は来るなって言ったのに」

 狭い入り口で、靴紐を解きながら言った。

「また襲っちゃうぞ。早く帰りなよ」

「心配だったから」

 警察から、色々事情は聞いたのだろう。

「そんな、危ない仕事だったなんて、知らなくて」

 本人は、麻痺してしまっているが、普通の感覚で見れば、確かに危ない仕事だ。

 大体、今時ケータイもメールも通じない仕事なんて、ほとんど無い。

 心配なのは、分かる。

「うん、でも慣れてるから大丈夫だよ」

 入り口の戸を開いたまま、帰るように促した。

 今日は魔法を使っただけではなく、体も疲れているから、案外大丈夫かも知れないと思っていたが、ちょっと悲しそうな顔で俯いた有坂を見たら、やっぱりもうダメだった。

「ほら、早くしろよ。何なら秒読みしようか。3・2・1…」

「嫌」

 いきなり、有坂に抱きつかれた。

 ゼロの所で、脱衣しながら不二子ちゃんに襲いかかるルパン三世の様に飛びつこうと思っていた鯖丸は、その場で硬直した。

 運動神経のいい有坂の事だから、秒読みまでして飛びついたら、きちっと避けるだろう。

 そのままよろけて部屋に入って、軽く笑い事で済ました後、また明日ねと言って別れて、その後ばったり倒れて寝るか、カラーボックスの後ろに隠したAVを引っ張り出すかは、その場の気分で決定…という段取りも完成していた。

 この展開は、予想していなかった。

 自分が初めての相手ではない様だったが、有坂はあんまり遊んでないタイプだ。

 積極的な行動に出た事は、今まで無かった。

 戸惑っている間に、唇を塞がれたので、こちらからも腕を伸ばして抱きしめ、長い時間キスをした。

 やっと離れてから、一昨日言われたのと同じ事を聞き返した。

「何かあった?」

「ううん」

 多分、何かはあったんだろうなとは思った。

 町中でヤクザに襲われるなんて、普通の人には大事件だ。

 きっと、両親にも友達にも、色々言われただろう。

「会いたかったから、待ってたの。悪い?」

「いや…嬉しいけど」

 今まで、誰かが自分の事を心配して待っているという状況は無かった。

 慣れていないので、どうしていいか分からない。

 後ろ手で立て付けの悪いドアを閉めて、抱き合ったまま狭い部屋に入った。

 だらしなく敷きっぱなしの布団に、二人で倒れ込んだ。

 もどかしい気持ちで、ボタンの多いブラウスを脱がしていると、有坂は自分で服を脱ぎ始めた。

 破れた服の代わりに、普段着のジャージを着ていたので、鯖丸もあっという間に服を脱いで、ディバックに入れっぱなしにしているドラッグストアの袋から、コンドームを引っ張り出して、慣れた手つきで付けた。

