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五話・さよなら 後編

 少女は、廊下に連れ出されてから泣き叫んだ。

 こうなる事は、何となく予想出来た。

 仕事的には正しいが、周囲から見れば憎まれ役だ。

 ジョン太って、割と平気でこういう役所引き受けるよな…と考えた。

 色々問題はあるが、上司としてはめっちゃいい奴だ。

 バイト三昧の生活を送って来た鯖丸には、良く分かる。

 実際には、社会人になるともっと良く分かる事になるのだが…。

「誰か、この子の面倒見てくれる奴、捜して来い。親が居たら…いや、まだ近くに居ると思うから、松吉の奥さん連れて来てくれ」

 妥当な判断だった。

「分かった」

 友恵ちゃんの両親よりも、この場では魔力の高い松吉の奥さんの方が頼りになる。

 寄り道をする様な場所も無いから、急げば追い付けるはずだ。

 鯖丸は早足で廊下を横切って、下駄箱の並ぶ校舎の入り口に向かった。


 狭い校舎なので、直ぐだった。

 入り口には、沢山の人々が校舎に居るせいで、靴や草履やゴム長がごちゃごちゃと積み重なっていた。

「うわ、俺の靴がない。どこ行ったんだ」

 探し回ると、下駄箱の奥に泥だらけの地下足袋と重ねて押し込まれていた。

 折角、有坂が誕生日にくれた靴なのに。履いて来なきゃ良かった…。

 他に靴無いから仕方ないけど。

 布地のスニーカーだから洗えるかな…と、靴を引っ張り出した所で、後ろから声をかけられた。

「あの…」

 ますみちゃんだ。

 さっきはけっこう非道い事を言ってしまったのに、向こうから声をかけて来るとは思わなかった。

「ともえちゃんが見つからないの。校舎にも校庭にも居なくて」

「え……」

 江隅友恵は、ますみちゃんに言われて来たと言っていた。いや…単に「知ってます」と言っただけだ。

 あの娘、思ってた以上に普通の状態ではないのかも。

「友恵ちゃんは音楽室の外に居る。ジョン太が付いてるけど、今、松吉の奥さん呼びに行く所なんだ」

 ますみちゃんが意外そうな顔をしたから、本当に知らなかったのだろう。

「あの子の親、ここに居るなら呼んで来て。あんまり騒ぎになると困るからこっそり」

「松吉のおばちゃんなら私が…私も責任あるし」

 ますみちゃんは、きっぱりと言った。

 任せて音楽室に戻りたい所だが、いくら山育ちで魔界育ちでも、さすがに自分の方が体力もあるし早く追い付けるだろう。

「ダメだ。君はここに居て」

 急いで靴を履いて、校庭を走った。

 学校の敷地を出て、つづら折りの上り坂から葉の落ちた立木越しに校舎全体が見下ろせた。

 校舎と校庭の一部が、ぼんやりとした何かに被われていた。

 水に大量の砂糖や塩を溶かした時の、淀みの様な物に少し似ていた。

 今までこんな状態の所に、何も気付かずに居たのか。

 舗装していない山道を駆け上がると、上の方からゆっくりと歩いて来る初老の女が見えた。

 松吉の奥さんだ。

「見たでしょ、ひどいね」

 いつも通りの顔で笑いながら、彼女は、木立に隠れて見えなくなった学校の方へ視線をやった。

「お客さんはうちの人に任して来たわ。助けが要るでしょ」

 松吉の奥さんは、一見平凡な田舎のおばちゃんだが、魔力はかなり高い。

 それに、この村の事も良く分かっている。

「一応、種田さんにも声かけて来たけど、年寄りだから来れるかどうかは分からないって。ま、当てにしないでがんばろっか」

 わぁ、何て頼りになるんだ。やっぱりいざという時は女子中学生より熟女だわ。

 俺、おばちゃんならいける、確実に。

 ろくでもない事を考えつつ、外見上は真面目に、鯖丸は頭を下げた。

「すみません、お願いします」

 魔力が高いせいか、村の職業魔法使いの様な仕事も頼まれる機会は多いらしく、松吉のおばちゃんは「遠慮せんでも」と笑った。


 松吉の奥さんを連れて戻るまでには、往復でも二、三十分だったが、状況は確実に変わっていた。

 山道を下る間に、何人もの人々や車とすれ違った。

 日没の早い山間部は、もうすぐ夕暮れが近付く。

 子供連れや、久し振りに外から帰って来た者を交えた家族連れが、のんびりと帰宅の途に付いていた。

 皆、名残惜しそうではあるが楽しげだ。

 縄手山小中学校とのお別れ会は、終わりつつあるのだろう。

 見下ろした校庭には、まだまだ沢山の軽トラや耕耘機(田舎では乗用車扱い)が残っていたが、確実に人は減っている様子だった。

「こらいかんね」

 一目見るなり、松吉の奥さんは言い切った。

 まぁ、それだから自分達が外界から呼ばれたのだが。

 周囲の状況を探った。

 先刻と変わって見えるのは、何とは無しの敵意を微かに感じるくらいだ。

「急いだ方がええね」

 松吉のおばちゃんが言うので、鯖丸は小柄な女を抱え上げて、一気に魔力を通した。

「じゃあ、大急ぎで」

 見晴らしが良くなって、足場が確認出来る様になった斜面を、重力操作で一気に飛び降りた。  


 松吉のおばちゃんの言った「こらいかん」は、鯖丸の思っていた「こらいかん」とは若干違っていた。

 確かに、つくもがみに取り込まれた『場』としての状況も悪くなっているが、先ず人的状況が悪化していたのだ。

 ジョン太が、村の人達十人程に囲まれて、廊下に立っていた。

 険悪な雰囲気だ。

 囲んでいる顔触れは、見た事のある人も居れば、初めて見る顔もあったが、皆、この周辺の住人だというのは分かった。

 目が合うとジョン太は、ちょっと困った表情をした。

 前へ出て声を掛けようとする鯖丸を制して、松吉の奥さんが遠巻きに見ている人々をかき分けて前へ出た。

「何があったの」

「ああ、絹代さん」

 遠巻きに見ていた中年の男が言った。

 初めて聞いた。そういう名前だったのか。

 魔界人だから、もちろん本名ではないが。

「江隅さん所の下の子が、ピアノに何かしてたらしくて、それを彼が…」

 ちらと囲まれているジョン太の方を見た。

「取り押さえたらしいんだが、ちょっとやり方が乱暴だったんだろな。あの子が普通の状態じゃなくて」

「ジョン太は乱暴な事なんてしてません。誤解です」

 人波の前へ出ようとした鯖丸を、松吉のおばちゃんは制した。

 悪い様にはしないから、黙ってなさい…とおばちゃんは小声で言ってから、ジョン太を囲んでいる人の輪の中に入った。

 魔界で、魔力が高いと云う事は、外界で腕っ節が強いのと同義語だ。

 小柄な女に、皆が道を空けた。

「ああ、上組の松吉さんか」

 民宿松吉は、山間部の上の方にある。

 上組というのは、自治会か何かの区分なのだろうが、仕事で何度も来ているのに、そんな呼び方を聞くのは初めてだった。

 今まで、仕事での付き合いはあったが、村の人達と深く関わった事は無かったからだ。

 田舎には…特に外界と切り離された魔界の田舎には、面倒なローカルルールやしきたりがあると、以前所長に注意された事があった。

 ジョン太が、それを知らない訳はないだろうに。

「中組じゃあ、ここを新しく民宿にするのは反対じゃったけんな」

「あの子も悪かったんじゃろけど、よそ者に乱暴な事されたら、黙っとれんし」

 おそらく、江隅友恵は中組の子で、中組は縄手山小中学校を民宿にする事に反対派だったのだろう。

 仕事頼む前に、意見くらいまとめといてくれよと思ったが、まぁ、世間では良くある事だ。

「反対しとったんは、中組でもあんたらだけでしょ」

 松吉の奥さんは言った。

「我が儘言っても、もうこの学校は続けられん。嫌じゃ言う前に、他に意見があったら、出してくれれば良かったのよ」

 皆は黙り込んだ。

 人波の後ろで、廃校になった事については色々思う所があるのだろう。校長が申し訳なさそうな表情でうなだれている。

「ほじゃけど、こんな下の街にうろついとる様な、魔法整形やらイキがって刀下げとる様な魔法使い、外から呼ばんでも。あんたや種田さんでどうにか出来たじゃろ」

 いやいや、刀は必要だから持ってるんだけど…これがないと魔法の精度や威力が落ちるし。

 待て…それよりここの人達って、ジョン太の事を魔法整形だと思ってたのか。

 反論しようとした所で、後ろから腕を掴まれた。

 驚いて振り向くと、ますみちゃんが真剣な顔で、少し涙目になってこっちを見上げていた。

「言っちゃダメ」

 ぐいぐいと腕を引っ張られて、人集りから離された。

「ええっ、何んで?」

 まだ、生徒や父兄や卒業生の残っている教室に引っ張って行かれた。

 皆、諍いには加わらず、残った時間を楽しもうとしている様子だ。

 廊下とは違って、和やかな雰囲気だったので、少し落ち着いてますみちゃんの話を聞いた。

「オジサンの事、魔法整形だと思われてる方がいいの。ここはすっごい田舎で、あんまり言いたくないけど…」

 ますみちゃんは俯いた。

「ハイブリットは人間じゃないって思ってる人も多いから」

 確かに、外界でもまだ、ハイブリットに差別意識を持っている人は居る。

 しかし、そういう生易しい話ではないのは、何となく分かった。

「ハイブリットの技術は、最初魔界で生まれまれたのにな」

 日本の魔界ではないし、魔界はその性質上隔絶される。

 古くて良い物も残るが、あまり良くない物も残って行く。

 魔界でも、都市部ならともかく、田舎では特に顕著だ。

「上組は昔から西谷さん所と付き合いがあって、オジサンの事知ってる人も多いけど、中組と下組は、宅配くらいしか付き合い無いし…下組は下の街と近いからまだいいけど、中組は古くからの人が多くて…」

 外界でも、ハイブリットへの差別は残っているが、気にした事も無かった。

 でも、良く思い出したら、少ししか行かなかった地球の中学や、全寮制だった高校の頃は、ハイブリットだというだけで、特別な目で見る人もけっこう居た。宇宙帰りも似た様な目で見られた事が少なからずあるのに、忘れていた。

 忘れるくらい良い環境に居たんだなと思った。

 でも、ジョン太は絶対、特に気にしている様子は見せなかったけど、忘れる事なんか無かったはずだ。

 少しの間深呼吸した。

 呼吸を整えると、冷静になる。

 最初に、道場で溝呂木先生に教わった事だ。

「松吉のおばちゃんに任せておけば大丈夫だから。おばちゃんも元は外界の人だし、こういう揉め事はいつも上手くまとめてくれるから」

「うん、分かった」

 松吉の奥さんが、元は外界の人間だと云うのも意外だったが、今はとにかく、仕事優先だ。

「友恵ちゃんは今、何処に居るの? それと、つくもがみはどうなってる」


 閉校式が終わるまで、手出しはしないという約束を破ったのも、皆の反感を買ったらしい。

 そうは言っても、放っておいたら手に負えなくなるから、目立たない様にちまちま封じ始めたのだが、それはこちらの理屈だ。

 江隅友恵は、母親と一緒に保健室に居た。

 何だか、レトロな昔のマンガとかサナトリウム文学にでも出て来そうな雰囲気の古い保健室は、あんまり衛生的には良くないんじゃないかと思える、布の衝立で仕切られていた。

 友恵ちゃんはベッドで寝ていて、枕元の丸椅子に座っていた母親は、こちらを睨んだ。

「あんた達、うちの子に何したの?」

 こっちが聞きたいとは思ったが、先ず謝った。

「すみません。彼女の安全の為にも、やむを得なかったので」

 更に続けた。

「お嬢さんと話をさせてください。少しでいいんです」

 友恵ちゃんの母親は、厳しい表情をした。でも、ここで退く訳にはいかない。

「つくもがみを封じるのに、必要なんです。お願いします」

「ごめんなさい。私達がこの学校が閉校にならなきゃいいと思って、友恵ちゃんにこんな事させてしまったんです。

 この人はかまいたちやみずちを退治した、信用出来る魔法使いです。お願いです、言う通りにして」

 ますみちゃんがフォローしてくれた。

「こんな外界から来た子供が?」

 子供扱いですか、そうですか。

 最近、外界では少なくとも成人には見られる様になっていたのに、何と云うがっかり感。

 そりゃ、魔界ではアンチエイジング治療を受けてない人が多いし、魔力で補正している人も多いので、外界の人間の基準は適応出来ないが、子供扱いは無いだろう。俺、今年の八月には二十五だぞ。