 普通なら、ここまで盛り上がっていたら忘れそうなものだが、こういう事だけ変に几帳面だ。

 繋がる前に、もう一度抱き合った。

「俺、こんなエロくて危ない奴だけど、いいの」

「それは、最初から知ってた」

 有坂は言った。

「私もそうじゃないかと思うのが、ちょっと怖いけど」

 絶対違う。有坂は普通の娘だ。

 でも、ずっと一緒に居られたらいいなと思った。


 しばらくうとうとしてから、鯖丸は目を覚ました。

 有坂は、眠ってはいなかったが、隣に居た。

 自分は、昨日ほとんど寝ていないが、規則正しい生活を送っている有坂は、全然眠くはないだろう。

 付き合わせて悪かったなと思いながら、ケータイを取り出して時間を見た。

 夕刻になっている。

 好きな女とセックスして、だらしなくまどろんでしまうのは、超幸せだったが、このままだらだらしている訳にもいかない。

「どうする?帰るなら送るけど」

「泊まる」

 密着した柔らかい肌が動いた。離したくないが、一応言った。

「うん。それじゃあ、風呂行ってから、晩飯の支度しないと」

 逆でもいいが、とにかく寝続けている訳にはいかない。

 有坂はうなずいたが、自分の体に回されていた鯖丸の手を、変な顔をして見た。

「これ、あの時の?」

 夜道でチンピラに斬りつけられた腕の傷は、もう、古傷のような跡しか、残っていなかった。

 とても、一昨日の晩に付けられた物とは思えない。

 重傷ではなかったから、それも、一ヶ月もしない内に消えるだろう。

「ちゃんと医者にもかかったし、魔界に入ったら自分で治せるからね。一月経ったら、跡も残らない。心配はいらないよ」

 どうという事も無いという口調だった。

 それじゃあ、ずっと残っている、右手と胸と腹の傷は、どれだけの重傷だったのか、怖くて聞けなかった。

「心配するよ」

 有坂は言った。

「あんな事、普通の人はしないじゃない」

 試合でも、とっさに前へ出るには鍛錬が必要だ。

 路上で、刃物を持った相手に襲われて、反射的に他人を庇える人間なんて、めったに居ないはずだ。

「玲司君って、やっぱりかっこいいね」

「そう言ってもらえると嬉しいけど、どうかな…」

 ちょっと照れているのか、起き上がって脱いだ服を拾った。

 自分も体を起こした有坂は、そもそも武藤君に会いたかったとか、そういう理由以外で、自分がここに留まっていた理由を、唐突に思い出した。

 ちゃぶ台代わりのコタツに、一枚の紙が乗っているのを見たからだ。

「大変…」

 裸のままで飛び起きて、コタツの天板に乗った、一枚の紙切れを掴んだ。

「玲司君、これ」

 これと言われたそれは、単なる紙切れで、その辺のコンビニで出力して来たと思われる、投げやりな書体の印刷物だった。

 鯖丸は、差し出された紙切れを受け取った。

 テキストデータをコピー機に突っ込んで出力した、単調な文面だ。

 このアパートの大家は、今時珍しい、会社ではなく個人だ。

 住民には全く干渉しなかったが、最低限の管理はしてくれていた。

 お詫びとお知らせというタイトルで始まったその文面は、長年維持して来たこの建物が、そもそも戦後の混乱期に、この土地を不法占拠して建てられた物だという下りから、居住権があるので、その後も改築を重ねてアパートとして続いて来た過程が書かれていた。

 まだ若くて、地球育ちですらない鯖丸には、この周辺が、戦後に建てられたバラック小屋で溢れていた事も、今公園になっている部分が、戦後数十年過ぎても、まだ立ち退かない住民に占拠されていた事も、知る由もなかった。