「実は俺、見た目こんな感じにしてますけど、魔法使い歴40年のベテランです」

「ウソ付け」

 あっという間にバレた。

 四年程前に、魔法使いを始めたばかりの若造が、かまいたちを倒したというのは、ここいらではけっこう有名な話だ。

 バレるに決まっている。

 というか、ますみちゃんまで一緒になって責めるなよ。

「やだ…その人怖い」

 友恵ちゃんは、先刻に比べれば、余程まともに見えた。

 しかし、こちらに対して好意的ではない様子だ。

 まだ、つくもがみの影響下にある。もう、事情を聞くより、ここから引き離す事を優先した方がいい。

「あの…それじゃあせめて、一刻も早く学校から離れてください。つくもがみに取り込まれる前に」

 実際にはもう取り込まれているのだろうが。

「この子は具合が悪くて寝ているのよ」

 悪い人ではないのだろうが、友恵ちゃんの母親はそれ程魔力が高くなくて、事態を把握出来ていない様子だった。

 どう説得しようと思った所で、引き戸ががらりと開いた。


 ジョン太は、松吉の奥さんの助けで、どうにかあの場を穏便に逃れたらしかった。

「そいつは、うちで一番腕の立つ魔法使いです。言う通りにしてもらえませんか」

 似た様なセリフでも、おっちゃんだと意外と説得力がある。

 さすが、伊達に中年。

「そんな事…プレイヤーみたいな外界の人に言われても」

 何だか、こちらを警戒しているのには、それなりの理由がありそうだった。個人的な事かも知れないが。

「すみません。この外見には理由があって」

 ジョン太は言った。

 わぁ、ハイブリットだって言っちゃうのか。

 友恵ちゃんのお母さんは、比較的若いから、村の年寄り程はハイブリットに偏見はないのかも知れないけど。

「実は私、ガイジンなんです」

「はぁ…」

 ジョン太の姿が、普通の人間バージョンになった。

 初めて見るますみちゃんはびっくりしているが、鯖丸もその場で唖然とした。

 普通の人間バージョンのジョン太も、見慣れた人なら一目でハイブリットだと分かる外見だが、それが今は本当に普通の人間に見える。

 おまけに、実年齢より確実に十歳以上(外界で、アンチエイジング治療を受けている人の基準で)若返っている。

「まだ、魔法整形の方が警戒されないと思って。不愉快な思いをさせてしまって申し訳ない」

 友恵ちゃんの母親の手を握った。

「ええっ、あの…」

 わぁ、ジョン太がとうとう男前を悪用し始めた。大変だぞ、これは。

 鯖丸は、冷静な視線で、映画俳優並みにハンサムな相方を見た。

 反則だろ、この、金髪碧眼北欧系の男前は。

「まさか、さっきの状況も、それで切り抜けて来たんじゃないよね」

 一応聞いた。

「人って意外と外見に騙されるよなぁ」

 ジョン太はしれっと言い切った。


 松吉のおばちゃんの協力で、友恵ちゃんはつくもがみの影響圏外へ連れ出された。

 正気に戻った少女は、母親にしがみついてわんわん泣き出したが、とにかく引き離す事には成功した様だ。

 明らかに通常の状態に戻った子供を連れて、友恵ちゃんの母親は自宅に帰って行った。

 代わりに、ますみちゃんが残った。

「いや…そんな責任を感じなくてもいいよ」

 一応断った。

「邪魔だって言われたら帰ります」

「うん、邪魔」

 あまりにも言い切ったので、ますみちゃんだけではなくジョン太まで、それはないだろうという顔をした。

「鯖丸兄ちゃんって、けっこう酷い人だね」

 女子中学生(来月から女子高生)に、真顔で責められた。

「え…今頃気が付いたの」

 鯖丸も真顔で返した。だめだこりゃ。

 しょんぼりして、家に帰って行く人達の中に加わるますみちゃんを見て、ジョン太は言った。

「もうちょっと、他に言い様はあるんじゃないか」

「うん。でも、はっきり言った方がいいと思って」

 それはそうなのだが、自分に好意を持っている女の子を、こういう扱いでいいのか。

 まぁ、こんなだから今まで、顔は中の下だけど背も高くて割とかわいいのに全然女ウケしなかったんだろうけど。

 トリコも薙刀女も物好きだなぁ…と思いながら、ジョン太は話題を元に戻した。

「だいぶ人も少なくなった。そろそろ始めようか」

 鯖丸はうなずいた。


 校舎にはもう、人はほとんど居なくなっていた。

 平地ではまだ明るいが、山間部の夕暮れは早い。

 やっと普通に仕事出来るな…と思って、鯖丸は安堵のため息をついた。

 何だかもう、仕事と関係ない厄介事が多すぎる。

 でも、今までこういう厄介事は、ジョン太や所長や平田さんが処理していたんだな…と、気が付いた。

 俺は、ちゃんとした魔法使いになれたんだろうか…。

 理科室では、まだ人体模型がうろうろしていた。

 相手にしてくれるおばちゃん達が、家に帰ってしまったり、後片付けで忙しかったりで、誰も相手にしてくれないので、骨格標本と組んで、ワルツなのか盆踊りなのか、判然としない踊りをもたもたと踊っている。

「あ…手伝います」

 理科室の流し台に皿や鍋やコップが山積みになっているのを見て、言った。

 色んなバイトをして来たので、厨房の片付けは慣れている。

 腕まくりして、おばちゃん達の列に加わった。

 何だか気が進まない様子だったジョン太も、鯖丸が手伝っていると傍観しているだけなのは閑なのか、片付けに加わった。

 こういう時は、男衆は酒飲んだり談笑しているのが常の、古くさい風習が残っている魔界の田舎だが、外界の人間なので受け入れられた。

 というか、鯖丸は長年バイトで厨房の片付けをやっていたし、ジョン太はみっちゃんが多忙で不規則な仕事なので、実質吉村家の主夫なのだ。

 一刻も早く撤収して欲しい二人は、世間話をしながらたらたら片付けているおばちゃん達を尻目に、凄い勢いで理科室を片付けた。

 実際は、たらたら話し込むのも娯楽の一環だと分かってはいるが、ごめんおばちゃん、効率重視。

 あっという間に、片付けが終わった。


 縄手山小中学校には、常設の照明が無い。

 魔界でも最近は、外界に近い場所なら有線ケーブルで電力を引く事も出来るが、こんな山村では無理だし、発電機も魔力をチャージする照明も、夜間には使われない学校では、必要が無かったか予算が取れなかったのだろう。

 昔ながらの電池を使う非常灯と、もっと古いテクノロジーの灯油ランプと蝋燭が、職員室にいくつか備えられていた。

 そろそろ明かりが必要な時間帯が近付いている。

 懐中電灯と灯油ランプを確保して、ジョン太は両方とも鯖丸に渡した。

 夜目が利く自分は必要ないのだろう。

「ちょっとは仮眠くらい取れれば良かったんだがな」

 仕事の本筋とは関係のないトラブルのせいで、休めていない。

 幸い、食事は取れたし、おばちゃん達が置いて行った夜食もある。

「いくら普通の人間でも、一晩くらい徹夜したって平気だよ。今までだってそんな事あったし」

 言いながら鯖丸は、早速田舎風ちらし寿司のおにぎりをもりもり食っている。

 横から手を出して来た人体模型をぴしゃりと払いのけて、三個程一気食いした。

 寝なきゃ寝ないで更に食うな、こいつは…。

 理科室の隅でめそめそ泣き始めた人体模型の脳天に、お札を一枚貼り付けてから魔方陣で囲い込んで、ジョン太はおろおろと人体模型に歩み寄る骨格標本を同様に封じた。

「お前は普通じゃないぞ」

「外界では普通だよ」

 バカな会話をしている二人を、骨格標本が封じられた瞬間、無数の視線が囲んだ。

 つくもがみが多いのに、調理室として使われていたので、今まで手出し出来なかった部屋だ。

 じわり…と、暗くなり始めた教室の隅から、にじみ出る様に気配が這い出した。

「増えてるなぁ…」

「うん。昨日の倍くらい居るね」

 昨晩はただの『物』だったのまでが、つくもがみになってしまっている。

「もっとだ」

 ジョン太は、目を凝らして暗がりを睨んだ。

「まずくないか…これ」

「お札は余裕あるよ」

「いや…墨が」

 ジョン太は、ベルトの物入れに仕舞った予備の墨を押さえた。

 そう云われても鯖丸には、どの程度の墨が必要になるのか、見当が付かない。

 中学も高校も、習字は選択授業だから受けていないし、美術の時間は寝るかアホみたいな落書きをするかで、まともに筆を使った事が無い。

 当然だが、ジョン太もこう見えて外人なので、冠婚葬祭の記帳で筆ペンを使った事がある程度だ。

 というか、手書きは苦手なので、たいがいみっちゃんに任せていた。

「多めに用意したつもりなんだけど…」

 鯖丸はむつかしい顔をした。

 頭の中で、足りるかどうか計算しているらしい。

「節約すれば大丈夫だと思うけど」

「弱そうな奴は、札だけで封じよう。うろつくだけで何も出来ない様なのは、もう放っといていい」

「分かった」

 もっと墨を摺っていれば済んだ話なのだが、鯖丸は根性はあるけど根気はないし、ジョン太は根気はあっても我が儘なのだ。

 基本的に困った人達である。

「まぁ、チョークでも封じられたし、足りない分はそれで…うわ」

 古くさい昔の黒板からチョークを取り上げた鯖丸は、そのまま放り出した。

 放り出されたチョークには、細っこい足がにゅっと生えて、とことこと教室の隅に逃げて行った。

 黒板の真ん中に、ぼんやりとした顔が浮かび上がり、目はないのに口だけでにやーと笑った。

 腹立つ笑顔だ…と、自分も似た様な感じなのに自覚のない鯖丸は内心思った。

 続いて、ラーフルとチョークが、わらわらと床に飛び降りて走り出した。

 何だか嫌な予感がする。

 おそるおそるポケットに手を突っ込むと、小さな口ががぶりと噛み付いて来た。

 もう、本来の役目は果たさなくなってしまった懐中電灯を、床に投げ捨てる。

 それから、左手に提げていたランプを確認しようと、目線まで持ち上げた。

 灯油ランプは、こちらに火を吹きかけて来た。

 あわてて空気を操って火を消すと、ガラスのほやをゆがめて、ちっと舌打ちしてから、何事も無かった様にふらふらと左右に揺れた。

 ランプを一発軽くどついてから教卓に置いた鯖丸は、札を貼り付けてジョン太の方を見た。

「思ってた以上にまずいね」

 うなずいたジョン太は、先ず指示を出した。

「校舎に残ってる人が居たら危ない。俺はこっちを捜すから、お前は向こうだ。校庭もやばいかも知れない。敷地の外へ放り出して来い。多少手荒でもかまわん」

 神妙な顔でうなずいた鯖丸と、むっとした顔のジョン太は、それぞれの方向へ向かった。


 サイズが小さくて、歩く度にぱたぱた云うスリッパを脱いだ。

 脱ぐそばから、つくもがみ化して走り去る。

 長年使い込まれて木目がつるつるになった床が滑るので、靴下も脱いでポケットに仕舞った。

 外から持ち込まれた靴下には変化がないが、ずっとここにあった『物』は、今日一日で人々が蓄積した想いに影響されて、次々とつくもがみ化していた。

 ぺたぺたと素足で、夜の近付いた冷たい廊下を歩く。

 長年剣道をやっていて、慣れてはいるが、やっぱり多少は辛い。

 縄手山小中学校は小さい。

 外界なら、分校として扱われる規模だろう。

 山肌を背に狭い校庭に面している校舎は、あっという間に見て回れる。

 一クラスしかない教室、職員室、下駄箱の置かれた玄関、屋根付きの渡り廊下で繋がって、別棟になっている体育用具室(体育館はない)、もう一回行きたくはなかったトイレ。

 全部を見て回ってから、校庭も確認し、ちょっとテンションの上がっているゴミ焼却炉(今日出たゴミがまだ燃やされている)を封じて、引き返した。

 焼却炉は、地面なので墨は使えないし、お札も燃えてしまうので、その辺で拾った木の枝で地面に直接魔方陣を彫り込んだ。

 ちゃんと効いている。

 ついでなので、まだ大人しい鉄棒も封じておいた。

 満足して引き返す途中で、暗くなり始めた校舎の中で、奇妙な音が漏れ出した。

 音楽室の方だ。

 うかつだった。

 自分の方が魔力が高いのに、一番厄介な音楽室と資料室のある方に、ジョン太を行かせてしまった。

 それは、ジョン太だって世間一般の魔法使いに比べたら魔力は高いし、自分が宇宙でのんきに子供時代を満喫していた頃から、魔界で仕事をしている。

 本人だって、分かっていてやっているはずだ。

 それでも後悔した。

 全速力で走って引き返した。


 目の前には、信じられない光景があった。

 何か変なのが居る。

 真っ黒で、のっぺりとした…海坊主みたいなのに人間の様な足が生えた大きな物が、のそりと廊下へ出て来ようとしていた。

 ピアノか、これ。