 驚いた事に、このアパートの原型は、その頃からのものだった。

 線路の土手と、昔獣医だったらしい隣の建物との間に、どう見ても建築基準法を無視して、土手に寄りかかる様に建てられているアパートの謎が、やっと解けた。

 どうにかやりくりしていたアパートが、居住を続けるのが危険な程老朽化して、法律上、建て替えも出来ないという事が、記してあった。

 立ち退きのお願いだった。

 文末には、この建物が取り壊される日程が記してあった。

 二ヶ月後だった。


 数日後、終業間近の時間に、鯖丸は西谷商会の事務所に現れた。

 学校帰りで、これからバイトらしく、時間はあまりない様子だ。

 帰り支度をしていたジョン太は、手を止めた。

 息を切らして駆け込んで来たのは、別に急いでいるせいだけではない。

 剣道部は辞めても、剣道を辞めた訳ではないので、相変わらずトレーニングには余念がないのだ。

 いつも通り、電車に乗らないで走って来たらしい。

「何だ、めずらいしな。こんな時間に」

 仕事でもないのに、鯖丸が事務所に現れる事はたまにあったが、たいがい、昼時にメシをたかりに来るくらいだ。

「ジョン太、俺、引っ越す事にした」

 鯖丸は言って、ジョン太の机の上にあった茶を、勝手に一気飲みした。

 走って来たので、喉が渇いていたらしい。

「偽名で手続きしてくれるって、言ってたよね」

「ああ、出来るけど急だな」

 ジョン太は諦めて、給湯室に新しい茶を取りに行って、戻って来た。

 もう帰りかけていたトリコも、立ち止まった。

「今のアパート、取り壊しが決まっちゃって」

「そりゃ大変だな。金あるのか」

「微妙。家賃は今の所と同じだけど敷金がちょっと…」

 多少困ってはいるらしいが、まぁ、どうにかなるかなと言った。

「よく、そんな安い所見つけたな」

 トリコは、鯖丸の住んでいるアパートの家賃を知っているらしく、本気で驚いた顔をしている。

 仕事が終わって以来、会うのは初めてだったが、トリコが普段通りに戻っているのを見て、鯖丸は安心した。

「お前、あんな部屋に女の子連れ込むもんじゃないぞ。もうちょっといい所借りろよ」

 あんな部屋とか言っている所を見ると、連れ込まれた事がある様だ。

「今度の所は、けっこういい部屋だよ。駅は遠いけど、ユニットバス付きで1DKだし」

「その部屋、殺人事件でもあったんじゃないのか」

「何で知ってるの」

 鯖丸は、驚いたように尋ねた。

 あったのかよ。

「借りるな、そんな所」

 トリコとジョン太は、同時に叫んだ。

「過去にこだわってたら、きりがないよ。誰にでも欠点はある」

「うん、お前と同じで欠点多そうだな、その部屋」

 本人がいいなら構わないが、そんな部屋に連れ込まれる薙刀女も気の毒にと思った。

 今のアパートも、通常の感性を持っていれば、充分気の毒な状態ではあるが。

「あの…一応お経でも上げときましょうか。俺、お寺の子だし」

 なぜかまだ居た北島が、意外な提案をした。

「お経はいいから、引っ越し手伝ってくれ」

 こき使う気満々の鯖丸は言った。

「えー、マジっすか、センパイ」

 北島は嫌そうに言ったが、日程を聞いている所を見ると、手伝うらしい。

 さすが、体育会系同士。上下関係は厳しい様だ。

 帰り際に、トリコと目が合った。

「フリッツにメール送ったの、お前だろ」

 トリコは言った。

 昨日の晩、フリッツから何か慌てた様子で電話があった。

 普通ならメールで済ませる様な、たわいもない用件を話し終えてから、しきりにそっちは大丈夫かと聞かれたのだ。

 これから軍務で月まで行くが、戻って来たらもう一度合いに行くと言われて、しばらく色々な話をした。

 最後に問い詰めると、鯖丸が、トリコが大変だから、すぐ連絡しろと云うメールを送って来たと白状した。

「お前ら、そんなに仲良かった?」

 別に嫌いではないが、フリッツとは今でもちょっと馬が合わない。

「余計な事だって云うのは、分かってたけど」

 鯖丸は言い訳した。

 トリコの事を色々心配して側に居るのは、もう自分の役目ではないが、あのツンデレは、いつもタイミングが悪くて、肝心な時に居ない。

「いや…色々話を聞いてもらって、楽になったよ」

 それなら良かった。

「もう、あんな事はしないよね」

 鯖丸は聞いた。

 トリコは、見た事もない様な、恐ろしい顔で一瞬笑った。

「どうかな」

 鯖丸は、押されて一歩下がった。

「冗談だ」

 本当に冗談なんだろうか…。いや、信じないと。きちっとリンクを張ったパートナーなんだから。

「お前にも色々迷惑かけた。済まなかったな」

 外界で、相手の大まかな思考が感知出来なくても、それが本心だという事は分かった。


 引っ越しの手伝いに来た北島は、なぜかフル装備で坊さんの格好をしていて、新居の真ん中で長々とお経を上げた後、天井の隅に向かって何かぶつぶつ話しかけていた…という、あんまり笑って無視出来ない状況を除けば、引っ越しは滞りなく終わった。

 大して荷物はないので、当然だった。

 カラーボックスの後ろに隠していたAVは、いつの間にか排除されていた。

「うう…またやられた…」

 がくりとその場に膝をついた鯖丸を、北島は不思議そうに見た。

「何がですか」

「また焼いてやるよ」

 手伝いに来てくれた、友人のAV大魔王山本は、一応なぐさめた。


 六畳一間、風呂無し、便所共同の古いアパートは、住人のほとんどが転居を終えていた。

 元々、残っていたのも部屋数の半分くらいだ。

 すっかり空になってしまった部屋を、鯖丸は見渡した。

 四年も住んでいれば、それなりに愛着はある。

 きれいさっぱり、何もかも無くなってしまった部屋の真ん中で、鯖丸はちょっとだけ感傷的な気分になった。

 ここへ来てから、色々あったなと思った。

 辛い事もあったが、割と楽しい事も多かったと思う。

「おおい、もう車出すぞ」

 声を掛けられて、窓から、引っ越しの間だけ使わせてもらっている、隣家の駐車場を見下ろした。

 山本が、自宅の酒屋から借りて来てくれた軽トラの窓から、顔を出していた。

「今行く」

 返事をして、急いで靴を履いた。

 部屋を出る時、一度だけ振り返った。

 それから鯖丸は、古い階段を一気に駆け下りた。

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