 雰囲気で分かった。黒くて平べったい大きな顔の中に、ぎざぎざに並んだ白と黒の歯が、辛うじてピアノだった痕跡を留めている。

「わぁ、松吉さんの言う通りだ。すね毛ある。オスだ」

 ジョン太の後ろに、ますみちゃんと桐矢が居た。

 帰ってなかったのかよ、こいつら。

 ジョン太は、今回の仕事では周囲の感情に考慮して、普段の半分以下の武器しか持っていない。

 不慮の事態に対して、余力は残し居ているだろうが、不慮の事態を歓迎出来るはずも無い。

 ちらりとこちらに視線を寄越して来た。

 どうにかしろと云う意味だ。

 つくもがみを封じて、外界の業者に引き渡すだけなのに、何でこんなややこしい事になるんだ。

「邪魔だから帰れって言ったのに」

 二人の肩を掴んで、背後に押しやった。

 幸い、つくもがみが生徒に危害を加えるとは思われない。

 厄介なのは取り込まれる事だけだ。

「日向を連れて逃げられるな」

 背後に居る桐矢に言った。

 こんな状態のピアノを見たのは初めてなのだろう…強ばったまま音楽室の入り口を凝視している。

 ピアノは、出て来ようともったり左右に揺れながら、廊下につま先を踏み出す。

 ジョン太が、こちらに来させまいと巨大なつくもがみを肩で押し返した。

 ピアノの何処からか出て来た腕が、ジョン太を軽々と突き飛ばし、廊下の隅まで放り投げた。

 着地はしたものの、力押しで負けるとは思わなかったジョン太は、ちょっとの間呆然とした表情をした。

「ほら、男の子ならかっこいい所見せろよ」

 子扱いにはむっとした様子だが、その他には異論はないらしく、桐矢はますみちゃんの腕を掴んだ。

「行こう日向。俺達で止めるなんてやっぱり無理だ」

 あっという間に体勢を立て直したジョン太は、目にも止まらない速さで札を数枚取り出し、ピアノに投げた。

 一瞬動きの止まったピアノを、音楽室に押し戻し、強引に引き戸を閉める。

 音楽室の中から「ガーン」と、腹の底に響く様な低く大きな音が周囲に鳴り渡った。

 ただの音だ。

 それが、水面に広がる波の様に周囲に広がった。

 がらりと、ジョン太が強引に閉めた戸が開いた。

 ピアノが…いや、黒くて大きな化け物が、再び廊下へゆったりと踏み出そうとしている。

「ああもう、何で鍵が無いんだよ、ここの戸は」

 ジョン太が愚痴りながら廊下から音楽室に入った。

 ぶち壊す訳にもいかない相手を、再び力業で押し戻そうとしている。

 鯖丸は、空気の壁を作り出してジョン太を手伝った。

 ピアノは、事も無げにそれを突破した。

 本気出せば突進して来る車を止められるんじゃないかと思うジョン太を、やんわりと押し返し、更に一歩踏み出した。

 不規則に白と黒の歯(鍵盤?)が並んだ口を大きく開けた。

 最初、ふぁっという感じで、それから徐々に激しく、音が流れ出した。

 ガラス窓がびりびり震え、廊下に居る四人は、耳を塞ぎながら音の波にじりじりと押された。

 江隅友恵が同調した時と同じだ。

 魔法を防ぐ為の障壁が効かない。

 人や動物や植物や…生き物の使う魔法とは別物なのだ。

 それには、敵意も怒りも、何も無かった。

 ただ一つの感情だけが外に向かって垂れ流されていた。

 寂しい、寂しい、寂しい、寂しい、

「ピアノのくせにウサギちゃんか、お前は」

 自分だって寂しいとダメになってしまうくせに棚上げして、鯖丸は怒鳴った。

 ピアノは、全身や足に比べて妙に細くて綺麗な白い手を伸ばして、こちらへ向けながら、じりじりと廊下に向かって進んだ。

「お前ら、早く逃げ……」

 ますみちゃんと桐矢に向かって言いかけた鯖丸は、止まった。

 当然と言えば当然なのだが、ピアノは音楽室の引き戸から外へは出られなかった。

 物理的なピアノの大きさからしたら、当然だった。

 ここへ運び込んだ時は、窓を全部外して入れたのだが、もちろんバカはそんな事には思い至らない。

 というか、今時こういう建具師が作った様な窓は外界にはめったに無いので、外せるという事実にも思い至らなかった。

「かっこ悪っ。出れないんじゃん、こいつ」

 ぷぷっと嗤った。

 ピアノは気を悪くしたらしい。

 おーんというピアノらしからぬ音が、校舎全体を震わせた。

 廊下の窓ガラスが二枚程、ぱりんと割れて外へ落ちた。

「怒らすな、バカ。こういう昔のガラスって、意外と高いんだぞ」

 ピアノを押し戻しながら、ジョン太が抗議した。

「出れないんだから、もう放っとけば良くね?」

 鯖丸は雑な事を言い始めた。

「封じないとピアノ運送が持って行けないだろうが」

 言っている側から、ピアノの以外のつくもがみが、廊下へあふれ出して来た。

 全員、お札と魔方陣で封じていたはずだ。

 どうしたのかと思う間もなく、開いた引き戸から、魔力を使い切って白紙に近くなった和紙が、紙吹雪になってぶわっと吹き出した。

 ピアノが、にーっと嗤った。

 細かなつくもがみが、ジョン太と鯖丸に襲いかかった。

 どいつもこいつも、力は無いが地味にダメージを与えて来る。

「ああ、バッハまで…お前は分かってくれると思ってたのに」

「鯖丸兄ちゃん、それ、ハイドン」

 ますみちゃんが訂正した。

 理数系以外は…特に芸術系は、割とダメな奴なのだった。

 続いて、周囲の教室にまで、影響が及んだ。

 封じたはずのつくもがみが次々と沸き出し、じりじりと二人に詰め寄った。

「ええと…どれが壊しちゃいけない奴だっけ。ああ、もう分からん」

 姿が変化していて、どれが誰だか分からない。

 ジョン太は、何時もの事だが即断した。

「全員、一旦退却」

 廊下の窓を開け、四人は校庭に飛び出した。


 夜になっていた。

 校庭は月明かりだけだが、目が慣れると案外明るい。

 少なくとも、歩くのに不自由は無い程度には明るかった。

 日常的に照明のある場所でしか生活した事のない鯖丸は意外に感じたが、暗視能力の高いジョン太と、魔界生まれの二人は、特に驚く事でも無いらしい。

 校庭の隅で四人は車座になっていた。

 細かなつくもがみは、四人の所までやって来て、つまようじの様に細い手足を振り回して、きーきーと何かを抗議していたが、さすがにここまで校舎を離れると力を失うのか、ぱたりと倒れて物に戻る物も多かった。

「さて、どうするかな」

 ジョン太は腕組みした。

「この調子じゃ、音楽室に入って、あれを傷つけないで封じるのは難しそうだし、外界に運び出すのも無理だ」

「物理的に出られないしね」

 窓から運び込んだという事実を知っている三人は、バカの意見は無視した。

「私達で説得して、大人しくしててくれる様に…」

「ダメだ。君らは早く帰りなさい」

 ジョン太は、ますみちゃんの意見を却下した。

 鯖丸は、一人で何だか考え込んでいる。

 どうせ、ろくな事は考えていないんだろうな…と思いながら、ジョン太もどうするべきか考えた。

 もう一度校舎に戻って、つくもがみを一体一体封じ直すしかない。

 丁寧に封じた魔方陣を解除してしまうくらい、ピアノの魔力は高い様だが、動きは鈍いし、音楽室からは出られない。

 自分が、他のつくもがみを封じている間に、ピアノの封印は鯖丸にやらせよう。

 ガチでやればピアノを明日の朝まで大人しくさせるくらいは、出来るはずだ。

 ピアノを封じれば、周囲のつくもがみも封じやすくなるだろうし。

 壊しちゃいけないと言われて、腰が引けている様子だが、尻を叩いて本気出させれば…。

 むつかしい表情で考え込んでいた鯖丸が、ふと、反対側の校庭の隅にある焼却炉を見た。

 それから、足下をうろうろしている湯飲みの周りに、指先でぐりぐりと魔方陣を描いた。

 地面に描き込まれた魔方陣の中で、湯飲みはすとんと落ちて物に戻った。

「そうか…良く考えたらどこに何で書いても良かったんだ」

 空中を、指先でくるくるとかき回した。

 空気の流れを操って、空中に描き込まれた軌跡が、かすかに青く発光した。

 空中に浮かんだかすかな魔方陣を指先で押すと、それは宙を飛んで十数メートル先に居たヤカンに命中した。

 ふらふらしていたヤカンは、かちゃりと音を立てて静止した。

 ヤカンの周囲に、空中で静止した魔方陣が青白く明滅している。

 殿の城で浅間が使った魔方陣に、少し色合いが似ている様な気がする。

 良く見ると、陣形の中にある記述が、種田のじいちゃんに教わった物と一文字だけ違っていた。

 崩し文字なので判然としないが、おそらく『地』の文字が『空』に変わっている。

 そこだけ鯖丸のかっちりした筆跡なので、妙な違和感はあったが、魔方陣としては空中に止まったまま、きちんと動作している様子だった。

 時々、とんでもない事するな、こいつは。

「学校全体を空中から封じてしまえば、ピアノの動きも止められると思うんだ。ただ、今までみたいにゆるい力でやっても破られるだけだから、全開で行かないと」


 どれくらいの精度で空中に描けるのか分からない鯖丸は「練習して来る」と言って校庭の向こうに消えた。

 少し下った所にある河原が、時々かすかに光っているので、色々試しているらしい。

 翌朝までは時間があるので、これがダメでもまだやり直せるなと考えたジョン太は、素直に校庭の隅で鯖丸を待った。

「いや…君らはいいかげん帰れよ」

 古タイヤを地面に並べて半分埋めた謎オブジェに腰掛けている二人に、ジョン太は言った。

 出来るなら、首根っこを掴んで家まで送って行きたい所だが、さすがにこの場を離れる訳にはいかない。

 古タイヤは、ここを封じようとしている者には敵意があるらしく、子供ら二人は座らせているくせに、自分が座ろうとするとちくちく棘を出して来る。

 鯖丸がやった様に、地面に魔方陣を描いてみたが、上手く行かない。

 さすがランクS…というか、天然って恐ろしい。

 それに自分は、魔方陣とはあまり相性が良くないらしい。

 思考言語は切り替えているつもりだが、やはりネイティブな日本人の様にはいかないのだろう。

 魔方陣に書かれた文字を、一旦英訳してから使うのもありかな…と考えた。

 鯖丸が内容を書き換えても作動したし…いや、それだと使われる側のつくもがみが内容を理解しているかどうか分からない。

 今まで深く考えるのを避けていたが、魔方陣って相互作用なんだろうか、それとも単体で動作しているのだろうか。

 大体、この崩し文字、半分以上読めないんだが…。

 地面に描き込んだ魔方陣をむっつり眺めていたジョン太は、ふと、隣に座っている少年少女に聞いた。

「これ、読めるか?」

「はい」

 二人は、同時にうなずいた。

 さすが、古い風習が残っている魔界の子供。外界の同年代の子なら、習字教室にでも通っていなければ、絶対に読めないだろう。

「オジサン、読めないんですか」

 不思議そうに聞かれた。

「おっちゃん、外人だからね」

「そうなんですか。全然訛ってないのに」

 証拠映像を見たますみちゃんはともかく、桐矢は変な顔をしている。

 俺としては、鯖丸にこれが読めていた事実の方が意外だが…と、考えた。

 あいつの事だから、魔力の高さに任せて、読めもしないのに内容だけ理解している可能性もあるが。

「悪いけどこれ、かっちりした読みやすい字に翻訳してくれないか」

 子供らに頼むと、月明かりでもさすがに普通の人間には見づらいのか、桐矢が発光魔法で小さい明かりを灯して、ますみちゃんが魔方陣の隣に、縦書きで漢字の羅列を地面に書いた。

『万九十九之神封奉静戻至天地拠地願奉……』

 無理、全然分からん。

「これ、意味分かる?」

 聞いてみた。

 十代半ばの子供に、教えを請う中年。俺、かっこ悪い。

「全く分かりません」

 言い切られた。

「そうか…そうだよな」

 この際、大人としての威厳は保てなくて良いから、分かると言って欲しかったのだが。

 鯖丸だって、分かってやってるのではないだろうが、あんな理系専門バカに負けるのは、文系としてどうか…。

 いや、そうじゃない。魔法使いとして負けているんだ。

 とっくの昔に分かってはいたが、これを最後に魔法使いを辞めてしまう若造に負けるのは、少し悔しいなと思った。

 戦闘用ハイブリットのくせに、闘争心の乏しいジョン太としては、珍しい事だ。

「分からないなら、オジサンなりに書き換えればいいんじゃないですか。内容は分からなくても、目的は分かっているんだから」

 しごく当然の事を、ますみちゃんに言われた。

「なるほど」

 ジョン太はうなずいた。

「それはそれとして、君らええかげん家に帰れよ。親に怒られるだろう」


 鯖丸は、一時間半程して戻って来た。

 準備オッケーとか言いながら、どや顔で斜面を登って来る。

「どんな具合だ」

 一応聞いてみた。

「イケるよ。でも、思ってた程は維持出来ない」

 鯖丸の使う空気操作系の魔法は、空中に魔方陣を描くには最適だ。

 だが、空中と云うのは場としては安定しない。

「ピアノ運送が来る一時間前くらいに封じたいから、それまで寝てていいかな」

 特に異存はない。

 しかし、いくら三月下旬の四国でも、山間部の夜は気温が低い。

 その辺の地べたで仮眠を取ろうとしている鯖丸を叩き起こして、ますみちゃんと桐矢の方を向いた。

「こいつ、放っといたらここで寝てしまうから、一旦松吉の所に戻る。君らも帰りなさい」

 さすがに、誰も居なくなってしまう学校に残るのはためらったらしく、二人とも大人しく後に続いた。

 鯖丸は、夜道を歩き出すと普通に目を覚ましていたが、民宿松吉に戻ると、布団を敷く前に倒れる様に寝てしまった。

 学校全体を封じる魔方陣の練習は、思いの外体力を消耗したらしい。

 無理する時はするが、休める時は思い切り休むこいつの性格は、ちょっと羨ましいなと思った。

 しかし自分のポジションを良く分かっているジョン太は、鯖丸を布団に寝かせて、楽な姿勢で朝が来るのを待った。

 あと少しで終わりだ。


 まだ暗い内に、二人は民宿松吉を出た。

 山道を下る間に、空は白んで行く。

 夜明け間近の学校は、明らかに変な事になっていた。

 周囲の空間を巻き込んで、学校周辺の景色までもがめちゃくちゃに歪んでいる。

「あれ、大丈夫か?」

 鯖丸に聞いた。

「あー、平気平気」

 眠そうに目をこすりながら、鯖丸は言った。

「どんな事になってても、全部強引に封じるから」

 見た目は平凡だが、自信家でクセの強い相方を見た。

 こいつがやると言うなら、本当に出来るんだろう。

 鯖丸と居ると、自分が普通の人間みたいに思える。

 それは、本当に普通の人間にはちょっと不愉快な事だろうが、戦闘用ハイブリットとして、平凡な扱いをされなかった自分には、少し愉快だった。

「分かった。で、俺は何をすればいい?」

 鯖丸に指示を仰いだ。

 この場では当然の事に思えた。

 鯖丸は、少し意外そうな表情をしたが、すぐに言った。

「魔方陣を描き終わるまで、邪魔が入らない様に守ってくれるかな」

「分かった、任せろ」

 ジョン太はうなずいた。


 鯖丸は、校舎の屋根に立った。

 その場から、学校全体を封じる魔方陣を、空中に描くつもりなのだろう。

 夜が明けて、辺りは少しずつ明るくなっていた。

 朝の早い家もあるらしく、二つ三つ民家から煙が上がっている。

 ジョン太は校庭で周囲を確認した。

 外からはあれ程歪んで見えた空間は、中に入ってしまうと静かに落ち着いていた。

 しかし、静まりかえった空間に、こちらに向けての敵意が感じられた。

 いや…敵意じゃない。

 追い詰められた小動物の様な感情と、もう一つ、ここへ来てから微かにだがずっと感じていた物。

 それは、寂しさと交じったむずがゆい様な感情だった。

 鯖丸には、多分、これが何なのか分かっていない。

 まぁ、分かる必要も無いだろう。

 こいつも、いずれ年を取ったら分かるかも知れないし…こいつの事だから、一生分からないかも知れないし。

 全てのお札と墨を受け取ったジョン太は、校庭に立って準備を整えた。

「何時でもいいぞ」

 屋根の上に向かって言葉をかけた。

 校舎の中で、ぞわりと気配が立ち上がった。

 最後の抵抗だ。つくもがみが、総力を挙げて妨害に入って来た。

 何分持ち堪えればいいのだろうと考えた。

 鯖丸は、こちらに全幅の信頼を置いている。

 正直、信用し過ぎだと思う。だが、相方は裏切れない。

 身構えた。

 ピアノの吼える声と、窓からなだれ出て来るつくもがみが見えた。

 遅い動きだ。

 戦闘用ハイブリットの自分には、笑ってしまう様な動作だ。

 これなら、百とか二百とか…いや…もっと増えても、鯖丸の所までは行かせない。絶対。

「じゃあ、今から行く。後、頼んだ」

 鯖丸が、鞘から抜いた刀を構えて、空中に飛び上がった。


 つくもがみが押し寄せて来た。

 一体いくつ居るのか、見当も付かない。

 ただ、それなりの力を持った物は、校舎から出る事は出来ない様子だった。

 内部に居て、微少なつくもがみを操っている。

 相手をするのは無数の雑魚。

 蜂の大群を一匹ずつ叩き落とす様なものだ。

 ジョン太にはそれが出来た。

 戦闘用ハイブリットの反射神経と動体視力と、それから、複数の弾丸を空中で操れる魔法特性と。

 こんなにフル稼働でぶんぶん動き回ったのは、いつ振りだろうか。

 鯖丸が空中に居るのが、ちらりと見えた。

 じっくりと見ている閑は無かった。

 動く物を全部叩き落とす。

 空中に魔方陣が描かれるのが、視界の隅に映った。


 つくもがみの圏内にある空間は、安定しなかった。

 最初から分かっていた事だ。

 重力操作で体を軽くし、空気を操って一定の区間内に留まった。

 両方を正確に操るのは、困難な作業だった。

 二年前に、U08で、完全に重力から離れた状態で空気を操った経験が無かったら、もっと困難だったかも知れない。

 眼下に、ジョン太が、人間の目には捕らえられない様な速度で、こちらに向かって来るつくもがみを叩き落とし封じているのが見えた。

 外界でなら、かすかに視認出来るか出来ないかくらいの速さだ。

 ジョン太は、絶対に信頼出来る。

 空中には、一切の邪魔は入らなかった。

 集中して、宙から地面に向かって魔方陣を描いた。

 刀の切っ先を筆にして、一字一句間違えない様に丁寧に、しかし最速で。

 最後に、封の文字を書き終わって、陣形の円を閉じた。

 空中で、完成した魔方陣がかすかに青白く発光した。

 中心を切っ先で軽く押すと、それは徐々に広がりながら、地面に向かってゆっくりと降下した。

 最初、校舎の屋根に達し、少しずつ、古い木造の建物を飲み込みながら、地上二メートル程の所で停止し、安定した。

 いびつに淀んでいた空間が、魔方陣を中心に、正常に戻って行く。

 校庭で、つくもがみが次々と物に戻った。

 校舎の中から「ぐわん」という悲鳴の様なピアノの音が鳴って、それから周囲に静寂が戻った。


 鯖丸は、空中で魔方陣の外側まで移動してから、地面に下りた。

 校庭の外側にある草地に、ほとんど落ちる様にして着地し、そのまま座り込んだ。

「おおい、大丈夫か」

 声をかけると「大丈夫」と、返事があった。

「…だけど、俺、そっちにはもう入れないかも。全開で封じたから、中に入ったらまともに動けなくなると思う」

 魔法は、自分に有利な物も不利な物も、魔力が高ければ高い程良く効く。

 つくもがみを封じる魔方陣とはいえ、一応封印の魔法だ。人にも多少は影響する。

 丁度、身長と同じくらいの所に天井の様に魔方陣を張られてしまったジョン太は、中腰になって校庭を移動した。

 そう云えば、封じられた瞬間にはずしりと体が重くなったな…とは思ったが、無意識に魔力を調整したのか、少し空気がもっさりしていると感じる程度で済んでいる。魔力の調節が出来て良かった。

「そうか…ピアノ運送の人が魔力高くないといいな」

「大丈夫だよ。これ、そんなに長持ちしないから」

 鯖丸は、草むらに座り込んだまま、空中を見上げた。

「今は周りの空気押さえてるけど、離してかき回せばすぐに消せる。放っといても、昼過ぎには消えるよ」

 ぼんやり空を見ている様に見えて、周囲の空間を押さえ込んでいるのが分かった。

 校舎の中から、もうピアノの音は聞こえない。

 ただ、悲しげな感情だけがかすかにまだ漂っていた。


 ピアノ運送は、ほぼ時間通りに来た。

 その前、まだ早い時間に、種田のじいちゃんが一人で、朝靄の中を下りて来た。

 空中に漂っている魔方陣をしばらく見て「こら、すごい事になっとるなぁ」と、つぶやいた。

 それから、草むらに座り込んで空中を睨んでいた鯖丸の肩に、ぽんと手を掛けた。

「兄ちゃん、そんなに力入れんでも、ここをこうやって…」

 ちょいちょいと空中をつついて見せた。

「だらーっと引っかける感じで充分じゃけん」

 何をどうしたのか、傍目にはさっぱり分からなかったが、鯖丸は明らかにほっとした様子で力を抜いた。

「中々面白い魔法使いになりそうじゃな、この子は」

 種田のじいちゃんは、二本程前歯の欠けた口を開けて、楽しげに笑った。

 ジョン太は、どう返答しようかと迷ったが、結局言った。

「こいつ、今日が最後の仕事なんです」

 種田老人は、ちょっとの間意外そうな表情をしたが、すぐにもう一度笑った。

「そうかい。ま、縁があったらまたおいで」

「はい」

 鯖丸はうなずいた。

 それから一時間程して、松吉が様子を見に山道を下りて来て、村の人々も何人かやって来た。

 ピアノ運送は、その少し後に林道を上って来て、滞空している魔方陣を怖そうに眺めていたが、村の人達も協力して窓を外し、搬出作業は滞りなく終わった。

 魔方陣から出たピアノは、再びつくもがみに戻ったが、校舎を運び出されると動く事も出来ないらしく、厳重に梱包され、運ばれて行った。

 外で大事にされるといいねぇ…という言葉が、周囲から幾つか聞こえた。

 親玉のピアノを失った他の主なつくもがみは、だいぶ力を失って、大人しく校舎から運び出され沈黙した。

 最後に、空中に巡らせていた魔方陣から手を離し、風の流れで消えるに任せて、仕事は滞りなく終了した。


 民宿松吉に戻る途中で、みかん畑の向こうからゆっくりと歩いて来るカガミ達と行き会った。

 皆、バックパックや大きな鞄を提げて、それでも楽しげに話しながら山道を下りて来る。

 おはようと声をかけると、今帰り?と、驚いた顔をされた。

「大変だったんだなぁ」

「ううん、昨夜一回帰って寝たから、そうでもないよ」

 鯖丸は言った。

「寝れたの、俺だけなんだけどね」

「おつかれさまです」

 杉田が、神妙な表情でジョン太に言っている。

「ああ、平気平気。俺は魔法整形じゃなくてハイブリットだから」

 ジョン太は、ひらひら手を振って見せた。

「いや、眠いこた眠いでしょ。俺も見た目こんなだけどハイブリットだし、分かりますよ」

「そう云えば君、夜の校舎で割と周り見えてたな」

 それから、皆の格好を見て気が付いた。

「君ら、これから帰りか」

 全員、昨日の様な山歩きの格好ではないが、荷物は増えている。

「はい、これから下の街まで下って、少し観光して、今晩中に高知まで移動です」

 魔界とはまた違った民間伝承の多い地域だ。

 見聞きする事は多いかも知れないがこいつら、卒業旅行なんだかフィールドワークなんだか…両方なのかも知れないが。

「歩いて下りるのか。けっこう距離あるぞ」

 ジョン太は言った。

 平地でならともかく、山間部での移動は、直線距離では短くても時間がかかる。

「俺らも撤収だ。下の街までなら、荷台で良かったら乗せてくぞ」

「いいんですか、お願いします」

 カガミと並んで歩いていた茶髪の女の子が、ちょっときつかったのか嬉しそうに言った。

「いいよ、ここで待ってな。ゆっくり歩いてても追い付くと思うけど」

「ありがとうございます」

 皆は挨拶したが、少しは距離を稼ぐつもりなのか、またゆっくりと山道を下り始めた。


 民宿松吉では、松吉の奥さんが遅い朝ご飯を用意してくれていた。

 味噌汁と炙った魚のみりん干しにおひたしで、疲れている体に味噌汁の温かさがじんわり染みて美味しかった。

 すごく珍しいが、ガタイの割りに小食なジョン太が、茶碗半分だけごはんをお代わりしている。

 ああ、やっぱり疲れてたんだな。最後の仕事なのに、最後まで迷惑かけてしまった。

 昨日ちょっとでも寝られたから、万全の状態で魔方陣を描けた。自分が休息が必要だったのも分かっている。

 それでもやっぱり、後悔は残った。

 結局、一人前の魔法使いにはなれなかったな…と思った。

 学費や生活費稼ぎの為のバイトだ。魔法使いになるのが目標じゃない。当たり前の事かも知れない。

 でも、やっぱり悔しい。

 ごちそうさまと言って手を合わせて、食器を土間の台所へ持って行った。

 松吉のおばちゃんは「ご苦労さん」と言って、笑ってくれた。


 帰りはいつも通り鯖丸がハンドルを握った。

 以前より整備された林道を下っていると、一つ向こうの集落に差し掛かった。

 木立の向こうでこちらに手を振っている人影が見えた。

 ますみちゃんだ。

 きちんとお別れも言えなかったな…と思いながら手を振った。

 隣に、少し不機嫌な表情の桐矢が、ジャケットのポケットに手を突っ込んで立っていた。

 何となく、それを微笑ましいと思う程度には、自分も大人になったんだなと鯖丸は思った。

 少し下るとカガミ達に追い付いた。

 後部座席と助手席は女子優先、残った一個は野郎三人でジャンケンな…と言い残したジョン太は、荷台に移動してダッフルバッグを枕に寝てしまった。眠かっただけかも知れない。

 結局、女子三人が後部座席で、助手席に勝利したカガミを乗せて、ダットラは山道を下った。

 カガミとは、たわいもない話をいくらかした。

 友達少ないし、友達以外で話が会うのも、共同研究者の篠原くらいだったのに、共通の話題がないはずのカガミとは気軽に話せた。

 お互い年下だと思い込んでいたが、カガミも院卒でタメ年だと分かった。

 就職先も関東圏なので、魔界だから通信出来ないし、手書きのアドレスを交換して、観光街で別れた。

 めずらしい事だが、ジョン太は街に着くまで、荷台で熟睡していた。


 境界を出て、倉庫に着いた。

 鍵を開けて中に入り、明かりを点ける。

 外へは持ち出せない装備を外して、所定の場所へ戻す。

 使い慣れた刀を、壁の棚へ戻した。

 もう、使う事も無いだろう。

「今まで、ありがとう」

 両手を合わせた。

 それから、ちょっと気になっていたのでジョン太に聞いた。

「このジャケットも備品だと思うけど、返した方がいいのかな」

「そんな袖口がすり切れた上着なんか、誰も着ねぇよ。記念に持ってけ」

「良かった。あんまり服なくて、どうしようかと思ってたんだ」

「服なんてその内すぐに、買える様になるさ」

 ジョン太は、鯖丸の背中をぽんぽんと叩いた。

「帰るか。最後だから、昼メシは好きなもんおごってやるよ」

「ええっ、じゃあ肉食っていい? 焼き肉」

「いいぞ。今日はバイキングじゃない店に連れてってやるよ」

 鯖丸は、不満そうな顔をした。

「食い放題の店の方が、いっぱい食べれるのに」

 食い放題じゃない店で、腹一杯食うという選択肢は無いらしい。気の毒に。

「お前、その素朴な腹ぺこキャラ、何時まで維持出来るのか、けっこう楽しみなんだけどな」

 あんまりいい年まで維持していたら、健康状態がヤバイと思うが。

「ええと…高級店で腹一杯食ってもいいという事かな、もしかして」

 食い放題じゃない焼き肉屋が高級店かどうかは別にして、その程度の知能はあったか、こいつ。

「まぁ、いいや。今日は好きにしな」


 好きにしたせいで、ジョン太が泣きを見たのはともかく……。

 事務所に戻ったのは、午後も半ばを過ぎた頃だった。

 いつも通り、皆が揃って居る訳でも無く、普段と同じ様に仕事を終えて帰宅した。

 ぐちゃぐちゃになったアパートの部屋に戻ると、急に現実に帰った様な気がしたが、疲れていたのでその辺は無視して、敷きっぱなしの布団にもぐり込んだ。

 疲労感と満腹感で熟睡して、最後の仕事は終わった。


 ジョン太は、引っ越し当日、律儀に現れた。

 以前住んでいた所に比べれば、ぼろぼろという程でも無いが、それなりにくたびれたアパートの路肩には『山本酒店』と書いた軽トラが駐まっていた。

 山本君が手伝いに来ているのか…やっぱり友達だな…と考えながら階段を上がると、鯖丸の友人で唯一顔を知っている小柄な青年の姿はなく、見た事のないスポーツ刈りでガタイのいい若い男が、ゴミ袋を下げて下りて来る所だった。

 ジョン太の姿を見つけると「お早うございます」と、良く通る声で挨拶して頭を下げた。

 顔を見るのは初めてだが、どうせ鯖丸の友達は二人しか居ないはずだ。

「君、迫田君か」

「はい、ウィンチェスターさんですね。武藤が色々お世話になってます」

 友達のくせに、保護者の様な挨拶をして、びしっといい角度でもう一度礼をした。

 さすが剣道部。無駄にフレンドリーな山本君とは芸風が違う。

 というか、鯖丸あんな芸風で、よく剣道部に居られたな。

 元軍人のくせに、上下関係がだるだるな自分の芸風を棚に上げて、ジョン太は考えた。

「いや…今日はご苦労さん。研修中なのに大変だろう、君も」

「いえ、今日は休みですから」

「山本君も居るの?」

「いいえ、彼は今日仕事なんで、実家のトラックだけ借りて来たんです。夜は合流して飲み会の後、彼の部屋で泊まる予定ですけど」

 そう云えば、今日引っ越しと言っていた割りに、鯖丸は最後の仕事が終わってからまだ、会社に顔も出していないし、バイト代の受け取りにも来ていない。

 いくら雑なバカでも、布団も送ってしまった部屋で何泊もする訳が無いから、出発までは山本の所へ転がり込む予定が出来ているのだろう。

「ウィンチェスターさんも来ます?」

 聞かれた。

「いやいや、そーゆーのは若いもんだけでやってくれ。おっちゃんは遠慮しとくよ」

 世間体で着ていたシャツを脱いで、上半身は動きやすいランニング一枚になりながらドアを開けた。

 鯖丸は、ゴミ袋が積まれた部屋の中で、いつものジャージ姿で雑巾掛けをしていた。

「えっ、ジョン太本当に来たんだ」

「約束だったろうが。迷惑そうに言うな」

 一応、首を絞めておいた。

「ううん、来てくれたのは助かるよ。掃除苦手で」

 来た早々押し付けるんかい。

「荷造りとか搬出とかで来たんだけどな」

 どう考えても、ハイブリットで無駄に力持ちな自分のポジションはそこだろう。

「荷物はどこだ?…」

「それ」

 指された方向の、入り口に近い台所の床に、段ボール箱が三つと、カラーボックスと、畳まれた小汚い布団一式と、剣道の防具に竹刀、それに古い型の小さい冷蔵庫がまとめてあった。

 壁には、スーツ一式と見慣れた仕事用のジャケットとジーンズ、それといつものディバッグが、鴨居に引っかけられている。

「荷物、たったこれだけ?」

 一応聞いた。

「え…? けっこう多いと思うけど」

 持って行く荷物より、ゴミ袋の方が多い。

 仕方がないので、ゴミ袋を運び出す迫田を手伝う事にした。

 どこで拾って来たのか、半年以上前の漫画雑誌や科学雑誌も軽トラに積み込む。

 クリーンセンターに直接持ち込みして、今日中にゴミを始末してしまうと言う迫田を手伝って、軽トラを見送った。

 埃の積もった畳にも、固く絞った雑巾をかけていると、どういう予定になっていたのか、昼頃になって坊さん姿の北島が現れた。

 一昨年の六月頃、ここへ越して来た時と同じ姿だ。

 天井の一角を見上げた北島少年は、おおっと驚いた顔をした。

「キヨミさん成仏しかけてる。あんまり先輩と彼女さんが霊感無いんで、何もかも嫌になったみたいですよ。一応お経あげときますね」

 北島は、壁の一角に向かって拝み始めた。

「待て、キヨミさんって誰だよ。何の嫌がらせだ、やめろ」

 殺人事件のあった部屋に住んでいたくせに、何事も無かったバカが、何か言っている。

 傷物物件も、一度住人が入ってワンクッション置けば、次の住人からは説明義務も無くなる。

 鯖丸と薙刀女ってすげー…ていうか、有坂は最後までこの部屋の家賃が安い理由は知らされていなかったのだが。

 お経を上げ終わった北島は、墨染めの衣を脱いで、普通に学校指定のジャージに着替えてから、掃除に加わった。

 そうこうする内に、クリーンセンターにゴミ出しに行っていた迫田が戻って来て、皆で掃除を終えた頃、単身引っ越しパックを引き取りに運送業者が現れた。

 荷物の少なさには多少驚いていた様子だが、剣道の防具一式がかさばるのと、段ボールに詰め込んだ論文の資料関係が意外と重いので、そこそこ一番小さいパックにきっちり梱包されて、鯖丸の荷物は関東方面に向かって出発して行った。


 広くなった部屋の中で、座った。

 前のアパート程ではないが、二年近く住んで、色んな思い出がある。

 主に、有坂と一緒に居た思い出だ。

 割とケンカもしたけど、今思うと幸せな生活だった。

 ああ、そう云えばもう、学生じゃなくなるんだな…と思った。

 学校とバイト先を行き来して、時間を調整して、それでも足りない分、ちょっとだけど返さないといけない奨学金も借りて、その金額が増える度に戦々恐々として、オヤジの口癖って「借金はするな」だったよな…とか、辛い気持ちになってた生活も終わるんだ。

 ほっとしたけど、やっぱり寂しい。

 今日は山本の家で泊まって、明日は大学に顔を出して、世話になった倉田教授に挨拶する予定だった。

 君はああいう硬い企業には向いてないよ…とは言われたが、頑張れよと励まされた。

 有坂は、まだしばらく学生だけど、自分よりだいぶ厳しい環境で、今も頑張っているんだろうな…と思った。

 日に二通来ていたメールは、今は一日置きくらいになっている。

 それでも多い方だと言われた。

 納得はしていないが、仕方ないと思う。

 大家に返す鍵を持って部屋を出た。


 西谷商会中四国支所には、始業時間だという事もあって、めずらしく皆が揃っていた。

 最後の挨拶に来た青年は、真っ直ぐ所長の所まで行って、頭を下げた。

「え…誰?」という声が、横合いから聞こえた。

 散髪してスーツを着た鯖丸は、別人の様に見えた。

 辛うじて、左手に提げているディバッグが、目の前の物体が鯖丸だと云う痕跡を物語っている。

「お疲れ様」

 所長は言った。

「武藤君、君は実に面白い魔法使いだったよ」

 褒め言葉とも皮肉とも取れそうな内容だったが、所長の顔は笑っていた。

「元気でな」

「はい、ありがとうございます」

 皆の方に振り返って、もう一度頭を下げた。

「今までお世話になりました」

 こんなきっちりした挨拶をされるとは思っていなかった皆は、いやいや…と手を振った。

「じゃあ、これで失礼します。さよなら!!」

 事務所の、重くて古いスチール製のドアが開けられて閉じた。

 そうして鯖丸…武藤玲司は退場し、階段を駆け下りて行く足音が、街の雑踏の中に消えて行った。

 思えばこの話を書き始めた頃は、こんなに続くとは…いや、思ってはいましたけど、もっと早く書き終わると思っていました。

 大体、一年くらい早く。

 あんまり予定より遅くなったので、図らずも季節が合ってしまったじゃないですか、何てこった…!!

 こんなに長らく書き続けたシリーズが、あっさりした終わり方…とは思われるでしょうが、いつも終わりはあっさりさっぱりな芸風なんで、こんなもんだと思ってください。

 真に盛り上げる部分は『魔界大決戦』で、終わってたな。良く考えたら。

 いや…とにかく、こんな長い話にお付き合いくださって、今までありがとうございました。



そんで、折角終わったんですが「再び、三匹ぐらいが斬る!!」に、続きます。

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